玖
——怖い子やなぁ。殺してしまおかな?
遠い記憶の底から、声が聴こえて来た。
出狗が札付きと成る以前の記憶だった。未だ幼くて、弱い頃の自分だ。此の頃と今の自分——果たして、何方が強いだろうか。取り留めの無い問いが、心を過ぎった。随分と滑稽な疑問で在った。問うまでも無い。出狗は記憶に身を委ねながら、眠りに落ちて往った。
其の二人は、狂気と共に訪れた。
人気の無い路地とは言え、白昼から人が斬り殺されていた。身形からして、二人が武士では無い事は解っていた。武士で在っても、江戸の町人を斬れば罪を咎められる。切り捨て御免が通る道理は、此の町には無かった。其れなのに、男達は血を纏って嗤っている。狂気の沙汰を問う迄も無く、男達は狂っている。
転がる複数の骸を踏み付けながら、男の一人が口を開いた。
「兄さん、見られてしもたね?」
其の口振りからして、二人が兄弟で在ると言う事が窺えた。二人共、端正な顔立ちはしているが、能面を纏った様に温度を感じなかった。
顔は共に嗤ってはいるが、冷たい眼をしている。
「ほな、斬ってしまおか?」
冗談めかした様に、兄の方が嗤った。
どうやら二人は、関西の出で在る様だ。
出狗は偶々、此の惨劇に出会しただけで在る。だが其の胸中には、怒りの炎が赫と燃え上がっていた。
人の命をまるで、虫螻の様に扱っている。出狗は本来、正義感の強い子供で在った。其れ故に、畜生にも劣る行いが赦せなかった。
腰に差した短刀二刀を抜刀して、兄の方に飛び掛かった。
人を人とも思わぬ不届きな輩は、此の手で成敗してやる。其の幼い正義感が、出狗の人生を大きく歪ませる。
返す刀で短刀二刀をあしらって、男は出狗の足を払った。
転倒する出狗に、刀の鋒を向ける。
何が起きたのかが理解、出来なかった。剣の扱いを習熟している筈の自分が、意図も容易く地に伏せている。全く剣が見えなかった。如何なる技を用いていたのか、理解の届かぬ領域に在った。次元の違う強さを前にして、訳の解らぬ恐怖を感じていた。
——そう。出狗は生まれて初めて、心の奥底から恐怖を感じたのだ。
「怖い子やなぁ。殺してしまおかな?」
笑いながら、此方を見下している。
斬られる事に、恐怖は無い。其の筈だった。譬え命を喪ったとしても、初めから覚悟の上で在った。其れなのに、自分は男に恐怖を抱いている。其の事を直感的に、理解していた。
だからこそ、歯痒かった。必死に恐怖に抗う様にして、怒りの炎を心に焚き附けた。でなければ、恐怖に全てを呑まれてしまう。
無力な己に憤慨しながら、男を睨み付けていた。
「そないに、怖い表情せんとって。命請いするなら、勘弁したるわ」
「巫山戯るな。誰が貴様なんかに、請うかッ!」
「ほな、此処で死ぬんか?」
研ぎ澄まされた刃の様に、凍て付いた視線を寄越す。
「さっさと、斬れば良いだろうが。此の腐れ外道がッ!」
「せや。皆、わいの事を、外道丸って呼ぶんや。わいに取って、最高の賛辞やで」
けらけらと嗤う男。
「兄さん又、おもろい事、考えとる顔してるわ。坊主、大人しく命請いしとった方が、幸せやったんとちゃうか?」
弟の方も、此方を嘲る様に嗤っている。
憤慨しながら、出狗は向けられた刃を払って跳ね起きた。
——刹那、後頭部に鈍い衝撃を受けた。
「可哀想な事、するやっちゃなぁ……。折角、起き上がったのに又、倒れてしもたやん」
「せやかて……僕も此の子、虐めた成ってしもたねん」
嘲り嗤う二人。
