深き夜に識る - 15 -
告げた言葉は、視界の先を蹂躙する影たちに飲み込まれたかに思えた。
だが、変化はすぐに起きる。
視界が剥離する。
覆い尽くす異変に、しかし俺は決して目を逸らさなかった。
深遠の魔女の領域に入るときとは違う、また別の異常だ。
壁の塗装が剥がれ落ちていくような視界の異常。その剥がれ落ちた先に見えた視覚の情報は、【砂上の傷跡】を理解した自分にとって、驚きも何も感じなかった。
剥がれ落ちた視界の先に、ライツェの背中が現れた。
引き起こされた異常に、何も言葉を出せずに絶句しているのが分かる。
息を潜めながら、片手に持った【砂上の傷跡】を握りしめて、その首を斬り落とすために真横に薙ぎ払った。
「!!何ッ!?」
俺の殺気に気づいたライツェは、その間に影の防壁を展開する。
急所を狙った一撃は、漆黒の防壁に阻まれたが、俺はすぐに【砂上の傷跡】の力を解放する。
矛盾の力が具現化し、俺の視界が、紙が千切れるように剥離していく。
その視界の先に現れたのは、俺が今まで存在していた空間を睨み続けるライツェの姿だ。
ライツェは俺が成している現象にやっと理解が追いついたのか、影の防壁を展開し、自身の周囲を覆って防御に徹している。
「この土壇場で……っ!!【砂上の傷跡】を理解しただと!?」
影の防壁の隙間から覗くその両目は、驚愕に揺れている。
周辺を蹂躙する影たちは、その場に立ち竦んだまま動くことが出来ないようだった。
「どうした、お前の《魔剣》は最強の《魔剣》なんだろう」
「っ!?」
ライツェにその返答を望んではいない。
視界が剥離する時間は一秒にも満たない。俺たちを取り囲んでいた影たちに、俺は何度も転移を実行する。
人型の影の前に転移し、その首を薙ぎ払う。
中空に浮かぶ槍の前に転移し、芯ごと切断する。
一方的に繰り返される、【砂上の傷跡】による攻撃。
五秒にも満たないその一瞬。周辺を埋め尽くしていた影たちは、【砂上の傷跡】の攻撃によって霧散した。
「馬鹿なッ!!私の影たちが……!!こんなことが!!!」
「驚いている時間なんてやると思うか?」
「貴様ッ……!!」
転移を繰り返す俺に、ライツェはその行動を掴むことができない。
目の前に具現した俺の存在を視認し、身にまとった影の防壁から無数の棘を打ち出した。
だが、その攻撃さえも、【砂上の傷跡】の転移には追いつかない。
俺が元いた空間に数多の棘が穿たれるが、すでに俺はライツェの後方に転移しているのだから。
「図に乗るなよッ!!」
ライツェが叫び、身に纏う影がハリネズミのように大棘を周囲に打ち出した。狭い通路の全てを攻撃するその棘の攻撃に、呆然と立ち尽くしているミリアの姿を見て、すぐさまミリアの近くへと転移する。
迫りくる大棘から逃れるため、ミリアの手を取って、先程辿ってきた路地の先へ転移を実行する。
引き起こされる未知の力に、ミリアはずっと唖然としていた。
「ア、アルト……これは!?」
「……この《魔剣》の『矛盾』がやっと解ったんだ」
「【砂上の傷跡】……アルトの……」
「この《魔剣》の『矛盾』を理解することからずっと逃げていた。……でもな、お前が俺を―――義賊を理解しようとしてくれたおかげで、この《魔剣》を使えるようになったんだ」
この《魔剣》、【砂上の傷跡】の矛盾はとても簡単なことだ。
砂の上に刻まれる痕跡は消え行く定めだ。その運命から逃れることは絶対に不可能。
その痕跡が存在していた、と一人が叫んでも、それを証明することはできない。
だが、それを証明する者が、他にもう一人いたならば。
俺が歩んできた道のりに残る足跡を、後ろを歩く誰かが見ていてくれるなら。
それは、義賊として活動してきた俺にとって『矛盾』ではない。
義賊を理解しなくてはいけない、と言ってくれた目の前の少女がいてくれる限り、その『矛盾』は、俺にとっての真実であり続ける。
