渇望の対価 - 10 -
「さて、紅茶はなにがいいかしら?ダージリンか……アールグレイか。……あら、アールグレイは準備してなかったわ。ダージリンで決まりね」
「おい……俺は別に、ここに紅茶を飲みに来たわけじゃないぞ」
「私の領域に人が来るのは珍しいのよ。久々の来客者には、きっちりとおもてなしをしないとね?」
深遠の魔女と名乗った女エルフはそういうと、指を鳴らした。途端、真っ白な机の上に虹色の輝きが降り注いだかと思うと、そこからティーカップとポットが現れる。
すでにティーカップには紅茶が注がれており、良い香りが漂ってきた。
それと同時に、机の横に白の椅子が出現した。
次々と起こる魔法に、俺は驚きを通り越してなぜだか呆れてしまった。
「深遠の魔女の力は凄いもんだな」
「あら、こんなの大したことないわよ。物質の隠蔽の応用みたいなものだし」
と、そのままティーカップを持って、安楽椅子に座る。
俺は現れた椅子に座り、魔女の次の言葉を待った。
ゆったりと紅茶を飲む魔女は、俺を細目で見つめてくる。
「何も聞こうとしないのね。ここは何処なのか。私は何者なのか。あの子に何が起こったのか。聞きたいことはたくさんあるんじゃない?」
「もしそれを尋ねたとして、自称魔女のエルフが簡単に喋ってくれるとは思えないんでな」
「皮肉が多いわね、随分と」
「……そういうことを言わないと、こんな妙な状況に頭がついていかないんだよ」
ふふ、と笑い声を漏らす。
「この領域にいることを許可したのは私だし、なんだって答えてあげるわよ。まず一つ。この場所は『世界の情報が行き交う表と裏の中間に在る領域』。私が創りあげた『世界の情報の保管庫』と言ったところよ」
魔女はそう言うと、手をそっと前に伸ばした。そこから出現したのは、一冊の本だ。角の擦り切れた紺色の本。
「だから、私はアナタを『識っている』。それこそ、私が『深遠の魔女』と呼ばれる所以」
勝手に開いた本は、ピタリと一つのページで止まった。
「アルト・ゼノヴェルト。……いえ、アルト・アレイオン?あら、その他にもたくさんの名が並んでる。多くの偽名を使いながら、この十数年を生きてきたのね。子供の頃から、隠密行動を得意としていた、と。……いろいろな人を騙し、殺しながら、『幻狼』と呼ばれた父と共に生きてきた。……へぇ、魔法は六歳頃から使えていたの」
並べられた言葉の羅列に、嫌悪を催すことしかできない。
「……悪趣味だな。その本には、俺の全てが書いてあるっていうのか」
「アナタだけじゃないわよ。世界に存在する人のこと、あらゆる事象は、この領域が、私が『識っている』。識らなくてはいけないというのは、少し疲れるけどね」
にこり、と魔女は微笑んだ。
「これが二つ目。簡単な自己紹介は退屈だったかしら?」
「大した自己紹介だったよ。……嫌になるぐらいにな」
手元にある紅茶に手を伸ばそうとして、やめた。これを飲んだら、更にこの女の空気に飲まれそうな気がした。
「それなら、ミリアのことも詳しく知っているんだろ。アイツに何が起きた?……いや」
言葉を切る。
考えられる可能性。
それは。
「アイツに何をした?」
魔女の手元にあった本が掻き消える。何かの花の匂いが、鼻腔をくすぐった。
「まあ普通ならそう考えるわね。懐に隠し持った短剣で脅迫しないのは、私の返答次第、ってことかしら?」
「答えはYESかNOだ。それではっきりする」
嫌な予感がする。
YESかNOか?
