壱
韻を踏み、言葉を切り結ぶ。美しい言葉も、醜悪な言葉も、皆等しく愛でる。
言葉は物書き(われわれ)に取って、道具で在り、武器で在り、親愛なる友で在る。
物書き(われわれ)は、物語を喰らう。物語を観るでもなく、聞くでもなく、読むでもなく、喰らうのだ。喰らった物語は、物書き(われわれ)の血と成り、肉と成る。
言の葉を紡ぐ作業は、事の他、容易い。だが、物語を書き上げるのは思いの他、困難だ。想い描いた物語は、生き物と成り、呼吸を始める。物書き(われわれ)は、物語を言葉で捕らえなければ為らない。一度、見失えば物語は意識の底に沈み、息を潜める。成りを潜めるのだ。
物語は物書き(われわれ)の経験を糧として、実体を得る。
部屋の片隅で、老人は筆を走らせていた。老人の名前は、藤堂勲。名も無き作家で在る。作家と言っても、本を出した事は一度もない。勲の存在を識る者は、誰一人としていない。此れまでに公募に出しては、落選を重ねて来た。一度として賞を取った事も無い。
其れでも勲は、偉大なる大作家と成る気でいた。成れると確信していた。尤も、其の確信は盲信でしかない。詰まる処、勲に才能は無かった。
近々、大作を書き上げて、己の名前を世に知ら占める。そう豪語して既に、半世紀程の時を要している。
己には、使命が在る。貫くべき信念が在る。必ず己の名を膾炙させて、作品を世に知ら占める。偉人達に名を連ねてみせる。己の言葉で紡いだ物語は、人々を魅了して已まなく成る。そう、必ずだ。時代が己を必ず導くのだ。
いつも勲は、妻に言い続けていた。勲の妻は辛抱強い女で在った。勲の言葉を信じる訳ではないが、疑いもしなかった。只、勲の好きな様にやらせていただけだ。甲斐性が無く、稼ぎも少ない勲に、文句の一つも謂わずに附き従い続けた。
三十年もの間、妻は勲に寄り添い続けた。勲を支え続けていた。其の根には、忍耐の二文字が在った。尤も、其の忍耐を拗らせた結果、妻は死んだ。
死因は過労で在った。昼夜を問わず働いていた。昼間は近所の飲食店で、週五日のパート。深夜には、二十四時間営業のスーパーに務めていた。週三日で在ったが、九時間の労働を熟している。そして朝夕には、碌に眠らずに勲の世話を焼いていた。明らかなオーバーワークで在ったが、妻は不平不満を募らせる事は無かった。
勲はそんな妻を心から愛していたし、妻も同様の想いを通わせていたと信じていた。誰よりも妻を愛していた。其の想いに嘘偽りは無かった。
妻を失った勲を、果てしない悲しみが襲った。勲は悲しみに抗う様にして、筆を走らせた。己には、偉大なる大作家に成る使命が在ったからだ。
使命がなければ、疾うに勲は妻を追って死んでいる。出来る事ならば、妻と共に死にたかった。しかし、己には使命が在る。大作を書き上げなければ為らない。間もなく最高傑作が完成する。作品の名は『人生は娯楽や』と言う。此の作品は、文学界の革命的作品となるだろう。現在の文学は殆ど全て、口語体で書かれている。しかし『人生は娯楽や』は違う。己の編み出した新しい文体で描かれている。
口語体とは、説明文・地の文・台詞。此の三つの文で出来ている。明治時代の文学では、言文一致体が主流で在った。当時は言文一致運動が盛んに行われていたのも在って、言文一致体は世間に瞬く間に広まった。
言文一致体を簡単に説明すると、先程に述べた説明文・地の文・台詞の三つの文が、全て一緒くたになった文体で在る。其の為に、我々が日常会話で用いている言葉に極めて近い。
己が作った新しい文体は、此の二つの文体を兼ね合わせた物で在った。日常会話の言語に極限まで近づけた結果、方言との相性が非常に良かった。故に関西弁と組み合わせる事で、其の効力を高めたオリジナルの文体で在る。独特な語り口が、独自の世界観を創り出す画期的な文体だった。
