壱
此の世の中は、金が全てだ。
山村冴子が生きてきた五十年で、学んだ事は此の一点に尽きる物だ。子供の頃から、冴子は劣等感を抱いている。自分と違って、他の子達は可愛らしく見えた。愛嬌が有って、周りの大人達に可愛がられている子供達が、羨ましかった。其れに引き換え自分は、醜い見た目をしている。自分をブスに産んだ両親を、幾度となく恨んだ。
暗い性格に育ったのも、不細工な外見の所為。ブスで不愛想な女の人生は、暗く悲惨な物だ。
誰からも相手にされずに、面倒な事ばかりを押し付けられる。中小企業のOLをしていた時も、クレームの対応ばかりをやらされていた。ブス、不細工、不愛想。そんな言葉を毎日、浴びせられる。もっと酷い言葉も、数え上げられないぐらいに叩き付けられた。正に罵詈雑言の嵐だ。
其の度に冴子は憎悪の心を、内に孕ませていた。
最初の頃は、涙を流していた。其の度に周りの者達は、己を嘲笑っていた。ブスが泣いても、滑稽にしか見えない事を知った。其れ以来、冴子は泣く事を止めた。
代わりに憤怒と憎悪の念を、積もらせた。やり場の無い感情だけが、無残な燃え滓の様に残った。
——今に見ていろ。自分を嘲て見下している全ての人間を、いつか見返してやろうと想い野心を直隠した。其の感情だけが、冴子を支えていた。
冴子が二十五歳の時、一つの転機が訪れる。
生まれて初めての彼氏が出来たのだ。相手の男は、新入社員の若い男だった。高卒で冴えない男で在ったが、真面目そうな外見。直向きな其の姿勢に、冴子は好感を持った。見掛けも平凡で在ったが、逆に其れが冴子には安心感を抱かせていた。もしも此れが、誰もが振り向く色男ならば、敷居の高さに尻込みしていただろう。
仕事に慣れていない為か、事在る毎にミスをしては上司の叱責を受けていた。冴子はそんな男に優しい言葉を掛けて、励まし続けた。自分でも驚く程に、積極的に男に近付いていった。
食事に誘っては、男の事を褒め湛えた。言葉を変え、心を尽くし、男を喜ばせていた。
其の甲斐が在ったのか、程無くして冴子と男は交際を始める。数ヶ月の間は、冴子に取っては夢の様な日々で在る。初めての経験に、感激で胸が高鳴っていた。男の温もりに、心が癒され、幸福の絶頂にいる。生まれて初めて、生まれて来て良かったと感じた。
幸せを知った。
男を知った。
そして、失恋を知った。
——お前みたいな不細工で暗い女、本気で好きになる訳がないだろ。
男の言葉に、冴子の心は深く鋭く抉られていた。
——年上で誰からも相手にされていないから、貢いでくれると思ったのに、見当違いだったな。
男の吐き捨てた言葉に、悲しみよりも、憎しみの感情が込み上げていた。慥かに交際費の殆どは、冴子が捻出している。けれども金額にしてみれば、そこそこと謂った額で在ったかも知れない。だが其れは、冴子の好意で在ったし、金額を問う事でも無い。況してや貢ぐ云々の問題では無い。冴子は只、愛する男に喜んで貰いたい一心で在ったのだ。そんな冴子の恥じらぐ様な乙女心を、男は踏み躙ったので在る。
冴子は涙を流しながら、男に掴み掛かっていた。
——ふざけるな。貴様みたいな男げな、此方から願い下げたい。