……俺はその答えを知っていて、この魔女に質問している。
「簡潔に言いましょう。三つ目、答えはYES。私は、あの子から乞われた願いを聞き入れた」
懐に持った短剣に手を伸ばす―――。
「どうしたの?私を殺さないの?」
「………」
思いとどまった俺を、魔女は嗤った。
「ふふ、その感情は否定できないわ。それでもその刃を止めたのは、あの子のため?」
「いいから続きを話せ。ミリアはお前に、何を願った?」
「何を願ったと思う?」
目が合う。深遠の魔女と名乗るエルフの碧眼は、恐ろしいほどに煌々と輝いて見えた。
「さっき言ったわよね?あの子は私に縋り付いてきた愚かな生命体の一人だ、って」
「……だから、なんだ」
「私はあの子を人間だとは認めていないということよ」
無気力に、魔女はただそう言った。
「どういう意味だ」
「何の裏もない、そういう意味よ。魔法では説明できない治癒能力、素質では説明できない魔力感知能力。あの力はね、絶対に人間では持ち得ない力……いえ、人間のみならず、この世界に存在する生命体が持てる力じゃないの。あんな力を持つ存在を、私は識ることはできない。あの子はね、世界に存在し得ない存在なのよ」
世界に存在し得ない、存在?
それが意味するのは……なんだ?
「そしてそれを、あの子も分かっていた。だからこそ、あの子は私に願った。『人間にしてほしい』ってね」
「元々人間じゃない……ってことか?……馬鹿な話はやめてくれ。人の不幸について悩んで、誰かのためにあろうとするアイツが、人間じゃなかったらなんだっていうんだ」
だが。
ミリア本人が、自分が人間ではないことを分かっていた?
「人間でも、エルフでも、獣人でも、魔物でもない。ましてや矛盾を内包する《魔剣》と同等の存在でもない。ただの『何か』という存在よ」
「俺はアイツを人間だと認めてる!そんな元も子もない説明で納得できるわけがない!」
「じゃあこう言いましょう。あの子はこの世界に存在を『否定されるべき存在』のはずなのに、存在を許されている。それなのに、この管理領域に『あの子の本』は存在していなかった」
存在できない。
存在を否定されている。
魔女の言い分に、頭痛が増してきた。
思い浮かんだ反論の言葉が、短絡化してくるのが分かって唇を噛みしめる。
「……ミリアが願った願いをアンタは叶えなかった。ミリアを……人間にはしなかった」
魔女がニヤリと笑う。
「まあそうね。『人間にして欲しい』という願いを私は聞き入れた。だけど、私はその前にあの子に確認をしたのよ。完璧な人間にすることはできない、ってね」
「!!なんだと……ッ!!」
腹の底から熱が這い上がる。
「怒られるのは心外ね。私は前もって確認した。でもあの子は、それでも構わないと言ったの。だから私は施行した。トポロジーの原理を用いて、肉体の組成を変化、再構成をしてね。人間に近づけることはできても、真に歪んでいる部分を切除することはできない。だから、この世界に許容される存在、同時にその歪みを許容できる存在に再構成した」
魔女がまた指を鳴らす。すると、魔女の目の前に真っ白な表紙の本が現れた。
題名も存在しない、無銘の本。
「これが、私が新しく編纂した『ミリア』の本。内容はまだまだ、と言った感じね」
「……ッ!!」
ミリアがこの世界に許容されるために、この魔女は、そのミリアの情報を記載する本を新たに作った、ということか。
人間では足を踏み入れてはいけない、その境界。俺は今、その中で、無力な自分を嘆いている。
「結果、この世界に存在するために、あの子の肉体は一つの稀少生命体へ劣化した。その存在こそ―――」
「吸血鬼、か……ッ!!」
「ええ。でも、あの子の『有り得ない力』の片鱗は消せないわ。吸血鬼なのに日光を苦手とせず、祈りや清浄の魔法も克服してる。愉快な存在になったものよ」
「アンタは……人をなんだと思ってッ!!!」
くだらない、とでもいうように顎に手を置いている魔女に歯を食いしばる。
「だから、あの子は人じゃないって言ったでしょ?それに、あの子が望んだ結果よ。バカなことをするなと怒られるのは、私ではなくあの子」
「この……ッ!!!」
駄目だ。いくらコイツを非難した所で、現実は変わらない。
それ以前に、俺がミリアのことをもっと分かっていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのだ。
それに……
(……!!)
頭の中に浮かんだ光景に、俺は息を忘れそうになった。
(……アルトも、一緒に来ませんか?)
ミリアは確かに、あの小屋に入る前にそう言った。
止めて……欲しかったのか?
俺がミリアに着いて行くことを許諾していれば、アイツの願いを事前に阻止できていたのか?