人生を賭して書き上げた大作で在る。身命を賭して生み出した渾身の一作で在った。
其れが、間もなく完成する。
執筆は今の処、順調で在る。物語に綻びは無い。読者に欺瞞を与える事も無い。読む者を必ず魅了させてみせる。
只一つ、問題が在るとすれば、妻がいないと言う事だった。唯一にして、最大の問題で在った。
妻を、心から愛していた。己の心を、悲しみの杙が減り込んで往く。心の臓を激しく撃ち貫かれる様な痛みに耐えながら、勲は黙々と筆を走らせ続けた。決して手を止める事は無かった。既に書くべき事は、最後の一字まで定めていた。妻への想いに胸を掻き乱されながらも、勲は物語を書き殴り続けた。
妻には苦労を掛け続けていた。大作を書き上げて、世間に名を轟かせる。最高傑作を生み出して、大きな賞を取って、重版を重ねる。刊行物は飛ぶ様にして売れて、そうして得た金で、妻を喜ばせたかった。楽な暮らしをさせて、心労を労ってやりたかった。妻の欲しい物を与え、妻のしたい様にやらせたかった。妻を、幸せにしてやりたかった。誰よりも本当に、妻を愛していたのだ。
妻を幸せにしてやりたかった。途方も無い悲しみが、心を穿とうとしている。だが勲は、決して涙を流さなかった。涙と共に、大切な物が全て流されてしまうからだ。溢れる想いは全て、筆に籠めてきた。悲しみも、悦びも、妻への愛も何もかも全て、渾身の想いと共に物語に乗せた。そうする以外の術を、勲は持ち合わせていなかった。
黙々と勲は、筆を走らせ続けた。其の行為は決して堅実では無かったし、現実的とは言い難かった。けれど、立ち止まる訳には往かない。自分には前にしか道が無い。只々、一向に、遣るしか無い。研鑽と編纂。諦観と探訪の連続で在った。
もう、間も無くだ。本当に、もう間も無くなのだ。
必ず結実させてみせる。でなければ、妻は浮かばれない。犬死で終わらせて堪るか。
妻を愛している。其の妻の死に報いなければ、彼の世で妻に合わせる顔が無い。
——私は充分、幸せでしたよ。
不意に何処からか、妻の声がした。そんな馬鹿な事はない。妻は、既に死んでいる。妻の声が聴こえる筈がない。恐らく、幻聴で在る。
己自身が生み出した衒人に、耳を貸す訳には往かない。
勲は構わずに、筆を走らせた。
——貴方は、幸せでしたか?
幻聴に耳を貸す気はなかった。耳を貸せば、立ち直る自信がなかった。妻の声や言葉に甘え、使命を放棄してしまいそうだった。
万年筆を握る手に、思わず力が入る。
既に原稿は、最後の頁に差し掛かっていた。自然と頁を走らせる手に熱が入る。間もなくだった。
間もなく完成する。
そうなれば、半世紀以上にも及んだ悲願が達成される。執筆に人生を捧げた。妻さえも、犠牲にした。もう、後には退けない。必ず、成し遂げる。己には、使命が在る。
偉大なる大作家に、必ず成ってみせる。其の一心で、筆を傾け続けた。
完成した原稿を見て、勲は満足そうに頷いた。
「幸せだったに、決まっているじゃないか。私は、お前を心から愛していた。もう少しで、お前の元へ逝ける。間もなくだ。間もなく、私の使命は果たされる。其れまで、私を待っていてくれないか?」
勲は、幻聴に初めて返事を返した。
幻聴は、妻が死んでから直ぐに聴こえてきた。十年間、勲は幻聴を無視し続けていた。
——ありがとう。
幻聴が、勲の心を優しく撫でた。
勲の眼前に、妻の姿が浮かび上がる。恐らく、幻覚だ。勲は涙を流していた。妻の死後、初めて流した涙で在った。
幻覚で在ろうが、構わなかった。
勲は妻を抱き締めていた。懐かしい温もりと、込み上げる愛おしさに堪え切れずに、勲は嗚咽を漏らした。




