陸
鼻腔を擽る不可思議な薫りが、羅刹の足を止めさせる。
羅刹は初めて嗅ぐ其の薫りに戸惑っていた。自分が生まれた時代には、無かっ薫りだ。
不快ではなかった。寧ろ其の芳醇な薫りに、強く魅せられている自分がいる。何故だか知らないが、興味を唆られた。不思議と心が和らいでいる。
刹那に半ば強引に連れられて、喫茶店と言う如何わしい茶屋へ足を運んでいた。最初の内は面倒だと感じていたが、店先から漂う薫りを嗅いで、羅刹は考えを改めた。此の薫りの正体を知りたかった。
「どうしたの?」
不思議そうな顔で、此方を窺う刹那。其の表情は、奇異に満ちていた。どうやら此の時代では、珍しい物では無い用だ。
「此の薫りは……一体、何だ?」
真顔で問う羅刹。其の表情は真剣、其の物で在る。
「珈琲の薫りだけど。もしかして……飲んだ事、ないの?」
刹那が不思議そうに、問い掛ける。穢れの一切を知らないと謂った瞳が、余りにも澄んでいた。覗き込む様に、此方を見ていた。心の奥底が騒つく様な感情から、逃れる様にして眼を逸らした。
「ない」
言下の内に、刹那が声を上げていた。
「どうして、笑う?」
此方を見て笑う刹那を見て、不思議な感情を覚えていた。
其の感情に戸惑いながらも、羅刹は刹那に手を引かれて喫茶店へ入った。刹那の手の温もりが、心地良いと感じていた。不思議だった。闘う事と憎しみ以外の感情を、自分は識らない筈だった。
其れなのに、刹那と居ると心に平穏が訪れるのだ。
「いらっしゃいませ!」
店に入ると、自分と同じ年くらいの若い売り子が出迎えた。見た事もない、西洋の衣服を身に着けていた。其の面には、人懐っこい笑みを張り附けていた。
「刹那、来てくれたんだ。そっちの彼が、例のイケメン君?」
「何だ、知り合いか?」
「うん。彼女は萌。私の友達よ。……で、こっちの仏頂面が、羅刹」
何故か不機嫌そうな顔で、刹那は売り子——萌を窺う。
「さぁ、奥へどうぞ!」
案内された席に着く。
「珈琲とか言う奴をくれ」
「アイスとホット、どちらになさいますか?」
「あいす……其れは、何だ?」
羅刹には、萌の謂っている意味が理解できなかった。刹那と同様に、萌が笑う。不思議な感情が、心を満たしていた。けれど其れは、不快では無かった。
此方を愉しげに見詰めながら、萌は再び問い掛けて来た。
「冷たいのと、温かいのどちらが良いですか?」
今度の問いは、直ぐに理解できた。
「温かい奴をくれ」
「畏まりました。刹那は、どうする?」
刹那に向けた表情から、懇意の仲で在る事が理解った。
「私もホットが良いな」
「了解。じゃあ、待っててね!」
去り際に、萌は刹那に何かを耳打ちしていた。其の表情は、悪戯を企む子供の様で在ったし、刹那が赤面しながら何かを喚いていた。
其の様子を、不思議そうに羅刹は見ていた。本当に、不思議な感覚で在った。とても穏やかな感情に満ちていた。心地良い薫りと、温かな空間が羅刹の中で、何かを氷塊させていた。其の感情に戸惑いはしたが、居心地が良かった。
——直ぐ近くに、魔徒が居るわ。
唐突に、頭の中でタリムが囁く。店に入った時から、僅かにだが魔徒の気配を感じてはいた。だがもう少しだけ、此の不思議な『温もり』に触れて居たかった。そう思う事自体が、自分でも不思議で在った。
羅刹は無意識の内に、魔徒に意識を向けていた。
「もうすぐ、私の名前が世間に知ら占められる。そうなれば、お前に楽をさせてやれる!」
真向かいの席に一人で座る老人が突然、叫び出した。周囲の人間は皆、怪訝な顔をして老人を見ていた。
「成る程。あいつか……」
——どうやら、其の様ね。どうするつもり?
「まずは、珈琲とやらを飲んでからだ」
飲まなければ、後悔する様な気がした。純粋に、珈琲に興味が在った。
「もしかして又、魔徒が出たの?」
耳元で刹那が、囁く様に問う。
「あそこの爺さんが、そうだ」
「まさか、店の中で暴れないわよね?」
「さぁな。其れは、爺さん次第だ」
「あぁ〜! 二人して囁き合ったりしちゃって、刹那ったらぁ!」
何故か妙に愉しそうに、萌が此方を見ている。刹那は何故か頬を赤らめていた。盆に乗せた飲み物を、萌は差し出してきた。黒色の不思議な飲み物で在った。珍妙だが、何故か心を惹き立たせる薫りがした。
其の薫りを鼻腔いっぱいに楽しんでから、珈琲を飲んだ。
芳醇な薫りと円やかな苦みが、口内を仄かに刺激する。今まで味わった事のない物で在った。
「うん……」
羅刹は満足そうに頷くと、静かに立ち上がった。
「直ぐに終わらせて来る」
刹那は何も言わず只、頷いていた。
珈琲が冷める迄には、決着をつける心算だった。




