第33話 慕煎(弐連) 紡ぐは・・・かの碧天(そら)の・・・
「あにうえ。ほら、見てください。」
第四王子が小さな身体で一生懸命走って向かってくる。
後に付いている護衛の騎士が手に何かを持っているように見えた。
「殿下。走ると危ないですよ。お気をつけください。」
ルミューリアは第一王子に軽く一礼すると、第四王子の方へ向かう。
「ルミア姉さま。見て。すごいでしょう?」
「まあ。これを殿下が?」
「うん。マーティに手伝ってもらったけど。」
「魚を釣り上げれられたのは、殿下でいらっしゃいます。」
護衛騎士のマーティ卿がそう言うと第四王子は誇らしげな顔になった。
なんて可愛らしいのかしら。
ルミューリアは赤子の時からその成長を診てきたこの幼い皇子が、まるで弟のように感じられることがあった。
ふと気付くと、第一王子も弟である第四王子の側に近寄って来ていた。
「ディア。りっぱな魚が釣れたな。釣りが上手いな。」
第四王子は大好きなルミューリアと、尊敬の念でいっぱいの憧れに近い思いの兄に褒められてご機嫌になる。
「さあ、ひと休みなさって。みんなでお茶をいただきましょう。」
ルミューリアはそう言うと準備していた茶葉をポットに入れた。
一人分ずつのお湯を注ぐと、その度に手を翳す。
彼女が一人一人に淹れる茶の香りが緑地に吹く風に匂い立ち、そこに流れるゆったりとした時間を馨しく愛でるかのような心地良さに浸っている内に、ようやくそれぞれにお茶が行き渡った。
「あなたのお茶を飲むと、身体が軽くなるようだ。」
「ありがとうございます。」
第一王子殿下はいつもこちらが嬉しくなるような言葉をかけてくださるのねとルミューリアは心の内で微笑んだ。
初めてここでお会いした時はとても疲れていらっしゃったわ。
ルミューリアの脳裏にあの時の王太子~第一王子の姿が浮かび上がり、彼女は記憶の中の彼の様子、あの場面を思い出していた。
初めてこの庭園緑地で顔を合わせたあの日、少し離れた場所から礼を捧げた彼女には、第一王子の外見上の体調の悪さだけでなく、第一皇子の心身のあまりの不具合、鬱屈な感情が身体を蝕んでいる独特の臭いが診えてしまった。
その瞬間、彼女の中に突如として沸きあがったのは、このまま彼を放ってはおけないという揺さぶられるかのような感情の高まりだった。
そしてそれは切実なまでの急迫感となって彼女を突き動かしたのである。
彼女は産まれた時から、そして今も、これからも、常に”アンゲフォース”の心を持って生きている。
それは彼女の宿命であり、彼女自身が彼女に課した~彼女を彼女たらしめる彼女の全てそのもの故に。
そう、あの時、ルミューリアは自分の眼前に立つ第一王子の空笑いの笑顔の底に透けて診える~彼を追い詰めようとしている彼自身の深い心闇から彼を『救癒』たかったのだ。
故に、彼女は言葉を紡いだ。
彼に向けて、ただ一心に・・・。
ルクスの言霊を信じて・・・。
「殿下。ご一緒にお茶をいかがでございますか?」
あの日、庭園緑地の丘の大木の下での第四王子とのピクニックに突然姿を見せた第一王子は、弟である第四王子やルミューリア達と共にお茶の時間を楽しんだように見えた。
そうしたひとときを共に過ごしたあの日から、彼は忙しい合間をぬっては、よくこの緑地や第四王子の部屋を訪れるようになっていったのだった。
第四王子ディアラス~彼の母は政治的な意図で他国から嫁いできた側妃であり、国王からそれほど寵愛を受けていたわけではなかった。
そしてもともと身体の弱かったその方は、第四王子を早産で産んだ際に命を落としたのだ。
第四王子は公国の王子として大切に養育されてはいたが、国王は病弱なこの幼い王子に特に関心を示さず、大きな後見も持たないこの小さな貴公子は、側妃が暮らしていた離宮で心優しい乳母や侍従、護衛騎士たちに囲まれてひっそりと平和な時間を生きていた。
早産ということもありもともと虚弱な身体を持って産まれた彼を、王宮の主治医は余命数年だと匙を投げた、が、しかし、アンゲフォースの『救癒』の力は彼の虚弱な身体を少しずつではあるが回復に向かわせ、彼に、生きることを諦めないでいいのだという心の安堵を与えてくれたのだ。
そして血のつながり、家族という存在を諦めていた第四王子にとっては、『救癒』の為に訪れる不思議な貴婦人~アンゲフォースの癒し手と共に自分の元に現れるようになった、とても綺麗な年上の少女は彼の僥倖そのものになっていった。
彼女は、王宮の規範の中で従順に生きている彼を、そんな退屈なものに縛られるなど愚の骨頂だと言わんばかりに笑い飛ばし、彼により広い深い世界を与えたくれたのだ。
不遇の第四王子ディアラスが、自分は決して得ることなどできないのだと端から諦めていたもの~心から慕いあう家族を、彼は”ルミア姉さま”によって、自分の人生に得ることができた。
そして、彼の”ルミア姉さま”は意図せずして、ディアラスに本当の血筋の兄である第一王子を引き寄せてくれたのだ。
あの日、あの庭園緑地で、第一王子は誰からも忘れられて生きていたもう一人の幼い弟の姿を見い出した。
上目遣いに兄を見つめながら、控えめに遠慮がちに、だが一生懸命言葉を探そうとしている幼い弟。
肉親の愛情も保護からも遠い孤独な時間と共に育ってきたこの小さな弟の瞳に宿る、期待してはいけないのだと半ば諦めながらも、それでもなお兄の愛情を切望する儚げな幼子の心に触れた時、自分自身もまたその孤独を吞みながら生きてきた第一王子は、自分こそがこの小さな弟の後見にならねばと固く決意したのだ。
そうして、ルミューリアの存在は、寂寥たる虚無に生を甘んじようとしていた”兄と弟”の絆を編み上げていったのだった。
今日も庭園緑地には心地よい風が吹き、花々は自らの意思で自由に咲きほこっている。
あの碧天の果てに在るは、ルクス~その光の涙は幸甚の雫たらんことを・・・。