渇望の対価 - 2 -
◇
エトワール大森林は渓谷の間に形成された広大な森林帯だ。森林を抜けた向こう側は港町に続いており、王都に続く物流の中継地点となっている。
昔はただの森林で狼などの獣が出没し、商人たちは傭兵を付き添わせて、この木々の間に続く道を通っていたという。
だが、今は違う。
数年前、森の中心に、突如として星のように淡く光る大樹が出現したのだ。
それは本当に突然の事だったらしく、何もなかった場所に巨大な樹が目の前で現れたと語った商人がいたらしい。
そして、王都にいた魔術師がその樹は破邪の力を持つ神性の樹だということを解明し、この大森林は『星』の名を持った。
破邪の力、というのは言いすぎだが、つまり魔力の停滞を防ぐ力があるらしい。大森林に滞留する魔力を大気のように常に動かし、『魔力汚染』を防いでいる……と魔術師の話を聞いて大興奮していたディモンが結構前に話していたか。
しかし、見えてきた大森林の入り口に、俺は顔をしかめた。
商人たちの荷馬車が乱雑に置かれており、入り口には、多くの人々の野次が飛び交っていた。
「現在、エトワール大森林内に魔物が発生したと報告を受けたため、一時的に通行を制限しています!魔物が討伐されるまで、しばらくお待ち下さいっ!」
そんなバカな話があるか!とか、なに嘘を言ってんだ!とか、今から港町に戻ろうとしていた商人たちの怒号が響いている。
通行を妨げている森林の巡回兵の二人を見て、あれはダメだな、と心の中で毒づく。
大森林の警備を任されているだろう巡回兵の二人組は、おそらく見習いだろう。飛んでくる野次にあわあわしながら、なにやら耳打ちをしているようだ。
だが、確かにおかしいな。
エトワール大森林で魔物が発生していたのは、『星の樹』が出現する前の話だ。現在は『星の樹』が魔力汚染を防ぎ、森林内の生態系を守護している。
……ということは、大森林で発生した魔物ではなく、どこかから発生した魔物がこの森林内に入り込んでしまったと考える方が妥当か。
俺は野次から離れて見守っている人間たちを見回して、やはりミリアの姿が見当たらないことに気付く。
あいつ、森林の中にいるんじゃないだろうな。
エトワール大森林に、護衛としてついてきて欲しいと言っていたから、この森を抜けたとは考えにくい。
……仕方ない。
怒号の飛び交う空間にいる人間たちは、巡回兵の弁解を熱心に聞いている。
ここで黒装束に着替える時間もないため、誰かに見られるより先に、森林内に入るしかない。
「……どれだけ迷惑かけさせるんだよ」
迸った魔力の渦を、脚力強化の力に昇華させる。同時に、上へと吹き上げるような風を発生させ、袋をしっかりと掴みながら、俺は野次馬の集団へと走りだした。
土を蹴る音が聞こえたのか、一部の野次馬たちがこちらへ向こうとするが、
俺はすでに、その真上を飛んでいる。
強靭な脚力で、ものの数十メートルを軽く飛び越え、巡回兵の真上を通りすぎて着地する。
顔を見られないように、野次馬と巡回兵に背中を向けて大森林の奥へと駆け出した。
「え……あれ……なに…?」
「……い、今、何が起こった…?」
なんとも間抜けな声が後ろから聞こえてきたが、あいつらに捕まる前にさっさとミリアを探さなければ。
森林がどれほど続いているのか、俺には分からない。
港町まで商品の取引をせず、王都内で済ませてきたツケが回ってきたか。
だが、ミリアの行きそうなところは大体予想がつく。観光に来たのならば、『星の樹』の前でのんびりしているのはないだろうか。
目を輝かせながら『星の樹』を興奮気味に見上げているミリアの姿を想像して気が抜けそうになった。
木々の間に存在する道はほとんど整備されてはいないが、商人たちが行き交う道だからか、足を取られることもなさそうだ。
およそ、五百メートルほど進んだところで、俺は異常に気がついた。
街道に刻みつけられた、抉られた大地の爪跡。横転した荷馬車に血を垂れ流す馬の死体、破壊された骨董品の数々が周辺に散らばっている。
その魔物がどのようなものか、一旦聞いておく必要があったかもしれない。
低級の魔物ならまだしも、ゴーレムなどの大型の魔物の場合、対等に戦うことなど不可能だ。
もしかしたら……ミリアはもう、などと不吉な想像をして背筋に嫌な汗が伝う。
あのとき大森林に行くことを承諾するべきだった。
あのお転婆な王女様のことだ。別に俺がいなくても、大森林へ赴くことは予想できたはずだ。
今更後悔しても仕方のないことだが、それでもあの時なにか言葉の一つかけるべきだったのだ。
―――誰かの高い声が、森林内に木霊する。
「!!」
まだ少し遠いか、だが、その声は聞いたことがあった。
どこだ……!!どこにいる!!
