壱
神峰史華は、自他共に認める天才で在った。
成績は常にトップ圏内。容姿は淡麗で、素行も良い。スポーツも万能で、正に欠点が無い完璧な人間で在る。
彼女が発する言葉には、不思議な説得力が在った。美しい凛とした声は、人の心の正鵠を射抜き、甘く魅了して止まなかった。魅せられた者は皆、一様に武陵桃源の地に立たされたかの様に、夢心地の表情をしている。
周囲からは常に、羨望の眼差しを注がれていたし、畏れられてもいる。洗練された美に彩られた容貌は、他の追随を許さない。史華は旧態依然を良しとはせずに、常に己を練磨していた。連綿と受け継がれて来た美の観点を捨て、独自の手法を取り入れていた。
其れは『食』に重きを置く事で在った。生き物は食べる事に依って、其の状態が大きく左右される。其れは、美容に関しても例外では無い。
例えば大豆イソフラボンは女性ホルモンで在るエストロゲンに似た働きをして、肌を美しく保つ事で知られている。ワイン等に含まれるフラボノイドには殺菌作用の他に、血中コレステロールを低下させる効能が在る。食べる事に依って体調を整える事は、漢方に於いての『薬食同源』にも通ずる思想で在る。食べると謂う行為は薬を飲む事と同じだと謂う考え方で、古くから脈々と受け継がれて来ている。
そして其の考え方は、史華を更なる段階へと導いた。
『美しい』と謂う事は、強さと密接に繋がると考えていた。自然界の『捕食者』は、強いからこそ弱者を喰らえるのだ。力の儘に蹂躙する様は、美しい。野生の熊やライオンは、強いからこそ獲物を捕らえる事が出来る。悠然と佇む優雅な『捕食者』は、強いからこそ美しいのだ。
史華が初めて彼等に魅せられたのは、七歳の頃だった。神峰財団の総帥で在る父は、史華にも頂点で在る事を幼い頃から義務付けた。強さを学ばせる為に、サバンナに幼い史華を向かわせた。勿論の事だが、護衛の者は附けさせた。併し其れは、最小限の物だった。極限状態の中、幼い史華は必死に生きる術を探った。其の中で、史華は『捕食者』に出逢った。
ライオンの群れが、一匹のシマウマを捕らえていた。物悲しい瞳で遠くを見詰めるシマウマの喉元に、其の雄々しき牙は無慈悲に突き立てられていた。其の様は美しく雄弁に、史華の心に語り掛けていた。強く在る事の必要性。美しく在る事の必然性。其の時に史華の中で、価値観——アイデンティティーや『魂』の在り方が、厳かに決定していた。
幼いながらに、自分自身も『捕食者』と為る事を誓っていた。以来、史華は狩りを嗜む様に為った。
狩りには、最低でも五人。多い時には、二十人以上の部隊を編成した。皆、狩猟に長けた者ばかりで在った。そして仕留めた獲物の脳を、其の場で食した。
国内外を問わずに、史華は実に様々な『捕食者』を喰らいに行った。肉食獣の脳は皆、例外に漏れる事なく苦く其の奥に、ほんのりとした甘みを含ませていた。
——強者の脳を喰らう。
其の行為こそが、魔性の『美』を授けたと史華は信じていた。強者を喰らうからこそ、自分は誰よりも美しい。
史華には、確信が在った。
そして史華は、どんな些細な事ですら、等閑にはしなかった。あらゆる学問の習熟に励み、身体も鍛えた。其の一方で、女性らしい美の追求も怠らなかった。女性本来の魅力の一つに、身体の柔らかさが挙げられる。詰まる処は、程良く脂肪を残す様に身体を練磨したのだ。程良く太り、程良く鍛える。必要な筋肉は附けるが、残すべき箇所には脂肪を留める様に意識した。
そうして作り上げた身体は、妖艶な色香を帯び始めた。そして、多くの人間を魅せた。
だからこそ、史華は孤高で在った。別次元の存在で在るが故に近寄り難く、其の美しさには畏れが附き纏った。
在る者達は、史華を天使と形容した。美しく聡明で、神の寵愛の全てを受けた存在と比喩した。
史華の通う私立晴明女学院は、富裕層の家庭に育つ所謂、お嬢様が集まる学校で在った。
生徒の大半は品行方正で、其れなりの教育を施されていてプライドが高い。
そういった者達の心を、魔性とも言える史華の存在は魅了している。
史華を奉り上げて、常に周囲を取り囲む彼の者達。
彼女達は『神峰史華親衛隊』と、周囲に称えられている。——尤も。其の呼称には、悪意が含まれている。生徒の半数近くは、史華の心の奴隷だ。残り半数の生徒達は、史華を畏れ嫌悪している。
人成らざる者。
——鬼の子。其の呼称には、生徒達の嫌悪、悪意、畏怖、妬み、あらゆる負の感情が籠められている。
神峰史華は人外の存在。
人の心を魅了して、喰らう。其の存在事態が、異質で異端だ。
そして周囲の視線に、史華は気付いている。
向けられる畏敬の念に、史華は満足している節が在った。
自室の大きな鏡の前で、史華は己の姿を見ていた。
「……美しい。私は、誰よりも美しい。皆が私を崇め敬い、そして恐怖する」
史華は嘲る様に笑った。
其の目には、狂気にも似た執念を宿していた。
自分は常に、完全でなければならない。
欠点等、在ってはならない。己よりも優れた者は、存在してはいけない。
学園内で史華よりも美しい者は、誰一人として存在しない。だが、己よりも成績が良い者、身体能力が優れた者が、何人か存在している。
史華には其れが、どうしても赦せなかった。歯痒かった。嫉妬が黒い畝りと為って、心に鈍く纏わり附いた。其の感情は、自分自身の『弱さ』の象徴で在る様に思えて、吐き気が催した。『弱さ』とは、自分の求める美の対極に位置している。だからこそ余計に、赦せないのだ。
——私が貴方を、完全にしてあげましょうか?
