夢のサロベツ原野 消失ショート3
段落とかも意味わかんねぇです。
子供の頃、僕の父はある条件下の元にある発言を繰り返していた。
「サロベツ原野、サロベツ原野」
父のこの発言は、特殊な条件下でのみ発言される言葉だ。子供だった僕はその言葉を何か神聖なものであるように捉えていたのだと思う。これは子供の頃の話である。
なんのことは無い。母の実家に家族が車で訪れた時、父はその言葉を発するのだ。少し成長した僕が父にその言葉の意味を問うてみると、
「ココニハナニモナイカラ」とのことであった。
僕はそれを聞いて考えた。父にとって、何も無い、しかし、母を馬鹿にするために最も効率がよく、語感がよく、使いやすい言葉。それをチョイスした時一番しっくりくるものとして「サロベツ原野」は父の脳内で恐ろしいくらいの倍率をくぐり抜けて選ばれたのだろう。ミス・インターナショナル的な倍率をだ。
母は毎回、自分の実家を訪れる度に繰り返されるその発言に大変な憤慨を感じていたのだろうと、成長してからの僕は思う。しかし父は生涯その発言をそれをやめなかった。
僕はといえば、その頃車の移動の旅に何だか自分でも信じられないくらいにテンションを上げてはしゃいでいた。とても恥ずかしい思い出だ。今思うと、僕は多分当時若干閉所恐怖症だったのだと思う。あの車中の足も伸ばせない不自由な感覚が、僕の少年期には溢れている。その恐怖の訪れの対抗策としてテンションを上げることでなんとか中和しようとしていたのではないかと、今になってそう考えている。
そんな不安定な状態(FFならコンフュ状態、ドラクエならメダパニ状態)で母の実家に向かう車中、父が突然に
「サロベツ原野、サロベツ原野」そう連呼する。
子供の自分がその時、どう考えたのか?それを聞いて何を思ったのか?僕はその当時のことをぼんやりと考えることにした。
子供の僕は「サロベツ原野」が何なのかなんてひとつもわからなかったし、まさか実在する地名だとは思ってもいなかった。僕は「サロベツ原野」それが父の独創だと思っていた。全くの想像の世界だと。
大体「サロベツゲンヤ」聞くだけで面白い言葉ではないか。父の言葉のセンスは素晴らしいものがあったのだろうと改めて思う。加えて僕の地理嫌いというのも無関係では無いだろう。実際嫌いどころか僕は今でも生涯のトップテンに入るくらい地理が嫌いなのだ。意味が分からない。地名も読めない。存在理由が分からない。
そんなこともあり、子供心に父が「サロベツ原野」を発言するたびに、僕の頭の中には想像のサロベツ原野が広がっていった。「サロベツ原野」そこには何も無い。しかしフロンティア精神を刺激する地。ある意味での理想の地。夢のサロベツ原野。
楽園。きっと僕はそんなことを考えていたのだろう。
成人を迎えた後、僕は初めて「サロベツ原野」が実際にあることを知った。北海道のどこだかにそれは本当にあるらしい。僕の夢のサロベツ原野が。
日本は今、北海道以外がすべて海に沈むという危機に犯されている。だから僕は飛行機に乗り込むこの時に、そんなことを思い出し考えたのだろう。しかし、そのことを思い出したときに僕にある迷いが生じた。北海道に行くならきっと僕は実際にその「サロベツ原野」を訪れることになるだろう。その時、僕の夢のサロベツ原野はどうなるのだろうか?全く違うモノだったとしたら?僕の夢のサロベツ原野はどうなる?一体どうなるのか?
もうすぐ搭乗のアナウンスが流れる。
面白いかどうかもわかんねぇです。