四.儚き者
彼を見た。
今よりはるか昔の時分より、アマツ神の子孫に付き従う彼がいた。クニツ神の一柱である彼は、ひとを装い、何十年、何百年と経とうとも、当代の帝に仕え続けた。
帝となったアマツ神の一族は時代が下るにつれ、ひとと変わらなくなっていった。
まれに、術に通じ、狭間に立つ者もいた。臣下からは、鬼道に優れた帝と敬われた。
彼は類い稀な帝を支え、今に続く諸制度の基礎を築き上げた。帝抱えの術者集団を形成したのもこの頃だ。過去の苦渋は飲み込んだ振りをして、この世に在り続けた。
さらに時代が下ると、ひとたる臣下が権力を持つようになった。かつて帝自らが執り行っていた政は、臣下の手に渡ってしまった。それでも、帝が帝で在ることに変わりはなく、世の中は動いていく。
スズは、夢を通して、篝火の歩みをつぶさに知った。
「夢渡り、ですか」
不意に声がして、同じ空間に篝火が現われた。
「夢を見るなんて、ずいぶんひとらしくなってしまったものですね」
夢は異次元の回廊でもある。神たるスズが他者の夢に干渉するのは、これが二度目であった。
「あんたは、神なのに、夢を見るのか?」
「ええ。魂はそのままに、在り方がひとに近くなってしまったのですよ。ほら、あの男」
夢は続いていた。篝火が指した方には、壮年の僧がいた。
「名は道鏡。大陸帰りの僧だそうで、帝に取り入ろうと必死でした。その男に謀反の疑いをかけられまして、宮中を追われたのです」
「無実を訴えなかったのか?」
「長らく恭順の意を示し、それなりの働きをしてきた身ではありますが、謀反を考えなかったとは言えません」
篝火は真正直に言い、ゆったりと笑んだ。
「ただ、アマツの神々は地上に根を深く下ろし過ぎました。帝の一族は連綿と続いています。謀反は現実的ではないという判断をしたまでです」
「帝を殺すだけが謀反ではないと?」
篝火はますます笑みを深くする。
「当然でしょう。アマツの神々を根こそぎ地上から追いやってこその謀反ですから。あの男は、帝ひとりが狙いだと思っていたようですが」
壮年の僧が先頭に立ち、篝火を糾弾している。声までは届かなかったが、僧の言葉に周囲も同調しているようだった。
「ほら、あの男の後ろに女人がおりますでしょう? このときの帝は女人だったのです。アマツの血は男にのみ受け継がれていく仕組みですから、彼女は厳密には帝にはなりえないのです。次代への繋ぎでしかない存在なのです」
「それでも、あんたは仕えたのだろう?」
「ええ。互いに互いを疎ましく思いながら、表向きは和やかに」
「全然和やかに聞こえないんだが」
スズが呆れてみせると、篝火はわずかに眉をひそめた。
「そこをつけ込まれたのです。あげく、僧に同調したほかの術者に呪殺されました。文字どおり、体を八つ裂きにされたのです。惨い真似をするものですね」
「でも、生きてるじゃないか」
「死んだ振りをした方が、その場は収まりますでしょう。とはいえ、そのときに神としての権能をはく奪されてしまったので、死んだも同然です」
スズはなるほどと頷いた。
「あんたと初めて会ったとき、神だと感じなかったのはそのせいか」
「すでにひととして生き過ぎていましたから。在り方がひと寄りになっていたせいもあります。呪の効き目は高く、易々とはく奪されてしまいました。ふたたび動き回れるようになるまで、二百年以上も眠らなければならなかったのですよ……思い出しても口惜しいですね」
篝火はわざとらしく、ふぅと息を吐いてみせたが、本気で口惜しいと思っているのか疑問だった。
「ですのでね、最後の神罰として、あの男に呪いをかけたのです。その後、あの男の企みが露呈し、無残な死を遂げました」
やり返してやったと告げる篝火は、清々したとばかりに満足げな笑みを浮かべている。
「そいつの企みはなんだったんだ?」
「女帝に取り入り、権力を欲しいがままにするだけでなく、自ら帝になろうとしたのです。ただのひとである分際で」
「それは、駄目なことなのか?」
「ええ、駄目です。神による罰が相応しい罰です。この国はアマツ神が支配する国。我らクニツ神が血涙を流し、譲り渡したこの国を、アマツ神以外が支配するなど言語道断です。アマツ神の血を引かぬひとなぞが、帝にとって代わろうなど烏滸がましい」
篝火の憤りは激しかった。
アマツ神には恨みがある。そのくせ、アマツ神以外の統治を認めない。
アマツ神の統治でなければ、我々の苦渋の決断は泡と消える。それはなんとも度し難い。
服従せざるをえなかったクニツ神の、唯一の落としどころなのだろう。だから、アマツ以外の者が統治することに激しく拒否感を覚える。
スズには理解できない心情だった。
「あの男は失敗しましたが、次のひとは上手くやっていますね。藤原といいましたか。眠りについている間に、ずいぶん大きく世の中が動いたものです」
場面は切り替わり、御簾越しに何人かの貴族が帝に向かって頭を垂れていた。
「眠っていた間の過去を視たのか」
「ええ、情勢を把握するのが習い性ですので。時の流れに干渉することはできなくても、かろうじて視ることはできるのですよ」
世情に興味がないスズは、マメな奴だと感心した。
「自分で実権を握りつつ、決して帝になろうとしない。帝を廃そうともしない。臣下の身分というものを弁えています。ふふ、そのうち、完全に帝中心の政から臣下中心の政になるでしょうね」
先ほどの怒りを引っ込めた篝火は、今度は愉快そうに笑った。スズはますます首を傾げた。
「それはいいのか?」
「ええ。『帝』として存在してこそ意義があるのです。現実の役割なぞ、『ひと』に任せておけばよいのです。それでこそ、嫌がらせのし甲斐があるというものです」
「……嫌がらせ?」
「はい。謀反でなくとも、アマツを困らせる方法はいくらでもありますから」
