2-001
柔らかな風が、草原を撫でるように駆け抜ける。
ガタガタと揺れる荷馬車の上で、俺は馬の手綱を引きながら、踏みならされた街道の先を見つめ続けていた。
天気はすこぶる快晴だ。浸透するような雲ひとつない空の青が、遥か遠くまで広がり続けている。
王都から出て、およそ二週間。俺たちはクロスリードへの道を未だに辿っていた。
あれから、王都はどう変わっているのだろうか。
王妃はすでに死んでおり、宰相だったクライスも、あの正体不明の謎の男に殺されている。
この王国が大混乱になるのは回避できない事象だろう。
そして、『逃げ出した吸血鬼』に関しても同様に。
……もしかしたら、リースが王都に残ったのも、その混乱を収束させるためか。
王族内部の問題を含め、どこまで介入できるかは分からない。それでも、あの少女ならやってくれるという、漠然とした予感があった。……あの騎士団長も、それで少しは変わってくれることを祈る。
座席に座ったまま、俺は視線を横に動かす。
そこには、赤と白を主張したローブに身を包んだ少女が、おなじく荷馬車の座席に腰を下ろしながら……分厚い本を膝において、うんうんと唸っている。
荷馬車に積まれたディモンからの選別―――マジックアイテムをこれでもかというぐらいに身にまとっているミリアの姿は、それはもうどこかの貴族の令嬢のようだ。
……いや、まあ、元は王女だが。
「あまり根を詰めるなよ?こんなに揺れるのに酔うだろ?」
本の一つの頁を凝視しながら、ブツブツと何かを呟いている。
「魔力組成と精神エーテルの感応式にこれを……あれ何か違うような……あ、増幅係数をかけ合わせないといけないんですか。それならこの魔法組成をこうやって組成し直して……でもこれでは精神エーテルと魔力量のバランスが……うーん……炎系統の魔法は単純な組成式で組める分、地系統の組成式と並列に―――」
「お、おい……ミリア?」
「地系統の組成が難しい分、並列に作用させる魔法も複雑な術式を組まないといけませんよね……その分詠唱が伸びてしまうのが難点です。いっそのこと水系統の術式に風系統の術式を代入してしまうというのは……ああ、また術式が崩壊しちゃいますっ!」
「……」
涙目になりながら、意味不明な単語を延々と呟いている。
ミリアが膝においている本は、ディモンからの選別の一つだった。
ミリア曰く、魔法の術式に関する魔術書だと言うのだが……ミリアの呟いている言葉の意味が全く分からずに、傍で見守ることしかできなかった。
俺が風系統の魔法を覚えたのは全て感覚的な修行によるものだ。魔法の専門的な意味を理解しているわけでもない。
と、ミリアが膝に置いていた本を閉じて、はぁ、とため息をついた。
「うまくいきません……組成式があんなに制限の多いものだとは……」
「一体どんな内容なんだその本……」
「えっと、『魔法術式の相互作用における魔力因子の励起現象』っていうタイトルの魔術書なんですけど」
「……分かりやすく」
今何と言った?
「簡単に言えばですね、二つの魔法をかけ合わせたとき、どんなことが起こるかを記した魔術書なんです」
「『二奏魔法』ってやつか?」
「この魔術書の場合は、すでに具現化している魔法をかけ合わせる方法を記したものなのでそれとは少し異なっているんですが、その認識で問題ありません」
「……どこがどう異なっているのかも、まったく分からないんだが」
、
「そ、そんなに落ち込まなくても大丈夫ですよ!かなり専門的な話になってしまうので……。二奏魔法は、魔法を行使する前に属性の因子を二つに分けてですね……って、ア、アルト?そんな空虚な目でこちらを見ないでください!」
「……」
……専門的な事など知ったことか。
ミリアが魔術書を読んでいる理由は、すでに彼女の口から聞かされていた。
曰く、ただ俺に守られているだけではダメだ。と。
ミリアは俺との旅を決意してくれたと同時に、魔法の修練を行いたいと言ったのだ。
(私にできることを、精一杯やりたいんです)
そう言ったミリアの真摯な表情に、俺は首を横に振ることができなかった。
吸血鬼という存在になっているため、体内魔力もとんでもない量になっている。それは、俺の左目の『呪い』ですでに確かめていた。
恐ろしく輝く魔力の奔流が、ミリアの体を駆け巡っていたのだから。
俺たちが出立する前、ディモンもそれを聞いて、ミリアにこの本を託していた。
それと同時に、『ある武器』も。
「それで、いまどんな魔法を使えるんだ?」
難しい話を回避するため、俺はミリアの修練の成果を確認することにした。
それを聞いたミリアは、ニッコリと微笑む。
