壱
美しい髪の女が居た。
艶の在る漆黒の髪で在った。
柔らかで、甘い香りを漂わせていた。櫛で梳けば、滑らかに通る事だろう。良く手入れがされている。見る者の心を魅せ、甘やかに惑わせる。其の顔立ちも、端正で美しく華が在った。
然しながら、女には愁いが窺えた。翳りの在る其の佇まいが、内に秘めたる想いを物語っている様で在った。年の頃は二十歳そこそこ。其処此処に、切り傷や痣が垣間見えた。
女の名前は、皆川一乃と謂った。
幼い頃より優しい両親に育てられて、成人を迎えるまで穢れの一切を知らずに生きてきた。
「呪ってやる……」
心の奥底から絞り出したかの様な悪意が、其の声や言葉には籠められていた。披瀝された憎悪が、其の言葉に蒐められていた。
「呪ってやる……」
掠れた声。美しい容姿からは想像も附かぬ様な、嗄れた声音。其れはまるで、死の際に座す老婆の最期の言葉で在るかの様に、悲壮な嘆きの言葉にも聞こえていた。
怨みに染まった眼は赤く充血している。怨みに染まった毒気の在る双眸。女は呪文の様に同じ言葉を、延々と繰り返していた。
「呪ってやる……呪ってやる…………」
只、髪だけが鈴と美しい色を奏でている。怨嗟の濃さが、髪に宿った様に美しかった。
半年前、皆川家に一人の男が忍び込んで来た。三十代半ばの男で在った。男は一乃の両親を殺し、一乃の体をナイフで切り刻んだ。一乃の操を奪い、金品を持ち去って行った。未だに男は見付かっていない。以来、一乃は心を閉ざした。人との関わりを避けた。
一乃の両親は生命保険に入っていた為、多額の保険金が降りた。贅沢さえしなければ一生涯、働く必要がない額で在った。一乃の縁者は挙って、一乃の元を訪れた。悲劇に見舞われた一乃を同情するかの様に、悼辞を述べるが、孰れも本心では無かった。皆、金に目が眩んだ様な表情をしていた。
両親の葬儀で参列した親族達に、怨みの言葉を打つけた。
一乃の目には、金目当てのハイエナにしか映らなかったのだ。怨み辛みの籠った罵詈雑言を受けて、当惑する者や怒りを顕わにする者も居た。だが血相を変えた一乃の姿は、異常な雰囲気を漂わせていた。蓬髪姿で異様に眼を血走らせていた。皆、黙り込んだ。異常な空気を纏わせた一乃は、既に気が触れていた。固唾を飲んだ一同に向けて、呪いの言葉を放っていた。
以来、一乃は孤立した。
心を侵され、体を穢され、両親を殺された。其の怨みの色は深く濃い。清廉潔白な一乃の心は、毒気に染まっていた。真っ白な半紙に墨汁を打ち撒けた様に、一乃は憎悪の黒に染まっていたので在る。
人を避け、一乃は部屋に籠った。犯人の男を一向に呪い続けた。
「呪ってやる!」
己の髪を編み込んで作った人形を、男に見立ててナイフを突き立てた。何度も、何度も——。
一心不乱に、一乃はナイフを振り降ろした。
一乃の怨みはまるで、美しい毒で在った。甘やかで、艶やかで、漆黒に彩られた髪の様に、心に絡み附いては離さない。
——男が憎かった。心底、憎かった。
殺す等と謂う生易しい物ではなかった。自ら死にたくなる程の苦しみを与え続けた儘、生かし続けたかった。
死ぬ事は赦さない。
のうのうと生きる事も赦さない。
無限の生地獄を味わわせてやりたかった。呪詛を籠めて、一乃はナイフと髪を振り乱し続けた。
——ならば、妾が毒を授けてしんぜよう。
何処からか、女の声が聴こえてきた。
低い声だった。
一乃は只、ナイフを握る手を止め、辺りを窺うだけで在った。焦りや驚きは、微塵も見せなかった。そう謂った感情は、疾うに失われていた。
——ほう、微動だにせぬか。中々、肝が据わっておるわ。
声の主が誰で、何処に居ようが、然したる問題ではなかった。
一乃に取っては、そんな事はどうでも良かった。
「貴方、在の男の居場所が解るの?」
恐ろしく冷ややかな声だった。以前の一乃は、もっと温もりの在る声音をしていた。其れが今では、すっかり温度を失っている。
憎しみ以外の感情を、一乃は失ってしまったのだ。
——妾の力を以ってすれば、其の男に地獄の苦しみを与える事等、容易い事じゃ。
其の言葉に、一乃は目を見開いていた。
「良いわ。貴方の言葉を信じる」
全く感情の籠らぬ言葉を、声の主に向ける。
——ならば、妾を受け入れるが良い。
其の刹那、一乃の中に何かが入り込んでいた。
とても素晴らしい高揚感に包まれて、一乃は半年振りに笑っていた。