篝火は莞爾として言い切った。つくりものめいた笑みより清々しく、一瞬だけ好感が湧いた。けれど、発言の内容は物騒だ。
「……あんたの好きにすればいいと思ったが、止めた方がいい気がしてきた」
渋面を作るスズに、篝火は口元に手を当て、ころころと笑った。
「今さらです。貴殿を彼の地に連れて行けば、目論みどおりに事は動くでしょう」
「おれはあんたに加担する気はないぞ」
「貴殿にはなくとも、あの御方はどう思うでしょうね?」
「クロガネか……」
スズは深々とため息を吐いた。
「この辺りの神々のことはよく存じております。貴殿らはひとの関係性で言うところの、親子あるいは兄妹といった間柄に似ているのではと見受けられます」
「調べたのか」と問えば、「知らなければ策は立てられませんので」と飄々と返ってきた。
「クロガネが、おれの身を案じて、あんたに加担するとは思えんがな」
「そのときはそのときです」
篝火は余裕のある態度を崩さなかった。スズは「とにかく、あいつの元へさっさと返してほしいんだが」と呟いた。
「あいつとは?」
「義平だ。あいつはおれの眷族だからな。まだ力が弱いから、おれから離れすぎると死んでしまう」
篝火は不思議そうに首を傾げた。
「貴殿が気にすることでしょうか? 眷族が死んでしまったなら、新たに増やせばいいのです。さすがに、彼の者のようなひとの身をした眷族は難しいでしょうけれど」
「あいつでなければ嫌なんだ」
「……ずいぶん肩入れされているようですね」
ムッとして言い返すスズに、篝火は興味を抱いたようだった。
「おれのせいで死なれるのは嫌だったから助けただけなんだが、結果的に眷族になってしまった」
「それで責任を感じていると?」
「それも、ある。だが、今は、あいつとともに過ごしてみたいと思ってる」
「熱烈ですね」と篝火は軽く目を見張った。
「そう思うようになった理由を教えていただいても?」
面倒くさいと思ったが、答えるまでしつこく聞いてきそうだ。スズは目を伏せ、「あいつは、おれに謝ったんだ」と口を開いた。
「ひとの訴えを鵜呑みにし、一方的に退治しに来てすまないと」
篝火は呆れたような顔をした。
「都随一と名高い武官は、ずいぶん甘い考えをお持ちなのですね。敵の事情を知ったところで、討ち取るのが仕事でしょうに」
スズも頷く。
「おれも、気にしてない。互いに事情があってのことだ。まあ、事情がなくても、おれの安寧を脅かす者は殲滅するが」
「おや。それではこの身が危ないですね?」
「不覚だった。あんたはおれを神域から切り離したからな。あの沼にはもう戻れん。住処まで奪ったのは絶対に許さない」
淡々と恨み節を零すスズに、篝火は涼やかに笑った。わるびれた様子はない。
「ふふ、それはそれとして。貴殿の真実を知り、頭を下げたひとの高潔さに惹かれでもしましたか?」
「守ると言ったんだ」
スズは、おのれを真っ直ぐ見据えた義平の、真摯な表情を思い返した。
「守る? 混ざり者の眷族が、神である貴殿を? 仕えるのではなく?」
「永くこの世に在るが、ああしておれと直接関わろうとするのが珍しくて。こういう過ごし方もありえるのだなと」
群れをなしたり、集団で暮らす妖しもいれば、共同体を形成する妖しもいる。一方で、単独で生きるのが常態である妖しもいる。スズは後者だった。なので、篝火には「変わっている」と言われるだろうと思った。しかし篝火は、「……わかります」と共感を込めて頷いた。
「わかりますよ。ひとりでいることがふつうなのに、他者と関わり、繋がり、ともに過ごしたいと願う、その気持ち」
篝火が遠くを見つめる。夢はまだ続いていた。篝火の視線の先には、年若い男が馬に跨り、大勢の兵を率いる姿があった。
「最近の出来事です。平将門……彼の者も、古くはあれの血筋を引く一族の末裔でした」
「アマツ神の末裔か」
「はい。といっても、その片鱗すら残さないただのひとです。元は帝の一族でしたが、曽祖父の代で臣籍に下り、坂東を治めていました」
「大勢の兵を率いているのはなぜだ? 戦でも仕掛けたのか?」
「似たようなものです。彼の者は、我こそが新皇であると名乗り、坂東で乱を起こしました。ここ信濃国の小県郡まで攻め入った時もあったのですよ」
篝火の話に、スズはイクとタルのことを思い出した。彼らは小県郡安宗郷の人里に社を構えている。戦に巻き込まれるかもしれないと、わざわざ山深い場所にあるスズの沼にまでやって来て、教えてくれたことがあった。結局戦はすぐに収まったらしい。興味のないスズは、うるさいと思いながら、すべて聞き流すだけだった。
「大胆だな」
「ええ。面白そうだったので、片棒を担いでいたのですが……」
「あんた、そこかしこで嫌がらせしているんだな」
呆れてみせるが、篝火は笑うだけだった。
「それが生き甲斐ですので。だというのに、途中で外されてしまいました」
「なぜ?」
「わかりません。ただ、彼の者は言ったのです。己が為に生きよ、と」
スズは首を傾げた。
「あんた、思いっきり自分のために生きていると思うんだが」
「ええ、そうですよね……彼の者を新皇として都に乗り込みましたら、なかなかに愉快だと思いましたのに。これ以上はない嫌がらせでしょう? あれの血を引いていれば、帝の座に治まるのは誰でもよいのです。ですから、彼の者に手を貸そうと、こちらの事情もお話しましたら……」
「断られたのか」
篝火は「はい」と頷いた。
「元とはいえ、帝抱えの術者が加勢すれば、国家転覆も夢ではありませんでしたのに」
「ひとの考えはわからんな」
「ええ、まったく。彼の者の下であれば、ふたたび仕えるのもやぶさかではありませんでした。ともに過ごせれば、さぞかし――」
夢見る目つきで語っていた篝火の顔つきが瞬時に変わる。
「意外と早い到着でしたね」
