矛盾の剣 - 10 -
陰の差す路地を進むにつれ、その変化は劇的なものとなる。
石レンガが組み合わされた細い路地には、無数のごみが散乱していた。腐った木箱が所々に置かれ、ハエが周囲を飛んでいる。
時折通路の脇に露出している水路は、汚泥の混じった酷い色だった。
そんな周りの状況に臆せず、ミリアは優雅に先を進んでいた。
貧民街への入り口。
王都には、貧民街へ通じる道が五つある。その全てが西から回りこむようなルートになっており、全てが一本道だ。
故に、貧民街を知る多くの人々は、その道の近くを通ることを憚る。その付近に店を出すような者はいないと言っていい。
そして、その道が一本道の理由は、全て富裕層の思惑だった。
以前、王都は蜘蛛の巣のような道だったという。どんなに道に迷おうとも中央通りに出られる構造をしていたが、貧富の差が加速してから、その状況は変化してしまった。
富裕層と貧困層。その有り様を明確にするため、教会関係者と有力な貴族たちが、区域を分割するように王に提案したのだ。
税の徴収割合の簡易な決定や、身分の絶対的な差別化。
その提案を王は受け入れて、王都内の道を再整備し、そして、現在の状況に至っている。
結局貴族たちは、みすぼらしい連中をこの目で見たくない、という身勝手な願望を王に提案したに過ぎない。
それを承諾し、彼らに協力した教会の奴らもまた、『迷える子羊』に対する慈悲を面倒に思っていたに違いない。
この提案を実行に移した、あの王もまた。
この王都の上位に君臨している者達は、どこまでも低俗な存在に違いなかった。
俺は、前を歩き続けるミリアの背を見つめた。
彼女が、王族という立場でできること。それは、一体どのようなことだろうか。
まだ、この国の政治に介入できる立場でもない。王女という立場は、中途半端な立ち位置だ。
王にこの状況を報告しても、その対策をすぐに実行するとは思えない。
しかも、王の裏には有力な貴族たちが睨みを効かせている。彼らがその対策に対して否定的な意見をだせば、すぐに却下となる。
―――もしかしたら。
自分にとって有利な考えが過ぎってしまった。
だからミリアは、俺に協力してくれているのか、と。
一瞬の考えを、しかし俺はすぐに払拭する。
あり得ない。彼女はただ、俺を牽制しているだけだ。
いつでも捕まえられると、付き添いながら俺を脅迫しているのだ。
だが、彼女はなぜここまで俺と共犯関係という縁を強くしようとするのかが分からなかった。
一体、なぜだ?
盗賊をしている以上、全てを悪い状況に考え、その対策を頭の中で構築し続けなければ、貧民街を救うことなど出来はしない。
俺は、ミリアの心の奥底を推し量ることができない。
先を歩くミリアが、止まった。
その先に鎮座する、石で出来た巨大なアーチの建造物を見る。
此処から先に、貧民街の本当の姿がある。
「……行くのか?」
佇むミリアに、俺は最後の確認をした。
これ以上進めば、お前は王都の本当の闇を知ることになると。
ミリアはそのまま振り向いて、優しく微笑んだ。
「ここまで来て、引き返すなんてあり得ません」
絶対的な覚悟だった。
ミリアはその巨大なアーチをくぐる。
が、その歩みはすぐに止まった。
上空から飛んできた木の棒がミリアの目の前に叩きつけられた。鈍い音が辺りの石レンガに反響する。
「止まれッ!」
積み重なるように形成された石レンガの建物。その上に、頭に革の帽子を被った少年が腕組みをしながらこちらを睥睨していた。
年は十二歳前後だろうか。くたびれた服が、どれだけ使い古されたものなのかを物語っている。
次の瞬間、十メートルほどある高さから跳躍し、俺たちの目の前に着地、地面に転がっていた木の棒を握りしめた。
「お前、見ない顔だな!貧民街に何のようだ!」
そう言った革の帽子の少年は、ミリアをじっと見つめて木の棒を突きつけた。
「え、えっと……実は視察に来たんですが……」
ミリアは突然の事態に思考が追いついていないのか、目をぱちくりさせている。
その少年はどうやら俺の存在に気づいていないらしい。まあ、夕暮れ時で通路の先はほぼ真っ暗闇だ。仕方ない、が――――。
