プロローグ
自分の息遣いだけが、静かに聞こえていた。天に昇る満月が、王都を見下ろしている。今いる商人の大豪邸の屋根からは、王都を明るく染めるランタンの光だけが見えていた。
腰にある鉄製の鉤爪、ナイフとピックを確かめる。黒いブーツに、黒の手袋、黒いフード付きのローブを纏い、口には黒頭巾と黒一色の格好だ。
よし、と心の中で覚悟を決め、俺は今日の《仕事》を開始した。
王都クライスラ。この大陸でもっとも知名度のある、堅牢な城壁で守られている王都である。
他の街や村への流通の要であり、城下町は、商人が特産物や魔物退治のための武器防具を露店で売り出し、大道芸人は芸を披露し、平民の道楽を満足させている。
比較的、この王都は平和だ。他の町では魔物の襲撃が頻繁に繰り返されており、その他にも盗賊が民家を襲撃することもある。
そんな他の町と比べ平和なこの王都だが、そんな中でも暗い部分はあった。多く賑わう城下町の大通りから繋がる、細い道。その先には、貧困な生活を営む人間たちの世界が存在していた。
富裕層と、貧困層。これが、王都の抱える問題だった。王は、そんな人間など気にも留めず、商人たちへの支援に勤しんでいる。彼らに救いの手はない。
だから。
だから、俺は、この仕事を続けている。
俺はまず屋根の出っ張りに鉤爪を引っ掛け、外れないことを確認した後、鉤爪から伸びる紐を握りしめながら、ゆっくりと屋敷の3階の一つの窓に近づいて行く。
盗人対策に、窓には鍵をつけろ、という板札が今日公表されたが、それがなんだというのだ。
俺は腰からナイフを一本掴み、その刃に魔法をかけた。
「『風の導きよ』」
小さく呟かれた呪文は、ナイフの刃に薄い緑色の膜を形成する。そのナイフを、俺は窓につき刺した。武器強化の魔法を改良したものだが、これが案外上手くいくものだ。
大した抵抗もなく窓にサクッと突き刺さったナイフを、ゆっくりと円形に動かしていく。綺麗に円形に斬れた窓ガラスを取り外し、穴のあいた窓から手を入れ、鍵を開ける。
部屋の内部に侵入した俺は、さっそく金品の捜索にとりかかった。
仕入れた情報によれば、この大豪邸の主である商人は、屋敷の三階の金庫に、入手した宝石や純金のアクセサリーを保管しているという。
屋敷内の暗闇――このままでは見えないため、視覚鋭敏化の魔法を唱える。
暗闇から一転、青白く、明るくなった室内を見渡し、そして俺は金庫であろう大きな鉄製の箱を発見した。箱の側面には、鍵穴が見受けられる。
さて、ここからだ。腰にあるピックを手に取り、鍵穴へと挿入する。ピックが折れないように、耳を近づけながらゆっくりと解錠を試みる。
金庫、とはいうが、鍵の構造は一般平民の民家のドアの構造と同じだ。こんな作業だって、2年前からずっとやっている。慣れたものだ。
と、カチャリと気持ちのいい音が聞こえた。俺はニヤリと笑って、金庫を開ける。案の定、値打ちのある宝石やアクセサリー、金貨などが大量に納められていた。俺は背中に担いでいた袋の中に、金品を入れていった。
その時だった。
「出たな!【漆黒の風】め!」
後ろのドアが不意に勢いよく開けられた。ランタンを手にした、屋敷の主である頭の禿げた商人が、こちらを見て激昂に顔を歪めている。
俺の反応は速かった。ポケットにあった煙幕弾をその商人へと投げつける。
「このっ……!こざかしい真似をっ!!」
視覚鋭敏化の魔法の効果は続いている。煙幕が充満した部屋の窓を確認し、袋を抱えて俺は外に飛び出した。
筋力増強の魔法をすぐに唱え、着地の衝撃を和らげる。
「馬鹿者!早く追え!」
後ろから、商人が雇ったであろう兵士たちの甲冑の音が聞こえた。だが、たかが兵士ごときに俺が捕まる訳がない。なにしろ、筋力強化の魔法がかかっているのだ。
屋敷から出てすぐに、大通り脇の道を駆け抜ける。
近くにあった露店の骨組みを土台にして、俺は民家の屋根の上を伝っていく。城下町の大通りは、こんな深夜にも関わらず多くの者が賑わっていた。
民衆の一人が屋根の上を駆ける俺を発見したのか、大声でこちらを指差した。
わいわいと、大通りにいた老若男女が声を張り上げた。ふぅ、と俺は走りながらため息をつき、担いだ袋の中から金貨を取り出して、大通りへとばらまいた。
その瞬間、大通りにいた連中が歓喜の声を上げる。
全員が俺から金貨へと目を移したのを確認し、街灯のない王都の外れへと駆け抜けた。