漆
「もう直ぐ、私の名前が世間に知ら占められる。そうなれば、お前に楽をさせてやれる!」
勲は満足そうな笑みを、妻に向ける。穏やかな妻の表情が堪らなく愛おしい。二度と失いたくはなかった。此れからは、妻には幸せに成って貰わなければ困る。
先日、書き上げた作品は、紛れもなく最高傑作で在った。間違いなく、世に知れ渡るで在ろう名作だ。必ず、妻を幸せにしてみせよう。
——私はもう、充分に幸せですよ。
「何を言う。此れからも、もっと幸せにしてみせるさ」
楽しそうに笑って、勲は珈琲を口元に運ぶ。芳醇な薫りが、鼻腔に広がる。程良い苦みの奥に広がる濃密な薫りが、幸福な一時を誘い込む。
此の店の珈琲は、偉大なる大作家をも唸らせる代物で在る。
店の雰囲気も厳かな静けさを秘めていて、好感を懐く事が出来た。こうして妻と共に、珈琲を嗜む時間が何よりも心静かに成れる遑で在った。
其れなのに、邪魔をしようとする輩がいる。
「小僧、戦騎騎士か?」
——全く。昨日の若造爾り、目の前の小僧爾り一体、自分を誰だと思っているのだ。
此の空間は気に入っている。
出来得る限りは壊したくはないので、場所を変えなければいけない。
勲は立ち上がった。
「特別に相手をしてやるから、ついて来なさい」
命ずる儘に従って、小僧はついて来た。
人気のない裏路地で向かい合う形で、勲は静かに口を開いていた。
「小僧よ、本は好きかね?」
「そんな物には、微塵も興味はない!」
——愚かな答えだ。矢張り、ガツンと解らせてやらねば為らん。
勲は拳を放っていた。其れを小僧は左手で巧く受け流している。端緒から無粋な小僧で在る。不意に込み上げる怒りから、勲は叫んでいた。
「愚か者がぁ!」
拳の勢いを殺さずに半身を捻って、左の裏拳を小僧の顔面に叩き込んでやった。慥かな手応えを感じた。真面に自分の拳を受ければ、決して只では済まない……筈だった。
「随分と軽い拳だな?」
余裕の表情を浮かべる小僧。全く意に介していない様子で在った。
——小癪な奴だ。
「ならば、今度は本気で叩き潰してやろう」
勲は鬼神化すると、言の葉を繰り出した。熾に為るまで、燃やしてやろう。
勲の周囲を廻る言葉の珠には其々、力が籠められている。
——言霊。其れが勲の持つ能力で在った。
言葉の珠に刻まれた文字を見た者は、其の言葉通りの事象に見舞われるのだ。
『燃』の文字を、小僧に投げ放つ。
物の見事に、小僧は言霊を見ていた。が、何故か言霊は小僧を通り抜けて、不発に終わっていた。
そんな馬鹿な事が在る筈がない。
きっと、何かの間違いに違いない。
もう一度、言霊を小僧にぶつけてやる。
——が、何事も起きなかった。
「もう、終わりか?」
「ふざけるなぁ! 私は……私は——」
——偉大なる大作家だ。
こんな処で、終わる筈がないのだ。




