それでも彼は - 10 -
◇
時刻は深夜の零時前。王都の政治を掌握している宰相の屋敷は、王都中心部から東に少し離れた場所にあった。
屋敷は王都の水路の途中に存在し、まるで、洋上に浮かんでいるような外観だ。水路の上に作られた橋の途中には木製の机と椅子が鎮座し、昼間にはそこで茶会が開かれている。
静寂の中に存在していたならば、おそらくこれほど心が和む場所は、王都内には存在しないだろう。
だが、現在の屋敷の周囲と内部には騎士団が巡回しており、ネズミ一匹でさえも見逃さない厳重な警備が敷かれていた。
外を警備する騎士団たちは、ランタンを片手に水路の周囲を見渡している。
屋敷と区切られた石壁の外側には、数えきれない程の大衆が波のように蠢いていた。
その中には小さい子供がちらほら見え、父親だろう男の背中の上に乗りながら、目的の人物が現れるのを待ちわびていた……が、首がこっくりこっくりと動いている。
真夜中の観衆達は、熱気を隠さずに大声で騒ぎ立てていた。
と、屋敷の門へと一人の人物が歩いてくる。人形のような美しい容姿、優雅な白のドレスを纏い、門の前にいる騎士の一人ににっこりと微笑んだ。
「ミ、ミリア王女殿下、なぜこのようなところに?」
「私も【漆黒の風】様に興味があるのです。門を開けては頂けませんか?」
微笑んだ王女に、その騎士はしぶしぶ門を開け放った。王女の美貌に唖然としている群衆を尻目に、彼女は宰相の屋敷へと足を進めた。すると、その姿を発見した背の高い男が近づいてくる。
「こ、これはミリア王女殿下。わざわざこのような所まで……身に余る光栄でございます」
「ごきげんよう、クライス閣下」
腰を落として跪いた宰相に、ミリアはにっこりと微笑んだ。クライス宰相は、こちらへ、とミリアを水路にかかった橋へと誘導する。
「屋敷の警備はどのように?」
「現在、百五十人の騎士たちが私の敷地内を巡回しています。あのような愚かな泥棒に、王から賜ったものを奪われる訳にはいきませんからな」
そうですか、と答えたミリアは、何かを考えるように顎に手を当てた後、宰相へと向き直った。
「【漆黒の風】様は、おそらく屋根から侵入するでしょう。二階の警備を厳重にしてはいかがでしょうか?」
「うむ……確かに、そうでしょうな。先日の事件も、上からの侵入とお聞きしました」
宰相は大声を出すと、駆けつけた騎士に警備状態の改善を指示する。
「屋敷の中は騎士たちで窮屈でしょう。庭へと案内致します」
「ええ、失礼します」
―――――
群衆がたむろする眼下を眺め、息を深く吐いた。宰相の屋敷の隣にある別の屋敷の屋上に身を潜め、騎士たちが跋扈する庭を見渡す。見れば、白いドレスを身に纏ったミリアが、宰相らしき男に誘導されているようだ。
庭から目を離し、俺は次に、民衆が蠢く石壁の外側へと視線を移す。
大通り側には多くの露店が開かれており、その中に大笑いしながら食べ物を売っている大男の姿を発見し、俺は小さく舌打ちした。
さて、時刻は午前零時まで五分を切った。ここまでは全て計画通りだ。
盗みに入る前のこの感覚。いずれ慣れるとタカを括っていたのだが、結局いつまで経ってもこの体の奥が震える感覚は慣れる気がしなかった。
庭にいる騎士の人数は、見えるだけでも三十人を超えている。おそらく屋敷の裏にも多くの騎士が警備しているのだろう。
通常ならば、こんな厳重な警備で盗みを働くなど不可能に近い。
しかし。
庭の橋の上にある椅子に座ったミリアが、チラリとこちらを見た気がした。作戦開始の合図だろうか。
……まぁいい。
俺はゆっくりと立ち上がって、再び屋敷を見渡した。篝火がシンメトリーを描き屋敷の庭を照らしている中、乱雑に灯るランタンの光が騎士達の居場所を示していた。
息を吸って、吐く。三回その動作を繰り返して、俺は、
作戦を開始した。
「『風陣、展開』」
両手から迸った魔力は、周囲に漂う大気をかき集め、真下へと高圧力の風を叩きつける。
渦を巻く強風は砂嵐へと形を変え、群衆と騎士の視界を一時的に覆い尽くした。
俺はすぐに筋力強化の魔法を身に纏う。屋上から飛び降りた俺は、宰相の屋敷の門の前に降り立った。
「お、お前ッ…!!【漆黒の―――」
門の前に立つ騎士の言葉を最後まで聞かずに、俺は圧倒的な脚力で騎士の一人を蹴り飛ばす。後ろにあった門が蝶番からバラバラになった。
「現れたぞ!【漆黒の風】だ!」
庭にいた大勢の騎士が、俺の姿を砂嵐の中なんとか確認したようだ。
一斉にこちらへと近寄ってくる。
舞い踊る砂塵によって動きは鈍い。騎士たちの間には、有り余るほどの通り道が開いている。
ぐっ、と俺は地面を蹴った。筋力強化による脚力で、文字通り、風の如く騎士たちの合間をくぐり抜ける。
そのまま屋敷の入り口へ。
入り口へと達する寸前、俺は更に鋭刃化の魔法を腰にあるナイフに施した。駆け抜けながらナイフを構え、高級そうな木製の扉を瞬時に切り裂く。刹那のうちに十数回振るったナイフの切れ味は、扉を綺麗に解体するほどだった。
「なにをしている!捕まえて殺せ!」
唖然としている騎士たちに、宰相の男は後ろで怒鳴り散らしているようだ。
さて、ここからが本番だ。
王女は上手くやってくれるだろうか?
「ミリア様!お座り下さい!」
「いけません!私も屋敷内に!」
後ろから聞こえる声に、俺はいくらか安心した。自分のやるべきことをしようとしているのは間違いないだろう。
屋敷内にいる騎士たちは今どこにいるのだろう。
複数人相手では勝ち目はないが、一人ずつならばなんの苦労もない。王女がどれほどの活躍を見せてくれるかが成功の鍵になるのだが……。
――いや、そんなことを考えるよりも、すぐに部屋の捜索をしなければ。
王女の話によれば、税金の不正使用には他の貴族も関わっているという。なぜそんな情報を知っているのか聞いてみたら、王に内緒で王城をうろうろしていたら、宰相が他の貴族と怪しげな話をしている所を見てしまったらしい。
……どこまで自由人なんだあの女は。
俺は構わず屋敷の奥へと駆け抜ける。
「こちらに【漆黒の風】が!」
王女の大声が屋敷内に響き渡った。俺がいるのは屋敷の西側だ。どうやら騎士たちの誘導を始めたようだ。
気付かれないように、近くの扉をゆっくりと開ける。
見つけるのは税金の不正使用の証拠だが、金はもちろん、宰相と協力しているだろう貴族の名前を明らかにしなくてはならない。
入った先の部屋は、どうやら客間だったようだ。高級なソファーに、薔薇の模様が描かれた巨大な絨毯。
―――これはまた、何の苦労もない生活を送っているようで。
俺が探す部屋は、宰相の執務室だ。客間がここにあるということは、もしかしたら執務室は逆方向にあるのかもしれない。