「炎系統と地系統の初級定式魔法は使えるようになりましたよ!あ、それなら……!」
ゴソゴソと腰に差していた長さ三十cm程の細い棒を取り出した。
表面は銀色に輝き、握り手のついた、指揮棒のようなものだ。
その棒の正体を、俺はディモンから聞かされている。
『妖精の杖』。
太古の遺跡に眠っていたマジックアイテムで、見つけたときに白銀の輝きがその周囲を舞っていたことから、ディモンがそう名付けたらしい。
ミリアは、『妖精の杖』を斜め上に掲げる。
「―――『万象穿く紅の魔弾、具現せよ』」
杖の先に具現した螺旋状に渦巻く火の粉が徐々に収束し、肥大化する。
ボッ!という炎の肥大音。人の拳ほどに大きくなった火炎の塊が、詠唱完了と同時に中空へと投げ出され、その後に掻き消えた。
ポカンとする俺に、ミリアはふふん、と得意気だ。
「お、お前……こんなところで《火弾》を撃つなよ!」
「周辺に飛び散るような制御はしていませんから、問題ありませんよ!……たぶん」
「いま小さい声でたぶん、って言ったよなおい」
「そ、それならこれはどうですか!?」
また『妖精の杖』を掲げて、魔法の詠唱を――――
……って待て、さっき「地系統の初級定式魔法」って言ってたよな。
「―――『万象破砕する黒鉄の断絶、具現せよ』」
「ちょっと待て!!《地断》を―――――!」
ドン!!という破砕音が、ミリアが指し示した杖の先で炸裂した。ギョッとして五十m程離れた前方を見れば、魔法による擬似圧力で地面がひび割れて、石礫を周囲に撒き散らしている。
その音を聞いて、荷馬車を引いていた馬たちも何事かと地面を踏み鳴らして立ち止まった。
唖然としているのは、俺だけではなく、ミリアもまた、自分によって発生した魔法に驚いている。
「……魔法は当分の間禁止だな」
「そ、そんなっ……!」
ガーン、と涙目になるミリアに、俺は小さくため息をついた。
馬をなんとか落ち着かせて、手綱を持ち直す。
《地断》が発生した場所を通り過ぎようとして、俺は眉間に皺を寄せた。
「……《地断》って、こんな威力だったか?」
予想を遥かに超える広範囲の地割れが、放射状に広がっていた。
「三日前に詠唱した時には、あんなに広範囲に具現しなかったと思います。もしかしたらこれのせいかも……」
ミリアが魔法詠唱に使った触媒、『妖精の杖』。
その力は、魔法増幅と魔力の蓄積だ。
「杖の芯に『星の樹』の枝。それを覆うように白銀鋼を被せた杖か」
はい、とミリアは片手に持った『妖精の杖』を目の前に掲げた。
「白銀鋼は、硬度はもちろん、魔法、魔力に抵抗力のある極限の金属ですが、ある一点に魔力負荷をかけ続けると、抵抗力を無理やり破壊することができるんです。流動した魔力は芯の星の樹に蓄積されます。溜め込んだ魔力の発散は白銀鋼が防いでくれるので、極限まで自分の魔力を溜め込むことができるんですね」
自分の魔力によって《魔力汚染》が発生するのでは、とは思ったが、星の樹自体に魔力の停滞を防ぐ力がある。
杖の中に蓄積した魔力もその停滞を防ぎ、魔力汚染を防いでいるらしい。
「とんでもないマジックアイテムだな」
魔法増幅、そして魔力の蓄積という力。その力は、術者の負担を大きく軽減してくれる力だ。
不足している魔力は、杖に溜め込んだ魔力を使用して使えばいいし、前もって多くの魔力を溜め込んでいれば、その魔力を使って負担なしに、詠唱破棄で魔法が行使できるのだから。
「でも、大きな負荷をかけるには、大量の魔力を必要とします。そんなことができるのは、吸血鬼の私ぐらいですよ」
「……なるほど、使い手が限られるマジックアイテムか」
莫大な魔力を持つ者でしか扱えないマジックアイテム。ディモンがこの杖をミリアに託したのも納得だ。
それにしても、ミリアがここまでマジックアイテムに関して博識だとは驚きだった。
「お前、魔法のことに関してやけに詳しいな。王城で教えられたりしてたのか」
「確かに学士様に基礎的な魔法知識は教えて頂きました。でも、もっと専門的な部分は王城に献上された魔術書を内緒で読んだりとか……内緒で魔法の触媒の生成方法とか調べたりとか」
「よくもまあ、他の人に見つからずに読めたもんだよ……」
「……魔術書の中に、『私』を助けられる方法が書いてあるかも知れないと思って、必死だったんです」
「……そうか」
かつての本当の『ミリア』はすでに死去している。
俺が今接しているミリアは、『ミリア』が【影写しの大鏡】に願って、生まれた存在である。
どれほど奔走し、どれほど絶望したのか、俺では想像できなかった。
口を閉じた俺を見て、ミリアは口元を綻ばせた。
