深き夜に識る - 2 -
エルクの物覚えの早さには、驚くばかりだった。
あれだけデタラメに剣を振っていた少年は、俺が基本動作と構え方、重心の移動についてを教えると、木の棒で鋭さの籠もった一閃で大気を薙いだ。
まだ本物の剣を持っているわけではない。それでも、剣術という枠の中に収まるほどにはなっている。
鉄の重さに体を引きずられてしまうだろうし、そもそも基礎体力と筋力が足りていない。俺の場合は剣術の型を親父に教えてもらって、常に隙を見せないように神経を尖らせる訓練を行っていた。親父から渡された剣の、腕が沈み込むようなあの重さは、今もこの両手に残っている。
基本動作と、隙のない動き。
それを覚えた俺は、剣術の基礎を身に染み込ませながら短剣を主に使うようになった。
風系統の魔法を覚えたこともあって、相手の懐に神速の如く潜り込み、急所に一撃えぐり込む。
暗殺術として、精練されていった。
しかし、エルクにはそんな方向に剣術を覚えて欲しくはなかった。
最終的に打ち合いの稽古を行い、俺に一本入れることを目標とした。
まだまだ雑なところはあるが、基礎修練を行っていけばいずれ剣をちゃんと振るえるようになるだろう。
剣を握った後は、予備動作をなくすことを目標にするように釘を刺しておく。
剣を振るう瞬間の、一瞬の溜め。
その動作を極限まで減らし、隙を見せることのない剣術を目指すようにと。
どこまで出来るかは分からない。
エルクに灯る剣術の才能も、まだ芽吹いたばかりだ。
結局一対一の稽古は、俺はその場から一歩も動くこともなく……大汗をかいて地面に伸びそうになっているエルクの負けだ。
「アルお兄さん……どうやったらそんなに簡単に防御できるんですか……」
「経験と洞察力ってやつだ。後は予備動作が大きすぎて、どこから打ち込んでくるか分かる」
「な、なるほど……だから予備動作をなくさないといけないんですね……」
「まあ、予備動作を完全に消すことはできないけどな。達人って言われる奴らと戦うときは、相手の出方の読み合いになる。そして読み合いに負けた方が斬られる。観察力、洞察力、第六感、全てにおいて必要な力だな」
「ボク……ちょっと自信なくなってきました」
「ゆっくり強くなっていけばいい。お前はまだそんなこと考えなくていいんだよ。基礎と構えは必ず毎日練習しろよ?」
「は、はい!頑張りますっ……!」
荒い息を吐きながら、膝に手を置いているエルクに苦笑する。
俺もこんな風に必死になっていた時があったなぁ、なんてしみじみ思う。
体力の限界のようだし、一旦休むことにするか。
……と思ったが、空に優しく響く小鳥のさえずりと羽ばたきの音が、朝の到来が近いことを知らせている。
「そろそろ朝みたいだし、これで―――」
と、エルクに顔を向けると、瓦礫に寄りかかったまま、目を閉じて沈黙している。一晩中、木の棒を振り回していたのだ。今まで戦い方を知らなかったただの子供には、負担が大きすぎたか。
頭を掻いて、エルクが片手に持っている木の棒を抜こうとしたが、掴んだ手の力が抜けていない。
小さい両手、細木のような白い腕。
それでも、この少年は強く、毅くあろうとしているのだ。誰にも弱みを見せまい、と。誰にも心配されまい、と。
「……やれやれ」
信念、なんていうには少し高尚すぎるかもしれないが。
その必死さと真面目さは、大人顔負けだ。
なんとかエルクから木の棒を取り上げた後、深く眠りついて肩を上下させているエルクを背中に乗せた。
このままでは風邪を引いてしまうだろうし、聖堂内に戻って着替えをさせなければ。
その間までは、寝かしといてやるか。
そのまま聖堂前へと戻ってみると、その入口に人影があった。
目の前に立っている人物を見て、俺ははぁ、と息を吐く。そこにはリーザ婆さんが杖をついて立っていたのだから。
「……お前さん、今までなにをしてたんだい」
こちらを見る眼差しが揺れている気がした。気の抜けた、呆れているような雰囲気だ。
「子供の面倒を見るのは、いつも俺の役目だっただろ」
「そのタフさはどこから来るんだろうね。……本調子でないのによくやるよ。お前さんの剣術がそんなに大層なものだったなんてね」
「……なんだ、隠れて見てたのか?」
俺は婆さんとすれ違うように、聖堂の扉を開け放つ。
後ろから杖を突く音が聞こえ、どうやら俺に続いて聖堂内に入ってきたようだ。
「ついさっきさ。貧民街で騒ぎはよく起こるが、剣術の稽古なんて前代未聞だったよ」
「………」
聖堂内では、まだ就寝している者たちが長椅子で横になっている。
俺はエルクを空いている長椅子へ横たえた後、婆さんと違う椅子に座った。
聖堂内にあるステンドグラスがら青みがかった光が漏れ、埃が舞っているのが視認できた。
長椅子に腰掛けた婆さんは、そのまま前を向いて沈黙している。
俺はその背を見ながら、婆さんからの言葉を待った。
「……思えば」
小さく呟く声は、静寂に包まれた聖堂内では耳に直接語りかけられたように澄んでいた。