「……『認識』と『信頼』を具現化する《魔剣》ってところだな」
【砂上の傷跡】。
適性者へ絶対的信頼を寄せる者と、その適性者が共に互いを理解していることで発動する《魔剣》だ。
信頼を寄せる者―――ミリアと共に歩んだ空間へ転移する力を持っている。
ライツェが持つ【朔夜の影絵】と比べると、その制限は多いが……。
と、先程の路地から、ごぼり、と影が溢れてくる。
角からのっそりと現れるライツェの姿を見て、俺はもう一度【砂上の傷跡】を構え直した。
「『認識』と『信頼』……。ハハハッ!くだらない!そんな扱いの難しい《魔剣》で、私に勝とうなど、傲慢にもほどがあるよ!」
「確かにな、お前の【朔夜の影絵】に比べたら、俺の《魔剣》は劣っているかもしれないな」
『夜』であることが力の発動条件である【朔夜の影絵】と、他人を必要とするこの【砂上の傷跡】では、大きな差があるのかもしれない。
だが。
「なあ、あんた、さっき自分のことを『夜』の支配者とか言ってたよな」
「ああ、そうとも!夜であるかぎり、私に指一本触れることなどできはしない!君の《魔剣》では、私に勝つことなど不可能だ!!」
「へえ……そうか」
確信する。
俺は【砂上の傷跡】を構えながら、ライツェを嘲笑う。
「大層な力だ。だけどな、ここがどこか忘れてるんじゃないか?」
「……なんだと……ッ!?」
視界が剥離し、俺の姿は暗闇に紛れるように消えていく。
一秒にも満たない間に、自らの真横に現れた俺の姿にライツェは微かに目を見開くが、影の壁にまたもや阻まれる。
先程の余裕そうな表情が、憎しみに満ちた焦りの表情に変わるのを、俺は見た。
そんなライツェに冷徹に一つ告げる。
義賊という存在。成してきた結果を内包する、一つの言葉を。
「王都の支配者は、俺だ」
義賊として、どれほどこの王都という領域を駆けてきたのか。どれほどの想いをここに刻んできたのか、この男は分かっていない。
それが、この男が理解できない「誤算」だ。
黒の線が、影を斬り裂く。
飽和する影が俺を主から引き剥がそうと膨張する。その影から【砂上の傷跡】の転移を行って距離を取り、巨大な壁と化す莫大な影を視認する。
そこから生み出された無数の影の棘は、転移を繰り返す俺にとっては無意味な攻撃に等しい。
およそ逃げ場などないような合間を、【砂上の傷跡】の転移によってかいくぐる。
視線の先、焦りに表情を歪ませるライツェの姿を見た。
「盗賊風情が……ッ!!」
再び近接した人型の影が生み出され、殺気を込めた影の槍に捕捉されているが、それさえも今は煩わしい邪魔者にすぎなかった。
転移とともに敵対者の前に現れ、その急所を抉り取る。影の自動人形たちは、【砂上の傷跡】の刃を受けて霧と化した。
そして、立つ。
目の前に現れた俺に、ライツェは冷や汗を拭いきれていない。
「!!【朔夜の―――」
目の前に掲げようとした腕へ【砂上の傷跡】を薙ぎ払う。黒の線を描いた軌跡は、ライツェの腕を紙のように斬り払い、切断する。
風を切る音だけが聞こえ、鮮血が迸る。
「ぐうぅぅっっぅうおおおっ……!!!!」
腕ごと切り離された、【朔夜の影絵】が宙を舞う。
適性者とのリンクを文字通り切断された《魔剣》は、矛盾を解放する力を失って地面へと転がった。
ライツェの周囲を埋め尽くしていた影たちが、闇の中に溶けるように霧と化し、消失する。
「こ、この私を……ッ!!!【朔夜の影絵】を……!!」
片腕から流れ出す血の奔流に、ライツェは唇を噛み締めて絶叫する。
蹲りながら震えるライツェを見据えて、その頭に【砂上の傷跡】を突きつけた。
「終わりだ、ライツェ」
「終わり……だと……?」
苦痛に顔を歪めながら、それでもライツェは口元を歪めて、俺を嘲笑した。
「終わりなものか……!私はあの魔女という存在を超克する……!私こそが……!私こそが相応しいんだッ!!あんな魔女に……!!」
