壱
《奈落の森》の中を、蒼馬の霊獣が居た。
悠然と佇む其の様は、孤高な気品を漂わせている。
何処から来訪して来たのかは、定かではないが《奈落の森》には、蒼馬の霊獣は生息していない事は確かで在った。
何か目的が在る様では無かった。かと言って、迷い込んで来た様子でも無かった。恐らく自らの意思で、此処へやって来たのだろう。月明かりに、気高き蒼が良く映える。蒼白く暉輝く毛並みは、吸い込まれる程に美しかった。躯に纏った高貴な風格から、位の高さが窺えた。霊獣には、位が在る。
其の序列は上から順に、黒陽、虚月、地白、無幻、朧の五段階位。純粋に序列が高いからと謂って、其の力が強大だと謂う訳では無いが、下位の者は必然的に力が弱い。《奈落の森》は主に、朧に属する霊獣が住まう地で在った。
そして此の世で、最も美しい地でも在る。
色鮮やかな草花。艶やかで、華やかな葉を風に戦がせる木々。泉の水面が、豊かな色彩を奏でていた。
其の泉の上を、朧気な輪郭を纏わせた無数の暉が、浮遊している。赤い煌めき。青の灯火。新緑に輝く炎。仄白い焔。色鮮やかな色彩を放って、美しく輝く其れ等の暉達が、幻想的に舞い踊っている。
其の光景は、此の世の物とは思えぬ程に至極、美しい。
暉の正体は、霊獣で在る。全く害は無い。何の力も、意思すらも無い生命体で在った。
——だが。只々、美しい。
暉達の中心には、泉の守護霊獣が居た。此の地で唯一、黒陽に位置する霊獣で在った。そして霊獣にしては珍しい事に、人の——其れも女の姿をしている。
彼女の名は、セレス。ラテン語では『月の女神』の意を指す。其の名の通りに、彼女は美しかった。
セレスは泉を護る為だけに、此の世に存在している。其れは彼女に能えられた使命からでは無い。自身が望んでしている事で在った。其の高潔な魂は、死して尚も美しい。内に秘めたる在る想いが、彼女を此処に留めさせている。
【生命の泉】と呼ばれる此の世の要所。此の場所には、死と命が蒐まる。
其れが、此の地で在る。命が終わる時、魂は【黄泉の國】へと送られる。
其の魂達は【裁きの門】を通過した時、其々に相応しい場所へと導かれる。咎人の魂は皆、地獄へと送られる。清らかな魂は、霊獣と成って転生の時を待つ事と成る。
早い者で数十年。遅い者でも数百年の時を経て、魂は浄化される。浄化された魂は、暉と成って《奈落の森》へと集まって往く。
そして其の魂は【生命の泉】を通して、新たな生命として現世へと送られる。
「此処は、貴方の来るべき場所では在りません。直ちに、退きなさい」
美しく澄んだ声音で在った。セレスの言葉を意にも介さずに、悠然と佇んでいる。
セレスには【生命の泉】を護る使命が在った。
黒陽で在るセレスの力を以って為れば、蒼馬の霊獣を討つ事は可能で在ったかも知れない。
だがセレスは、争いを好まなかった。平和的に、退いて貰いたかった。
意思の在る者が、此の地に長く留まる事は好ましくない。何故ならば意思を持つと言う事は、其れだけ魔徒に憑かれ易いと言う事で在る。
そして此の《奈落の森》は、魔徒の巣喰う極界の中に存在している。
——不意に、蒼馬の霊獣が動いた。
《奈落の森》の空気を、邪気が侵食していく。
途轍も無く強い邪気が、大気を震わせていた。
争いを避ける事が出来ない事を、セレスは悟った。