「上から警備をするんなら、ちゃんと侵入者の数も数えろよ。じゃないと不意打ち食らうぞ」
黙っていたらミリアに武器を叩きつけそうだ。
ミリアをかばうように、俺は一歩前に進み出る。俺の頭二つ分背の低い少年は、ミリアと同じようにポカンとした表情で俺を見る。
「え、あれ?ア、アル兄ちゃん?」
「警備なんてやらなくてもいいだろう。大体、ここに来る奴らなんてほとんどいないんだぞ」
「い、いやぁ……【漆黒の風】みたいに俺も!って思ってさ……って、え?」
少年は信じられないとでもいうように、ミリアへと顔を向ける。
「え、あ、あれ……?」
「俺の連れだ」
そのまま、じっと硬直している少年は、次第にぷるぷると体を震わせる。
「ば、ばっちゃ――――――ん!!アル兄ちゃんがお嫁さん連れてきた―――――――ッ!!!!」
「お前もかッッ!!!違うッッッ!!!っておい待て!!!誤解だ!!!」
俺でさえも追いつけないのではないかと思うぐらいの速さで、その少年は貧民街の奥へと消えていった。
頭に手を置いて絶望している俺に、後ろから手を置かれる。
堪らなく嬉しそうに微笑むミリアの顔。
「元気な男の子ですねっ」
「……元気すぎるのが玉にキズだな」
なぜ、俺の知り合いは頭の中で変な妄想をする奴らが多いんだ。弁解するのも疲れてきた。
もういい。さっさとミリアを連れて行こう。
「こっちだ。ついて来い」
俺はにこにこと微笑んでいるミリアを先導するように、貧民街の奥へと進む。
暗がりの中、至る所に座り込んでいる人影を無視し続ける。
いるのは、貧民街で生活している者たちだ。身に纏う布はボロボロに擦り切れ、かろうじて衣服としての機能は保っている。その服から伸びている手足は、枯れ枝のようにやせ細っていた。
「あの……周りにいる方々は……」
後ろから聞こえた声に、俺は沈黙した。
王都の表通りでは見れない状況だ。貧民街は常に、生と死の境を彷徨う底辺の者たちで溢れている。
奥へと進み続ける俺たちに視線を向けながら、彼らは恵まれる時を待っているのだ。
貧民街から出れば、衛兵たちにここに戻される。表通りで物乞いさえも出来ず、ここでじっとしているしかない。
「物をやるなよ。周りの連中が寄ってきて、殺し合いになる」
「……アルトは、ここに住んでいたんですよね?やっぱり……その……」
「一日を生きるだけでも必死だった。表通りに出て、食料の窃盗なんて毎日やってたな」
「そう、ですか……」
「だけど、その状況も大分変わったんだ。……前よりは、だけどな」
俺が盗賊稼業によって得た金は、食料として貧民街に供給されている。
食料の争いも今では大分落ち着いたが、全てが解決したとはいえない。
ようやく、俺たちの目的地が見えてきた。
ボロボロに風化した教会跡。すぐにでも崩壊しそうな外観だが、なんとか雨風を凌げる造りになっていた。
「貧民街にも聖職者の方がいらっしゃるんですか?」
「いや、あの教会に神父もだれもいない。誰も使わなくなった教会を集会場にしてるだけだ」
立て付けの悪い木の扉をゆっくりと開く。その先に見えるのは、欠けたステンドグラスと、祈りを行うための無数の座席。
そして、その座席の一つに集まり、子どもや大人が一人の老婆と話をしている。
「あっ!来たよ!ほら、アル兄ちゃんの伴侶!」
「だから違うッ!」
大声で口にした否定の言葉が教会内に反響する。すると、笑い声が響いた。
「おや、アル坊がえらく綺麗な伴侶を連れてきたというから期待したってのにね。嫁さんが可哀想だよ」
「勘弁してくれ、婆さん。ただの友人なんだよ」
老婆は、人の良さそうな笑顔を振りまいた。擦り切れた肩掛けを身に纏い、白髪の混じった髪を後ろに撫で付けている。
「はいはい、お前はいつも強がりばっかり言うからね」
「だから―――」
「へぇ……本当に人形みたいに綺麗な女の子じゃないか」
……話を聞く気はもうないようだ。
「あ、あの……よろしくお願いします。ミリアと申します」
「こりゃあご丁寧にどうも。私はこの貧民街の長ってところだね」
恐る恐ると言った感じだ。
俺はミリアに話しかける。
