悪夢まとめ・5 +おまけ
悪夢・10 『一姫様 上』
『お前』
昔は敬称だったと、聞いたことがある。
けど、私にとっての『お前』は嫌な意味でしかない。
ギリギリギリギリ……
ああ、五月蠅い、五月蠅い、五月蠅い、五月蠅いっ!!!
◇◇◇
私の母は、子供の頃から『気にしすぎる人』だったらしい。
横断歩道を渡る時、待ってくれる車がいたら会釈をして全力ダッシュする。
『早く渡れよって思われていそうで……』
学生時代、一人で喫茶店に入り四人掛けの席に通された後、急に混んできたら、爆速でケーキと珈琲を胃に流し込む。
偶然、それを目撃した友人が理由を聞くと――。
『四人座れる席、占領してんなよって思われていそうで……』
そう言って、オドオドと目を伏せた。
母が十歳くらいの時、同年代の親戚の子たちと会話をしていて「それって○○らしいしねー」と言った後、慌てた様子で「あっ、い、今の『しね』は『死ね』って意味じゃないからねっ!」と言ったこともあるらしい。
そして、次に会った時「この間は不快にさせちゃって、ごめんなさい……!」と高いお菓子を渡したりしたそうだ。
親戚の子たちは、意味がわからずにポカンとしたらしい。
むしろ、切羽詰まった表情に引いた、と話してくれた。
そんな母は今、自分の首をマフラーで絞めている。
嫌なことがあると、いつもこれだ。
大方、父に何か言われたのだろう。
それか昨日、料理を「不味い」とゴミ箱に捨てられたからか。
母曰く、気分が落ち込んでいるときにこれをして頭の中を『苦しい(物理)』でいっぱいにしているらしい。
そうしている間は嫌なことを忘れられるし、視界を黒い靄と赤いパチパチとした光で満たすのが心地いいのだと。
いつだったか、隠れてこっそりやっていたのを私が目撃してしまってから、私の前では隠さなくなった。
(下らない。早い話が自傷行為じゃない。なにも変わりはしないのに……)
以前、父は、最近は『死にたい』だの『消えたい』だの言う奴が多すぎるっ!
そんなに死にたきゃ、ビルから飛び降りればいいだろっ!!
なんてことを言っていたが、『あなたの所為で、そういう気持ちになっている人がいるんですけど』って言ったら、どんな顔をするのだろう?
きっと、認めない。
あれだけ心理学の本を読んでいるのに、わからないんだね。
『危険だから、絶対に真似しちゃ駄目よ?』
(誰がするか、馬鹿がっ!!)
おっと、いけないいけない。
油断すると、父の口癖が飛び出してしまいそうになる。
『馬鹿が』家族の前でのみ使われる、父の口癖。
とは言っても、『癖』なんて隠しているつもりでも出てしまうもの。
人前で使わないようにしていても、自然と使ってしまっている。
だから、殆どの親戚からは遠巻きにされ、『高校や大学時代の友人』認定している人たちからは理由をつけて避けられているのだろう。
知らぬは本人ばかりなり。
あんなに『男の友情は、女と違って永遠のもの』とか言っていたのに。
まあ、それを指摘すると機嫌が悪くなるし、そもそも言えないけどさ。
言ったら、癇癪玉のようになるのは目に見えている。
わざわざ、藪をつつきたくはない。
『家族だって、嫌な時は嫌と言うべき』なんて人がいるけど、実践できる人がこの世にどれだけいるのだろうか?
言って終わりじゃない。
それから先も、顔を突き合わせて暮らしていかなきゃならないのに。
どうせ、言った先の保障なんてしてくれないんでしょう?