声のした方向は、道よりもやや外れた方角か。だが、その方角は、木々の生えた急斜面の上だ。
道から外れている?
……いや、不思議に思う暇なんてない。魔力で強化された脚力で、声のした急斜面を上―――
「きゃああああああああっ!!!!」
ろうとして、上から降りてきた物体に固まった。
え、と自然と出た声。俺は、中空に現れた人物にただ唖然とするしかできなかった。
長い銀髪が宙を舞い、白いワンピースがひらりと揺れた。
それが、
こちらへ落ちてくる。
「お…まっ……!!」
上空からの突然の襲撃に、俺は無様に地面に転がった。続いて、腹部に衝撃と鈍痛が襲来する。
「ぐっ……ふ……ッ!!!」
ゴーレムの光線よりも痛い。激痛が腹の奥にとどまり、俺は声にならない声をあげる。
目の前に降りてきた人物を見て、安心半分、怒り半分だ。あまりの痛みに息ができない。
「あ……あれ……?ご、ごめんなさいっ!!…って、あ、アルト!?」
「……」
「な、なんでここに……っ!……あっ!こ、こんなことしている場合じゃないんです!早く逃げないといけないんですよ!!」
いきなり人の腹の上に落ちてきたと思ったら、俺の襟首を掴んで熱弁を振るってくる。
と、同時に、俺の後ろで何かが着地するような音が聞こえた。
グルルルルルルルルルルルル………
体長は五、六メートルほどか、全身は灰色の長い体毛に覆われ、巨大な腕を猫背のままだらんと垂らしている。その両手には、鋼のように鈍く光る剣のような爪が五本ずつ並んでいた。
跳躍に使う両足も人間の体ほどの太さだ。恐るべき膂力を持つ化物が、目の前にいる。
「ア……アルト!!は、早く起きて下さい!早く……早く逃げないと……!」
……ああ、なんだろうなぁと、俺は地に伏したまま空を見続ける。そして、次に後ろで幾度となく雄叫びをあげる魔物に顔を向ける。
心配して来てみれば、突然ミリアが上から降ってくるわ、しかも腹で受け止めるわ、会いたくもなかった魔物と出くわすわ……。
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
うるさい。うるさすぎる。確かに、ミリアをずっと疑っていたことは素直に申し訳ないと思う。そのせいでそっけない態度をとっていたこともだ。
しかし、なぜディモンもミリアも、俺に冷や汗をかかせるようなことをやりまくるのか。
嫌がらせか?嫌がらせなのか?