そう叫ぶ冴子の表情は、鬼気に染め上がっていた。九州訛りも在ってか、冴子の気迫に押されて男は其れ以上、何も言えなくなっていた。
冴子の心中は、愛憎の蛇が蜷局を巻いている。信頼して全てを捧げ様としていた者の裏切りは、確実に冴子の中の不可侵の領域を破壊して往った。決して修復される事は無い。誰かを愛する事も今後、一切も無い。
男と別れた冴子は其れ以来、誰にも心を許す事は無かった。誰も信用、出来なかった。誰も愛したくは無かった。
此の世界で、頼れるのは自分一人だけだ。近付く者は、全て敵。そう思う様に成っていた。
冴子が三十代半ばの頃に、再び転機が訪れる。
十年前から買い続けていた宝くじが、当たったのだ。其の額は、七億円。冴子が生涯を懸けても、稼げない様な金額。其れがたったの一枚の紙切れと引き換えにするだけで、手に入るのだ。正に行幸で在った。
——人生が一瞬で、一変した。
冴子は糞喰らえな神に、生まれて初めて感謝した。此れで、全てが変わるのだ。自分は生まれ変われる。心の奥底から、鬱積していた感情が込み上げていた。此れまでに自分を見下してきた糞喰らえな連中を、遂に見下して遣る時が来たのだ。誰にも文句は謂わせない。腹の底から笑いが込み上げていた。獣の唸り声にも似た冴子の哄笑が、自分自身の鼓膜を静かに震えさせているのを憶えている。
気が触れたかの様に、冴子は一晩中、嗤い続けた。
金を手にした冴子は、真っ先に高級ブランドを買い漁った。身に纏った物の総額は、一千万円を優に超えている。ホストクラブに行って、数百万円の金を一晩で溶かした事も在った。冴子に取って、サラリーマンの平均年収は小銭に等しく成っていた。金は麻薬の様に、冴子の脳内を麻痺させて往った。心地良く甘美な快楽の中、冴子はホスト達に金をばら蒔いた。
美形の男達が、自分を称賛する。だが、心が埋まる事は無い。愉悦に浸る心の奥底には、積もり積もった憎悪が沈んでいた。幾ら金が在ろうと、復讐を果たさなければ、自分は前には進めない。
冴子は夜遊びを止めて、出社する事にした。元の惨めな生活を送る気は、毛頭ない。
既に冴子は一週間、会社を無断欠勤している。遊び回って、一億円の金を溶かしている。
豪遊する事に飽きた冴子は、男達への復讐を始めた。一週間振りに出社すると皆、奇異と嫌疑の視線を冴子に注いでいた。其れも、其の筈だ。無断欠勤をした上に、ふてぶてしい態度で現れたのだ。着てる服も身に附けているアクセサリー類も、高級ブランドで固めていた。まるで其れは、自分を馬鹿にして見下して来た者達への当て付けの様で在った。
金を切り詰めながら、身の丈に合った生活をする者達は時折、小さな見栄を張る。貧乏人が附けるアクセサリーは、見栄の塊だ。そんな彼等彼女等の見栄を、完膚なきまでに叩き潰して遣りたかったのだ。
——山村君。此の会社に、君の席はもう無いよ……。
いつも強気な山下が、遠慮がちに言った事を今でも憶えている。山下は明らかに、動揺していた。狼狽の色を見て冴子は内心、ほくそ笑んでいた。
以前までならば、自分を罵倒していただろう。弱い者にしか、強く当たれない愚かな男だ。こんな詰まらない男に、自分は今まで蹂躙され罵られて来た。肚の底から憎しみが込み上げていた。
——知っとうばい。其れが、どげんしたと?