『俺/私が悪かった。ごめんなさい……!』なんてドラマの中だけだ。
探せばそういう『奇跡』もあるのかもしれないが、少なくとも、私たち一家にはそんな『奇跡』は訪れない。
五年、十年、ずっと擦られ続けるのだ。
「はああぁーーあ……」と大きな溜息が口から漏れた。
「行くんじゃなかった……」そう続ける。
◇◇◇
今日、初めて『クラスメイトの誕生会』なる物に呼ばれた。
十二年間生きてきて、初めての経験だ。
でも、呼んでくれた子と友達だったわけじゃない。
班が同じだったから、ただ、それだけ。
「やめなって、誘うの。嫌な思いするだけだよ……」
「そうだよ、絶対キツいこと言われるよ……」
私を見ながら、ひそひそとそんな話をする。
でも、仕方がない。
ちょっと前まで、私の考えは『父寄り』だったのだから。
『この映画すっごくいいよねー』
「ただ綺麗ごとばっかり吐いているだけじゃない」
『○○さん、▲▲ちゃんが鉄棒苦手なの知って、放課後、一緒に練習しているんだってさ。優しいよね』
「そんなの偽善か自己満足だよ。もしくは▲▲さんに利用されているか。無条件の優しさなんて、あるわけないんだから。みんな夢見すぎ」
「あのさ、そうやってすぐメソメソするのやめてよね。□□さんみたいにすぐ泣く人がいるから、我慢している私まで『これだから女子は――』って言われるの。わかる?」
「◇◇君さー、なんでもっと効率よく行動できないの?家の用事があったんなら、早めに言っといてよ。ちょっと考えればわかることでしょ?本当、馬鹿なんだから」
……そりゃあ、避けられるよね。
十歳の時に指摘されるまで、『コレが正解なんだ』と思っていた。
『私は、正しいことを言っている。そんな嫌そうな顔をするのはお門違いだ。正しくないそっちが悪い』と。
よく、いじめられなかったなと今でも思う。
でも、指摘されたところで遅かった。
なかなか性格は変えられないし、すぐにポロッと口にしてしまう。
それに、考えを改めたら、あの家で生きていけない。
『卑屈』『斜に構えている』……そんなことわかってる。
もっと、純粋に楽しみたい。
でも、できない。
どうしたらいいの?
◇◇◇
誕生会が始まって二時間が経った頃、私はトイレを借りようと席を立つ。
自身に落ち込みながらも、私は誕生会の主役に同情していた。
彼女の父も、中学校の教師だったからだ。
私と違って上手く立ち回っているけど、本当は私と似たり寄ったりの境遇なのだと思っていた。
毎晩毎晩、怒鳴りながら帰ってきて、教え子に言えない罵詈雑言を家族に浴びせ、自分のストレス発散をする。
父の嫌うモノは、ドラマだろうが物だろうが政治だろうが嫌いになって合わせなければいけないし、言いつけに逆らうことなんて許されない。
確かに、私の父は暴力は振るわない。
物を投げる時はあるが、プラスチックのゴミ箱等、比較的、軽いものが多いし当たることも少ない。
ちゃんと、そういうところには頭が回るのだ。
問題は口。
真綿で首を絞めるようにじわじわと嬲ってくることもあれば、金槌で殴るような勢いの時もある。
家族『なのに』ではなく家族『だから』言える言葉の数々。
それらにただ俯き、影でひたすらに耐えているのだろう。
そう、思っていた。
トイレから出ると、主役のお姉さんが帰ってきたところだった。
『同じ』と言っても、ここは違う。
同じ姉妹でも、私の方がお姉さんだ。
「……ちょっと、お母さん!また、やったでしょ!!」
主役のお姉さんは、小声で母を呼ぶ。
「お父さんの服と私の服を一緒に洗濯機に入れないでよ~。お父さんも、お父さんだよ!あんなに注意してねって言っておいたのにさー」
その言葉を聞いて、心臓を掴まれたような気持になった。
この人、国家元首になんてことを言うの……?
「もー、そんなこと言わないの。お父さん、すっごく落ち込んでいたんだから。『父は、父は悲しいぞ……』って」
「だってぇー」
はあ?落ち込む??
怒鳴って怒鳴って怒鳴りまくるんじゃないの?
