参
御影町に殺人鬼が引っ越して来たのは、半年程前の事だった。殺人鬼の名は東山昭久。
人を殺す事に生き甲斐を感じ、異常な性癖を持った男で在った。幸福で穢れを知らない様な、そんな純真無垢な少女を恐怖に満たしたい。柔らくて美しい肌を、傷付けて蹂躙したい。操を奪い、希望を奪い、己の存在を絶望と共に植え付けたい。
昭久は支配欲の塊で在った。
幸せな人間が、気に入らなかった。美しい物は、汚したかった。ドラマの中に出て来そうな、幸せな家庭は壊したくなる。今まで十人近くの人間を殺してきた。数え切れぬ数の人間を、絶望の淵に突き落としてきた。貪婪に、己の欲望を満たしてきた。けれども、湧き上がる欲求は、枯渇を識らなかった。一定の周期で、心が疼いた。だからこそ、自分の行いの残滓を持ち帰っていた。
身体の一部や所持品を、蒐集した。其れ等の事を思い出しては一人、悦に入っていた。其れでも誰かを蹂躙したいと謂う欲求が、抑え切れない時期が在る。
此の半年間で、昭久は五人の少女を殺した。六人の人間を、絶望の底に突き落とした。孰れも弄び、蹂躙した。身体を滅茶苦茶に切り刻んだ。
——心地良かったなぁ。清々しく、晴れやかな境地に至れる唯一の一時。何者にも犯す事の出来ぬ領域に、自分は土足で踏み躙るのだ。堪らなく爽快で、痛快で在った。愉悦に浸り、法悦に包まれ、至高の快楽の中で射精しながら穢れの識らない若い女を切り刻むのだ。
マンションの一室で、半年前の出来事を思い出していた。
初夏の風が薫る中を、淑やかで、清純そうな女が歩いていた。年の頃は二十歳程か。昭久の視線と心は、女に釘付けに成っていた。直ぐに後を付けて、家を調べた。優しそうな両親がいて、幸せそうで在った。だから、真っ先に両親を殺してやった。眠る女に跨がり、其の事を鮮明に話してやると絶望と哀しみに涙を濡らしていた。思いっきり殴り衝けてから、ナイフで体を切り附けてやった。じっくり、ゆっくり、ねっとりと痛め附けて、弄んで、楽しませて貰った。透き通る様な、綺麗な髪を引き千切らなかったのは、失敗だった。持ち帰って、蒐集にすれば良かった。
昭久の部屋には、色んな女の体の部位がホルマリン漬けに成っていた。
常軌を逸している。
其の事を、昭久は理解していた。だからこそ、犯行を実行する際は、細心の注意を払ってきた。
此の町も、もうそろそろ潮時だった。
今の職場には、魅力的な獲物がごろごろ居たが、最後に一人、支配してから此の町を出る事にしよう。
昭久は呻く様に笑い出した。
——が。唐突に、呼吸が出来なくなった。
喉の奥に異物が埋め込まれたかの様に突然、息が詰まっていた。一体、何が起きているのか、理解が出来ない。昭久の頭を混乱と焦りが埋め尽くしていた。
——苦しい。息が出来ない。
慌てて口を開き咳き込もうとするが、得体の識れない何かが、喉を埋め尽くしている。
昭久の顔面は、涙と汗と涎と洟に塗れている。
焦りと混乱が、苦しみと恐怖を招いている。
堪らなく成って、昭久は喉の奥に指を突っ込んでいた。
指先に触れる感触。
其れは、髪だった。
髪の感触に間違いない。何とか指を絡めて、引き摺り出した。
指に纏わり付いた其れは、矢張り髪で在った。
もう一度、喉の奥に指を突っ込んで残りの髪を引き摺り出す。二度、三度と繰り返した途端、呻き声と共に嗚咽が込み上げる。大量の髪を嘔吐する。貪る様に酸素を吸い込み、昭久は何とか呼吸を取り戻した。口の中は甘酸っぱい味と何とも謂えない髪の感触が埋め尽くしていた。一体、何が起きたのかを考えるが、訳が解らなかった。
一先ず台所へと向かい水道の蛇口を捻る。
口を濯いで、サッパリしたかった。考えるのは、其れからだ。
「何だっ……?」
突然、部屋の電気が消えた。
蛇口から、手が離れなかった。と言うよりも、全身が動かせなかった。
何かが身体中に纏わり付いている。先程と同じく髪だと悟った。じっとりと、冷や汗が湧き出るのが解った。全身が締め付けられた。
物凄い力で在った。
「呪ってやる……」
不意に、声が聞こえてきた。
