玖
鼻腔を擽る異臭に刹那は、目覚めていた。鼻にこびり附く様な、厭な臭いに胃液が逆流しそうだった。何かが腐った様な、獣の様な匂いで在った。
一般的な台所に横たわる様にして、倒れていた。確か自分は、病院に居た筈だ。
次第に鮮明に成る意識と共に、刹那は状況を飲み込んだ。
——自分は、何者かに拐われたのだ。
病院の廊下で会った在の男から、魔徒の気配を感じた。慌てて周囲を見廻すが、男の姿は見当たらなかった。
鼻を附く異臭が、胃液を逆流させていた。異臭の元に目を遣ると、ガスコンロの上で鍋が煮え滾っていた。
赤黒い塊が溶けている様が、厭な物を連想させて刹那は嘔吐した。一体、何の肉なのだろう。想像するだけで、悍ましい気分にさせられた。
「刹那ちゃん、逃げて!!」
脳裏に響くタリムの声。
邪悪な気配が、近付いて来るのが解った。直ぐ近くに居る。背中に厭な気配を感じて、刹那は振り向いていた。
「お目覚めですか、お嬢さん?」
底無しに冥い瞳が、此方を覗き込んでいた。
「刹那ちゃん……彼は魔徒じゃないけど、気を付けて!!」
男の手には、メスが握られていた。
薄く張り付いた笑みが、薄気味悪い。突き抜ける悪寒。魔徒以上に、瘴気を漂わせている。人間の厭な部分が蝟集したかの様な、酷く醜い表情を張り付けている。男は明らかに気が触れている。足が竦んでいた。逃げなければ為らなかった。だけど、動けないでいる。
気付いた時には、男は刹那に目掛けて凶刃を放っていた。