夢の時間は唐突に終わりを告げた。
***
信濃国諏訪郡。
折り重なるようにそびえ立つ山々に囲まれた盆地に、諏訪の湖はある。盆地の半分以上が湖といっても過言ではないほど広大だ。なみなみと水を湛えた湖を水源とした辺り一帯は古来よりひとが集まり、集落を形成し、栄えていた。
白み始めた空の上から眺める機会など、そうはないだろう。ただし、そんな余裕があればの話だが。
宣言どおり、クロガネの運び方は手荒かった。義平たちの体を突風で上空に巻き上げたかと思うと、荒々しい気流に乗せられて運ばれてきたのである。あれが諏訪の湖かと思う間もなく、湖畔近くの山腹に落下する。
初音がとっさに術を展開していなければ、地面に打ち付けられて死んでいたかもしれない。
地面に接触する寸前、初音が義平と紅葉を球状の結界で覆った。球状の結界ごと一度地面に落ち、ふたたび空中に舞い上がった。ついた鞠が地面で跳ね返ったときの動きに似ていた。
上空からの落下の衝撃を削ぐことはできたものの、木の高さまで舞い上げられ、木の上に落ちた。
「くそっ……」
とっさに枝を掴んだ義平は、片膝をついて着地した。クロガネは悠々と降り立ち、「おや、無事だったか」と言った。
「初音の結界のおかげでな」
「ふむ。衝突の際の衝撃を和らげるのに一役買ったか。ははは、ひとの使う術というのも侮れないな」
「お褒めに預かり……光栄です……」
よろよろと立ち上がりながら、初音は頭を下げた。
「紅葉、大丈夫か?」
木の枝に引っかかった紅葉はくるりと回転して飛び降りた。「大丈夫です」とは言うものの、血の気が引いた顔をして、気持ちが悪そうに口元を押さえている。
「さて、私はここまでだ。そろそろ時間切れなのでね」
「時間切れ?」
「ああ。彼の神の元から離れられるのは限りがあるうえに、そろそろ祭を執り行わなくてはならないからね。今は私の一部を具現化させているに過ぎない。君たちをここまで運ぶので精一杯だ。これから先は君たちにすべて任せるよ」
そう言って立ち去ろうとする。
「待ってくれ。ひとつ、教えてくれ」
義平は呼び止めた。
「もし、篝火が無理矢理にでも封印を解いたら、この世はどうなる?」
「ふむ。まあ、間違いなくアマツ勢が攻め込み、彼らの争いに巻き込まれるだろうな。ひと同士の争いの比ではないだろう。大地が枯れるか、はたまた水浸しになるか……私があれの立場なら、諏訪の地形を生かして、水攻めにするね」
クロガネはさらりと言った。周囲を山に囲まれた地形であればひとたまりもない。
「その地に住むひとなどお構いなしか」
「当然だ。アマツが目の敵にしているクニツの殲滅あるいは封印が優先される局面で、ひとなぞに構っていられるものか」
万が一にもそうなった場合は巻き込まれぬように気をつけろと言い残し、クロガネは消え去った。
「それはなんとしても止めなければならないね」
初音ははあと肩を落とした。
「謀反を促す動きがあるからと追っかけてみれば、まさか神々の戦に発展するとは思わなかったなあ……」
「はじめに初音様がおっしゃっていた謀反とは、建御名方神のことだったのですか?」
「そういうこと。彼の神の意思かどうかはさておき、復活を目論む動きがあることはたしかだった。ただ、初代様が絡んでるとは、本当に予想外だったよ……」
「なんだ、臆したのか」
茶化したつもりだったが、初音は「まあね」と真面目な調子で返してきた。
「見てたでしょ、本物の神と対面してみっともなく震えていたところ。『狭間に立つ者』なんて言うけど、『ひとならざる者の領域』を、より上位の存在――神々に気づかれないよう覗き見しているようなものさ。ひとなんて、取るに足らない虫けらみたいな存在だよ。彼らにとってはね」
「だが、篝火とは渡り合えていたではないか」
「私はわりと本気だったけど、篝火は本気じゃなかったよ。龍神捕獲が狙いだったから退いただけで、真剣にやり合ったら、結構まずいかも」
「では、今から退くか?」
義平は厳粛な面持ちで尋ねた。
初音に抜けられるのは正直きつい。だが、戦意のない者を戦わせるのは、より危険が付き纏う。
初音は「馬鹿言わないで」と鼻であしらった。
「客観的事実を述べただけで、弱音なんか吐いちゃいないさ。いや、本当は吐きたいけど」
「どっちですか!」
「でも、私、これでも帝抱えの術者集団・八星衆のひとりだよ。やるに決まっているでしょ。戦にならないよう、結界を解かせなければいい話なんだから」
初音が凛呼として胸を張ってみせれば、義平は「そういう男だったな」と頷き返した。
「ところで、ひとつ気になることがある」
考え込むように義平は言った。
「なにか引っかかることでもあるんですか?」
「仮に結界が解かれ、戦に持ち込めたとして、勝ち目があるものなのか? アマツ神からの奪還が目的だとしても、戦力差がありすぎるのではないか?」
「アマツ側は軍勢で攻め込んでくるだろうからね。軍神といえど、勝負は見えてるかなあ」
「では、ほかの目的があるのでしょうか?」
義平はわからないと首を横に振った。
「だが、八星衆の筆頭を務めていた者にしては、やり方が稚拙というか……」
「本気でアマツ神からの奪還を狙っているって感じはしないよねえ。なんていうか、ちょっと困らせてやれっていう感じ?」
「悪戯感覚でこんな大事にするんですか?」
紅葉はありえないとばかりに目を丸くする。
「我々にしてみれば大事だけどね。ま、本人に聞けばわかるでしょ」
三人が一斉に視線を向けた先には、古びた庵があった。ひとが住まなくなってずいぶん経つのだろう。壁は一部が崩れ落ち、屋根には開いた穴から草が生えている。
「思った以上に早かったのですね」
戸口から篝火が現われた。物陰に立つせいか、顔色がひどく悪く見え、さながら幽鬼のようであった。