口の中にも、髪が侵入している。ゆっくりと、ねっとりと髪が口内を埋めていく。喉の奥にも浸食ってきた。
嗚咽を洩らし、涙を溢し呻いている。
「呪ってやる……」
再び、声が聞こえてきた。
声に聞き覚えが在った。と言うよりも、自分が手に掛けた獲物だ。
忘れる訳がない。
——皆川一乃だ。
しかし、何故だ。何故、今さら皆川一乃が現れる。
逡巡するが、呼吸をしていない所為で頭が回らない。先ずは脳に酸素を取り入れるのが先決だった。此の儘では、窒息死してしまう。
此の儘では不味かった。
必死で藻掻こうとするが、全身を髪で縛られている所為で、身動きが取れなかった。
意識が段々と朦朧として、眩暈がしてきた。
此の儘では、本当に不味かった。
脳に酸素を送り込まなければ………呼吸が、出来ない。真面に思考が纏まらない。気分が悪い。吐き気はするが、吐瀉物が髪に痞えてしまって、胃液だけが唾液と共に垂れて往く。苦しい……が、どうにも為らない。視界が掠れ、意識が薄れて往く。こんな処で、死ぬのか…………此の東山昭久が、こんな処で——死ぬ筈が無い。唐突に、思考の狭間に割り込む様に、自分自身の『声』が聴こえた。其れは、意識の底から聴こえた。決して自分は死なない。根拠は無いが、確信が在った。死の際に立たされて、成せる術は何一つ無かったが、確信が在った。
「気を失う事は、赦さないわ!」
意識が飛ぶ瞬間、髪を吐き出した。否、吐き出させられたと謂うべきか。だが矢張り、自分は死ななかった。死のイメージが、浮かばない。此処では無い。此の東山昭久の死に場所は、此処では無いのだ。幼き頃の記憶が、脳裏を掠める。大好きだった妹の顔が浮かぶが、其れを振り払う様に、辺りを見渡した。
どうやら皆川一乃の目的は、自分を殺す事ではない様だ。別の目的を感じた。
昭久は直感的に理解していた。幽霊とかそう謂った類いの物を、全く信じてはいない。だが今現在、起きている事態は、皆川一乃の怨念に依る呪いなのだ。
其れだけは理解、出来た。
「私に復讐するつもりか?」
「お前を呪ってやる。殺して下さいって、懇願するくらいに苦しめて、苦しめて、苦しめ続けてやる!」
皆川一乃の表情は、どす黒い怨みに染まっていた。
初めて出逢った頃の神聖なる純白さは最早、何処にも在りはしない。そして、皆川一乃を染め上げたのは、紛れもなく自分なのだ。
そう思うと笑いが込み上げてきた。
「何を笑っているの?」
「随分と滑稽だな、皆川一乃。私が憎くて仕方がないんだろう?」
態と挑発する様な言葉を投げ掛ける。ほんのちょっぴりでも、動揺してくれれば自分のペースに乗せる事が出来る。
昭久は肺一杯に酸素を吸い込んだ。
そして——
「誰か、助けてくれ。殺される。助けてくれ!」
叫んでいた。しかし、其の表情には焦りの色は無い。
「貴方、何を考えているの?」
怪訝な表情で問う皆川一乃を無視して、昭久は叫び続けた。
時刻は午前の五時半を回った処だ。こんな早朝にマンションの一室で叫べば、隣室の住人が通報する事は間違いない。
「嫌だ、嫌だ。ふふふ……何を焦っているんだい。お前は、絶大なる力を手に入れたのだろう?」
不敵な笑みを浮かべる昭久。
「一体、どういうつもり。助けを求めても、無駄よ。何処に逃げても、私は貴方を必ず追い詰めて、苦しめてあげる。こんな風に——」
昭久の口内に髪が侵食していく。
気道を塞ぎ、呼吸を妨げる。だが、昭久に焦りの色は窺えなかった。其れ処か、余裕すら感じられた。
殺すのが目的ではない。苦痛を与え、生地獄を味わわせる事こそが、皆川一乃の望みなのだ。決して、殺されはしない。
昭久は直感的に理解していたのだ。
だからこそ、無呼吸の苦しみに耐え、平然を装った。間違っても、弾みで殺したりはしない。何故ならば、其れだけの憎しみを皆川一乃は抱いている。
昭久には確信が在ったのだ。
——とは言え、此の儘では不味い事には違いなかった。
何とかして、此の状況を打破しなくては為らなかった。
苦しみの中、昭久は思案に暮れていた。
だが、必ず切り抜けてみせる。自分は今まで、どんな困難も退けてきた。
何者にも、此の東山昭久は止められない。