「昔から貧民街の連中を仕切ってるリーザ婆さんだ。いつもここにいて貧民街の奴らと情報交換してる」
「で、いつ結婚するんだね?生憎だけど、何もあげるものがないんだよ」
「……婆さん、結婚なんて誤解だって分かってるんだろ?」
「お前は冗談が言えないから、ちょっと訓練させんとダメだと思ってね」
「……」
今日一日で、この弁解をどれほどしたのか。そのせいで精神的に参っているのだから、疲れるのもこれで終わりにしたい。
婆さんは俺の横にいるミリアをじっと見据える。
「アル坊は頭が固くて困ってるだろう?……やれやれ、女性に冗談の一つも言えないと結婚なんて当分先だね」
「そ、そうなんですっ!ちょっと頭が固いんです!でもアルトは素晴らしい人だと思いますよ!私もいろいろお世話になってますし」
「ほう……」
婆さんは疑わしそうな視線を向けて、俺に厭らしい笑みを浮かべていた。それを見ていた周りの連中が大笑いをしている。
「ほら、言ったじゃねえか。アルトが嫁さんを連れてくるなんておかしいと思ったんだよ」
「アル兄、結婚しないの?よ、良かった……な、なら私がアル兄のお嫁さんになってもいいよっ!」
「アル兄がお前みたいなまな板を好きなわけねーじゃん。無理無理」
「な、なによぅ!わ、私だってもっと大きくなればきっとあのお姉ちゃんみたいに……」
「はいはい、痴話喧嘩はあとにしろよ、お前ら」
「「ち、痴話喧嘩じゃない!」」
周りに集う大人たちが、それを見てどっと笑いだした。
やれやれ、と俺は肩をすくめる。
「素晴らしい方がたくさんいらっしゃるんですね」
ポツリと呟いたミリアの言葉に、俺は口元を綻ばせた。
「まぁ、小さい頃からずっと世話になっている奴らも貧民街にはいるんだ。そういう奴らはグループを作って生活してるし、周りの奴らにも色々支援してる」
「言ってみれば、家族みたいなものだよ。貧民街に他人はいない。それを理解している奴らが多いわけじゃないけどね」
家族に囲まれながら、婆さんはミリアにとびっきりの笑顔を見せた。
「……だから、アルトは頑張っているんですね」
「ああ、そうだ」
そのために、盗賊になった。
どんなことをしても、辛い境遇の中で笑い合えるこいつらを守るために。
たとえ、家族に嘘をつくことになったとしても。
ひとしきり笑いあった後。
俺はいつものように、婆さんにある質問をする。
「今日はいるのか?」
それは、貧民街に新しく入った奴がいるかどうかの確認だった。
それを聞いた婆さんの顔が曇った。困ったようにため息をつく。
それに呼応して、周りにいた奴らの空気が一瞬重くなった気がした。
「ああ、二人ね。だけど、ちょっとややこしいことになっていてね」
「ややこしいこと?」
「いつもお前に任せるのは申し訳ないけどね、何とかして欲しいよ」
この通りだ、と婆さんは俺に頭を下げた。一体、どんな問題を起こした奴なのだろうか。
「ミリア、お前はここにいてくれ。婆さんたちといれば、他の貧民街の奴らには襲われないから安心しろ」
これから会う奴が気性の荒い性格だったとしたら、俺たちに危害を加えてくるかもしれない。
だが、ミリアはそれをまた拒否する。
「言ったじゃないですか。私は識らなくちゃいけないって」
―――そう言うことは分かっていた。
俺の提案を否定し、ミリアは自分の意志で全てを知ろうとしている。
ミリアの言い分に頭を掻いて、俺は婆さんに尋ねた。
「……婆さん、そいつらは今どこにいる?」
「聖堂の奥の一室にいるね。私もついて行くよ」
「婆さんがついて行くんなら、オレたちも一緒に行くぞ。ガキ共はここで待機な」
「ちょ、ちょっと子供扱いしないでよ!おばあちゃんが一緒に行くなら私も……」
「あいつらを連れてきたのはおれなんだから、おれも行かなきゃダメだよな!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる周囲の連中に、婆さんは苦笑する。
「まぁ、いつもこうなるんだよ。さ、行くかね」
ゆっくりと立ち上がって、奥の扉を開け放つ。俺は婆さんの後ろを追いながら、どんな面倒な連中が貧民街に来たのかと、思考を巡らせた。