「まさか、追いつかれるとは思いませんでした。誰ぞの手引きがあったようですね」
「クロガネだ」
義平は正直に告げた。
「クロガネも建御名方神もアマツと敵対することを望んではいない。スズを解放して、ここより立ち去れ」
「望んでいないことなど百も承知です。が、まさかあの御方がお出ましになるとは……見張り役のあの御方が寝返り、結界を解く手助けをしたなんて噂がアマツの耳にはいったら、どうなるでしょうか」
それも面白そうだと篝火は嗤う。
「貴様、何が何でもアマツに戦を仕掛けるつもりか!」
「戦だなんて、大それたことを。ただ、知らしめるだけです。我らここに在りと」
義平の激昂を、ころころと笑っていなす。
「そんなことをして意味があるのか?」
「ええ、大いにありますとも。アマツはクニツより国土を奪っただけであり、我らを根絶やしにすることはできませんでした。もしそんなことをすれば、我らとて徹底抗戦の構えをとるでしょう。そうしたら、この世は滅びてしまう。アマツもクニツもこの世の滅びは望む結果ではありません」
「だから、譲ってやったのだというのだな?」
篝火は鷹揚に頷いた。
「ですが、あのときの無念を忘れたわけではありません。むしろ、アマツには覚えていてもらわなければならないのです。己がしたことを。我らの脅威を」
そういうことかと、初音は得心がいったように頷いた。
「恨みを持つ者が存在するってだけで、当事者は不快に思うものだからね。恨まれるだけのことをしたと自覚があればあるほど、相手を無視できなくなる。戦を仕掛けるというより、嫌がらせに近いかな」
「ふふ、その通りです」
初音の指摘に、篝火は我が意を得たりとばかりに微笑んだ。
「安穏と暮らすアマツに、クニツの謀反があったと広まればさぞかし愉快でしょうね。すっかり平定したと油断しきったところに、いまだまつろわぬ者が存在すると知れば、血相を変えて飛んでくるでしょう。仮初の平和だったと思い知るでしょう」
篝火はますます笑みを深くした。典麗な顔に愉悦の笑みが広がる。
建御名方神が復活し、アマツの軍勢が乗り込んでくる――その様子を想像し、心の底から楽しんでいるような笑みが、義平の目にはひどく歪に映った。
そんな真似をすれば、篝火自身もただでは済まされないはずだ。篝火の破滅的な振る舞いを、義平は理解することができなかった。ただ、哀れに思った。
「そのために、乗り気でない建御名方神を巻き込むのはどうかと思いますが」
紅葉は呆れたように呟く。
「だが、なぜ今なのだ?」
義平は問うた。諏訪の祭はこれまでにも何度も行なわれている。アマツに従っている間も、宮中を追われてからも、機会はあったはずだ。そのときに弱まった結界を解くこともできただろうに。
「時間が必要だったのです」と篝火は答えた。
「時間だと?」
「ええ。帝がひとと変わらないほど血の薄まった状態になるまでの時間が」
「そうか……帝はアマツ神の子孫だから、神と同等とまではいかなくても、それなりに力がある」
「ええ、そうです。アマツ神に恭順したクニツ神など、容易に抑えつけられる程度には力があったのですよ、古代の帝には。ですが、ひとと混ざるうちに弱くなっていきました。ただ……」
途中で言葉を切り、篝火はじっと義平を見つめた。
「まれにいるのですよ。あれの血を濃く引き継いだ子孫が。貴殿も、そのようですね。しかも、アマツの血と龍神の神気が混ざり合っている……完全にひとでなくなったときが楽しみです」
おしゃべりはここまでとばかりに、篝火は袂から三つの箱を取り出し、義平たちに向かって投げつけた。箱二つからは鬼が、ひとまわり大きな箱からは龍の姿をしたスズが現われた。
「龍神殿にはこのまま彼の湖まで飛んでいただき、彼の神を起こしていただきましょうか」
「スズを使って封印を解くつもりか!」
「義平様、来ます!」
スズの前足が周囲の木々を薙ぎ払う。
「くっ……スズ、やめろっ!」
しかし、スズは空に向かって咆哮し、巨躯をくねらせ、次々と木々を倒して行く。
「無駄だよ、義平。今、あれは篝火の式神として使役されている」
「では、どうしろというのだ!」
「龍神様にかけられた呪を解くか、篝火を殺すしか……うわっ」
スズの陰に潜んでいた二匹の鬼が突進してくる。
「はっ!」
紅葉が鬼の脇腹を短刀で掻っ捌く。義平もすらりと刀を抜き、もう一方の鬼を斬り払う。鬼たちは血を流しながらも、唸り声を上げ、攻撃を仕掛けてこようとする。
「俺はスズの眷族だ。あいつに刀は向けられない」
義平は眉間に皺を寄せた。
「そういう戒めがあるもんね。下手に傷つけて、あの方に怒られたくないし」
「鬼はぼくが引きつけます。お二人は篝火を」
「任せたぞ、紅葉」
紅葉はにっこりと頷いてみせた。その眼は金色に煌めいていた。義平が口を開く前に、鬼に飛びかかっていく。
「おい、あいつ……」
「ああ。さっき術をかけ直すときに、鬼の力を解放しやすいように細工しておいた」
「大丈夫なのか?」
「あのときは篝火の術に嵌っていたからね。今の紅葉なら大丈夫でしょ。それに、鬼の力に慣れさせるのもあの子の為さ。封じてばかりでは、宝の持ち腐れだよ」
初音の言わんとすることはわかる。一方で、完全に鬼に成り果てることを紅葉自身が恐れているのも知っている。荒療治になるなと思った。
いつの間にか、篝火は庵の屋根に座っていた。篝火を守るように庵ごとスズがとぐろを巻いている。
「スズを返してもらう」
「ついでに君を捕えて、朝廷に引き渡す。さすがに看過できないんでね」
「武者と術者ですか。絵巻物になりそうな組み合わせですね」
「争いごとは苦手なんだけどね」
言いながら、初音は懐から三枚の符を取り出し、篝火に向かって投げつけた。符は鶯色の鳥に変じ、一斉に篝火を突き刺そうとする。