「誰かいるの?」
唐突に、女の声が聞こえた。とても美しい、澄んだ声だった。心を甘く痺れさせる其の声に、無意識の内に嫉妬していた。
辺りを見廻すが、誰も居なかった。胸が締め付けられた。嫉妬や妬みと謂った感情が、そうさせている。不意に理解を深めた時、鏡に映る姿を見て気が狂いそうに為った。
醜い老婆が、其処に居た。肌は浅黒く爛れて、痩せ瘠けた醜女と変わり果てた自分。目を背ける事も出来ず、鏡を凝視して史華は絶叫していた。
叫び声に、若い女の笑い声が絡み付いた。
「誰なのっ……何処に、居るの?」
背後を振り返るが、誰も居ない。焦りと猜疑心が、頭の中を埋め尽くしていた。得体の知れない恐怖が、静かに自分の中を侵食して、穢して往く。自分は今、間違いなく『捕食』される側に廻っている。
——在っては為らない。
そんな事は、何が在っても赦されない事で在った。自分が何者かに依って喰われるなんて事は、在っては為らないのだ。
「姿を見せなさいっ……」
上擦る声には、恐怖の色が含まれていた。史華自身も、其の事に気付いていた。苛立つ心と、恐怖の感情が混ざり合って、史華は何者かに蹂躙されている事を実感した。臓腑が煮えたぎる様な憎悪が、胸懐を満たしている。呼吸が荒れているのが解った。全身を脂汗が粘り附いて、酷く惨めな気分にさせられた。絶対に赦さない。相手が何者で在ろうが、喰らうのは自分の方だ。
涙が浮かぶ瞳を堪えて、鏡を睨み付けていた。老婆は既に居なく為り、美しい姿に戻っていた。深く息を吸い込んで、心を落ち着け様とした時、其れは姿を現わした。
史華の背後に、女が映っていた。
慌てて振り返るが、女なんて何処にも居なかった。だが、視線を鏡に戻すと女が居る。どうやら、女は鏡の中にのみ存在するらしい。其れにしても、美しい女だった。白く透き通った肌は、吸い込まれそうに艶やかで。妖艶な瞳は、見る者を惑わせる。秘めやかに心を撫で、同性で在っても魅了してしまう美貌。想わず女に羨望の念を抱いて、史華は嫉妬と怒りに心を掻き乱された。
先程の老婆の姿を見せたのも、女の仕業で在る事を理解して、史華は怒号を上げようとした。
——私の様に、美しく為りたいんでしょう?
唐突な女の言葉に、史華は思わず制止していた。
女が史華の肩に、ゆっくりと手を廻す。
「為りたい。貴方よりも、もっと美しく為りたい!」
気が付けば、史華は答えていた。純粋な想いからだった。誰よりも、美しく為りたかった。誰よりも——そう、目の前の女よりもだ。
妖しく嗤う女。
——なら、私を受け入れなさい。至上の『美』を、貴女に授けてあげるわ。
「良いわ。来なさい。そして、私の美貌を、全てを高めて!」
迷う事無く、史華は応えていた。
鏡から女は現れて、史華の瞳の中に吸い込まれていった。
鏡を覗き込み、史華は妖しい微笑を浮かべていた。
「美しい。私は誰よりも、美しいわ!」
更なる美を手に入れて、史華の心は舞い上がっていた。