「まぁ、良ぇわ。此奴の家族、滅茶苦茶にしたろうや?」
「兄さん、其れえげつないなぁ!」
「せやろ。絶対、おもろなるで!」
——巫山戯るな。
怒りが腹の底から、沸き上がっていた。恐怖は相変わらず、心の深い部分を撫で附けている。
怒りで震えているのか、恐怖に怯えているのかも理解らない。
「巫山戯るなッ!」
込み上げる怒りが、出狗を覚醒させていた。少なくとも、今の自分を突き動かしているのは怒りだ。
迫り来る短剣を払い退けて、飛び起きていた。間合いを取って、出狗は夷蕗竟を睨み附けていた。
束の間で在ったが、夢を見ていた様だ。忌々しい過去を思い出して、怒りが出狗を満たしている。
「随分、寝起きが悪い様だな?」
夷蕗竟を睨み付けながら、出狗は叫んでいた。
まるで獣の様な、咆哮で在った。
獣刃の構えを取りながら、唸り声を上げ続けた。
何時の間にか、短刀二刀を逆手に持っていた。先程の昏倒が原因で在った。構わずに、出狗は間合いを詰めていた。
右の短刀を斬り上げる。其れを夷蕗竟は、短剣で受けていた。
身体を捻り、廻し蹴りを放つ。が、躱される。胴が、瓦落空きだった。不思議な事に、感覚が研ぎ澄まされていた。此の土壇場で、出狗は新たな境地を見出そうとしていた。
左の短剣を横に薙いだ。
「随分と見違えたな、小僧ッ!」
此処に来て初めて、夷蕗竟の笑みが消えた。其の瞳の奥には、焦りが在る様にも思えた。
逆手に持ち替えた事に依り、出狗の剣速が格段に上がっている。
偶然にも、出狗の獣刃が進化を遂げたのだ。
「ガルム、喚装だッ!」
漸く見えて来た勝機だった。
此の儘、一気に押し切ってみせる。
戦騎の力で、出狗の身体能力は更に跳ね上がる。
加えて夷蕗竟は、先程の一撃で負傷していた。
極界の炎を召喚する。全身を纏う炎。其の炎が己の怒りと結び付いて、業火と成った。
其の黒い炎の揺らめきが、陽炎と成って相手の間合いを狂わせる。
——戌咬弐天流・歩法術【糸游】を繰り出していた。出狗の残像が、無数に出現して、夷蕗竟を取り囲んだ。
「今の俺の剣を、見切れるのか?」
唸りを上げながら、出狗は飛び掛かっていた。短刀を左右に撃ち分けている。
夷蕗竟が短剣で払うが、空を斬っていた。捉えたのは、残像だ。
無数の斬撃が、夷蕗竟の躯を斬り刻んでいく。獣の連撃が、最強を誇る男を窮地に追い込んで往く。
「此の儘、噛み殺してやるッ!」
止めとばかりに、出狗の短刀が夷蕗竟の胸を貫こうとしていた。
——が、寸前で止まっていた。戦騎の盾に、阻まれていた。気付けば夷蕗竟の身体を、戦騎が纏っている。互いに二度目の喚装と成る。連続喚装は、体力を著しく消耗させる。勝負を長引かせる訳には往かない。其れは相手も同じだ。
厭な気配を感じた。
「どうやら……お前の事を少々、見縊っていた様だ」
後方に飛んで、出狗は間合いを取った。
雰囲気が突然、急変したからだ。
どうやら、何やら奥の手を隠している様だ。
何が来ようとも、今の自分ならば対処し切る自信が在った。
誰が相手で在ろうとも、決して負けはしない。
「俺が何故、最強の戦騎騎士で在るのかを……今から、お前に解らせてやる」
其の表情は、血に飢えた獣の表情で在った。気高き獣が漸く、其の本性を顕わにしようとしている。空気が異様に重い。圧し潰される様な重圧を感じて、身体が強張っていた。
張り詰める様な空気を纏わせて、夷蕗竟はゆっくりと口を開いていた。
「レオン……獣化喚装だ!」




