第六話:虚無の執行者、帝国の影
第六話:虚空の執行者、帝国の影
勝利の余韻は、文字通り「色」によって塗り潰された。
南坂弁護士が法廷で勝ち取った正当な権利。それを祝うはずの広島の空が、澱んだ紫色の雲に侵食されていく。
「……マブイの波紋が、完全に『死んでいる』」
傍らに立つ氷野誠也が、低く、震える声で呟いた。彼が愛刀『凍て鶴』の柄に手をかけた瞬間だった。
――轟音。
重厚な競技会場のゲートが、紙細工のように内側へと弾け飛んだ。舞い上がる土煙を切り裂き、その集団は現れた。
これまで龍雄が対峙してきた「競技者」たちの熱気とは無縁の、底冷えするような禍々しい静寂。その中心に立つ男、特務執行官ゼノは、手にした多節棍剣『オブリビオン』を無造作に引きずり、龍雄を見据えた。
「法がどうした、理屈がどうした。……この世界において、唯一の真理は『マブイの絶対量』だ。弱者が過ぎた玩具を、すなわち『赤龍』を持つことは、それだけで罪なのだよ」
ゼノの声には抑揚がない。まるで故障した機械が事務的に判決を下しているかのようだった。
「……勝手に言ってろ。こいつは、俺の魂だ!」
龍雄は反射的に『赤龍の盾槍』を突き出した。心臓の鼓動を機体に同調させ、相手のエネルギーを逆流させる「龍の咆哮」の構え。だが。
「無駄だ。そこには、奪うべき『流れ』など存在しない」
ゼノが剣を振るった。
衝撃波も、光線もない。ただ、視界の一部が「欠落」したかのような錯覚。
熱量も、質量も、風圧すら持たない『虚』の波動。それが盾に触れた瞬間、龍雄は絶叫しそうになった。
痛いのではない。
繋がっていたはずの『赤龍』の感覚が、右腕の先から急速に「消えて」いくのだ。
マブイを吸収し、力へと変換するはずの回路が、冷徹な無の中に飲み込まれていく。
「っ……!? 嘘だろ、反応しない……嘘だろ!」
燃えるように熱かった赤い盾が、瞬く間にただの「鉄の塊」へと成り果てる。相棒の命が、ゼノの『オブリビオン』に触れた部分から、文字通り忘却の彼方へと抹消されていた。
「河井さん、下がって!」
呆然と立ち尽くす龍雄の前に、南坂が飛び出した。
「法的効力のない乱入など、言語道断! この場は私が預かります!」
南坂が展開した『ジャスティス・スケール』の光の障壁。だが、ゼノは眉一つ動かさない。
「ここからは競技ではない。龍雄君、命を守りなさい!」
氷野の『凍て鶴』が、ゼノの足元を瞬時に凍結させる。絶対零度の檻。しかし、ゼノはその氷の鎖を、歩くついでに砕くように進んできた。
「その盾槍、もはや修復不可能なほどにマブイ回路を蝕んだ。……ガラクタと共に消えるがいい」
ゼノが『オブリビオン』を頭上に掲げる。その切っ先に集まるのは、光を吸い込む黒い穴。
このままでは、全員消される。
南坂は唇を噛み切り、叫んだ。
「河井さん! 今のあなたでは、この『虚』は払えません! 従来の技術、従来の常識を捨てなさい!」
崩落する天井。南坂は龍雄の背中を、持てる限りの力で突き飛ばした。
「熊本へ……水前寺にいる、私の古い知人を訪ねるのです。名は、アルバート・マッキントッシュ。彼なら、その『死んだ赤龍』を、あるいは……!」
背後で、氷野の氷が砕け、南坂の光が闇に呑まれる音がした。
龍雄は、かつてないほど冷たくなった『赤龍』を抱きかかえ、土煙の向こう側へと駆け出した。
背中を焼くのは、敗北の屈辱と、友を置いていく罪悪感。
広島の「武神」と呼ばれた男が、初めてその看板をかなぐり捨て、未知の地へと落ち延びる。
それは終焉ではなく、真の「進化」へと至るための、血を吐くような旅路の始まりだった。




