弐
御法院家の地下には、龍脈が流れている。龍脈とは、大きな氣の流れで在る。氣は川の様に流れていて、氣が集まるポイントには土地神が宿る。
御法院の一族は、神と契約した《禍人の血族》で在る。
神の眠る祠を、家屋の地下に奉っていた。
暗闇の祠の中で、香流羅は座禅を組んで眼を綴じていた。神は気紛れで在る為、妄りに姿を現さない。神に認められ、其の力と眷属を与えられたとは言え、容易に謁見する事が出来ないでいた。
だからこそ禅を組んで一向、待ち続ける以外には無かった。
待ちながら、香流羅は戦騎騎士の少年の事を考えていた。戦騎騎士と相対するのは初めてで在ったが、手強い相手だった。此方の手の内を全て曝け出した訳ではないが、まだまだ底が見えない。軽く手合わせしただけだが、かなりの修羅場を潜っている事が窺える。
今の儘では、恐らく勝てないだろう。戦騎騎士を斬るには、新たな力が要る。其の為には、神に請わねば為らない。《禍人の血族》で在る我等は、此れまでそうして力を得て、生き存えてきたのだ。其の為に支払った対価は、決して安価な物ではなかった。
《血の定め》も《地の掟》も、背負うには余りにも重い荷では在った。だが、此の世に生まれた時から与えられた宿命で在る。
何人たりとも、犯す事の出来ない領域で在った。戦騎騎士は、必ず斬る。先刻の少年には怨みはないが、掟で在る以上は抗う訳には往かない。其れに——戦騎騎士には、個人的な怨みが在った。
決して赦す事の出来ない怨みが在る。
香流羅は目を見開いていた。其の瞳には、憎悪の光りが色濃く灯されている。
「香流羅よ、良くぞ参ったな」
香流羅は眼前に、神の気配を感じた。
其の姿こそは見えないが、辛うじて神の輪郭を捉える事が出来た。並々ならぬ力を発する神は、此の世に具現化すれば大気を歪ませ龍脈に亀裂を齎し兼ねない。
故に神は、不用意に出現する事は無い。
「戦騎を繰る者が、現れた様だな?」
「はい。先刻、刃を交えました」
「今の儘では、勝てぬか?」
全てを見透かされていた。己の未熟さ故、勝てない事は承知している。
だからこそ、力が要る。
「私に、神威の使用を許して下さい」
「——ならぬ」
宝刀【神威】は、神が生み出した破邪顕正の刃だ。
御法院家が、神に授かりし刀。如何なる魔で在ろうと、其の一振りで無へと帰す力を持っている。
其の力を以ってすれば、戦騎と言えども斬る事が出来るだろう。
「神威は、伝家の宝刀。今の貴様では、触れる事すら赦されぬ。更なる修練を積み上げ、力を得るが良い」
「此れは?」
香流羅の前に、二冊の巻物が現れた。
「【天涯の書】と【人外の書】だ」
刹那、香流羅の顔色が明らかに変わった。名前ぐらいは、姉から聞いた事が在る。
二冊共、禁忌の書で在った。
御法院の始祖、最初に神と契約した男が書き記した奥義書でも在る。
御法院の歴史の中、幾人もの猛者達が挑み、命を落としてきた。
「必ずや会得するのだ。そして、騎士を斬れ」
戦騎騎士を斬る。其れは、神が課した《地の掟》で在る。
「私は騎士を赦さない。曾て在の男に斬られた傷が、今でも痛むのだ」
神は曾て、戦騎騎士に斬られた。以来、神は戦騎騎士を等しく怨んでいた。所謂、逆恨みでは在るが、神が課した掟で在る以上は守らねば為らない。元より戦騎騎士は、魔徒よりも憎むべき対象だった。
必ず此の手で、斬る。
愛する者達を護る為には、力が必要だった。
御法院家の当主として、一族を護らねば為らない。
巻物を手に取り、香流羅は決意を固める。
「必ずや、会得して参ります」
頭を深々と垂れて、香流羅は神に誓いを立てる。其の瞬間、香流羅の全身を凄まじい重圧が包み込んだ。
吹き出る汗。
——が、凍て附く様な寒さを感じた。
沸き上がる恐怖。得体の識れない何かが、全身に浸潤するかの様だった。震えが止まらない。自分の意思で体を動かす事すら、儘為らない。突然、無重力の空間に放り込まれた様に、立ち位置すら覚束無い。あらゆる感覚が、麻痺して往くのが解った。そう——此れは、死の恐怖だ。選択を過てば、命を落とし兼ねない。
畏れを懐きながら、顔を上げる。
神が此方を見ていた。とても美しい女の姿をしていた。
其の双眸から発せられる重圧に、肢体を押し潰されそうに成った。
「其の言葉、違える事は赦さぬぞ」
冷やかな声。
震える大気。
「畏こまりました」
暫しの沈黙の後、神が静かに微笑んだ。其の刹那、心が和らぐのが解った。安堵しているのだ。
だが其れが、命取りに繋がる事を刹那の後に悟らされた。
「直ぐに警戒を解いては、いかんな。隙だらけだ」
刀の切尖が、香流羅の喉元に在った。
優しく突き付けられた神の刃が、香流羅の命を静かに撫でる。
「申し訳、御座いません……」
香流羅は心底、恐ろしかった。殺される事がではない。
殺意を向けられているのに、心が癒されているのだ。心が蕩々(とうとう)と安らいで往く。其の事実が、どうしようもなく恐ろしくて堪らなかった。
「安心するが良い。ほんの戯れだ。儂は眠りに就くとしよう」
そして、神の存在が消えた。
震えと汗が止まらなかった。




