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小椋麻優子様へ


 前略


 根岸台のコンセルヴァトワールまで続く稲荷坂の上で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした。なんて『錦繍』の剽窃から書き始めたくなってしまうほど、お姉ちゃんとの再会は私にとって驚くべきものでした。最初に見かけたときは我が目を疑いました。再び見て、やっぱりお姉ちゃんだと確信したとき、出ない声が喉から飛び出すような気さえしました。

 あれは実技試験の二日目で、大雪の中、私はバスクラリネットを背負って受付待ちの行列に並んでいるところでした。周りにはめいめいの楽器を抱えた器楽科の受験生がいる中で、向こう側の作曲科の行列をふと見たとき、見覚えのあるキルトのピアノバッグを持った赤毛人の受験生を見かけました。奇遇なこともあるものだと思って見ていましたところ、その子は携帯を取り出してメッセージを確認するついでに、私たち器楽科の行列の方を探すようにこちらを向きました。果たしてそれは小椋麻優子その人だったのです。

 私が出ない声をあげそうになったその時、お姉ちゃんも私に気付いて微笑むと、こちらに軽く手を振りました。困惑する私の心を見透かすために、お姉ちゃんは尻尾の毛を赤く逆立てると、それから空中に鏡文字を書いて私にメッセージを送りました。

「五時半には上がります。待っていてくれる?」

 私は心の中であなたに伝わるよう強く思いました。

「絶対に待ってるから」

 あなたがうなずいたその時、受付が始まって行列が進み始めました。

 その後の実技試験はほとんど記憶にありません。順番を待っている間も、同じ建物のどこかであなたも試験を受けているという事実で頭が一杯になり、通しの練習は一度しか出来ずに本番に臨みました。シェックのエチュードは目をつぶってでも吹けるように練習してきましたから、本番では伴奏の方を聴きつつ、こちらでリードすることを意識したような気がするばかりです。

 試験課題と自由曲の実技を終えて私が上がったのは、四時半頃のもう暗くなりかけている時でした。積もった雪で辺りは冷え込んで、関東地方特有の凍みるような寒さに耐えながら、私はあなたの帰りを待ち続けていました。どうしてあなたが横浜のコンセルヴァトワールを受験しているのか、ということでやはり頭の中は一杯でした。私がかつてそれを望んだことは事実です。ですがそれは私たちには手の届かないところにあるもののはずでした。それが今目の前にあることで、不可解な反面、ようやく嬉しさも込み上げてきました。

 作曲科の受験生が会場を出てきたのは確かに五時半を過ぎた辺りで、既に辺りは真っ暗になっていました。校舎の中で待っていることが出来なかったため、私の耳や鼻は真っ赤になっていたと思います。まっすぐ私のところへやってきたあなたは、両耳を指差すと、私の耳を両手で挟みました。掌の温かさで血が巡りだして痛いぐらいになった私の耳を指で軽く揉んだ後、あなたは背伸びをして私の首に腕を回すと、私の耳元に唇を落としました。

 冷え切った私の体に触れるお姉ちゃんの体温はどこも温かく、ずっと抱き締めていたいぐらいでした。やがてお姉ちゃんが指を絡めて私に話した様子では、受験は上手くいったようでした。私も、多分上手くいったと思うと答えました。私はどうしてお姉ちゃんがここにいるのかと尋ねました。お姉ちゃんは私の目を見つめながら、秀子とずっと一緒にいたかったから、と答えました。私は昔の少女小説の主人公のように涙を流し、お姉ちゃんに促されながら雪の積もった坂道を下りてゆきました。

 お姉ちゃんは馬車道のホテルに悠季子さんと一緒に泊まっているということでしたから、馬車道のサモワールに待ち合わせをして一緒にお茶を飲みました。悠季子さんは平日にもかかわらず、お姉ちゃんのために横浜まで同行してくれたのでした。

「麻優子が望むなら、それをできるだけ叶えてあげたいのが母親というものです」

と言ったとき、悠季子さんが私を実母として見ていることに気が付きました。それは私たちの暗黙の了解でした。多分お姉ちゃんも気付いていたと思うので書いてしまいますが、悠季子さんが私をそうした目で見るときには、いつも言外にお姉ちゃんのことを私に頼むと伝えているのでした。

 きっとお姉ちゃんは勇気を出して悠季子さんに頼んだのでしょう。そしてきっと拍子抜けするほど簡単に願いを聞いてもらったのでしょう。それは悠季子さんが私を頼みにして、お姉ちゃんと二人、姉妹として協力して乗り越えてゆきなさい、ということなのです。お姉ちゃんが望むままに生きていけることが、私たち二人の共通の願いであると通じ合っているからなのです。

 私は悠季子さんにお姉ちゃんとのことを内緒にしていることに胸が痛みました。のみならず本当に手首の神経さえ痛み始めました。悠季子さんが倣いを使っていれば、とうに私たちの関係を知っているにしても、それでも私とお姉ちゃんはもう悠季子さんの期待するような姉妹ではないかもしれないということを言わずに、願いだけを受け取ってしまうことに十分な引け目を感じてしまうのでした。