『誰のおかげで生活できていると思っているんだっ!!』
『この恩知らずがっ!!』
『生きている価値もないくせに!』
『これだから――』
すぐに、これだけの言葉が思い浮かぶのに……。
嫌な汗が、後から後から流れ落ちてくる。
何が違うの?何が違うの?何が違うの?何が違うの?何が違うの?何が違うの?
「……ごめん、もう帰るね」
そう言って、その子の家を飛び出した。
◇◇◇
そうして、帰って来たらこれだ。
本当は、メンタルクリニックにでも行って診察を受けるのがいいのだろう。
でも、それはできない。
父は『その手』のクリニックに対して、かなりの偏見を持っている。
『薬に頼るなんて甘え。心の持ちようでどうとでもなる』そんな考えだ。
それに母は専業主婦で、金は全て父が握っている。
『女に金を与えると駄目だ』そう結婚当初から言われ、パートも許されない。
行きたくても行けないのだ。
父の父、私にとってはおじいちゃんにあたる人がしくじったからだろう。
おばあちゃんのように、へそくりだなんだをされて逃げられたくないのだ。
父も、自身の性格を心の底ではわかっているのかもしれない。
繋ぎ止め方としては間違っている。
それでも、そうすることしかできない父に僅かな憐憫を感じた。
しかし、金を完全に管理してしまうと『いや~、妻に財布を握られちゃってて……』『かかあ天下で……』という会話には参加できない。
『うちは共働きで……』という会話にも。
そして、心の内で積もらせたイライラをまた家で爆発させるのだ。
でも、お母さんなんて『優良物件』だと思うけどなぁ。
時にヒステリーを起こすことがあるが、私達、姉妹の前だけだ。
『仕事と私どっちが大事なの?』なんて面倒くさいことも言わないし『休みの日だからって、家でゴロゴロしないでよ』とも言わない。
他の奥様と井戸端会議をすることもない。
親戚で集まった時も静かにしている。
会話をしないわけではないが『うちの旦那が――』なんて絶対に言わない。
ない、ない、ない――。
父の趣味は鉄道模型なのだが、どんなに高い物を買っても何も言わない。
そりゃあ、もとは父が稼いだ金だ。
でも、私たちを見ながら『お前たちの食費や学費がなかったら、新しいの買えたのにな』って言うのはどうかと思う。
こが、父と母の立場が逆だったら『これだから――』って言われているんだろうなぁ。
家族なら『冗談で言っているのだ』と水に流すべきなのだろうか?
それについても、母は何も言わない。
『……仕事で、ストレスが溜まっているのよ』
いつも、これ。
絶対に逆らわない、従順、なにがそんなに不満なのだろう?
いや、一つだけハッキリしていることがある。
妹の存在だ。
今年で五歳になる妹をチラリと見る。
『一姫二太郎だ。いいな』そう父が言っていたのに、しくじった。
それがイライラを助長させているのだろう。
私は、ちゃんと『一姫様』だったのに――。
悪夢・10 『一姫様 下』
『一姫二太郎』
意味合いは色々とあるらしいが、父の中では……わからない。
きっと、自分が子供の頃におじいちゃんあたりに言われ、半分ムキになっているのだろう。
そんな人に『本来はこういう意味が――』なんて説明しても無駄だ。
本来の意味なんて、意味がないのだから。
性別が判明した時の母の顔を、今でも覚えている。
『テストで九十点以下は許さない』そう言われ続けていた子供が、七十点を取ってしまい『どうしよう』となっている顔に近いものを感じた。
父は「…………そうか」と舌打ちをして終わりだった。
ただ、それ以降、全てにおいてあたりが強くなったのは確かだ。
私は『一姫』だったのに、何やってんのよっ!
それに、男1・女3なんて、お父さん可哀想じゃんっ!!