目を血走らせながら、ライツェは無我夢中で自分の正しさを叫んでいるようだった。
だがそこで、ライツェが【朔夜の影絵】を『理解』した意味を理解した。
「あんた……あの魔女に嫉妬してたのか」
俺の言葉に、ライツェは両目を見開く。
そして、哄笑。
「嫉妬?嫉妬だと!?ハハハハハハハハハハッ!!!」
そして、ライツェは大声で、虚空へと声が張り裂けるほどの大声で叫ぶ。
「ふざけるなっ!!私が嫉妬などするか!!あんな傍観者たちに……!!力ある者は、力ある者の責務を果たすべきだろう!!なのに、魔女はあらゆる事象に干渉せずに怠惰をむさぼるだけだ!!あんな落ちこぼれを傍に置いて……ッ!私の方が相応しかったはずなのにッ!!!!」
ぜえぜえ、と息を吐き出したライツェに、俺は同情の目を向ける。
魔女という存在への固執と妄執。それが、この男が【朔夜の影絵】を理解した根源だったということか。
やがて落ち着いた息に、ライツェは俺の【砂上の傷跡】を睨みながら、にやりと笑った。
「……まったく、私の思考力も落ちたよ。最初からこうすれば良かったんだ」
そう告げた。
その言葉の意味に気付くことは、できなかった。
刹那、俺の視界に突如として人影が介入した。
全身黒装束に身を包んだ謎の人物が、片手に持った剣を俺へと振りかぶる。
俺は咄嗟に【砂上の傷跡】の力を開放して、ミリアの前へと転移した。
黒装束の人物は、クライスの前に立ちはだかり、強烈な殺気を俺に向け続けている。
その立ち振舞いに、全く隙がない。
「教えてやろうじゃないか、アルトくん……。私が成そうとした、その研究の集大成を」
そう言ってライツェが懐から取り出したのは、小さなガラスの小瓶だった。その中に、淡く光る妙な物質が入っている。
―――いや、あれは。
「王都はすでに、《矛盾》という力の坩堝だ。魔力によって生み出された贋作の《魔剣》でも、矛盾を内包する力は変わらない。全ての研究施設を破壊されたとしてもね、《魔剣》と化した骨董品たちは、そうやすやすと壊れはしないんだよ」
ライツェが王都に隠蔽していた、無数の研究施設。その中で、ライツェは《人造魔剣》を作ろうとしていた。
研究施設を破壊しても全く動揺を見せなかったのは、魔力の暴発による爆発程度では、研究施設内にある《人造魔剣》が壊れないことを分かっていたからか?
だが、今ライツェが言った《矛盾》という力の坩堝という言葉は―――。
「この瓶に入っているのは、『星の樹』の幹の一部だ。この幹は『瓶』という境界によって、外の空間と分かたれている。これがもし瓶の中から外に出されたら、どうなるか分かるかい?」
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
《魔剣》を理解したが故の、危機を予兆する焦燥が心の中を蠢く。
ライツェは以前、『星の樹』は《矛盾》を浄化するために世界が生み出したものだと言っていた。
《魔剣》という矛盾を浄化する。聖なる樹。
だが、今ライツェが持っているものは、『星の樹』の一部、ほんの僅かな幹の一部だ。
それが、周囲にある《矛盾》を浄化しようと―――
そこまで考えて、ライツェがやろうとしていることに気付く。
「私の研究成果を君たちに見せよう。さらばだ、ふたりとも。私は高みの見物をさせてもらうよ」
「やめ―――!!!」
ライツェは、手に持っていた瓶を地面へと叩きつける。
甲高い音を立てて瓶が粉々に砕け散り、中に存在していたものが解き放たれた。
ニヤリと嗤ったまま俺たちを見据えるライツェへと転移しようとして、その前に立っていた黒装束の人物が、懐から取り出した首飾りを目の前に突きつけた。
円を描くように掘られた二対の鳥―――不死の鳥を象った、銀の首飾り。
(《魔剣》か―――!!)