「アル坊がここに来てから、もう五年と少しかね」
「……ああ」
「そうか。もうそんなに経つんだね」
コツリ、と聖堂の床から響く杖の音。婆さんは俺の顔を見ないまま、前を見据えたまま言葉を紡ぐ。
「あのときは驚いたね。お前さんの体は血と泥にまみれていたし、なにより、目が深い海の底にいるかのように空虚だった。あれほど絶望に打ちのめされた姿は、貧民街でも初めてだった」
「迷惑をかけたさ。……婆さんが、エルナが……皆がいなきゃ、俺は今頃貧民街で餓死してた」
「……そうだね。衰弱していくお前を見ていて、気が気じゃなかったよ」
貧民街へと流れ着いた当時の俺は、全てに絶望していた。
親父という憧れを―――『道標』を失った俺は、生きていく意味を見い出せずに冷たい土の地面に横たわって死を待つことしかできなかった。
地面と自分の体が、同一のものになっていく感覚。意識が混濁し、薄暗がりの中で死の匂いを感じていた。
だが、貧民街にいる者たちは、俺が死ぬことを許してはくれなかった。
無理やり水とパンを口の中に詰め込まれ、逆にそれで死ぬんじゃないかと思ったぐらいだ。
「私たちの仲間になったお前さんの目は、ひどく濁っていた。淀み、暗く深い瞳だった。……まるで戦場から帰還した戦士のような目だった」
「………」
「だが、あるときからその淀みが消えた。安心したんだよ。私たちでも消し去ることができなかった濁りを、お前さんがどうやって消し去ったのかいつも不思議に思っていた」
「……消し去ってなんていないさ」
耐え切れず、俺は呟いた。
「確かに、俺は自分の生に意味を見出すことができなかった。何もかもを失って、暗黒に包まれた道の上で立ち尽くすしか……。でも、あのとき居たんだ。俺がまた『道標』を見出せる存在が」
「ほう……お前さんに道を示してくれる存在がいたとは」
「……いいや、ただの一方的な『憧れ』だよ。俺がただ、勝手にそう思ってただけなんだ。だからこそそんな憧れなんて、簡単に崩れ去った」
そう、簡単に崩れ去った。
そして再び絶望した。
婆さんがなぜ、俺のガキの頃の話を持ちだしたのか大体の察しはついていた。
「婆さん、俺は結局、あの頃から少しも変わっちゃいないんだ。エルクのように、希望を素直に見出すことができない。根底に絶対的な絶望があることを、心のどこかで思ってる」
「悲観主義者だね、お前は。貧民街にいるからこそ、というのは分かるが……」
「いいや、貧民街で学んだんじゃない。全て、見てきたからだ」
もう、頃合いだと思った。
婆さんはもう、俺が口に出す答えを知っている。
言葉を発さないことが分かって、俺は続けて口を開く。
「ありとあらゆる悪を俺は識って、悪を以ってでしか理解をしてくれないことを識った。だが、それでも『悪』を『正義』だと認識して、その意味から目を逸し続ける。俺が知り得た全ては、結局のところ絶望と諦観だった」
誰もが、目を逸らした。
誰もが、『救世主』だと『蔑如』した。
誰もが、『警告者』である俺を、『富を振りまく正義』だと『歓喜』した。
もはや俺は、
他人という存在の全てを、『侮蔑』していたのだから。
「……なぜ」
絞りだすような声を聞いて、俺は婆さんの背中を見ることができなかった。
「なぜ、教えてくれなかったんだい」
「……教える必要がなかったからだ」
「バカな……そんなバカなことがあるものか」
震える声に、俺はずっと下を向いていた。
「お前さんは……そうやって傷ついてきたのかい……誰にも理解されずに、誰も信頼できずに、ずっと……ずっと……!!」
すすり泣くような、小さな嗚咽。膝に置いていた両手が、冷えきっていくのを感じる。
どんな暴言も中傷も、受ける覚悟はしていた。だが、それでもこの体の芯を貫く熱と、体全身を廻る冷たさは、その覚悟を踏みにじる。
俺は大きく息を吸って、そして力なく囁いた。
「……寝たふりはやめてくれ。全員起きているんだろ?」
長椅子に横たわっていた者たちの体が、微かに揺れた。
それから、いそいそと起き上がる者たちは、いつも俺に笑顔と信頼を向けてくれる者たちだ。
……エルクも、同様に。
「アル兄……今のって……どういうこと……?」
「アルト……お前……」
少年―――フェデルは、俺を怯えた目で見つめてくる。
子供の面倒役である男性―――ベルガーは、悲しみの含んだ目で、長椅子の背もたれを力強く掴んでいる。
「アル兄……私……」
少女―――リオは、何も言うことができずにそのまま沈黙した。
そして。
「アルお兄さん……」
エルクは、俺の言った意味が―――婆さんが悲しんでいる理由に、気がついている。
俺は静かに立ち上がって、固くなった口の筋肉を自覚しながら、ただ、無慈悲に告げた。
「俺が……俺こそが【漆黒の風】。王都に潜む一つの『悪』。全てに絶望してもなお略奪を繰り返す、愚かな義賊だ」
聖堂内に響いた一つの言の葉が、この場にいる全員に突き刺さった。