何度もそう思った。
大人になった今では、誰の所為でもないとわかる。
でも、子供の頃は、身勝手にも母に憎悪を向けていた。
そして『太郎』に近づけようと、妹が、ぬいぐるみやリボンといった可愛い物を欲しがるたび、足を思い切り踏んだ。
これ以上、父を不快にさせないで。
あの人がイライラしなければ、私達も平和なの。
あなただって、穏やかに過ごしたいでしょう?
「あの、それでね――」
私は「必要以上にお喋りしないの!」とまた小さな足を踏みつける。
妹が嫌いなわけではない。
むしろ、年は離れているが、学校で孤立している私の唯一の話し相手だ。
だからこそ、『平和』の為に頑張らないと。
時折、父の部屋の本棚からこっそり本を拝借する。
『男女の心理』『男女の考え方の違い』そんな内容の本。
難しい漢字や言葉が多くて苦労したが、私なりに纏めた答えで、妹に何度か『テスト』をした。
今、どちら寄りなのかを――。
別に、大人になって性転換しろなんて言わない。
ただ、『太郎』寄りになって欲しいだけ。
傍から見れば、歪な光景だったことだろう。
それに、妹が男の子っぽくなったところで父の機嫌は変わらない。
海の水が、一滴、消えても何も変わらないのと一緒。
わかっていても、止めることができなかった。
誰にも、この気持ちは理解してもらえないだろう。
だから、今日も踏みつけて、肘で小突いて、私が妹くらいの年齢の時、父に言われた言葉を浴びせて――。
妹からすれば、私と父の両方から言われることになるが、それは仕方ない。
潤んだ目に映る私は、何故か歪んだ笑みを浮かべていた。
◇◇◇
中学生の時、『でも、なんだかんだ言って子供作るくらいには仲いいんじゃ』なんて考えた。
でも、それは間違いだった。
ただでさえ、父は弟よりも、七、八年は遅い結婚をして、私ができるのも遅かった。
その間に、弟は三人の子供に恵まれた。
自分の中の『勝ち組』に当てはめ、かなり焦っていたのだろう。
だから、『仲良く』なんかない。
なかなか、次ができずに時間が過ぎただけ――。
まだ、なにか期待していたのかぁ……。
この間、あれだけ叔父さんに忠告されたのに。
でも、あれだって『外様』だから言えること。
私たちには――。
そう思うと、なんだか虚しくなり布団から起き上がれなかった。
「いいご身分だな。お前らは……」
父は蔑むような目を私に向け、バタンと大きな音を響かせながら扉を閉める。
前に、一度だけ逆らったことを、まだ根に持っているのだろう。
ほんの少しでも『大丈夫か?』を期待した私は、本当に愚か者だ。
(……結婚するなら、優しい人がいいなぁ)
暴言を吐かない、物を投げない、過度に見下さない、そんな人が――。
そりゃあ、カッとなってしまうことは誰にだってある。
問題はその後、『ごめん』を言って欲しい。
昼過ぎ、母は買い物に出かけて行った。
妹は小学校。
最近、『夜更かしをすると胸が大きくならない』なんて、嘘か本当かわからない話を風の噂で聞いたらしく、夜中の一時過ぎまで起きているらしい。
眠ってしまわないように、針を手に刺したりしているようだ。
おかげで手は小さな傷でいっぱいだし、うっすらと目の下に隈ができている。
『喉を思い切り叩き続けると、声が低くなるって聞いて……』
そう言って、喉を叩いているのを見た時は、流石に止めた。
『誰よ、そんなこと言った奴!!』と怒る権利は、私にはない。
(追い詰め過ぎたかな……。でも、私だって必死だったんだから……)
そう言い訳をしながらリビングでテレビを見ていると、某有名ホテルで開催されている『婚活パーティー』の様子が映し出された。
暫く映像が流れた後、どこかのスタジオに切り替わり『女性が求める男性』『男性が求める女性』というアンケート結果を見て、俳優や芸能人が話している。
「ふーん……」と思いながら見ていると、一人の女優が、茶目っ気たっぷりな声とともに言った。
「そうそう、女の言う『優しい人』には、色ーんな意味が詰まっていますから、男性の方々は気を付けた方がいいですよ」
………………は?
