貴女の名前
「やっぱり、生きてた」
思遠は、引いた手をもう一度伸ばして、彼女の脈を取った。
最初に触れた時、彼女の体は暖かくて柔らかかった。そこに違和感を覚えていた。
「い、生きているはずないでしょ、あの出血ですよ!」
狐顔官吏は、震える剣先で血だまりを指した。
「見てください、この人、体に殺傷された形跡何もないですよ。服も多少汚れはついてますけど切れてない。多分頭を殴られたとか?」
女の額、右後頭部から側頭部に出血がみられた。
「貴女、名前は?」
「……え?」
起き上がった後、ぼんやりとしていた女は、はっと目を見張った。
不思議そうに、あたりを見回し、緩慢な動きで何度も首をひねった。
「名前?」
「そう、名前です」
思遠は、彼女を安心させるように微笑んだ。
「名前……」
「名乗るのに何か不都合が?」
「……いえ、えっと……ここまで出てきてるんですけど」
女が自らの喉を指さした。
「め、めぇー、えーっと」
「まさか……覚えてない? じゃあ、住んでいた場所とか、なぜここにいるかとかは?」
「なぜ、ここに居るか? なぜ? うーーん、どこかへ急いで、ちゃーちゃー言ってたような」
「馬に乗ってたんだ。移動中に盗賊に襲われたとか?」
「馬だった気がする……悪いやつを追っていたような」
官吏二人は、捕縛した男を見下ろした。
「貴女一人で?」
思遠は、目の前の女を、そこそこ裕福な女だと思っていた。衣の質も高く、化粧も施され、高価な耳飾りが付いている。しかも長い黒髪は艶やかで普段から手入れされていたことがわかる。肌艶も良く、痩せてはいるが健康的な肌肉だ。
とても良い暮らしをしていたことが伺える。
それに何より、上品だが可愛らしい顔は、人目を惹く。左目の下に並んだ、3つのほくろが特徴的だ。
彼女が、そこらへんに捨て置かれていたとは思えない。
どこかの芸妃か、奥方か。はたまた良い所のお嬢さん。思遠が考えを巡らせていると、彼女が思遠の手を掴んだ。
「わぁ……」
「逆に、ここは何処で、今、どんな状況ですか」
「えっ……あー、ここは中原で2番目に大きな都市の……」
「呉疾医! では、もともと事件は無かったという事で良いですかね?」
豚顔官吏が駆け寄って来た。
とても晴れやかな顔で微笑んでいる。昨日の夕方から勤務していた彼らは、突然殺人事件の捜査に駆り出された。
朝と呼ばれる時間も過ぎ、もう昼の気配がする。彼らは、もう帰りたくて仕方ない様子だ。
「無かった……わけではないのでは?傷害事件は確かに起きてますし。そもそも、この血は誰のでしょうかね?この女性の頭から、こんなに血は流れません。ほら、見てください。瘤ができ始めてます。切れたのは少しですね」
思遠は、彼女の髪を少し掻き分けて見せた。
絹糸のような髪が、くすぐったくて、すぐに手を戻し、その手を服でゴシゴシ拭った。
「私、すごく頭が、ずっきん、ずっきんします」
「そうでしょうね。もっと腫れますから冷やした方がいいですよ。 その井戸で水でも汲んで……」
思遠は、立ち上がり、井戸の蓋を手にした。
そして、井戸を覗き込んで、そのまま蓋をした。
「その井戸は枯れてるぞ」
遠くから見ている白髪交じりの男が声をかけた。彼の後ろには数人の男が控えている。貧民窟の顔役で名をはせている男だ。彼らが任侠の徒であることは誰もが知っている。
彼が、水を持ってこいと声をあげると、近くの男が走り出した。
「はい、そうですね。枯れてました。けど……」
「けど?なんだ?」
様子がおかしい思遠に、豚顔官吏が何だ、何だと井戸の蓋を開いて覗き込んだ。
「げっ!」
「……どうしました?」
次に狐顔官吏も顔を突っ込んで、言葉を飲み込んだ。
「?」
気になった、女も「痛てて」と頭を押さえながら、井戸を覗き込んだ。
そして、驚愕した。
「ええ⁉ だ、大丈夫ですか」
井戸の底には、人が倒れていた。
暗くてよく見えないが、数メートル下で人間が一人、倒れている。上半身が下になり、腰が反って足が頭の方まで来ている。まるで糸の切れた操り人形のようだ。
底から上がってくるような冷気に、ぞわりと寒気がして覗き込んだ女の体が震えた。
「も、もしもーし!!ちょっ……い、今、助けに行きますね!」
「待って!多分、この血の主ですし、お亡くなりになってるかと……」
井戸の淵に足をかけた女の肩を、思遠が慌てて掴んだ。
女は、眉を顰めもう一度井戸を覗き込んで、手を合わせた。
「……え? あれ? 私、犯人ですか?」
女は、足を下ろし聞いた。
「いや、どうでしょうか……貴女には返り血が全然ついてませんし、普通、犯人なら逃げるなりするもの……被害者を装うなんてします?」
思遠と彼女の目が、官吏に注がれた。
「あっ、そうだ!不審な男を捕えてます」
「そうだ、そうだ。第一発見者で、不審なあの男だ」
皆の注目を集めた男は、縛られ跪いて、唸りながら上体を揺らしている。
明らかに不審だった。皆がそれぞれ難しい顔をした。
「その男が、騒いで俺たちが駆けつけた。そしたら、その女が倒れていて、あたりは血だらけだ。とっ捕まえて、官吏を呼んだ次第だ」
木に寄りかかり、任侠の男が顎をしゃくった。
「その通り。引き渡しの際に逃げ出そうとしたコイツを、わしが取り押さえた」
豚顔官吏が得意げに言った。
「うー」
「お前がやったんだろ?」
男は大きく頭を動かして、首を振った。
しかし、その手は血がついており、男の胸元にも血がついている。