ミリアの、少し陰のある笑顔。その光景がどうしても拭えない。
急に黙りこんだ俺に、魔女は怪訝そうな表情を向けていたが、俺の首筋に視線を向けると、クスッ、と笑った。
「そう、血を吸われたのね。いろいろと面白いことになってるじゃない」
俺は魔女が見つめた一点に、手を這わせる。首筋に現れた小さな幾何学模様。それは、ミリアが俺の血を啜ったあとに出来たものだ。
「その印はね、吸血鬼が最も信頼する人間に与える印。血の従者に与える印なの。その印がある人間からしか血を受容できない、運命共同体ってやつね。もし血の供給が絶たれれば、あの子は死ぬわね」
「……!!」
印がある人間からしか、血を吸えない?
もし俺が死んだら、ミリアも一緒に死んでしまうということか。
そんなこと、許容できるはずがない……!
「……ミリアを元に戻せ」
「へえ、アナタが願うの?」
面白そうに、魔女は口の端を釣り上げた。
「何もかもだ。元のミリアに戻せ。人間からまた人間でなくなっても、俺がアイツを認めてやる。もうバカな真似もさせない」
「随分とお熱なのね。そんなにあの子のことが大切なの?」
「ミリアは……貧民街の救世主だ。アイツに恩を返さなきゃ、俺の気が収まらない」
「その恩なら、すでに返しているんじゃないの?ここに連れてくるために護衛したりね」
……全部、識っているのか。
「あれは全部ミリアの我儘だ。俺はただそれを聞いただけだ」
「なるほどねぇ……。まあいいわ、それなら、あの子を戻すためにそれに見合う代価を貰わないとね」
「対価、だと……?」
「タダって訳にはいかないでしょ?あの子は自身を人間にする対価として、自分に備わっている『有り得ない力そのもの』を私にくれるって言ってたけど、アナタはそれと釣り合うものはあるのかしら?」
呆気に取られた。
そんなもの、俺が持っているはずがない。
世界に存在するはずのない力。それと同等の代価など……
何も言うことが出来ない俺に、蔑むようにため息をつく。
「本当に矮小な存在ね。王都の救世主、民を救う義賊。そんな幻想と虚実の中を生きるアナタは、何も持っていないものね」
「ッ…!!お前に……何が分かるッ!否定され続ける人間を黙ってみていることなんて、俺には出来ないッ!!何も出来ずに項垂れる背中も……理不尽を受け入れるしかない人間たちを……!!」
おかしそうに、ころころと魔女は嗤った。
「アナタ、本当に自分が矛盾だらけの存在って分かってないのね。正義の味方と呼ばれることを嫌い、正義はこの世にないと言っておきながら、正義がどうあるべきかを悩んでる」
「!!!」
自分の心の深くにある苦悩。その領域に杭を突き立てられたような、尋常ではない痛みだった。
「言ったでしょ?私は『識っている』って。アナタが義賊になった本当の理由、それは―――」
「―――やめろッッッ!!!」
気づけば、喉が裂けるような大声で叫んでいた。勢い良く立ち上がった拍子に、椅子が大きな音を立てて倒れた。
心臓を鷲掴みにされている感覚と、魔力汚染の中にいるのではないと疑うぐらいの過呼吸が襲う。
蹲りそうになる俺に、魔女は心底楽しそうだった。
「アナタの正義は、小さな子どもの我儘に過ぎないのよ。その我儘を、義賊という大義の理由の裏に隠している」
魔女の口から出る『真実』に、目の前が暗くなっていく。
「……せっかく紅茶を入れたのに、無駄になったわね。大したおもてなしが出来なかったのは残念だわ」
耳鳴りがひどかった。
視界が、別の映像を見ているように二重になる。
「今日はお開き。アナタがあの子を元に戻せる代価を見出したら、その願い、聞いてあげるわ」
「ま……待て……ッ!!」
手を伸ばすが、あれだけ近い距離にいた魔女の存在が、遠く離れていく。
黒が、覆う。
「最後に忠告しておくわ。もう、引き返せない状況よ。あらゆる事象がね。その結末の鍵はアナタが握っている。せめて慎重に行動することね。アナタがどんな行動にでるのか、私は本を読みながら楽しく観察させてもらうわ」
そして、全てが深遠に飲み込まれた。