第2話 零煎 まずは茶器のお支度を・・・
「覚えてないのか?」 その人は私に向合ってそう言った。
「誰?」と私はその人に問うが、声にならない。
私はその人を見つめるけれど、光を背にして立っているその人の姿は眩しくて、よく見えない。
「何故だ?」と、私に問うそう人の声があまりにも苦し気で、切なげで、私は顔も分からないその人を見つめながら自分の胸が痛くなるのを感じた。
「きっと。行くから。君を見つける、から。」
「まって?何なの?まって、お願い。」
私は自分がその人に手を伸ばすのを観ていた。
「八ツ。」
伸ばした手は空をきり、私は自分の寝台で目を覚ましたのを知った。
「お嬢様。大丈夫でございますか?」モーリーが私顔を覗き込んだ。
「うなされていらっしゃるようでした。お起こしするべきかと迷っていたところでした。」
心配そうに私の顔を見るモーリーの顔は不安気だった。
私は、身体を起こした。
「大丈夫よ、モーリー。心配させてごめんさいね。」とモーリーに笑顔で答える。
「モーリー、朝食はこちらで取りたいわ。お父様たちにも伝えてちょうだい。」
「はい、お嬢様。すぐご準備いたします。」
モーリーは安堵したのか、準備のために部屋をバタバタと出て行った。
モーリーが部屋に運んでくれた朝食を口にしながら、ルリーアンジェは夢の中に出てきたのは一体誰だったのかと、考えたが、分からない自分をもてあましていた。
コンコン。ノックの音と共にドアが開いた。
「ルリ。体調が悪いって聞いたけど、大丈夫なのかい?」
慌てたように部屋に入ってきたのは兄だった。
「おにいさま。おはようございます。心配かけてごめんなさい。もう大丈夫ですわ。」
「そうか、ならよかった。今日は、お客様がいらっしゃる日のようだが、もし体調が優れないようだったら、延期にしてもいいんじゃないかな。」
「いいえ。みなさま、楽しみにいらっしゃるのですもの。延期なんて。私は大丈夫ですわ。」
ルリーアンジェは兄に心配をかけないように少し無理して微笑んだ。
そう、今日は半年に一度のお茶会の日だった。
私の名は、ルリーアンジェ・ステラクス・アンゲフォース。
マラーケッシュ公国の四翼と呼ばれる家門、アンゲフォース伯爵家の一人娘だ。
いや、正確に言うと、侯爵家の双子の姉妹の内の病弱な姉、それが私。
そして、今日は特別な客達を迎えるお茶会の日。
父が言うには、このお茶会を催すのは家門の女主人の責務であり、以前は曾祖母の役目だったらしい。だが、曾祖母が亡くなってからは途切れていた故に、その務めを負うのは家門の子女である私の責務であると父はことあるごとに私に説いてきた。
そしてこの茶会こそが、アンゲフォース家が伯爵家でありながら、公国の四翼と成りえている最たる所以であるのだ。
「ルリ。前から言っているが、お前は無理をしすぎだ。ぼくは。」と兄であるエシュリオンが言葉を続ける前に、バタンッと扉が開いた。
「ルリーアンジェ!茶会の準備はできているの?」厳しい声が飛ぶ。
兄であるエシュリオンの母であるエカテリ・ビスティア・アンゲフォース伯爵夫人。
そして私の義母でもある。
「ルリーアンジェ。まだ何の準備もできてないなんて。なんて怠慢な娘なんでしょう。」
目尻を上げてしかりつけるように言う。
「母上。ルリは身体が弱いのですから。そんなに無理を言わないであげてください。」と、兄が私を庇うように言うと、義母の態度ががらっと変わった。
「エシュリオン。あなたは優しすぎよ。だから。この娘が調子に乗って、いえ。大丈夫よ。私が支度を手伝うから。あなたは安心してちょうだい。さあ、お父様にご挨拶してアカデミーに行きなさい。」
義母は猫なで声でそう言うと、私と兄ににっこりと笑顔を見せた。
私には、目が笑っていないその笑顔は相変わらずぞっと感じられたが。
「分かりました。では。ルリ。母上にお任せすれば大丈夫だからね。」
そう言うと、兄は満足そうに部屋を出て行った。
兄は優しい良い人だけれど、現実が全然見えていない。
あれで、次代の伯爵を継ぐのは、不安でしかない気がするけれど、これから兄も成長するだろうし。
まあ、そこに期待して見守るしかないわね。
悪い人ではないから等と、考えていると、また声が飛んだ。
「ルリーアンジェ!何度言えば分かるの!早く支度しなさい。」
兄が居なくなったとたん態度ががらりと変わるのも相変わらず見事なものだわ、と思いながらじっと見つめると、それが義母の癪に障ったのか、目尻を釣り上げて怒鳴り始めた。
「なんなの。その目つきは!なんて生意気なんでしょう。お前の母親にそっくりだわ。あー、いやだわ。家門の力にもなれぬ卑しい血筋の分際で旦那様に縋って。
あの女の血統であるお前など、本来この家には足も向けられない下等な存在でしかないはずなのに。」
また、始まったわ、とルリーアンジェは聞き流しながら、立ち上がった。
「お義母さま。お茶会の道具の支度をいたしますので。」と話を遮ると、ますますカッとなるのが分かったが、
「もうすぐお客様が着かれる時ですし、遅くなりますと、お父様に何をしていたのかとお尋ねを受けますもの。もちろん、わたくしは、このままずっとお義母さまのお話を聞いていたいので。お父様には、お義母と大切なお話があるので、とモリーに伝えさせに行ってもよろしいでしょうか。」
そう言ってルリーアンジェはにっこりと大きく微笑んだ。
伯爵に、と切り出した途端に、義母は話を切り、そそくさと部屋を去っていった。
もちろん、今日もまた耳に不快な捨て台詞は吐いていったけれど。
私はお茶会用の身支度を済ませると、顔にはヴェールをかけて、いつもの茶会部屋に向かう。
「さあ、今日はどんなお茶をお出ししましょうね。」