「あの時があって、今があります。私はもう『あの時』を後悔したりしません。だから、そんな顔をしないで下さい」
「……ああ、そうだな、悪い」
『ミリア』と俺に、誠実でありたい、とミリアは言った。
それは、自分が今まで成してきたことを後悔しない覚悟と、強く生きていく覚悟の両方だろうか。
……吸血鬼に変異したミリアを元に戻すため、あの魔女を頼ることになるのは癪だが、俺もまた、自分の覚悟を突き通さなくてはいけない。
と、突然ミリアが、俺の傍らにそっと近づいてきた。肩と肩が触れ合う距離のまま、そのままじっとしている。
なんだ、と思って視線を動かすと、俺の肩に頭を置いてそのまま目を閉じた。
「な、なんだ?どうした?」
「いいえ、なんでもないですっ」
「?」
傍らに感じる温もりに心臓が早鐘を打つのを感じながら、俺は遠くに続く道の先を見続ける。
数時間後、俺は荷馬車を街道横にある岩の陰に止めて、地面に足をつけた。
「クロスリードまであとどれくらいなんですか?」
同じく荷馬車から降りたミリアが、俺に駆け寄ってきた。
「地図によれば、あと半日ってところだろうな。もうすぐ日が暮れるし、今日はここで休んで、明日の朝に出発する」
このまま荷馬車を引いてクロスリードまで向かうのも手だが、真夜中の移動は危険すぎる。すれ違った旅人や冒険者たちの話によれば、近くに狼が棲んでいるらしい。
わざわざ狼たちの標的になることはないだろう。
「もうすぐなんですね!それなら、今日使う薪を集めてきます」
「いや、俺が行く。森の中で狼にでも襲われたら―――」
「獣は私に近づかないので大丈夫ですよ。アルトはここで休んでいてください」
「あ、おい……」
ミリアはそう言うと、近くにある森の中へと、白銀の髪を踊らせながら消えていった。
……ミリアの行動力は、こういうときにでも有り余るほどだ。
吸血鬼という存在のため、森に住む獣たちはミリアの存在に圧倒されるらしい。
先日狼たちを警戒しながら夜の見張りを続けていたが、周囲に殺気はおろか、獣の気配もせずに夜が明けてしまう珍事があったのだ。
……吸血鬼、という存在を許容するわけではないが、なんとも便利な力だ。
まあ、力というよりは、存在そのものを忌避している可能性も有りうるか。
やれやれ、と思いながら荷馬車に繋がれた馬の手入れを行った後、荷馬車の車輪の様子などを確かめる。
時折地面の石などを巻き込んで劣化する可能性もあるため、車軸等、おかしなところがないかを注意深く確認した。
特に異常はないことを確認して、俺は荷馬車の座席に腰を下ろしてミリアが薪を持ってきてくれるのを待つ。
結局、二週間経っても、魔女とアインと話をすることは叶っていない。
王都から―――エトワール大森林から離れてしまったせいで、魔女の領域に入ることは難しくなってしまったのかもしれない。
以前、【砂上の傷跡】の力で無理やりその領域をこじ開けたことはあったが、あれは一種の確信があってやったことだ。
魔女が王都という場所を監視しているなら、逆にそこに入り込む入り口も存在するという可能性。
その場所を『魔剣』の力を使ってこじ開けたのだ。
ライツェという男のことも、ミリアを元に戻すために何をすればいいのかも、あいつらに確認しなければいけないのに。
……まさかとは思うが、俺の様子を監視しながら楽しんでいるんじゃないか?
あの魔女のことだ、否定できない。
もちろん、魔女との契約は覚悟の上だった。ミリアを助けるためには、どうしてもあの女の協力が必要だったからだ。
しかし、その契約が一方的なものである可能性も考えるべきだった。
項垂れそうになったが、ふと、耳に聞こえてきた声に俺は立ち上がった。
狼の遠吠えだ。
ここから遠いが、確かに狼が群青に染まりつつある空に吼えたのが聞こえた。
「ミリア……ッ!」
獣から忌み嫌われる、吸血鬼という存在であるミリアに危険がないかもしれない。だが、襲われる可能性もゼロではない。
俺はミリアが走っていった森の中へ駆け出す。
先に見える茂みをかき分けながら、左目の『呪い』を具現化させる。
ミリアの居場所は実に分かりやすい。
体内に多くの魔力を持つミリアは、左目の力で見ればひと目で発見できてしまう。
視界を覆い尽くす紫色に漂う魔力の奔流の先。太陽かと思うぐらいに眩く輝く魔力の塊を発見して、俺はそちらへと近づいた。
だが、その視界に映るもう一つの魔力の塊に、体が硬直しそうになる。
ミリアと向かい合うように、何かの動物の形を象った魔力の塊がそこに立っているのだ。
(―――狼?いや、この魔力の量は……!!)
