壱
井上六は、幼い頃から問題の多い存在だった。周囲の人間に溶け込めずに、人を遠ざけていた。孤独を好み、誰とも口を利く事も無い。誰にも心を開かない子供で在った。まるで、何かに怯えている動物の様で、周囲の人間も困り果てていた。
六は人と関わるのが恐かったのだ。触れる事で傷付くのが、恐いのだ。人の心が恐い。交わるのが、恐い。だから六は、誰とも関わらない。
其の背景には、両親の存在が在った。虐待を受けていた。暴力を与え、罵声を浴びせ、六の体と心は傷付けられていった。幼い六は心を閉ざし、人を遠ざける様になった。其のサインは小さいながらも何処かしこに顕れてはいたが、無関心な大人達には届く事は無かった。
そして遂には、事件が起きた。
六が八歳になった頃、両親の仲は劣悪な物となっていた。父が浮気をしていたからだ。其れが切っ掛けで、母は父を殺した。其の場面を六は、障子越しに見ていた。
血相を変えて怒る父は、恐ろしい形相で在った。母の髪を引き、其の拳を母の顔に、何度も何度も打ち衝けていた。血に塗れ、鼻が拉げる母の顔が、苦痛に歪んでいた。幼いながらも、往き過ぎた行為で在る事は理解していた。けれど足が竦んで動く事が出来なかった。幼い六には、声を押し殺して泣く事しか出来なかった。母が殺されるかも知れない。虐待を受けてはいたが、六は母の事が好きで在った。崩れる様にして倒れる母に、父は罵声を浴びせ掛けていた。
一頻り怒声と罵声を投げ掛けると、父は煙草に火をつけた。紫煙を燻らせる父は、母になど興味が無いと謂った様に携帯を取り出していた。電話の相手は浮気相手だったかも知れないが、幼い六に其れを確認する術は無い。ゆっくりと立ち上がる母には見向きもせずに、父は電話の相手に語り掛けていた。六や母には掛けた事の無い様な、穏やかな声音で在った。
母の手には、包丁が握られていた。肉を捌く時に使う様な、出刃包丁で在った。父は全く気付いていない様子で在った。其の事に六は気付いていたが、動く事をしなかった。母の形相は、修羅の様で在った。金属を掻き毟った様な悲鳴とも叫び声とも附かぬ声を上げて、母は父に向かって組み付いていた。握られた包丁は、父の腹に深く刺さっていた。
口を魚の様にパクパクと開く父は、何が起きたのかを、理解が出来ていなかったのだろう。其の後は母が、一方的に父を滅多刺しにしているだけで在った。直ぐに父は絶命していたが、母は何度も何度も繰り返し、包丁を父の身体に入れていた。
軈て疲れたのか、包丁を握る手が力無く降ろされた。呆然と立ち尽くして、暫く宙を見ていたかと思うと、突然——母は涙を浮かべ始めた。そして大声を上げて、泣き出した。
血に塗れて泣き崩れる母を、息を潜めてじっと見ていた。
本当は声を上げて泣きたかった。母の胸に飛び込みたかった。だけど、そうすれば酷い事をされる。きっと母の哀しみや怒りの矛先が、自分に向けられるに違いない。
幼いながらに、六は悟っていた。
だから六は泣くのを堪え、声を抑え、己の心を殺した。
其の日の夜、直ぐに母は逮捕された。母が自分で通報したからだ。
一人残された六は、両親の親戚にも疎まれていた。
結果、六は施設に預けられる事となる。
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六が中学生に上がった頃、随分と明るくなってはいた。他人と会話もするし、笑う事も在った。
けれど、問題が多い存在で在る事には違いなかった。
六は喧嘩ばかりしていた。人を恨み、己を憎むかの様に他人を傷付けた。全ての事が、どうでも良かった。全ての物が、憎かった。幸せそうな町並みが、どうしようも無く六の心を蝕んでいた。だからこそ無意識の内に、壊したく成るのかも知れない。吐き気がする程、此の町が嫌いだった。
全ての物が、気に喰わなかった。
誰も信用、出来なかったのだ。
愛を知らずに育って来たからだ。
そう、六は愛情に飢えていたので在る。孤独の寒さに震えるばかりで、人の温もりを知らないのだ。温かな愛情を知らないからこそ、他者が憎いのだ。
六には、愛が必要で在った。
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高校生になった六は、地元でも有名な不良に成っていた。
誰も寄せ付けず、触れる者全てを噛み殺す。まるで獣で在った。獰猛で他者を食い荒らす野生の獣だ。
誰とも交わる事もせずに只、近付く者を傷付ける。眼に映る全ての者が、六に取っては敵で在った。だからこそ、噛み付いて傷付ける。結局、六は恐いのだ。
——人が恐い。人と交わるのが、恐い。其れは幼い頃から、何も変わっていない事だ。弱いからこそ、恐い。だから孤立する。孤独だからこそ、人が恐い。だからこそ、六には愛情が必要なのだ。
六は人として大切な物が、明らかに欠落していた。どうしようもない渇きの中で、六は何かを求める様に喧嘩に明け暮れた。他者を傷付けながら、他者を求めていたのかも知れない。
そんな六の人生と心に、劇的な変化が訪れたのは、高校を卒業して直ぐの事で在った。