スズが庇うように間に入り、鳥たちを威嚇した。三羽の鳥は燐光を放ちながら砕け散ってしまった。
燐光に中てられたのか、スズが怯む。すかさず初音が印を結び、呪を唱える。
篝火の頭上に五芒星が浮かび上がった。星が下に動き、その中心で篝火を捕えようとする。しかし、篝火が扇を開き、頭上にかざしただけで、五芒星は掻き消えてしまった。
「五芒星結界による捕縛術ですか……悪くはありませんが、それでは捕えられませんよ」
「そのようだね」
二度も術を破られたにしては、初音は落ち着いていた。以前、沼のほとりで対峙したときほどの緊迫感はない。かといって、隙があるわけではなかった。むしろ、敵の力量を知り、的確に対処している。
「どうする、初音。あやつに近づこうにも、スズが邪魔だ」
「だね。だから、義平は龍神様の相手を頼むよ」
「おい、俺はあいつの眷族だと」
「眷族だから、傷つけることなく、相手できるでしょ。私だと倒しにかかってしまうからね。できるかどうかはともかく」
そういうことならと、義平は抜いた刀を鞘に納めた。
「あやつはお前に任せていいんだな?」
「もちろん。相当疲弊している今なら、私にも勝ち目がある」
初音の強気な発言に、篝火は声を立てて笑った。
「ふふっ……見くびられたものですね。たしかに少々息切れをしていますけれど、貴殿ごときに後れは取りませぬよ」
「では、そこから降りてきたらどうだい? 龍神を使役するのだって、今の君ではひと苦労のはずだ。神でありながら、神よりも格下の妖しの者と同等か、それ以下に落ちぶれてしまったのだからね」
「安い挑発ですね。ですが、あえて乗りましょう」
篝火はゆったりと優雅に微笑み、姿を消した。初音が構える間もなく、背後にふわりと現われ、初音の背中をひとさし指でとんと押す。
軽く押されたように見えたが、初音の体は勢いよく前方に吹っ飛んだ。
「初音!」
義平が叫ぶ。一瞬の出来事で、庇うことも受け止めることもできなかった。
木に激突する寸前、鶯色の大きな鳥が現われ、初音の体を受け止めた。
「……ふぅ、間一髪」
「式神に助けられましたか。さすが、星の加護を受けているだけのことはありますね」
「まあね。だてに八星衆を名乗ってはいないよ。君だって、かつては受けていたのだろう?」
篝火は小さく首を振った。
「すこし、違います。加護を受けていたのではなく、率いていたのです。八柱の星神たちを。呪を受けたときに剥ぎ取られてしまいましたが」
「……なるほど。今でこそ八星衆は複数人で成り立っているが、その昔は君ひとりが名乗っていたわけか。そして、剥ぎ取られた八柱の星神は分散され、ひとりの術者につきひとつの星の加護を受けると相成った」
「そのようですね」
初音の推測に、篝火が興味なさそうに相槌を打つ。
「……うーん、私ってば、計算違いだったかな」
「では観念しますか? その場合、根の国へ向かうことになりますが」
「まさか! ここで死ぬのはまっぴら御免だね。計算が違ったなら、やり直せばいいだけさ」
初音は力強く言い切り、式神の背に乗ると、空高く舞い上がった。
鬼を斬りつけた紅葉は走り出した。篝火に近づく振りをすれば、二匹の鬼は紅葉を追ってきた。小柄な体と素早さを活かし、義平たちがいる場所から離れたところへと誘導する。
鬼種は妖力が強く、妖しの者の中でも上位に立つ。さらに鬼種の内でも格付けがあり、最上位には鬼神の名を冠する者もいる。
篝火に使役されている鬼は、格下の鬼だった。雑鬼とも呼ばれ、都にも跋扈している。
混ざり者は、雑鬼よりも弱く、下に見られる立場である。ただ、父となった鬼は格上だったのか、紅葉には強い妖力が宿っていた。
ふだんは鬼の力には頼らず、並外れた身体能力と義平に習った剣術を駆使し、短刀一振りで戦っている。鬼の力を使わずに二匹の鬼を相手にするのは相当難儀だろう。
使わざるをえないなと、苦味潰した思いで判断する。ただでさえ使いたくないのに、今は初音が術に細工をしたせいで、いつもよりも鬼の力が漲っていた。
参ったなと紅葉は思った。
率直に言って、怖いのだ。鬼の力を使うことが。
篝火に操られていたとはいえ、主人である義平を襲った。力を振るえば振るうほど高揚し、暴れ回っていなければ気が狂いそうだった。
自分を見失うのは恐ろしい。自分のせいで、味方や無関係の者たちを傷つけることも。
倒すべき敵を屠ってもなお、止まらなかったらと思うと、躊躇いが生じてしまう。
一匹の鬼が唸り声を上げて突進してくる。長く鋭い鉤爪で紅葉を切り裂こうとする。紅葉はとっさに躱そうとしたが、躱しきれず、頬を掠めた。
後ろに飛びずさり、体勢を整えると、勢いよく地面を蹴る。矢の如き速さで鬼の懐に入り、首を刎ねようと短刀を食い込ませる。
半分まで掻き切ったところで、鬼の首に刃が食い込んだままぴくりとも動かくなってしまった。
「なっ……!」
押しても引いても短刀は食い込んだままだ。首から大量の血を噴き出した鬼がにたりと笑う。
いったん距離を取ろうとするも、短刀を握っていた腕を掴みとられてしまう。そうして思いきり振り払われる。紅葉は背後の木に打ち付けられた。
「か、はっ……」
一瞬息が止まる。呼吸が整わないうちに、もう片方の鬼が近寄り、紅葉の首を絞め上げた。気道が狭まり、息ができなくなる。
片手で釣り上げられ、鬼の肩越しに先ほど首を掻き切った鬼が立つ姿が見えた。こと切れたのか、動き出す気配はない。そのうち、塵となって消えた。
「う、くぅ……」
視界がぼやけ始める。このままでは首の骨を折られるか、窒息死するだろう。
「マザリモノ、ヨワイ……マザリモノ、シヌ……」
鬼がせせら笑う。こちらの鬼はいたぶる趣味でもあるのか、じわじわと力を強めていく。足をばたつかせても、蹴り飛ばすことすらかなわない。薄れゆく意識の中、紅葉は必死に頭を巡らせた。