茂みをかきわけた先、右目で視認した状況に、俺は腰に提げていた短剣を抜いた。
現れた俺を、驚くように見つめるミリアと、対峙する巨大な灰色の毛並みを持つ獣。
金色に輝く眼が、突然現れた俺を認識して収縮する。
獲物を捉えた眼だった。
「ミリア、下がってろ!!」
短剣を逆手に持って、巨狼へその刃を向ける。俺を敵対者だと認識した灰色の狼もまた、口を開いて牙を剥きながら俺を威嚇している。
―――狼が、跳躍した。
突き立てられる牙に、俺は短剣を持って―――
「だ、ダメですっ!待って下さい!」
静止の声が飛んだ。
『吸血鬼』と『下僕』の誓約により、ミリアの命令は俺の体を縛り付ける。
右手から力が抜けて、短剣が地面へと落ちた。
「ぐっ……!!」
そのまま、跳躍した狼は俺を押し倒し、金色の瞳をこちらにずっと向け続けていた。
体の上に乗られたまま、ミリアの命令により動かない四肢を確かめて、俺は突き立てられる牙の痛みを待った。
……が、そのまま何も起こらない。
「アルト!ごめんなさい、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……この狼は……」
「アルトの上から退いて頂けますか?私の大切な人なんです」
ミリアは、俺の上に乗っている狼に語りかけている。
その言葉の意味を理解しているのか、首をミリアの方に向けて、その後、俺をじっと見つめる。すると、狼はぴょん、とそのまま横へと跳躍した。
体の自由がきくようになったのを確認して、俺はゆっくりと立ち上がった。
改めて、暗がりの中でこちらに金色の眼を向け続けている巨狼に、俺は絞り出すように口を開いた。
「……『魔獣』か」
左眼の呪いは具現化したままだ。
狼の体内を循環する圧倒的な魔力の奔流に、ただ驚嘆することしかできない。
『魔獣』は、『魔物』の一歩手前、魔力汚染に耐え抜いた動物、物質のことを『魔獣』という。
魔物と違い知性を持って、自らの意思を持っているという。
また、汚染に打ち勝ったために体内魔力は安定しており、強靭な魔力耐性を持っているとも聞いたことがあった。
「初めて見るな……」
「私も驚きました。まさかこんなところに『魔獣』がいるなんて……」
通常ならば人里離れた場所に発生する個体だが、クロスリードという都市が近い場所にいるとは。
「……あの、アルト。お願いです、できれば、薬を用意できませんか?」
「薬?なんでまた―――」
と、そこまで言ってその理由に気がついた。
目の前にじっと座り込んでいる巨狼の後ろ足から、血が流れ出していた。
見ればかなりの大怪我だ。あの怪我で表情一つ動かさない巨狼の存在感に、俺は圧倒されそうになる。
そして、その巨狼の後ろに見えたものに、俺は息を呑んだ。
目の前の狼の大きさまではいかないが、複数の狼の死骸がそこに横たわっていた。
……もしかして、ミリアを守ってくれたのか?
わざわざ『魔獣』を助ける必要はないが……。
ミリアを襲っていると思って短剣を抜いた俺にも非がある。そのせいで傷が悪化してしまったというのも寝覚めが悪い。
それに、もしミリアを守ってくれたのだとしたら、『魔獣』といえども感謝はしないといけないか。
「野生の獣に効くものなんて、薬草ぐらいしかないな。……あとは包帯か」
それを訊いたミリアは、ぱあっと表情を明るくさせる。
「あ、ありがとうございますっ!やっぱりアルトは優しいですね!」
ニコニコと微笑むミリアに、俺は頭を掻いた。
……いつも、おだてるのが上手だよなぁ。
そのまま俺を見つめ続けていた狼に近づいて、狼の頭の上に手を置いた。
「ミリアを守ってくれたんだよな。襲いかかったりして悪かった。その怪我の手当をするからついてきてくれ」
頭を撫でる俺を、片目で見つめ続けながら、俺の言葉が分かったのだろうか。
荷馬車に戻る俺の傍らに続いて歩く大きな狼に、思わず口元が綻んだ。