 悠季子さんは私に筆談で話させました。それは倣いを使うつもりはないことの意思表示でした。むしろそれは倣いを使うまでもなく、私たち二人の関係は察していることの表示であったのかもしれません。いずれにせよ、いつか言わなければならなかったことをここで言えなかったことは、私の心の中に小さく深い後悔を残したような気がします。

 サモワールから馬車道の駅まで送ってもらうとき、悠季子さんは気を遣って先にホテルの部屋まで帰ると言いました。私はそれならここで解散しようと伝えようとしましたが、お姉ちゃんが先に私の手を取って県立博物館の向かいの道をずんずん行ってしまいましたので私もそれについていきました。藝大校舎の前から地下に潜ると、帰宅ラッシュの時間も重なって、暖房と雪解けの湿気で蒸し暑いぐらいの構内に人がひしめき合っていました。お姉ちゃんはまっすぐ改札階までは下りず、人目につかないように、人の少ない地下一階の吹き抜けの上まで来ると、目を閉じる間もなく私に素早くキスをしました。初めてのキスはきなこ餅の味がしましたが、二回目のキスはアールグレイの味がしました。

 私はすぐお姉ちゃんの手を取ると、合格発表はどこで見るのかと聞きましたが、本当はもっと話したいことがあったのです。愛してるとか何か気の利いたことをいおうとも思っていました。本当です。ですが思い余って言葉足らず、焦って何か言おうと思っているうちに、一番聞かずともよいことを聞いてしまったのは、全部キスのせいということにしておいてください。お姉ちゃんはインターネットの合格発表で見ると答えました。私は現地まで書類を受け取りに行こうと思っていたので、うちに泊って一緒に見に行ってみたいと言いましたが、流石にお姉ちゃんも困った様子でした。これではどっちがどっちを頼まれたのだか分かりませんね。

 しばらくはそうしてたわいもない話をした後で、私から別れを切り出しました。お姉ちゃんは名残惜しそうに、けれどしっかりと私の目を見て頷きました。お姉ちゃんは私が改札を通る前にもう一度強く抱きしめてから、私を押し出すように腕を離しました。改札を通った後で振り返れば、人混みの中にもうお姉ちゃんの姿はなく、私はまるで迷子になった子供のように、お姉ちゃんの名を呼んで泣きたくなるような気持ちに襲われました。

 家に帰るまで、私は悠季子さんとの暗黙の約束のことを考え続けていました。お姉ちゃんを私に頼むということは、私に誰よりもお姉ちゃんのそばにいて欲しいということです。お姉ちゃんは合格したら学生寮に入るでしょうから、そうしたら私も合格したら学生寮に入るべきだということになります。事情を話せばきっと私の両親も入寮を認めてくれると思いますから、その点は神経質にならなくてもよいと思いますが、むしろ心配なのは自治会側の受け入れ態勢です。これはもしも合格出来たらすぐに問い合わせる必要がありそうです。

 母親から娘を託される、というと素敵な響きを持って聞こえますが、その母親は私の産みの母であることと、娘は私の姉であることが話を複雑にしています。結局悠季子さんはすべてを見透かした上で釘を刺しているのかもしれませんし、単に母親の視点からすれば全ては微笑ましい児戯に過ぎないということかもしれません。いずれにせよ、私は愛するお姉ちゃんを託された身として、あなたのことをどんなことからも守り抜きます。

 家に着くのはお父さんより遅くなってしまいましたが、悠季子さんに連絡を入れてもらっていたので心配は要りませんでした。お風呂に入ってからやっと、今日はいろいろなことがあったという疲れがどっと出てきました。今夜は考え事が多すぎて眠れないかもしれないと思い、そんなときはいつものようにあなたへの手紙を書き始めようと考えながらお湯に浸かっていると、いつの間にか半時間ほども眠ってしまいました。杞憂とはまさにこのことですね。

 そういう訳で、あなたへの手紙を書き始めるのがこんなにも遅くなってしまいましたが、あの日のことを思い出すにつけ、書きたいことが次から次へと思い浮かんで長々と書き続けてしまいました。今更あの日のことを振り返って何だと言われれば何という訳でもないのですが、あなたのそばを託され、あなたを守り抜く決意を固めたその日のことをあなたに改めて誓いたかったという訳もあります。もし一緒に合格出来たら、という条件付きではありますが、この誓いを果たすべく、お姉ちゃんも私に託してみてはくれませんか。これまでのように一人で考え込んで一人で答えを出すのではなく、もっと私に頼ってみてはもらえませんか。私の手を取ってずんずん進んでいく今のお姉ちゃんのことも愛していますが、私の隣で、二人歩調を合わせて一緒に歩んでくれませんか。これは別に愛されている実感がないという訳ではありません。むしろ心配なのは私が受け取ってばかりだということで、私自身、もっとあなたに与えられるようになりたいのです。

 今度のお返事は合格発表の後になるでしょうか。あなたの合格を心より祈っています。

 こちらはもう夜半に近くなりました。おやすみなさい。明日もよい一日でありますように。


 草々


 二月二十四日

 

 新座秀子より

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