義平に拾われた恩を返せず、鬼に侮られて死ぬのは絶対に嫌だった。
武器はない。ならば、素手で対抗するしかない。半分でも鬼の血をこの身に引くのなら、自分にだって鬼の腕があってもいいはずだ。
「ふ、、うぅ……」
体内に渦巻いている鬼の力を右腕に集中させる。川の水を沼に引き込むような感覚だった。細い腕は大木のほど太く、白い肌は浅黒く変じた。
「マザリモノ、ヨワイ……マザリモノ、シヌ……マザリ」
巨大化した手のひらで鬼の頭を掴み、小枝のようなあっけなさでぽきりと折る。末期の叫びを上げる間もなく、鬼は塵と化した。
「ぐぅっ……げほっ、ごほっ」
浮いていた体は地面に叩きつけられた。その場に伏して咳き込む。鬼の手は熱を持ったように熱かった。打ち付けられた背中や絞められた首の痛みと全身の疲労感で、すぐに動けそうにもない。
そのくせ気分は高揚したままで、暴れ足りないと感じている。この強大な鬼の手なら、篝火を仕留められそうな気がした。
紅葉は乾いた声で笑った。
「はは……やっぱり、ぼくはどう足掻いても鬼なんだな……」
鬼の腕はやがて萎んでいき、元に戻った。その頃には息も整い、どうにか立ち上がれるほどになっていた。
体を引きずりながら、義平たちのところへ向かう。
自分は鬼の混ざり者だが、義平の従者でもあるのだ。
己の身の上を嘆くよりも、今は主人の元へ戻るのが先決だった。
式神に乗った初音は、上空から篝火を追い詰めようとしていた。
鶯色の鳥が羽ばたくたび、舞った羽根が刃のように鋭く尖り、篝火に向かって飛んでいく。篝火は舞を踊るように、ひらりひらりと優雅に躱す。
地に刺さった羽は緑の炎を噴き上げて、篝火を円で囲った。スズが炎の中に入ろうとするが、爪で引っ掻いても体当たりしても、炎はスズを寄せつけなかった。
「待て。お前の相手は俺だ」
なおも炎に挑もうとするスズに呼びかける。龍の背によじ登り、その上を駆け上っていく。頭に近づくと、跳び上がって口元の髭を思い切り引っ張った。スズの意識を自分に向けさせるつもりだった。
痛みに驚いたスズが頭を振り、義平を振り落とそうとする。義平はしがみついて耐えた。
「スズ、俺がわからないのか!」
声を張り上げる。操られた紅葉に声をかけたときは逆効果で、紅葉に突撃された。スズの場合はどうだろうか。
もがいていたスズの動きがぴたりと止まる。声の主を探すようにきょろきょろと視線を彷徨わせる。だが、視界に入らないのか、義平に気づいた様子はない。
何度も名前を呼ぶが、返答はなかった。せめて会話ができればと思ったのだが、篝火の支配下にあるかぎり、意思疎通ができないように仕組まれているのかもしれない。紅葉のように、荒れ狂っていないのが幸いだった。
義平に、スズは倒せない。仮に倒せたとしても、自分の命まで危うくなる。スズを止めるには、スズに掛けられた呪を解くか、篝火を殺すしかない。だが、呪の解き方など義平にはわからない。
篝火はどうなったのかと地上を見下ろす。篝火は炎に囲まれ、呆れた表情で初音を見上げていた。
「この程度の結界の類は効かないのですが」
「いいんだよ。君と龍神様を引き離すことが目的なんだから」
「……なるほど?」
篝火の秀麗な眉がぴくりと跳ね上がる。
「義平、今のうちに龍神様の呪を解くんだ」
「解くって、どうやって」
「呪の結び目を断ち切ればいい」
「だから、どうしろと――」
「義平様!」
鬼を引きつけていた紅葉が戻ってきた。満身創痍といった有様だが、二匹とも倒してきたようだ。
「篝火の呪は糸のように体躯に巻きついています。その結び目を切ってしまえばいいのです」
紅葉は黄金色の眼をスズに走らせながら言った。
「以前、お前にもかけられていた呪か! だが、そんなもの俺の眼には見えんぞ」
「いいえ、今の義平様なら見えるはずです。よくよく気配を窺ってください。主神の気配とは異なる気配を感じ取れるはずです」
言われるがまま、注意深くスズの気配を探る。馴染んだ気配とは別に、かすかに異質な気配を感じた。よくよく目を凝らせば、スズの全身に糸のように絡みつき、一か所にまとまっている。
「これが結び目か!」
糸が幾重にも絡まったようなそれは、逆さ鱗の上に重なっていた。
「急所に施すなどたちの悪い。下手したら傷つけかねないぞ」
「術者ならほどくことも可能でしょうが、初音様はそれどころではありませんし、義平様が斬るしかありません」
「死なば諸共か」
だが、逆さ鱗に近づこうものなら、スズが身をくねらせて暴れ回る。下手に刀を抜けば、刀身で傷つけてしまいそうだった。
「紅葉、一瞬でもいいから、あのときみたいにスズを止められないか?」
「ぼくがスズ様を攻撃したときのようにですか? できますが、少々手荒いですよ」
「構わん。思いきり頼む」
紅葉は頷いた。両の眼が黄金色に輝く。同時に、右手が異様に大きく膨れ上がった。肌の色がどす黒く変わり、鋭い爪が生えている。
身の丈以上に巨大化した拳を振り上げ、地面を蹴って跳躍すると、紅葉はスズの頭部を横殴りにした。スズは一瞬動きを止め、どさりと地に伏した。
義平はすかさず抜刀し、結びを断ち切った。逆さの鱗に触れるか触れまいか、すれすれの太刀筋だった。スズを戒めていた呪は黒い靄となり、霧散した。
龍の姿から、ひとの姿へと変わる。義平は駆け寄ってスズを抱き起こした。
「すまん。助かった。だが」
紅葉の一撃が強すぎたのか、スズは失神したままだった。
「すみません……ぼくもまだ加減ができていなくて」
鬼の腕は湯気を立てながら萎んでいき、元の形状に戻った。呼応するように、眼の色も黒く戻っている。
「初音が鬼の力を解放しやすいように細工したと言っていたが、平気なのか?」
「はい。理性があるうちは制御できるので。ただ、使いすぎるのは厳しいですね」
