漆
昭久は焦っていた。
平然を装ってはいたが、髪の所為で体内はボロボロだった。身体の中を、無数の虫が蠢いている様で在った。激痛が常に迸り、身悶えそうだった。
計り知れないストレスを感じた。全身を、厭な汗が撫でていた。此れが、恐怖と謂う物なのだろう。生まれて初めて感じる其の感情に、苛立ちを覚えていた。
こんな事は初めてだ。とにかく此の髪の呪いを、どうにかしなくてはならない。其の為には、原因を取り除く必要が在る。
つまり、皆川一乃を始末すると謂う事だ。併し其れは、至極困難で在った。
今の皆川一乃は、化物だ。其れもとんでもない化物で在った。並大抵の事では、殺す事は出来ないだろう。
神話の中でペルセウスが、メデューサの首を切り落として殺している。皆川一乃も神話の様に、首を切り落としてしまうしかない。
だが一体、どうすれば良いのか思い附かない。策を練る時間はなかった。今こうしている間にも、体内の髪が臓器を蝕んでいる。耐え難い苦痛だった。まるで獰猛な蟲が、体内を貪り喰っている様な激痛と不快感が常に在る。立っているだけが、此れ程に迄も辛いのは初めてで在った。
正直な事を言うと、発狂してしまいそうだ。不意に、妙な笑いが込み上げて来て、唐突に笑っていた。自分でも不気味な笑い声で在った。余りにも滑稽で在る。
「東山先生……?」
背後から声を掛けられ振り向くと、御法院刹那がいた。
彼女は昭久の通う私立晴明女学院の生徒だった。
御法院刹那も又、以前から目を付けていた生徒の一人で在る。全身を切り刻んで、其の純真無垢な心を恐怖に染め上げたい処だ。だが、今は其れ処ではなかった。
「どうしたんですか……。全身、傷だらけで。其れに、酷い火傷っ……!」
心底、心配そうな表情が又、邪念を唆らされる。全身をナイフの刃で、愛撫したかった。ゆっくりと切り刻みながら、じっくりと絶望を味わわせたかった。ねっとりと、恐怖を植え附けてしまいたい。どうやら欲望の方が、苦痛を遥かに上回っている様だ。痛みを一時的に忘れていた。
慌てて駆け寄る御法院刹那。優しく触れた手が、白く輝いている。其の瞬間、どういう訳か体内から痛みが消えた。
「一体、君は何をしたんだ……?」
痛みが、体内を這い廻る髪の感触が、綺麗さっぱりと消滅した。しかも、傷と火傷も全て癒えていた。
御法院刹那が、呪いを浄化させたとしか考えられなかった。
だが、当の本人も困惑している。
「矢張り、何者にも私を止められない。運が……此の東山昭久に味方している!」
「東山先生……?」
突然、笑い出した昭久を、怪訝そうに御法院刹那が見ている。
彼女は使える。だが、皆川一乃だけではなく警察も、そろそろ自分を捜し出す頃合いだった。警察官が二人も死んだのだ。
今頃、警察側は昭久を重要参考人か、下手したら犯人として捜索するに違いない。
「此方へ来い!」
乱暴に御法院刹那の手を引いて、昭久は歩き出した。
「東山先生、痛いっ……」
「私は今、化物に追われている。お前には、協力して貰うぞ」
人気の無い廃ビルへと歩を進めながら、昭久は淡々と語り出した。
「訳在って、化物に追われている。どうやら、お前には化物の力を中和する力が在る様だ。皆川一乃を始末するまでは、丁重に扱ってやる」
全て方が着いたら、堪能させて貰うとしよう。柔らかな其の肌を、ケダモノの様に蹂躙してやる。御法院刹那——此の町の最後の獲物に相応しい少女で在る。
「私は其の化物を知ってる。そして、化物を滅ぼす者の存在も……だから、落ち着いて下さい!」
強い意志の宿った瞳をしている。益々、支配したく成ってくる。
廃ビルの奥へと入っていく最中に、遠くからサイレンの音がした。
「ちっ……。もう、警察の方が来たか。だが、運は私に味方している」
今、確かに御法院刹那は言った。
化物を滅ぼす者の存在を知っている——と。為らば、そいつを利用しない手はない。
「東山昭久、大人しく投降しろ!」
刑事らしき男と複数の警察官が、拳銃を突き付けて来た。
「御法院君、実は私は殺人鬼なんだ。全てを片付けたら、君も優しく切り刻んであげるよ……ふふふ」
御法院刹那の耳元で囁きながら、ナイフで頬を撫でる。刃先を目玉に突き立てながら、静かに嗤った。此の儘、眼球を抉り出してしまいたい。残された左目で、涙を流しながら喪失感に侵されて往く様を見たかった。想像しただけで、全身を得も謂われぬ快感が突き抜けて往く。だが今は、遣るべき事が在る。
今、此の空間を支配しているのは自分だ。何故なら、総ての事態を把握しているのは自分だけなのだから——。
「東山、ナイフを捨てろ!」
安っぽい台詞を吐く刑事らしき男。全く、つまらない男だ。一切の興味が沸いて来ない。
「嫌だ、嫌だ……ふふふ。君達、気を付け給えよ。もう既に、奴は来ているぞ?」
「何を言っている、貴様!」
叫ぶ刑事らしき男の背後で、悲鳴が上がった。精々、暴れて貰うとしよう。事が済んだ後の闘争ルートを、確保しなければ為らない。其の為には、警察官が邪魔で在った。
一同の視線が、悲鳴がした方へ集まっている。
「そうら……。メデューサの御出座しだ!」
高笑いを上げる昭久。皆川一乃には、咬ませ犬に成って貰う。今の内に喰い荒らすが良い。
次々に石化していく警官達。皆、一様に恐怖に歪んでいる。
「誰にも、邪魔はさせないわよ。其の男を、私に寄越しなさい!」
メデューサさながらの化物に出会して、刑事らしき男は声を失っていた。そして、瞬く間に石化していった。
彼よ是よと謂う間に、全ての警察官が石化してしまった。そして皆川一乃は、此方を見ていた。
「何故、其の小娘は石にならない!」
困惑する皆川一乃。矢張り、運が味方してくれている。
御法院刹那を連れて、更に廃ビルの奥へと向かった。
——必ず、逃げ切ってみせる。