「わかります!優しいに()がつくんですよ。いやー、こういうの僕らが言うと『はいはい』って言われちゃうんで、女性の方に言ってもらえて助かります」
うんうんと、同意する声が聞こえてくる。
『優しい人がいい』って駄目なの?
暴言を吐かない、物を投げない、見下さない、って駄目なの?
その後も会話は続き、『年収が』『容姿が』『趣味の理解を』『価値観が』『子育てのことで』『身長が』『親戚との関係が』と様々な音が聞こえてきたが、何を言っているのか理解できなかった。
「……あっ、言っておきますけど『全ての男女がこういう考え』って言いたいわけではないですからね?ご注意を!」
「そりゃあ、そうですよ。皆、わかってますってー!」
この、十秒にも満たない会話を拾っている人が、一体、何人いるのだろう?
なぜ『スタッフが美味しくいただきました』みたいに、ずっと画面に出ているようなテロップを入れないのだろうか?
前に読んだ本だってそう。
『全部がこうじゃない』『例外だってたくさんある』そんなことが、見落としそうな場所に書かれていて、『もっと、帯にでかでかと書け』と思ったものだ。
『総意ではない』『皆、わかっている』……ふざけんなよ。
それなら、『スタッフが美味しくいただきました』なんて書かなくていい!
町にある注意看板の殆どが無意味!!
散々、『全ての人の意見』みたいに言っておいてさぁ……!
その後、『若者の結婚率』『少子化』の話題に切り替わったが、私は鼻で笑ってしまった。
あれだけ、見た人が『じゃあ、結婚なんていいかな』『どんなに愛し合っていても、結局、こうなっちゃうんだな』って思うようなことを言っておいて何なの?
まあ、あっちからしてみれば『皆、わかっている』だもんねっ!
それに、スタジオにいる人たち全員、家庭を持っているし。
高みの見物ってヤツ?
本当は、『未来』なんてどうでもいいんでしょっ!!
……もし、『貴方の話を聞いて、男/女は数を減らした方がいいと思いました!』なんて人が現れて、殺しまくったらどうなるんだろうな。
そして、その中には大切な人が――。
「…………っ!!」
自分の考えたことにゾッとして、私は家を飛び出した。
◇◇◇
何処をどう歩いたのか、気が付けば、父のいる中学校の近くに来ていた。
非常に不味い。
出会う確率なんて低いのだろうが、その確率を引いてしまうのが私だ。
その時、「ほら、○○も謝るんだ」と父の声が聞こえてきた。
見ると、グラウンドにある倉庫の前で、三人の男子生徒と父が話をしている。
雰囲気から察するに、喧嘩の仲裁だろう。
「いいか、○○は軽い気持ちで言ったのかもしれないが、言われた方はそうじゃない。『見えない傷』になって、一生、残るんだぞ」
……は?
「人間関係を壊すのは簡単だが、作るのは難しい。『ごめんな、悪かった』の一言でいいんだ」
は?
「お前達もだ。『謝る』っていうのは、決して恥ずかしい事じゃない。『謝れない』ことの方が、何倍も――」
死ね。
フラフラとその場を後にする。
◇◇◇
とぼとぼと歩いていると、妹と同い年くらいの男の子を連れた母親が、ケーキ屋から出てきた。
あ、でも同い年だとおかしいか。
学校があるんだし。
……まあ、人にはそれぞれ事情があるか。
男の子は、真っ黒なくりくりとした目で、ケーキの箱を見つめている。
「……お父さん、喜んでくれるかな」
「りょーちゃん、……きっと喜んでくれるわよ!皆で食べようね!!」
「うん、落とさないように気をつけるよ!」
「長いぞ~、帰り道!」
二人して「えいえいおー」と言った後、手を繋いで歩き出す。
……幸せそう。
(いいなぁ……)と思うと同時に、こう思った。
気色わりぃな。
アレが何の目的で買われたケーキかは知らないけど、どうせ心の中では(夫を気遣う私っていい女!)とか思っているんでしょう?