首飾りから真紅の光が溢れ出す。その光はライツェと黒装束の人物に纏わり付くと、その姿を削り取っていった。
そして解き放たれる、赤の鳥たち。千を超えるだろう赤く輝く鳥たちが、視界を埋め尽くした。燃えるように揺らめきながら、闇を内包する大空へと飛び立っていく。
視界を覆い尽くす赤の奔流に目を瞑り、次に目を開けた時、ライツェたちの姿はどこにもなかった。
ちかちかと光る目を瞬かせて、俺はミリアの無事を確認する。
「アルト……今のは一体?」
「……たぶん《魔剣》だろう。姿を隠す力を持った《魔剣》か、それとも俺の【砂上の傷跡】と同質の力を持った《魔剣》かのどっちかだろうな」
まさか、自らの部下にまで《魔剣》を持たせていたとは。あの男の用意周到さには驚くばかりだ。
「!?あ、あれはっ……!」
考えにふける俺に、ミリアは安堵の表情を浮かべていたが、その次に、驚きを含んだ声が発せられた。
俺はその異変を視認する。
先程ライツェがいた場所に、淡く輝く物体が浮遊している。
その光がやがて、螺旋に輝く黒いもやに転じていった。
「っ!!?」
そして、『星の樹』の幹は黒の輝きを内包したまま、空へと飛翔していく。
王都の上空へと昇っていく闇の光。
このままミリアをエトワール大森林に連れていきたいところだが……。
「ミリア、少しまずい状況になった可能性がある。一度中央広場に行ってもいいか?」
俺の言葉に、ミリアが頷く。
「もちろんです、あの禍々しい光……一体何が起ころうとしているんでしょうか?」
「おそらく……いや、それを考える前に飛ぶぞ」
ミリアの手を取って、中央広場への転移を開始する。
【砂上の傷跡】が矛盾の力を解放し、中央広場の花壇前に視界が移る。
眼前を埋め尽くす数多の骨董品。中央の巨大な広場に立ち並ぶ骨董品の数々が、まるで小さな兵隊のように埋め尽くされている。
俺はその骨董品を視認しながら、左目の呪いを具現化させた。
「―――っ!!?」
与えられた魔力の情報に、俺は息を呑んだ。
視界情報を蹂躙する、暗黒の波。
物体に宿る魔力を内包しなければいけない骨董品の全てが、黒一色に塗りつぶされていた。
全てが、《魔剣》と化している。
しかも、ただの暗黒ではない。陽炎のように揺らめく暗黒が、王都の上空へ吸い込まれるように立ち昇っていたのだから。
―――ずぞり、と何かが這うような音が聞こえた。
音のする方向へと顔を向けて、発現した異質に目を見開く。
「!!ミリアッ!!」
「―――!!」
タールじみた体をした謎の生物が、片腕を振り上げてミリアを襲おうとしている。
すぐさま【砂上の傷跡】の力を具現化させ、ミリアと化け物の間に潜り込んで急所に刃を叩き込む。
硬直した化け物は、どろりと溶けるように体を融解させて地面へと飲み込まれるように消え失せた。
「今のは……?」
「……まずいな」
蒼に煌めく瞳を動かし、周囲の状況を確認する。
地面に、落とし穴のような小さな暗黒がぽつりぽつりと出現し始めている。
と、その視界の奥で、知った顔が謎の生物に襲われて狼狽えているのを確認する。
俺は片手に持った【砂上の傷跡】の転移能力を使用して、その人物の前に現れる。
「!!【漆黒の風】ッ!?」
黒頭巾を引き上げて、顔を悟られないように後ろの人物へと振り返る。
「貴様……こいつらはお前の差し金か……ッ!?」
「……どう考えたらそういう結論になる」
眼前に突然現れた俺の姿に驚きながら、団長であるヘリクは鋭い目つきで化け物へと視線を注いでいる。
「邪魔だ、少し下がってろ」
「盗賊がなにを言う……!」
憎々しげな表情を向けるヘリクに、俺は舌打ちした。目の前に現れるどろりとした液体で出来た化け物たちを、俺は転移を使用して無尽に斬り刻んだ。
【砂上の傷跡】に斬りつけられた泥のような人形たちは、声もなく消失していく。
もう一度ヘリクへ視線を向けると、俺が引き起こした謎の事象に、口をあんぐりと開けながら呆然としていた。
「騎士団の団長ならもうちょっとまともな顔をしろ。あんたがそんな調子だと、周りの騎士たちに示しがつかないだろ」
「き、貴様に心配される覚えは……」
「……ああ、分かった分かった。盗賊の話を無理に訊く必要はない」
この頑固頭は、結局なにも変わっていないということだろう。