漆
「不味いわね……」
タリムの声が、苛立ちに拍車を掛けた。
左腕に力が、全く入らなかった。ナイフを受けた時は、大した傷では無かった。其れなのに、出血が止まらない。赤黒く変色して、どんどん悪化して往く。こんな事は初めてで在った。毒や呪いの類いでは無い。
此の儘では、死に至る。此れ以上に悪化する為らば、腕を斬り落とさなければ為らない。
「どうやら……奴さんの能力は《貸付》みたいよ。受けたダメージを返さなければ、利息が付く様ね」
「奴を斬らないと、傷の悪化は止まらないと謂う訳か……」
魔徒を追いながら、羅刹は焦りを感じていた。
「タリム。喚装して、奴を追うぞ!」
戦騎の羽根を広げて、羅刹は飛んだ。
飛行には通常よりも力が消費される為、喚装していられる時間が極端に短く成る。猶予は余り無い。
魔徒との距離を、一気に詰める。既に相手は、鬼神化していた。
「せからしかッ!」
二本のナイフを、投げ放つ魔徒。
剣で薙ぎ払う。だが三本目のナイフで、右腕を斬り付けられた。
「其の両腕ば、貰うけん。覚悟しんしゃい!」
構わず魔徒に、斬り掛かる。
剣先には炎を宿していた。羅刹の刃が、魔徒の胴を捉える。……が、ダメージには繋がらなかった。
平然とした表情で、反撃をする魔徒。
醜く肥大化した身体から、複数のナイフを飛ばして来た。
虚を突かれて、羅刹は咄嗟に防御体勢を執っていた。全身をナイフが、五月雨の如く襲う。
ナイフを躱し、払うが、其の内の何本かが羅刹の身体に突き刺さる。
全身に痛みを感じた。此の儘では不味かった。
「何故、攻撃が効かない?」
「貴方が受けたダメージを、相手に返さなければ無駄みたいね。本当に厄介な相手だわ……」
魔徒は又、距離を置こうと逃走を始めていた。
攻撃と退避を繰り返して、此方が自滅するのを待つ心算の様だった。
長期戦に成れば、羅刹に勝ちの目は無かった。受けたダメージの利息が貯まって、死に至ってしまう。其れに、戦騎を喚装していられる時間も、既に残り僅かだ。
非常に苦しい展開で在った。焦りが羅刹の心を、秘めやかに撫で附けている。死のイメージが、羅刹の脳裏を残酷に抉り取って往く。此の儘では本当に、不味かった。策も時間も、皆無と謂うしか無い。
所謂、絶体絶命の危機で在る。
「此の程度の相手に、何を梃子摺っている?」
冷酷な声音が、背後から聞こえて来た。其の声に、敵意は感じられなかった。
振り向くと、其処には香流羅が居た。意外で在った。
雰囲気が、以前とは異なっている。其れに全身を纏う氣の密度が、段違いに濃く成っていた。明らかに、以前よりも強く成っている。
「青丸、奴を討つぞ!」
「イエッサーッ!」
香流羅の声に呼応して、青白い光の鷹が出現した。
香流羅の使役する霊獣は、周囲の氣を取り込んで、みるみると巨大化していった。
巨大化を続けながら、魔徒の元へと凄まじい速度で飛行している。
「人に仇為す魔徒は、此の俺が討ち滅ぼしてやる!」
鷹の霊獣が、魔徒を撃ち貫いていた。
音も無く、魔徒が消滅した。
「戦騎騎士など、必要ない!」
小太刀の切尖を、羅刹に突き付ける。
香流羅に向けられた眼差しは、相変わらず憎しみに染まっていた。
手負いで勝てる程、今の香流羅は甘くは無かった。
「だが……今回は、見逃してやる。此の間の借りが、在るからな」
小太刀を納める香流羅。
「後悔する事に成るぞ?」
「今、お前を斬れば、彼奴に嫌われる」
微かに、香流羅が笑った様に見えた。
少し先の方から、刹那が駆け寄って来る。
「其れは、不味いな……」
羅刹は、苦笑いを浮かべていた。奇妙な感覚で在った。
憎しみが消えた訳ではないが、其れ以外の感情を共に共有している。其れは、刹那へと向けられた想いで在る。護りたい者が、互いの利害を結び附けているのだ。
「だが、忘れるな。何れ、決着は付ける。必ずだ!」
香流羅は去っていった。
何れは、死合う定めに在るのかも知れない。戦騎騎士と《禍人の血族》の間柄は元来、そう謂った物なのだから仕方が無い。
——仕方が無いのは理解っている。
羅刹は刹那を見ながら、短剣を納めていた。