小柄な体で強力な鬼の力を振るうのは負担がかかる。二匹の鬼を倒し、スズを殴り飛ばした紅葉は立っているのも辛そうだった。
「龍神様は奪われてしまいましたか」
緑の炎の中で一部始終を眺めていた篝火はぽつりと呟いた。
「私が言うのもなんだけど、わざわざ龍神様を封じて、使役させなくてもよかったのでは? 封印を解くだけなら、もっと効率的で効果的なやり方があったと思うんだけど」
「いろいろと考えましたが、この方法が面白そうだと思ったのです。見張りの神はさぞかし焦ったでしょうね。同族を利用されかけたのですから」
「もしかして、クロガネ様がスズ様を案じて封印を解くことに協力すると期待した?」
「いいえ。あの御方は自身の役目を全うするでしょう。彼の龍神様を殺してでも」
「……そうして煩悶する様を楽しみたかったのかい? 性格悪すぎだよ」
篝火は笑みを浮かべてみせたが、真意を窺い知ることはできなかった。
「ですが、少々遊び過ぎたかもしれません」
「そのせいで身を滅ぼすことになるわけだ」
「貴殿が手を下すと?」
「生け捕りにしたかったけど、君は存在しているだけで脅威だ。私の独断により、都に連行するのではなく、この場で殺すよ」
初音の宣言にも篝火は動じなかった。
「ふふ、アマツの世に存在する脅威と認めていただけて恐悦至極……貴殿らだけでなく、あまねく知らしめることこそ、我が本望……ですので、この場で消えるわけにはまいりません」
篝火が自身を取り巻く炎に向かって右手をかざす。すると、一瞬にして炎は消え去り、初音は後方に吹っ飛ばされた。木に打ちつけられ、鞠のように跳ねる。
「初音!」
義平が駆け寄る。
「あー……やっぱり、無理かも。悪いけどさ……」
へらりと笑い、初音は気を失った。
「いくら術に長けていても、ひとの体は脆いものですね」
義平は瞬時に抜刀し、構えた。初音が立っていた場所に、篝火が悠然と立つ。義平は先ほどのように、篝火の気配を探った。奇妙な気配だった。スズやクロガネのような重圧はない。かといって、紅葉のような混然とした気配でもない。
篝火は、欠片だった。かつては巨大な岩だったものが、砕けて、濁流に呑まれて小石になってしまったような。
だからといって、混ざり者になりたての義平とは雲泥の差がある。油断などできるはずもない。
「貴殿では、倒せますまい」
篝火はゆったりと笑ってみせる。顔色は悪かったが、消耗しきっている風情ではない。義平は柄を握りしめた。
「百も承知。だが、無様にやられてばかりではいかぬのでな」
「ふふ、嫌いではありませんよ。泥臭く、足掻く姿は」
篝火がくるりと手を返す。風の刃が襲い掛かってくる。義平は刀を振りかぶって薙ぎ払った。その隙に背後を取られる。振り向きざま、斬りかかるが、指先で刃を押し返されてしまった。
「ぐっ……」
踏ん張ることができず、後方に飛ばされる。咄嗟に受け身をとった。「これだから厄介なのですよね、武官は。丈夫な体に研ぎ澄まされた神経、磨かれた武芸によって立ち向かってくるのですから」
体術は苦手なので、と微笑む。義平の体が宙に吊り上げられた。両腕が持ち上げられ、木々の間にぶら下がるような格好となる。
「なっ……」
体にまとわりつくのは糸の感触だった。
「義平様……うっ」
紅葉が駆け寄ろうとするが、その場に崩れ落ちてしまう。限界だったのだろう。
「ああ、貴殿でもよいですね」
息が吹きかかるほどの至近距離まで顔面を寄せられる。黒曜石のごとき黒く光る瞳は鋭いながらも、危うさが見え隠れする。
「何を」
「龍神様は貴殿に執着されているようですから。貴殿を彼の神に差し出せば、きっと怒り狂うでしょうね」
「ふざけるな」
ギッと睨む。
「俺と引き換えにスズが結界を解くなどありえない」
「神の執着を貴殿は知らないのです。この世のすべてを敵に回しても、貴殿を取り返そうとするでしょう」
「……ならば、何故お前はそうしなかった」
「……はい?」
篝火の笑顔が固まった。義平は真っすぐに篝火を見据えた。常に笑みを浮かべつつも、決して満たされない虚ろな目を。その深淵を探り当てるように。
「今なお恨むほどの執着を見せながら、何故その矛先を天上のアマツ神に向けなかった。抵抗する神もいたのだろう? それこそ、建御名方神のように」
「……ええ、そうしたかったですよ。けれど、できなかったのです。彼らに付き従い、国を繁栄させるようにという父神の遺志を継ぐのが役目でしたので」
憎悪をたぎらせながらも、恭順するしかなかったのだろう。生き永らえて、役目を全うせねばならなかった。
そこから長い年月が流れた。ひとの間で、神話として語り継がれるほどの時間が経ってしまった。
それなのに、何故今なのか。
帝の一族に流れるアマツの力が弱まるのを待っていたと言ったが、もっと別の何かがあるような気がした。篝火を駆り立てる何かが。
「……役目までも、奪われたからか?」
義平は独り言のように呟いた。
「何もないのだな、本当に」
篝火の顔から笑みが消えた。ごっそりと感情が剥がれ落ちていく。義平には、これこそが篝火の真実ではないかと思った。
憎悪すら、手で囲っていないと消し飛んでしまいそうなかすかな炎だったのだ。
「彼の者とはまったく似ておりませんのに、同じ眼差しで、同じ言葉を吐くのですね。本当に、憎たらしい」
「ぐぅッ……」
義平の首が絞まった。ぎりぎりと篝火の手が首元に食い込んでくる。
「ええ、何もないのですよ。手に入れたと思っても、気がつけば零れ落ちていく。この手から離れていく。彼の者も、受け入れてはくださらなかった。わたくしを必要としてくだされば、新しき帝にして差し上げましたのに」
何故求めてくれないのか。
何故役目を与えてくれないのか。
何もなければ、この世に存在する意味などないというのに!
