渇望の対価 - 9 -
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森という領域は、誰にとっても脅威の潜む場所であるらしい。
親父と旅をしていたとき、森の中で野宿をすることもあった俺たちは、親父から森の恐ろしさをこれでもかというほど教わった。
……まあ、本当に起こりうる脅威と、怪談話で説明される脅威の二つがあったが。
前者は森を徘徊する獣たち。篝火を常に焚いていないと、肉食獣が獲物を見つけて集まってくる。
ガキだった俺は親父と交代で火の管理をしていたが、あいにく成長期の真っ只中だ。
数時間の監視も出来るわけがなく、ほんの少し仮眠を取った親父に任せるというサイクルが定着していた。
今思い返してみると、親父には負担をかけてばかりだったなぁ、と少し反省する。
―――そして、後者。
俺をからかい続けた親父は怪談話にも目がなかった。大量の怪談話をどこで仕入れてきたのは不明だ。
よく俺に話したのは、森に迷い込んだ子供たちが、行方不明になるという怪談話だった。
結論から言って、森の中に隠れていた樹の精霊が、枯れ木寸前の大樹に養分を与えるため、生命力の強い人間の子供を地中に埋めていたという、エグい内容だった。
俺を怖がらせようとしていたのだろうが、毎度夜に聞かされる怪談話にはうんざりし、怖いという感情も次第に湧かなくなった。
だって、そうだろう。
現実感が剥離している。
すべてが予定調和。すべてが起承転結。
ある一つの事象は、必ず結末を迎える。
俺はあのとき、ガキのつまらない思い込みでこう思ってしまったのだ。
誰もが怖がる話は、結末に恐怖がある。
「現実感の伴わない」恐怖は、自分の認識の前には絶対に訪れないのだろう、と。
自己防衛の本能かは分からないが、そのときから俺は、夜闇の中に存在する恐怖に鈍くなってしまった。
というより、もしかしたら、すべてが親父の計算だったりするのだろうか。
そもそも、そういう怪談話は、子供に森に一人で入るような行動を取ってほしくないから話すのであって、流浪の旅を続けていた俺たちに、あんな怪談話は不要だったはずだ。
……やはり、ただの親父の趣味だったのだろう。あのつまらない怪談話は、親父のお気に入りだっただけだ。
だから、今回の話も同様につまらないものなんだろうと、高をくくっていた。
が、あの話を思い出して、俺はその認識を改めざるを得ない。
「……見渡す限りの闇、見渡す限りの霧……か」
エトワール大森林。黒に塗りつぶされた真夜中の森の中は、恐ろしいほどに静かだった。
視覚を鋭敏化して辺りを見回すが、それでも数十メートル先の確認を取れない。
それと同様に、それをさらに阻害するほどの濃い霧が俺の視界を埋め尽くしている。
樹の幹の上にかがみ込みながら、その場から動くことが出来ない。
ここ一週間、雨も振らず快晴だったのだ。こんな濃い霧が発生するなど、普通ではあり得ない。
エトワール大森林に入ってきてから、どれほどの時間が経ったのかも分からない。
―――どうするべきか。
真夜中に、こんな広大な大森林に足を踏み入れる行為そのものが間違いであるのは重々承知だ。
商人も旅人も冒険者も、こんな時間に森の探索を行わない。
だが、それでも。
俺の首筋に牙を突き立てて血を啜ったミリアの異常な行動。
ミリアの身に起きた異変について、早急に確認しなくては。
俺はもう一度、森の奥へと目を凝らす。
濃密な霧が、夜の視界を更に深い闇へと落としていた。
一応、木の横にナイフで傷をつけて、道を見失わないようにはしているが、逆にミリアの乳母がいるあの場所へたどり着けるかどうか……。
途中にあった王族の墓も見つけられず、八方塞がりだ。
思い通りに行かず、心の奥底で忙しなく動く感情の渦に舌打ちする。
太い枝の上に座り直そうとかがみこんだ瞬間、俺は腰の後ろに感じる熱に顔をしかめた。
「……!!」
《魔剣》だ。【砂上の傷跡】を収めている鞘が、仄かに熱を持っている。
鞘から【砂上の傷跡】を抜き、その様子を確かめる。
何ら変わりない、ただの短剣。その刀身も、柄も、何一つ変わらない。
だが、確かにその刀身が熱を帯びて、まるで陽の暖かさのような熱を顔に伝えてくる。
そして、起きた変化。
周囲に漂う濃霧が、まるで【砂上の傷跡】の刀身に引き付けられるように集まってくる。
それはまるで生き物のようにのたうち、刀身へと吸い込まれていった。
「何が起こってる……?」
周囲に存在していた濃霧が嘘のように消え去り、森は静寂の夜闇を取り戻した。
手に持った【砂上の傷跡】の熱は次第に冷めて、何ら変わりない短剣に戻ってしまった。
……《魔剣》の力か。
今はじめて、【砂上の傷跡】の力の一部を垣間見た気がした。
親父はすぐに一人で戦場に行って、俺はその後方で敵の観察が多かった。やることといえば、貧困で行き場を失った孤児に見立てて相手の拠点へと立ち入り、敵側に偽の情報を伝えていた。
もちろんばれてしまうこともあったため、その時は隠し持った短剣で……といったこともやったが。
それ故に、親父がこの《魔剣》を使うところを俺は見たことがない。
発生した【砂上の傷跡】の力は断片的なものだったが、何かその力の片鱗を僅かながらも理解した気がした。
【砂上の傷跡】を鞘にしまいこんで、俺は辺りを見渡す。
《魔剣》が周囲に漂う霧に反応したということは、先程の濃霧はただの霧ではない。
おそらく、誰かが展開した魔法なのかもしれない。
俺の視界の先に、篝火よりも小さい、微かな光を見つけて木の上を飛んで行く。
近くに寄ってみると、それは目的地から漏れ出す光だった。
……やっとだ。
ミリアの乳母が住む、小さな小屋。
小さな煙突から煙が上がり、すりガラスからロウソクか何かの光が瞬いている。
小屋の前に立ち、俺はその扉をノックした。
だが、反応がない。
「……おい、いるんだろ?出てきてくれ。アンタの大切な人が大変なことになってるんだ」
そう言ったが、それでも扉の向こう側に人の気配はない。
居留守を使われるのは不本意だ。
ミリアが今どんな状況にあるか、説明しなくてはいけないのに。
意を決して、俺は部屋の中にいる人物の応答を待たず、扉に手をかけ、開け放った。
「―――!!」
部屋の様子に、息を呑む。
視線の先にあったのは、埃の被ったボロボロの机。床に倒れている古ぼけた木の椅子。部屋の中は外と同様に暗闇に包まれており、すりガラスから漏れだしていた光も存在しない。
割れた食器と、床の抜けた、腐った木が放置されている。
人の住んでいた気配はあるが、それも相当昔だろうと推測できる。
「……どうなってんだ」
あのとき、確かにミリアはこの小屋に入っていったのだ。
もしや、これはあのとき入った小屋とは別のものか?