父がよく言うように、ママ友たちとランチ食べながら旦那の愚痴を言い合うんでしょう?
今、「あ、ここだ!」って店に入って行ったカップルもそう。
お互い、相手をアクセサリーにしか思っていないんでしょう?
心の中では「こいつウゼェ……」って思っているんでしょう?
そう、きっとそうよ!
あいつらの『綺麗』なんて作り物っ!!
私の方が年下だけど、ちゃんと現実を見れているわ!
嫉妬じゃない、嫉妬じゃない、嫉妬じゃない、嫉妬じゃない……!!!
店から出て来たカップルは、仲良く手を繋いで何処かへ行った。
「…………気色わりぃな」
ぽつりと零した後、私は大きな窓越しに店内を見る。
そういや、この店ってテレビでも取り上げられたことがあったんだっけ。
ショーウィンドウに並べられているケーキを見て、ふと、先程の婚活パーティーの映像を思い出す。
そして、『皆、ケーキを選びに来ていたのだ』とわかった。
自分の『常識・価値観』という皿の上に乗せる相手。
苺の乗ったモノ、ほろ苦いチョコのかかったモノ、タルト、チーズ、なんでもいいが、自分と合う『ケーキ』を選びに来ているのだ。
『暴言を吐かない』『見下さない』そんな『トッピング』はそもそもない。
それは『皿』だから。
話題にあげるまでもない『常識』。
私は、『皿』すら持てていないことに気がついた。
いや、持ってはいるが歪でボロボロだ。
こんな『皿』に乗せてもいい『ケーキ』はいない。
きっと、地面に落として潰してしまう。
初めて父が憎いと思った。
あの人の近くにいて、それでも綺麗な皿を作れる人なんているはずがない!
後、何十年もして、父が死の淵に立った時、耳元で今までの恨みつらみを吐き散らすことを何度も夢想した。
でも、その時は私もいい年だ。
きっと、『色々あったけど、最後は穏やかに逝かせてあげようよ……』と同情心が芽生えてしまうだろう。
そして、私は鬱屈とした思いを抱えたまま、残りの人生を生きるのだ。
『あの時、言っておけば』と『言わなくて良かった』という思いを繰り返して、ボロボロの皿を、手にしたまま――。
「……はっ、ははは」
笑いと涙が、とめどなく溢れてくる。
読んだ本に『女の涙は心の汗』って書いてあったっけ?
ははは……、自分がこんなに汗っかきだったなんて思わなかった。
はは、汗、汗、所詮これは汗。
あははは、はは、……はっ、はははははは。
………………傑作だ。
◆おまけ◆『ep,227』
「お母さんが、もっと早く勇気を出せていたら良かったのにね」
彼女の身の上を聞くたびに、そう思っていた。
旦那が怖い、逆らえないといっても母親なのだ。
子供を守るために行動するべきだった。
よく『洗脳』なんて言葉を聞くが、なにか打つ手はあったはず。
いくら大学時代の友人が段取りをしてくれたとはいえ、離婚するという選択を選べた人だ。
少しの勇気があれば、何とかなった事だと思った。
それが、彼女との認識のズレであることにも気づかず。
私の両親は、ごくごく『普通』だった。
お互いに笑い合い、文句も言い合うし、協力もする。
仕事や家事の偏りはあったけど、別のことで補い合っていた。
だから『勇気』の規模が違うことに気づけなかったんだと思う。
「……で、ライブのチケットのことなんだけど」
操作に集中していて、階段すれすれを歩いていたことに気が付かなかった。
いつもだったら、『スマホばっか見てたら危ないよ』『ちょっとは周りを見ないと、人とぶつかっても知らないから!』そう言ってくれるのに。
トンッと軽く押され、そのままコンクリート製の階段を転がり落ちる。
ゴツッと嫌な音がするのと同時に、首から変な音がした。