弐
夢の中で香流羅は、曾ての自分を見ていた。霧が掛かった様な意識の中に、幼い自分の姿が浮かび上がっている。無様に泣く事しか出来ないでいる。無力で、酷く情けない。心の奥底から、どす黒い感情が沸き起こって来る。
無力だった自分を、どうしても赦す事が出来ないでいた。もしも在の時に、力が在ればどんなに良かった事だろうか。そうすれば、あんな想いを味わう事も無かった。己の哀しみを喰らう憎しみの蛇が、心臓を締め付けている様な錯覚を起こしながら囁いている。全てが憎い。魔徒を滅ぼせ。戦騎騎士を斬れ。弱い己を赦すな——。如何なる手段を用いてでも、強く成らなければ為らない。
感情が加速するに伴って、意識が鮮明に為って往く。後悔と共に、哀しみの記憶が蘇る。忌まわしき記憶だ。
幼い自分に取って、父は憧れの存在で在った。強く偉大だった。
優しく大きな父は、いつも自分を抱き上げて謂っていた。
「香流羅よ……強く成れ。誰よりも強く成って、家族を護るのだ」
其の言葉からは、力強い意思と、深い優しさが感じられた。父の其の眼からは、温かい暉が伝わってきた。
父は自分の誇りだった。自分も父の様に、強い男に成りたかった。其の一心で辛い修練に、挑んでは幼い躯を酷使し続けた。優しくも厳しい父の背に、追い付こうと努力に想いを重ねた。
父を誰よりも尊敬していた。父は元々、戦騎騎士で在った。天界より遣わされた騎士で在る。魔徒を討つ為に現世に降りて、其処で母と出逢ったと死んだ祖母から聞いた。《禍人の血族》と戦騎騎士の婚礼は、古い歴史の中でも例は少なかった。そんな二人が結ばれるには、多くの障害が在っただろう。実際、両親の結婚に神は大層、激怒していたらしい。其の辺の詳しい事情は今では神以外は知らない。
神と父との間に、如何なる契約が結ばれたのかも香流羅には知り得ない。
当時の香流羅は物心がついたばかりの幼子で在る。香流羅の記憶には、優しい父の姿が鮮烈に残っていた。強くて逞しい父。自分の目標とし、敬み親しみ尊敬していた。誰よりも父に近付きたかった。
——其の父が、自分の目の前で母を殺した。香流羅の胸を熱い物が込み上げていた。憎しみと哀しみが綯交ぜに成った感情は、幼い自分を容易に狂わせた。父を恨み戦騎騎士を憎んで育って来た。憎悪の感情が、自分に力を与えてくれる。香流羅は、幼い自分を睨み附ける。其の先には、父の姿が在った。
暗黒に染まる鎧に身を包んだ父は、狂気に染まった表情で母を見下ろしている。恐怖に歪んだ儘、事切れた母の傍らで幼い香流羅は泣きながら父を見上げた。
優しかった頃の面影は、少しも残されていなかった。邪悪に歪んだ表情。深い哀しみと、絶望の闇が、幼い香流羅を包み込んだ。
強かった父が魔徒に憑かれているのが、信じられなかった。
振り降ろされた小太刀が香流羅に触れる寸前、父の胸が背後から大剣で貫かれた。
其の刹那、香流羅の中で大切な物が、音も無く瓦解していった。ビデオのスローモーションの様に、時が制止している。風が秘めやかに、絶望と共に香流羅を撫で附ける。憎しみの種が、父の血を養分に確りと育って往くのを香流羅は確かに感じている。ゆっくりと長い永い年月を掛けて、香流羅の心を狂わせて往くのだ。もう決して、元には戻らない——戻れない。香流羅の心も、父も母も、全ては闇の中だ。
無惨に崩れ落ちる父を見て、香流羅は狂った様に哭き叫んでいた。全てが憎かった。どうして父は闇に墜ちたのだ。赦せなかった。母を殺めた父を赦せなかった。だが、父を殺した光の騎士も同様に赦せない。其れ以上に無力な自分が、何よりも赦せなかった。
金色に暉耀く鎧を纏った騎士が、悠然と佇んでいた。
憎悪に染まった瞳から、零れ堕ちる涙。呪詛に染まった言葉を喚きながら、香流羅は騎士に斬り掛かろうとした。其れを、姉の砂羅が止めた。
父を狂わせた魔徒の存在が、堪らなく憎かった。
父を殺した戦騎騎士が、どうしようも無く憎かった。
——そして。何よりも、何よりも、無力な自分が憎かった。
気が付くと、香流羅は目覚めていた。其の双眸には、涙の代わりに憎悪の灯が浮かんでいる。
必ず強く成る。常に其の一点だけを、見続けていた。怨みを晴らすには、力が要る。ガイアの数珠を喪ってしまった以上、新たな力が必要で在った。父が死ぬ間際に放った術は、戦騎を在る場所へと送る為の物で在る。其の場所を特定する事は至極艱難で、光の騎士には回収する術が無かった。そう、神から聞かされた事が在る。場所までは知らされていないが、確かに父の纏っていた戦騎は、今も御法院家の手の届く場所に在る。
場所は神にしか解らないが、間違いなく存在する。
強く成る為ならば、何にでも縋ってやる。必ず、強く成ってみせる。
憎悪と共に、香流羅は闇に消えた。




