弐
全ての物が気に喰わなかった。
目に映る物全てを、ぶち壊してしまいたかった。幸せそうに歩く人々が、六の孤独を絞め付けていた。そんな六の心を嘲笑うかの様に、宙を雪が舞っていた。心が落ち着かない。どうしようもない不安が、胸臆を渦巻いていた。其れに気付かない振りをした。そうすればする程、孤独な気持ちは肥大化していった。
孤独の寒さに只、震えているだけの自分が酷く惨めに感じる。どうして自分だけが——畜生。心の中で嘆息しながら六は只、闇雲に歩いていた。
「離して下さい!」
直ぐ近くで、女の声が上がった。
視線をそちらに向ける。若い女が、柄の悪そうな三人組に囲まれていた。
「俺等と遊ぼうよ」
「絶対、楽しいって!」
「なぁ、行こうよ」
一様に卑しい笑みを張り付ける男達。嫌がる若い女。ふと、血に塗れ泣き崩れる母の姿が脳裏に浮かんで、六の心を憎悪が満たした。全てがどうでも良く成り、壊してしまいたく成った。押し寄せる衝動に、六は抗う事をしない。
気が付くと、三人組に殴り掛かっていた。ぶち壊していまいたかった。目の前の男達も、現実も——そして、弱い自分自身も全て壊してしまいたかった。
打ち衝ける拳が、じんわりと熱い。其の熱だけが、生を実感させてくれた。生暖かい血の感触だけが、ほんの僅かな間だが、孤独を忘れさせてくれた。気に喰わなかった。全ての物が——何よりも、自分自身が気に入らない。暴力に依存する事が唯一、己の心を護る術で在った。
冷静になった頃には、三人組を一蹴していた。よたつきながら、逃げ去って行く。若い女に目を向けると、力強い眼差しを向けられていた。真っ直ぐな瞳で、ジッ……と、此方を見ていた。
一瞬、息が詰まっていた。胸が締め付けられた。若い女に見詰められると、何故だか心が苦しかった。
其の直後、頬に衝撃を受けた。
一瞬、何が起きたのかが解らなかった。
若い女から、平手を受けたのだ。
「暴力は嫌いです!」
此の時、渇き切った六の心に、僅かな雨が降っていたのかも知れない。
六は若い女に、惹かれていた。だけど、どうすれば良いのかが、解らなかった。其の事が、無性に悲しかった。自分には、傷付ける以外の術を知らない。人との接し方が、解らなかった。だから、何を話せば良いのかも解らない。だけど、関わりを持ちたかった。生まれて初めての感情で在った。
「助けてやったのに、随分と冷たいんだな」
本当は、そんな事が言いたい訳じゃなかった。だけど、言葉が見付からない。酷く自分が情けなかった。
「解ってるわ。だから一応、お礼は言ってあげる。助けてくれて——ありがとう……」
向けられた眼差しが、凍り付いた心を溶かしていた。優しい笑顔が温かくて不意に、涙が溢れそうになった。
「急に黙り込んじゃって、どうしたの……あ、もしかして。私に惚れちゃった?」
無邪気に笑う若い女。
初めて抱く感情に、六は戸惑っていた。心の底から沸き起こる此の感情に、六は抗い切れなかった。
「もしかして、本当に惚れた?」
「惚れた……」
「え……?」
即答する六に、若い女は戸惑う様な視線を向ける。
自分でも、良く解らないでいた。出逢って直ぐ恋に墜ちる等、ドラマや映画の世界での出来事だ。
ましてや、自分がだ。両親に虐待を受けて、愛情を知らずに育った。誰かと交わる事もなく、友達もいない。人を傷付ける事しか知らない。誰からも愛される事もなく、誰も愛する事もなかった。
そんな自分が、一瞬で恋に墜ちたのだ。
信じられなかった。
だけど、目の前の女と関わりを持ちたいと思った。何故だか知らないが、惹かれてしまっていた。
「自分でも、驚いてる。其れに、俺は真面な奴じゃない……」
急に後ろめたくなって、六は顔を背けた。
「貴方の事は知ってるわ。井上六。此の町じゃ、有名だもの。色んな噂を聞いてるわ」
「なら、どうして逃げない?」
「だって……貴方がレザボア・ドッグスみたいで、放っとけなかった」
「レザボア・ドッグス……どういう意味だ?」
「野良犬……けど、狂犬じゃない事は確かね?」
冗談めかした様に笑う若い女。
不意に堪らなくなって、女を抱き締めていた。
「ちょっと……気持ちは嬉しいけど、駄目よ。離して……?」
堪え切れず、六は泣いていた。
悲しい様な、嬉しい様な。不思議な感情が、心を満たしていた。彼女ならば、きっと自分の孤独を理解してくれる。そんな気がした。一方的な想いを、六は打つけていた。人との関わり方が、解らなかった。交わる術を、持たなかった。
「大丈夫……。大丈夫だから……ね?」
六は只、泣き続けた。
融け出した孤独を、全て吐き出す様に只、泣いた。
其れが、伊藤志穂との出逢った経緯だった。