ミリアが立ち上がったと同時に、俺もゆっくりと立ち上がる。
なんで俺だけがこんなに不幸な目に合っているんだ。悪霊か何かに取り憑かれているのか。
俺の腕を掴んで、逃走しようとするミリアの全身を見る。
……その服装、昨日と一緒だろ。
城に帰ったらすぐ返すようにとあれだけ言ったのに、どうして言うことを聞いてくれない。
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
「―――やかましいわッッッ!!!!」
腰から抜いた短剣に魔力を伝播。
緑光を纏い、極限に鋭刃化した短剣を振り向きざまに投げ放つ。
短剣は直線の軌道を描いて魔物の脳天を貫通、中枢機能を担う脳を破壊された魔物はふらふらとぐらつき、大きな音を立てて地面に倒れた。
砂煙が舞い上がり、魔物独特の体液の匂いが鼻を突く。
「ア、アルト……?」
「なんなんだ……」
「え……あの……」
「なんなんだこの状況は!いいか、お前には言いたいことがたくさんあるんだ!どうしてお前はこう厄介事を巻き込んでくるんだよ!そもそもなんで一人で森に観光に来てる!?騎士たちがディモンの家にまで聴取に来たぞ!」
ポカンとした表情のミリアを睨みつけて、俺はありったけの大声で叫んだ。
「あ、その、あの……ご、ごめんなさい……」
「『魔力汚染』の原因を探ったらそのあと報告するって昨日言っただろ!それなのに監視が厳しくなったから会うのが難しいだってぇ……?せっかく最後の約束事が消化できると思ったのに結局保留になっただろうが!」
駄目だ、自分でも何を言っているか分からなくなっている。ただの文句と愚痴が口の中から次々に溢れてきて、止められそうにない。
「そ、それは私のせいじゃないですよ!騎士団の皆さんが私の部屋の周りの警備人数を増やしてしまったんです!」
「城を抜け出すために無茶をしすぎなんだよ!騎士団の連中だってお前が消えたと分かりゃそうなるのは当たり前だ!それなのにまた王城を抜けだして……。こちとら昨日ゴーレムと戦ったんだ!こんな遠いところまで来るだけでも面倒なのにお前は……!」
「無茶をするのはアルトだって同じじゃないですか!あんなに魔法の詠唱短縮はダメだって言ったのに……!」
「無茶言うな!ゴーレム相手に無防備に詠唱行動なんてとったらバカでかい巨体に押し潰されるだろ!」
「それでもダメなものはダメなんです!!!」
ぐ、と俺は言葉に詰まった。ミリアがこんな大声を出すところを、俺は見たことがない。
「もし昨日、私がアルトを発見するのが遅れていたら……死んでいたかもしれないんですよ?『魔力汚染』の影響と詠唱短縮の体内魔力の大量消費で……体が壊死しそうになってたんです……」
ぽろりとミリアの両目から流れ始めた涙を見て狼狽える。
「私が『魔力汚染』の調査なんて依頼したから……。もう……アルトに合わせる顔なんてないんです……」
そこで、俺は気付く。
ミリアはそういう奴だった。
自分が宝物庫の警備を脆弱にしてしまったせいで、国宝の《魔剣》を奪われて落ち込んでいたことを思い出す。
自分が犯してしまった過ちを反省できる人物。
王族や貴族は横暴で低俗だと、そんな認識を持っていた俺は、ミリアのその性格をしっかりと分かってやれていなかった。
涙を流しながらうつむくミリアに、俺は冷や汗をかきながらおろおろすることしかできない。
こういう時に何かかける言葉があればいいんだが……リーザ婆さんに「冗談の言えないガキ」と言われたことがふと脳裏をよぎり、ため息をつきそうになる。
どうするべきか悩んで、ミリアの頭に手を置く。
「た、頼むから泣くなよ。俺が勝手にやったことだ、お前が気にすることじゃない」
「!!そ、そんなことありませんっ!私がお願いをしなければ、アルトがあんな目に遭うことなんて……!」
「お前には借りがたくさんある。貧民街の救世主ってやつだ。俺みたいな盗賊に協力してくれただけでも嬉しいんだよ」
「で、でも……私に言いたいことがたくさんあるんですよね?」
それでも引き下がらない様子だった。頬を掻きながら、俺は言葉を続けた。
「……違う。怒鳴ったことは謝る。素直に……し、心配だっただけだ。悪かったよ」
え?と、ミリアはきょとんとした表情で俺を見つめてくる。その視線がむず痒くて、赤くなった顔を見られまいと背を向けた。
「ほら、エトワール大森林で何かしたいんだろ?早くしないと巡回兵が来るかもしれないし、また魔物も出る可能性もある。俺が護衛するから、お前の用事を済ませろよ」
……柄にもないことをしてしまったと、今更後悔する。
というより、誰かに対して久々に怒った気がする。生憎、理不尽ばかりの文句だけだが。
と、そのまま森林の奥へ歩き出そうとしたが、後ろから何かに引っ張られた気がして立ち止まる。
振り向くと、ミリアが俺の服を掴みながらなんともいえない表情をしていた。感極まる、というか、本当にいいのか、とか、色んな感情が混ざっている表情である。
「……早く用事を済ませて、王都に帰るぞ」
「はい……はいっ……ありがとうございますっ!本当に……ありがとうございます」
満面の笑みを見せながらも、瞳から流れる涙はまだ止まりそうになかった。
……『魔力汚染』が起きていた屋敷の話は、ミリアが泣き止んでからするとしよう。