伍
幸男は工場の前に佇んでいる。
怪物の姿から、元の姿へ戻っていた。
もうすぐ、永井がやって来る時間で在る。自分と同い年の永井は、社長の息子と謂うだけで、何の苦労も無く工場長の地位を与えられている。其れ故に、重役出勤が黙認されていた。
いつも永井は、就業時間の直前にやって来るのだ。だから、待ち伏せしていたのだ。
工場は山道に面して聳えていて、人通りは殆どと謂って無かった。誰かに邪魔をされる心配も無い。
「もう、来なくて良いって、謂ったろう。何しに、来たんだよ?」
永井が幸男を見るなり、睨み附けてきた。
燃え滾る憎悪を、殺意に結び附けて幸男は嗤った。自分でも驚く程に、冷徹な声音で在る。
「永井。お前を、殺しに来たんだ」
永井を睨み返した。永井の瞳の奥が、僅かに揺れるのが感じ取れる。明らかに、永井は動揺している。そして其れは激しい怒りと結び附いたのか、見る間に険しい表情へと変わっていった。
以前の自分で在った為らば恐怖で狼狽えていたが、今の自分には、恐れる物など何もない。
「上等だよ。俺が、殺してやる!」
幸男の顔面、目掛けて永井は拳を叩き附ける。頬を撃ち衝ける衝撃が、肌を僅かに揺らす。けれど蚊程にも、効かなかった。どうして今まで、こんな奴を恐れていたのか不思議なくらいだ。気付くと自分が、薄い笑みを浮かべているのが理解った。愉悦に満ちた笑みだ。
此れ迄に鬱積した想いを、漸く打ち撒ける時が来た。笑わずには、要られなかった。
「殺してやる」
永井の腕を掴みながら、幸男は呟いた。強く握り込めば、容易に圧し折れそうだ。今の自分は人間の力を、遥かに凌駕している。
彫刻刀で、永井の右目を刺し貫いた。彫刻刀を媒介にして、生々しい柔らかな感触が伝わって来る。永井の眼球が潰れる感触だ。心地良く甘美な手触りで在る。
悲鳴を上げる永井の腹を、蹴り衝ける。加減をしなければ、簡単に絶命してしまう。人間は脆い。
激しく後方へと吹き飛ぶ永井。苦痛に歪んだ表情を、恐怖に染め上げたかった。
直ぐに殺してしまうのは、勿体ない。じっくりと時間を掛けて、甚振って苦しめてやる。自分が味わった以上の辛苦を与えなければ、復讐の意味を為さない。自分はずっと、地獄を生きて来たのだ。其れを理解らせてやる。
倒れる永井の右目を蹴り衝ける。何度も、何度も、蹴り続けた。靴底に触れる感触が、少しずつ柔らかく為って往く。余りにも気持ちが良くて、法悦の笑みが込み上げて来そうだ。愉悦の渦中に浸りながら、永井の顔を覗き込んだ。
右眼球は血に塗れ、グジャグジャになっていた。痛みと恐怖からか、残された左目で涙を流している。良い気味で在る。陶然とした快感が押し寄せていた。とても、健やかな気分だ。自分は今、永井を蹂躙している。殺す事も、其の身をぐちゃぐちゃに破壊する事も、自分の意の儘に行える。こんなに素晴らしい気持ちは、生まれて初めてで在った。
しゃがみ込み、永井の髪を掴み上げる。ぞくぞくする様な快楽が、脊髄を通して全身を充足して往くのが解った。
「許じで下ざいっ。お願いします!」
涙ながらに懇願する永井を見て、更なる欲求が沸き起った。そうか……永井は此れ迄、こんな気持ちで自分の人生を支配して来たのか。そう思うと、快楽で陶酔していた心に、再び憎悪の炎が燈った。もっと苦しめて遣りたい。膨らむ想いを抑え切れなかった。
幸男は彫刻刀を使い、永井の鼻をゆっくりと削いだ。悲鳴を上げながら、ジタバタと暴れ狂う永井。態とゆっくりと、長く、永く、痛みが続く様に削いだ。
堪らなかった。
心地良かった。
鼻を失った永井の顔を、撲り附ける。ぬちゃっ……と、した。拳を舐める永井の血が、生温かい。
ピクピクと痙攣しながら、永井は小便を漏らしていた。未だ未だ、足りはしない。
「失神するなよ、永井。お前への怨みは、まだまだこんな物じゃない」
冷淡な自分の口調。
声に為らない声で、助けを懇願する永井。
幸男は嗤いながら、今度は左耳を引き千切った。
「ほら、此処にエサが在る」
引き千切った耳を、永井の口の中に捩じ込んだ。
「喰え」
永井武に幸男は謂った。
幼い頃から自分を苦しめ続けた永井には百万回、殺しても殺し足りない怨みが在った。どんなに残酷な仕打ちをしても、赦す事が出来ない程の地獄を味わって来た。胸臆で増幅する殺意。此の程度の地獄では、生温い。狂った心には、生半可な悲鳴は届かない。断末魔の叫びですら、心は震えないだろう。
「どうした。喰えよ!」
永井の睾丸に、彫刻刀を突き附ける。押し寄せる欲求が、最高潮を迎え様としていた。
「お前に喰わされた犬の糞の味を、俺は覚えてるぞ。潰されたくなかったら、早く喰え!」
永井はゆっくりと、己の耳を咀嚼して飲み込んだ。既に倒錯する様な快感は、消え失せていた。弾切れそうな憎悪と、身を焼く程の殺意が心を満たして往く。もう、我慢の限界だった。
「こいつ、本当に喰いやがった!」
嘗て自分に向けられた言葉を、そっくり其のまま返してやる。
堪え切れなく為って、永井の睾丸を滅多刺しにした。刺して抉って、刺して抉ってを、繰り返して往く内に心を甘い感触が撫でて往くのが理解った。
睾丸が原型を留めなくなった頃には、永井はショック死していた。
幸男は嗤った。
狂った様に、嗤った。
否、疾うの昔に狂っていた。永井の所為で、幸男の精神状態は滅茶苦茶に狂わされていた。
気がつくと又、怪物の姿に変わってしまっている。
どうやら感情が最高潮に達すると、人間の姿を保つのが困難な様だ。
そろそろ残りの奴等も、殺しに行くとするか。
幸男は工場へと入って行った。




