第9話 哭煎 どの水がふさわしいか・・・では?
~ 数か月前のリントヴェルム家にて~
「マルティ。明後日には立つ。」
私は驚きを出してしまわない様に自分の中に飲み込んで我が主を見つめると、落ち着いた声になっているようにと意識しながら答えた。
「かしこまりました。今回は、」
どちらに?という言葉が宙に浮く。
我が主は何も言わず、私に向けて上着を放り投げると執務机の方に向かいドスンと椅子に座った。
彼は窓の方に顔を向けたまま何も言わず、ただ沈黙だけがその場を占めていた。
私は受け取った彼の上着を手に、ただじっとその場に立って彼を見つめる。
レイビオン・ルーディッシュ・リントヴェルム。
リントヴェルム侯爵家嫡男である彼は、私、マルティ・コーバの主であり、幼い頃からの乳兄弟でもあった。
帝都の侯爵家本邸に移って来る前は、幼い私達~私とレイビオン、妹君のリリューヌ様は、母君である侯爵夫人の療養のため、別邸で過ごす時間が長かった。
侯爵夫人は、病弱であられたが、穏やかな気質の貴い方だった。
そしてその懐の深さで、我が子の乳兄弟ではあるが身分は平民である私までも包み込んでくださった。
身分制の根強いこの貴族社会においてその身分の垣根を越えて平民の私を独りの人間として尊重し、その成長の過程においてあらゆる機会を与えてくださったのもその情愛の深さの顕れだったのだろう。
そのおかげで、私たちは幼い日々を、共に遊び、共に学び、成長するにつれ互いの喜怒哀楽を感じ取るほどまでに近しい存在となっていったのだ。
そう、そして気付いた時には、レイビオン小侯爵は、私にとって、主人であり、兄弟であり、友である、大切な存在となっていた。
私は幼い頃からどんな時も彼の側に居て彼を見てきた。
母君を亡くした直後にリュリーヌ様までもが死の淵を彷徨われた時、レイビオンは深い慟哭の中に突き落とされようとしていた。
あの時、胸を潰してしまいそうなくらい理不尽な悲しみが、その苦しみの果てに彼という人間を喪ってしまうのではないかと、私は怯えていたのかもしれない。
だが、あの夜、湖からびしょ濡れで帰ってきたレイビオンは、リュリーヌ様の命を救った。
そして命の際で妹を今世に引きもどした彼は、昏々と眠り続けるリュリーヌ様を現世に取り戻すと誓う。
そこには、母と妹、彼が最も愛する者達を奪われる絶望に震え慄いていた少年はもう居なかった。
野原を走り周り、湖で水遊びにはしゃいで、野苺や花を摘む、心から溢れる笑顔の幼い無邪気な少年は、自分に自分自身を封じることを課し、そして、レイビオンは彼自身を大人へと変容させたのだ。
私には何もできなかった。
彼が厳しい修練に身を置き、自らを痛めつけるかのように自身を鍛え上げていく日々の中、私にできることは、ただ側に、彼と同じ時間を共に居ることだけだった。
私は、レイビオンの乳母であった私の母に、彼の従僕になるという自分の決意を告げて家を出た。
それからほどなくして、まだ幼さが残る手に剣を持ち、レイビオンは辺境での戦に自ら志願する。
国境の山脈を越えてエーリガント帝国へと侵攻を試みた蛮族達の群れに先陣を切って飛び込み、族長の首を取り殲滅させたのは、レイビオンその人だった。
そこから彼の運命は、忙しなく彼を戦いの闇へと駆り立てていく。
彼は季節を纏うかのようにその身を戦に任せ、やがて時の流れと共に不敗の将へ転じていった。
人々は彼の功績をもってこう呼び始めた。
『エーリガント帝国の美しき剣鬼』と。
それでも更に、彼は運命を血と怨嗟の渦中に賭す。
その黒い髪に血飛沫が飛び、その黒く鋭い眼差しは敵味方無く相手を威圧する。
そうして、自らその幼さを殺ぎ落とした我が主、我が友、我がレイビオン・ルーディッシュ・リントヴェルムは、大陸中から恐れを込めて称えられるようになった。
彼自身が望んだように。
『テネブラエ ラルウァ(闇の悪鬼)』と。
「マルティ。」
彼の声に引き戻された私は、執務机の前に近寄った。
「はい。マイロード。」
「これを見てくれ。」
レイビオンが広げた地図には、至る所に書き込みがあった。
地名を囲む〇とその上に荒々しく記された×。
そして書き込まれた手がかりに、結び合わされた線の数々。
いままで何度この地図を広げたことか。
新しい情報が届くたびに湧き上がる希望を持って記をつけ、駆けつけては失望の波に晒される。
それを何度も乗り越え、だが徐々に失望が絶望の闇を引き込もうと待ち構えている、もはやそんな予感しか想えない日々が繰り返されていた。
「これが最後だ。手元に入ってくる情報は今はもうない。」
吐き捨てるようにレイビオンが呟く。
「これで、また何も無かったら。俺はいったいなんのために。」
ドンと彼の拳が机を打った。
レイビオンは戦で与えられる褒賞と自らの影響力の全てを使って、国内外はおろか大陸を網羅するまでに作り上げてきた。
侯爵家嫡男であっても彼はまだ若く、いまはまだ父である侯爵が全てを管理している中で、小侯爵であるレイビオンが自由にできるのは自らで得た褒賞金のみだった。
それ故に、どんなに過酷であろうと、どれほどの危険を伴なおうと、レイビオンはただ戦い続けるしかなかったのだ。
だが、戦鬼と恐れられる中で、財力だけでなく権力をも取り込んで自らの力を確立してきた彼には、もはや、父である侯爵すら恐れるに足らぬ存在なっていった。
そして自ら張り巡らした情報網に少しでも何かがかかれば、即座に馬を走らせる。
大陸中にその情報を求めて、あえて戦を選ぶことも稀ではなかった。
そんな風に何年も、何年も彼は生きてきたのだ。
ただひたすら、妹君を救うために。
あの夜、湖で彼を運命の螺旋に巻き込んだあの女性が残した言葉だけを信じて。
そう、聖なる双頭蓮の花を求め続けて。
『 聖なる聖なるものよ。
それが神なのか、と問うたこともある私ではあるけれど、
この祈りが叶うのならば、私の命を捧げましょう。
どうか、彼を守りたまえ。
彼の運命に光を与えたまえ。
彼の魂に、どうか安寧を。
彼に・・・彼を赦すことを・・・どうか・・・許したまえ・・・・・・・・』