第36話 純煎(弐連) 彼方より来たるは・・・
レイビオン・ルクディス・リントヴェルムは簡素な騎士の服装に帯剣・顔まで深く隠れるマントを身に纏い、愛馬デューに乗り込んだ。
「デュー。少し無理をさせるが、耐えてくれ。彼女の処へお前も行こう。」
幾つもの戦場をも共に駆けてきた愛馬デューに、彼女を乗せて野原を駆けたのがつい昨日のことのように感じられる。
だがその反面、その記憶すら儚い思い出の露と消えるかのような煩慮な想いが胸を刺すのをぐっと飲み込みながら、レイビオンは帝都の侯爵家本邸を後にした。
馬を駆けながら、これからのことを思索する。
まずは、マラーケッシュとの国境まで走るか、いや、あちらに潜伏させている者からの情報では、現在マラーケッシュはエーリガントと行き来するものに厳しく検問を設けている。
例え国境を力任せに突破したとしても、その後が動きにくくなるか。
では、あの森を?
聖ルクステネブラエの湖を越えれば、向こうは公国の領地なのだから。
あの漆黒の森さえ抜けることができれば・・・
誰もが恐れをなして近寄らぬという未開の森。
かつて挑戦するもの全てをその闇に呑み込んだという言い伝えに包まれて未知の場所と成り果てている曰くつきの漆黒の森。
これまで誰も通り抜けたことはないと言われてはいるが・・・まあ、それもまた一興。
おそらくは・・・ああ、きっと、なんとかなる、いや・・・してみせる。
例えそれが厳しい状況であろうとも、彼女の元へ辿り着く為のその道に必須であるのならば・・・その為に限界を越えねばならぬのならば・・・・。
レイビオンは、自分の中に螺旋が跳ねるかのような胆力のうねりの熱さに、フッと己に苦笑する自分が冷静に自己を見定めようとする自分に問うのを知った。
だってそうだろう?
越えるしかないのならば・・・行きつく果て迄、行ってやろうじゃないか。
これから向かうべき道筋を辿る覚悟が腑に落ちたレイビオンは、ただひたすら国境沿いのルクステネブラエの湖を有する侯爵領へと時間を急き立てるかのようにただ一心に馬を走らせた。
ルクステネブラエの侯爵家別邸に到着したレイビオンは、敷地内に見慣れぬ馬車がとまっていることに気付いた。
誰だ?という猜疑心が心を占める。
侍従達がレイビオンを出迎える為に飛び出して来た。
「誰が来ている?」
彼は侍従長に問いただす。
「レイビオンさま。おそらくこちらにおいでになるだろうと、お客さまがお待ちになっておられます。」
侍従長が彼の”客は誰だ?”という問いに答を濁すということは、それは”秘”しての訪問ということか。
察した彼は馬を預けると、邸内に急ぐ。
バンと勢いよく扉を開けて部屋に入ると、応接の間のソファに腰掛けている人物がレイビオンの方に振り向いた。
「?」
「やあ。やはり君の動きは早いね。間に合って良かったよ。」
「何故、あなたがここに?」
驚きを隠せないレイビオンに、少し悪戯が加味したようなにこやかな笑顔を向けてそこに居たのはマラーケッシュ公国第二王子そのひとだった。
「ニカルス様。なぜ、あなたが、ここにいらっしゃるのか、教えていただいてもよろしいでしょか?」
レイビオンには、何故、今このタイミングで、マラーケッシュ公国の王子が国境を越えてまでエーリガントの自分の元を訪れているのか、何かその裏に企みがあるのか、と疑心暗鬼にならざるを得なかった。
「マラーケッシュ王家からまた何か?」
私が申し入れた婚姻を拒絶した上で、更にまた抗議でもあるのか?と言わんばかりの不作法さすら感じさせる態度をあえて取るレイビオンに、第二王子は、一瞬目を丸くした後、噴き出すように笑い声をあげた。
「レイビオン卿。君ってそれが地なんだね?ハハハ。面白いな。使節団の時の取り繕った顔の君より、断然、今の君の方がいいな。なるほど、エリーが言ってた通りだ。ふふ。」
何か思い出し笑いをしてご満悦の表情の第二王子に、レイビオンは相手が凍りつきそうなほどの冷たい視線を向ける。
「それ、それ。感情丸出しの君の方が、好きだな。僕は。いつもそうしているといいよ。」
「ニカルス様。出来れば、早急にご用件をお話しいただいても?」
レイビオンの中で募る苛立ちが、冷たい視線を更に剣を刺すごとく鋭くしてゆくが、第二王子ニカルスは全く意に介さないように見えた。
「ああ、そうだね。普段目にすることの出来ないだろう君が、あまりにも興味深くてね・・・。」
ニカルス王子がクックッとまだ笑いを堪えている様子を見遣りながら、レイビオンは自分の中の苛立ちが極まっていくのを抑えようともせずに、キッとニカルス皇子に殺伐として視線を向ける。
「失敬。君を見つめるのに夢中になってしまって・・・大事なことを忘れるところだったよ。」
ニカルス王子は自分に向けられる怒気を含んだレイビオンの視線などどこ吹く風で、さらりとそう言っうと自分の懐から取り出したものを、レイビオンに手渡した。
「君に、直接渡すようにって。頼まれたからね。」
レイビオンは二カルスから受け取った手紙を凝視し、裏の宛名に目を通す。
「これは。」
「ほんとに・・・。王子の僕が伝書鳥代わりって、どういうことだろうねえ。
まあ、今回は非常事態ってことで。
君たちに”貸し”だからね。」
ニカルス王子はレイビオンに軽口を叩きながら、そっとレイビオンの側を離れた。
「さあ、僕はこのお茶をいただこうかな。」
もうとっくに冷めてるけどね、と心の中で呟きながら二カルスは手紙を読むレイビオンの方をそっと見守った。
まったく、兄上は人使いが荒いよ。
でも、まあ、彼のあんな顔が見れるのなら、馬を飛ばして来た甲斐があったのかな。
慌ただしく公国を出立し馬を飛ばしてここに辿り着いたその肉体的疲労感に思わず、ふうとため息をついた二カルスの耳にレイビオンの呟きが心地よい余韻となって響いてきた。
「ああ、ルクスよ。感謝します。あなたの愛し娘に・・・どうかご加護を。」