……そんなはずはない。外にある畑も、木の椅子も、机も、小屋の小さな煙突も、あのときと同一のものだ。
混乱する思考は、長くは続かなかった。
ぐにゃり、と視界の中心が歪んだ気がした。目眩?……いや、違う。確かに空間が異質に歪んだ。その歪みは次第に大きくなり、部屋の中を包んでいく。
そしてその歪みは部屋を覆い尽くし、あらゆる視界の情報を捻じ曲げていく。
去来する浮遊感。
一度瞬きをしたその刹那、俺の辺りの風景は一変していた。
直線の白の通路。
遠く、辺りを取り囲む、巨大な本棚。
上下に続く、巨大な螺旋階段。
上を見ても、永遠につづく螺旋階段とそれをなぞるように配置された巨大な円形の本棚。
下を見ても、暗闇につづく螺旋階段とそれをなぞるように配置された巨大な円形の本棚。
この通路は、その中間地点に存在しているのか、それとも一階なのか、地下なのか、それも判断できない。
白の通路の先には、何の材質でできているか分からない白の円形の机が配置されており、それ以外何もない。
……いや、あった。
円形の机の近く、安楽椅子が、ゆっくりとゆっくりと揺れている。
それに誰かが座っているのが見えて、俺は無機質な白の通路を走り抜けた。
「……驚きね。まさか、私の領域に許可もなく立ち入ってくるなんて」
安楽椅子に座る人物から漏れ出たのは、艶のある声。なめらかな口調の中に、色気の混じった声だった。
後ろに立った俺に、そう話しかけてくる。
「教わらなかった?人の家には、勝手に入ってはダメだって」
安楽椅子に座り、分厚い本を読んでいたその人物は、横にあった机に本を置いて立ち上がる。
金と銀の混じる長い髪を、蓮を象った髪飾りでひとまとめにした、背の高い女性だった。驚くほどに白い肌。顔立ちは流麗という言葉が似合う。くっきりとした目に、長いまつ毛、高い鼻。唇は口紅でも塗っているのか真紅に照っている。
身に纏う服はドレスに似ているが、所々が露出していて体のラインがくっきりと分かってしまう黒と赤を主張した妙な服だった。
そして、目立ったのは、その耳。
人間では有り得ない、尖った耳だ。
「エルフ……か?」
その言葉に、女性は嘆息した。そして、何かを察したように目を細めた。
「ああ、その《魔剣》の力ね。全く、一人でここに来るなんてとは思ったけど、そういうこと」
「……アンタがミリアの乳母なのか?」
ピクリと、女性の眉が震えた。
「私が、あの子の乳母?バカ言わないで。あの子は私に縋り付いてきた愚かな生命体の一人に過ぎないわ」
やはり、とは思った。エルフの乳母など聞いたことがない。
「それなら、アンタは……」
その女性は、口元を僅かながらも綻ばせる。
「本来なら名乗らないんだけど、その《魔剣》に免じて教えてあげるわ。私は『深遠の魔女』。ようこそ、私の管理領域へ。紅茶の一つでも入れてあげるわ」
深遠の魔女。
そう言った目の前の女に、否応なく不安が増していく。
「深遠の魔女……だと?」
「あらゆる事象の管理者であり、観測者。そんなところよ。深遠の魔女はただのコード名みたいなものだから気にしないでいいわ」
意味不明な単語に、思考がついていかない。
だが、おそらくこの女はただのエルフではないことだけは分かっている。
千年エルフ。その単語は、吟遊詩人から聞いた単語だった。エルフの時間は人間の時間の数倍とも言われている。
そんなエルフの中で、千年以上を生きる者たちがいるという。
あらゆる知識、あらゆる知恵を識る賢者。
それが、目の前にいる女の正体か。
俺に背を向けて、机へと優雅に歩いて行く。
「ほら、早くこっちに来なさい。あの子について、聞きたいことがあるんでしょ?」
その台詞に、俺の足が無意識に動いていた。
俺はミリアが引き起こした事態に、感づいてしまっている。
―――乳母など、最初からいない。
―――ミリアは、俺に嘘をついたのだ。