伍
菴が出狗に斬り掛かろうとした瞬間、周囲の空間を捻じ曲げて無数の邪気が出現していた。
何時の間にか、周囲を魔徒が取り囲んでいる。皆一様に金属質の身体に、獣の姿をしている。其の動きは矢張り、何者かに依って統制が取られている。一体、何者だろう。
尤も相手が何者で在ろうが、今は関係ない。
「邪魔をするなぁッ!」
叫び猛りながら、菴は魔徒に斬り掛かった。漸く、見付けたのだ。憎くて憎くて、殺したくて堪らない程に憎い兄が、漸く目の前に現れたのだ。
鋼よりも遥かに堅い衝撃が、刀を通して伝わって来た。
刃が全く通らない。だが、退く訳には往かない。此の程度の事で、兄を前に退ける訳が無かった。
——逃げながら、此方に来い。
神楽の言霊が、頭の中に流れて来た。
神楽と契約して、菴は《禍人の血族》と成った。神楽を通して、菴は力を得ている。故に神楽との距離が、菴の力を左右している。神楽から離れれば離れるだけ力は弱まるが、近付けば其の力は強く成る。尤も近付けば純粋に強く成る、と謂う程には単純な事でも無い。神楽と契約して、己の内に眠る魔徒の力の制御が出来る様に成った。此れまでに喰らった魔徒の力を制御して、自由に引き出す事が出来たが、其れなりに制限が在る。其の力を純粋に振るう迄は叶わない。
神楽から離れる事に依ってタガが外れれば、更なる力を得る事も出来る。尤も其れは、闇に墜ちる事を意味する。尤も望ましくない方法だが、強く成るには最も手っ取り早い。
僅かな惑いが、甘く菴の心を撫で附ける。
魔徒を斬るには、更なる力が要る。神楽との合流が必要不可欠なのは、火を見るよりも明らかで在った。
だが、直ぐ近くに兄で在る出狗が居る。四百年にも及ぶ因縁に、漸く廻り逢えたと言うのに、未だ力が及ばない。
憎悪の念が、菴の心を焼いていた。其の感情に、全てを委ねれば魔徒としての本性が顕れる。そうなれば、後戻りが出来なくなる。だが其の見返りとして、強大な力が手に入る。
——御願いだ……菴。心まで魔徒に成るな。私は、お前を喪いたくない。
憤る菴の心を、神楽の言葉が諫める。
風に流れる詩が、優しく心を撫でて往く。
記憶の糸が解れ、菴は遠い過去を思い出していた。
幼い頃の——遠い過去に、菴は出狗に斬られて絶命していた。
其の今際の際に、魔徒の声を聞いた。
甘く囁く其の声は、朦朧とする菴を惑わせるには充分で在った。
両親を殺めた出狗を斬る為に、菴は魔徒と成った。
其の躯を蝕まれて、心を魔徒に侵されながら、菴は詩を聴いた。其の詩は、菴の心を鎮めていた。気が付くと菴の目の前には、一人の少女が居た。
——お前も全てを喪ったのか。
虚ろな眼差し。其の透き通る様な声には、何の感情も含んでいなかった。
——憐れな少女よ。魔徒と成って騎士に斬られる前に、私と契約するが良い。お前を救う事迄は叶わぬが、共に生きる事は出来よう。魔徒に蝕まれる躯を、温かな光が包み込んでいた。
心を浄化されて、菴は涙を流していた。
少女——神楽に出逢ってから、四百年もの時を共に生きて来た。
「解ってる……私は、お前に感謝している」
気が付くと菴は、出狗に背を向けて、神楽の元へと駆けていた。




