肆
目が覚めると、冷たいマットの感触に包まれていた。
「……お、起きたな。気分は、どないや?」
「……最悪」
体が怠かった。
頭も靄が掛かった様に重い。
感じた事のない倦怠感に包まれて、無理に立ち上がるとふらついた。
「もうちょい、寝とっても良かったんやぞ。恐らく、初めてのダウンやろ?」
そうだ。自分は目の前の男に、文字通り打ちのめされたのだ。
初めて喧嘩に負けた。
今まで自分が負ける等、想像も付かなかった。其れなのに、六十は越えていそうな此の男に、いとも容易く負けた。
「あんた……一体、何者なんだ?」
「兄ちゃん。ボクシングに、興味ないか?」
興味ならばたった今、溢れ零れるぐらい沸いていた。
「俺に、ボクシングを教えてくれ。強く成りたいんだ」
——そう、誰よりも強く。志穂を護れる強さが欲しかった。変わりたかった。今の自分には、何も無い。人に誇れる物なんて、在りはしない。余りにも無力で、酷く情けない存在。そんな自分に、無性に腹が立つ。人に噛み附く事しか出来ない野良犬。そんな自分に心底、嫌気が差した。
ボクシングを始めて本気で上を目指せば、何か変わる気がした。死ぬ気で頂点を狙えば、何かが見える様な気がした。志穂の為に、強く成りたかった。
己を変える。
強く成る。
志穂を護れる様に——。
志穂に相応しい男に成る。一人前の男に成って、志穂を幸せにする。
「又、面構えが変わったな……まぁ、良い。明日から、毎日五時に来い!」
初めて、男から笑みを向けられた。
と言うよりも、笑みを向けられたのは、志穂を除けば初めてだった。
志穂の時とは又、違った高揚感。多分、嬉しかったのだ。
「有り難う御座います!」
初めて誰かの為に、心から頭を下げていた。必ず報いてみせる。
生まれて初めて、生きる意味を見付ける事が出来た気がした。




