34.無色の涙をぬぐう彼岸の故郷景色
ここが人間の世界だと実感させてくれたのは、十月のような肌寒い風の後ろ姿でした。
目の前を流れる、日差しを浴びて光る川のせせらぎは、未熟で弱い心を癒してくれました。
それでも、僕を見送ってくれたなつめとゆりえさんの寂しそうな表情は、いつまでも思い出の中に住み続けそうです。
(本当に、来たんだ)
百合鬼灯から作られた光の穴に飛び込んだ意味はありました。紛れもなく、生まれ育った故郷です。
(さて、行こうかな)
ぼちぼち歩き始めます。見覚えのある風景。秋色の木々。僕が暮らしていた家までの道も分かります。
脇に設置されたベンチ。うたた寝をするおじいさんの持つラジオから声が聞こえました。
『さて、西暦一九九九年。今日は九月二十三日、お彼岸の中日となりましたが皆様は――』
(……そういえば)
立ち止まって思い出します。今日は僕の誕生日みたいでした。
西暦から計算すると十六歳。子供と大人の境界線をまたいでる気分です。
すみません話がそれましたね。目的地に向かいます。まずは川辺から離れて街の方に行かないと、
「ひゃああつめたー! 川に落ちるなんてついてないけん、助けて悠ー!」
(!?)
背中方向から聞こえたのは賑やかすぎる声。秋に川遊びとは頭のおかしな人です。偶然にも僕と同じ名前を叫んでいます。
「どうして無視すると!? はよ振り向いてー!」
「……」
同名なんてたくさんいますからね。にしても僕の知ってる妖怪と声が似ています。喋り方まで共通だなんて奇遇にもほどが、
「ぐわーおぼれるー!」
「…………」
ばしゃばしゃうるさいです。そんなに騒がなくても聞こえてます。というかカナヅチだったんですね知りませんでした。
もう少し落ち着くことを覚えるべきです。助ける気はありません。振り返って告げてやりました。
「そこ立てるよ」
「へ? ……あっ」
ざばっと立ち上がるなつめ。なにせ腰くらいまでの深さですから。
「ゆ、悠を試してたとよ。判断力はなくしてないみたいやね。合格点あげる……はくしょーん!」
「あーあー、もう」
びしょ濡れでくしゃみをするなつめ。陸に出なかったとは運が悪いです。
どうやらなつめは、想像以上に無鉄砲だったようでした。僕に続いて光の穴に飛び込むだなんて。
昨晩の感動はなんだったのでしょうか。涙で失った水分を返してくれと言いたいです。
「なんで来たの?」
「いやあ、つい。だって寂しかったけん、また悠に会いたいなーって」
「……もし帰れなくなったらどうするのさ」
「ゆりえたちは一人じゃなかと。あたしは、悠がいればそれでよかもん」
「……ふふふ」
「あっひどかぁ! どうして笑うとー!?」
本当に、なつめは。
これが笑わずにいられますか。なつめのせいだというのに。どうしてそんなにあたたかいんですか。僕が生意気なのは知っているはずなのに。
川につかったまま怒るなつめに向かって、真っ直ぐ手を差しのべました。
「行こうか」
「うん」
たぶん僕も、心細かったんだと思います。握った手を離したくない気持ちが何よりの証拠です。
どこか胸が苦しいような、ざわめく心の正体はつかめませんけど、一つだけ分かることがあります。
なつめと一緒にいたい。その意志だけは変わらない自信がありました。この先、どんな色の空が遠くに広がろうとも。
―――――
路地の狭い道を曲がった奥には、古ぼけたアパートがありました。
僕が暮らしていたのは一階の左の部屋。新聞受けを見たところ人は住んでいるみたいです。
あとは呼び鈴を押すだけ。しかし、伸ばした指が一歩を踏み出せません。
(怒ってる、かな)
考えてみれば、僕は別れも伝えずにいなくなりました。愛想を尽かされていてもおかしくないです。
どこからかわき上がる不安や憂い。なつめが心配そうに僕を見つめます。
「だいじょーぶ。あたしが側にいるから。悠は一人じゃないけん」
「……うん」
僕は一人じゃない。ありふれた言葉だからこそ心に染み入ります。
会わないと始まらないし終わらない。なにかを始めるために、なにかを終わらせるために僕は人間の世界に来た。
呼び鈴を鳴らします。ばたばたと走る足音が聞こえて来ました。
ヤクザさんが住んでいたらどうしよう。妙な心配は、扉の先に立っていた人物が消してくれました。
「健一、さん」
二十代後半を思わせる若々しさと落ち着いた雰囲気。以前と変わらないようで安心しました。
堀健一さん。身寄りのなかった僕の面倒を見てくれていた男性です。
一言で説明するなら変わり者。外見は魅力的なのですが一人を愛する性格ですし、なにより、
「おまえ、誰だ!?」
「って忘れられてる!? 悠だってば! あんまし変わってないでしょ」
「ははは、冗談だ。久しぶりだなおい。悠がいなくなってからというもの、一日八時間しか眠れなかったんだぞ」
「けっこう寝てるよね」
ふざけるのが大好きな人なんです。昔は苦手でしたが慣れてました。
不安がって損しました。元気な姿を見たかったのは僕だけのようです。なんという片思い。
「僕は健一さんに会いたかったのに……やっぱり、喜んでなんかくれないよね」
「……なあ悠。俺は悠のこと、本当の家族だと思ってるさ。ずいぶん会えなかったが、その気持ちは今も変わっちゃいない」
健一さんの真剣な目。いやいやだまされません。性格から推理するなら頃合いを見計らって、
「まあそれは置いといてだ。このかわいい巫女さんは誰だ? ちょっと俺と散歩でも行こうか」
「か、かわいくなんてなかよ! えっとね、あたしなつめー」
「いい名前だな。あ、ついでに悠も来るか?」
「おまけ扱い!?」
なつめをナンパするに決まってます。なんなんすかこの二人。まともなのは僕だけですか。
避けられるでも追い出されるでもなく、当たり前のように僕の居場所は空いていた。
どうやら現実は、僕が心配するよりも優しく出来ていたみたいです。
「よし、みんなで出かけるぞ。ほんの三時間で支度するから待っててくれ」
「急いでよ!」
家の中に引っ込む健一さん。突っ込みしすぎて疲れました。でも元気でなによりです。
会いに来てよかった。僕を覚えていてくれた。
空は晴れているというのに、どこからか頬をつたい落ちた滴は、地面を小さく濡らして消えていきました。