小馬鹿にした様に、冴子はせせら笑う。脂ぎった山下の肌を、汗が伝っていた。汚らしい男だ。大した成績も上げられずに、専務の小さな椅子に座るのが精一杯。小生意気な部下の面倒を見ながら、上司の機嫌を取り続ける毎日。面倒な客のクレーム処理に追われ、取引先の接待を夜な夜な熟す惨めな人生。家庭ではどんなポジションに甘んじているのかも、大体の想像が附く。
醜く肥えた山下の髪は、無惨に禿げ上がっている。中間管理職の抱えるストレスが、そうさせているのだろう。だが、そんな事は別に、どうでも良い。
——今日はお前等に、今までの事を謝罪して貰おうと思って、こげんむさ苦しい所に来てやったんばい。
狼狽える山下に、百万円の束をちらつかせる。其の瞬間、明白に周囲の人間が目の色を変えた。金の力は、人を変える。惨めな犬畜生どもに、其れを教えて遣る。
ぎらつく目線が、冴子の手元に蝟集している。皆、金が欲しい。例外など、在りはしない。金が無ければ、惨めに忘れ去られるのだ。冴子の父が、そうで在った。
冴子が中学生の時に、父はリストラに遭った。再雇用の話しも見つからずに、惨めな時を過ごしていた。父は首を吊り、母はスナックに勤める様に成った。冴子は高校生に上がって、アルバイトを始めた。複数のアルバイトを掛け持ち、死ぬ気で金を貯めた。アルバイト先では、陰湿な虐めを受けた。高校も学費が足りなくて、中退した。
だけど、金は冴子を裏切らない。溜めた金で、冴子は自立した。
詰まる処、冴子の人生は金で決まるのだ。
——全裸で土下座して謝罪した者には、百万ばくれてやるたい。
其の場に居る全員が、息を呑むのが解った。
冴子がバッグを逆さまに振ると、中から札束が大量に出てきた。三千万円の現金を、持って来ていた。
其れを見た途端、男達の一人が服を脱ぎ始める。其れを見て又、一人。又、一人と次々に服を脱ぎ始めた。五分も経たぬ内に、男達は皆、全裸に成っていた。高々、百万。其れだけで、人は醜悪な姿を途端に曝し出す。
——なんば、ボサッと立っとるんね。さっさと、土下座ばせんね?
言われる儘に、男達は冴子に土下座をしていた。
快感だった。
今まで自分を馬鹿にして、見下してきた男達が、自分に媚び諂っている。
金の魔力の前には皆、従順な犬畜生に成り下がる。其れがたった今、証明された。
更なる快感を求めて、冴子は金を求めた。金は使ってこそ、なんぼだ。使わなければ廻らない。巡り廻って又、己の元に返って来る。幾ら金を貯め込んでも、金は廻ってはくれない。金の使い方次第で、金は幾らでも増えるのだ。
会社を起こして、金融業を始めた。土地を買って、駐車場も経営した。金に対して貪欲に成った冴子は、みるみると金を稼いでいった。
正に冴子は、金の亡者と化している。
此の世の中は所詮、金が全てだ。
金以外に信用、出来る物なんて何一つ無い。
不細工で不愛想な女が、人以上の幸せを求めるならば、金が要るのだ。
そして自分には、唸る程の金が在る。
——其れなのに何故、こんな目に遭っているのだ。
冴子は、運命を呪った。姿も見えない神を、罵倒して遣りたかった。漸く得た幸せを、神はいつも最悪の形で取り上げる。
「社長が悪いんですよ……。俺の事を散々、馬鹿にしておいて……クビにまでして。……俺、納得してないんですよ」
狂気に染まった顔の山崎が、冴子の胸にナイフを突き立てながら言った。胸の奥が、狂った様に熱い。痛いのではなくて、熱いのだ。まるで、身体の中に熱湯を流し込まれている様な感覚で在る。じんわりと熱が広がり、全身に死が伝って往く。そんな感覚が、冴子の胸中を際立てる。
山崎は冴子が、営んでいる金融屋の社員だった。
大した能力も無くて、人並み以下の仕事しか出来ない男だ。冴子に罵倒される毎日を送り、遂には解雇を言い渡される事と成ったのだ。本当に無能で、糞の役にも立たない男。見てるだけで、虫酸が走る。解雇は正に、正当な行いで在った。
其れなのに山崎は腹を立て、強行に及んだのだ。こんな溝の様な男に、殺されるなんて納得できない。金ならば、幾らでも在る。溝に捨てる程に在るのだ。こんな処で、斃るなんて御免だ。
——死にたくない。
薄れる意識の中で、冴子は想った。
折角、此処まで成り上がったのだ。こんな事で、死にたくはなかった。助かるの為らば、何でもする。
——俺が、助けてやろうか?
冴子は事切れる寸前で、声を聞いた。地獄の底から聞こえる様な、禍々しい声で在った。
——誰でも良い。助けてくれるなら、誰でも良い。
声の主が鬼でも悪魔でも、どちらでも構わなかった。自分が助かるのならば、何でも構わない。
——為らば、俺を受け入れろ。
何かが内に入り込んで往った。気が付けば、傷は塞がっている。
魔徒と成った冴子は、山崎を喰らって狂った様に嗤った。