憤怒とも悲哀とも言い難い。切実な叫びを聞いた気がした。
認識されなければ、存在しないも同然だ。神もひとも、存在するかぎりは求められたいと願う。願ってしまうのだ。果てのない業のように。
義平は首を反り、思いきり頭突きした。篝火の手が緩む。その隙に、まとわりつく糸が食い込むのも構わず右腕を引く。肉が裂け、血が流れる。痛みはあったが、さらに引くと、ぶちぶちと糸が切れる感触があった。このままやられてなるものかと力を込めるたび、腹の底から活力が湧いてくる。
右腕が自由になると同時に握ったままの刀を振り下ろし、篝火を斬りつける。左肩から胸にかけて血が迸り、篝火が後ろに退く。すぐさま左腕に絡む糸を刀で断ち切り、着地した。
「……力任せに糸の呪を断ち切られるとは。本当に武官は厄介ですね。いえ、貴殿が特別なのでしょう。あれの血を色濃く受け継ぐ貴殿ならば、真の帝にふさわしい」
「俺を担ぎ上げたところで、お前の空虚は埋まるものか」
柄を握り直す。右腕の痛みは徐々に引いていく。スズの妖力のおかげだろう。けれど、はたして一人で倒せるだろうか。力だけを持て余す、哀れな存在を。大量の血を流してなお、悠然と佇む化け物を。
「埋まるかどうかは、やってみないとわかりませぬゆえ」
「駄目だね。義平は私が先に目をつけたんだから」
いつの間にか、篝火の背後に初音が立っていた。篝火が距離をとる前に五芒星の結界で足止めされる。
「初音、無事か?」
「いい時間稼ぎになったよ――開錠」
初音は人指し指と中指を立て、円を描くように空中をなぞる。すると、轟々と風が渦巻き、黒い穴がぽっかりと開いた。
篝火の顔つきが変わった。一切の余裕が消え、険しい表情で上空に現れた穴を見つめている。
「貴殿、まさか」
「そのまさかさ。君を仕留めるにはこれくらいしないと」
突如空に現われた黒い穴に、義平は呆気にとられた。
「あいつ、何をする気だ?」
「わかりません……が、嫌な予感がします」
ふらふらと近寄ってきた紅葉が呟く。
「この炎は捕縛ではなく、足止めですか」
篝火が自身を取り巻く炎をぐるりと見回す。
「すばしっこい君に命中させるのは難しそうだからね。さあ、今から落とすよ」
宣言した初音が次々と印を結び、朗々と声を張り上げる。
「ひさかたの あめの原より 生れ来たる 神のみこと わご大王の 防人とならん」
穴から、ひとの子どもほどの大きさの火の玉が現われ出る。
「あれを落とす気か!」
「あんなの落とされたら、ぼくたちだって巻き添え食らいますよ!」
「紅葉、走れるか?」
「なんとか!」
初音の目的を察した義平はスズを抱えて走り出した。その後に紅葉も続く。
「第七星・破軍!」
火の玉は号令に合わせて、篝火目掛けて落ちていった。落下の衝撃で地面は抉られ、熱風が周囲の木々を根元からなぎ倒していく。義平と紅葉は間一髪のところで大きな岩陰に隠れた。
緑の炎とともに篝火を焼き、火の玉は粉々に砕け散った。
「……なんだ、今のは?」
義平の腕の中にいたスズが目を覚ました。
「大丈夫か?」
「……頭がくらくらする。あと、なんか、すごい音と振動がした」
スズはゆっくりと体を起こし、きょろきょろと辺りを見回した。
「……あいつは?」
「篝火のことか? 篝火なら――」
「ああ、しんどい……二度とやりたくない……」
疲労困憊といった様子で、初音が空から降りてくる。地に降り立つと、緑の鳥はしゅるりと消えた。
義平たちは岩陰から身を乗り出した。
「初音、今のはなんだ?」
「星を落としたのさ。厳密には、欠片だけど」
「星だと?」
「私たち八星衆は北の空に輝く星々の神の加護を受けている。その星神の一部を呼び出して、使役することが可能なのさ」
火の玉に見えたのは、隕石だった。それを人為的に落とさせたのだ。
「篝火はどうなった?」
「さすがに生きてないと……うぇっ」
もうもうと煙が立ち上る窪地から、ゆらりと立つ姿があった。
「最高位の術者でも限られた者しか使えない奥義中の奥義だよ!? 骨の一片どころか魂ごと消滅させてしまうほどの威力なんだ。なんで生きてるのさ」
「貴殿を加護する星はひとつ。かつて八柱の星神を率いていたこの身には耐性があるのですよ。とはいえ――」
現われた者は、ひとと呼ぶにはあまりに無惨な姿をしていた。全身は真っ黒に焦げ、炭でできた人形のようだった。
かろうじて、目だけがそのまま残り、義平たちを見据えている。その目は光を失い、感情が削げ落ちていた。
「とはいえ、いささか堪えました。そろそろ潮時でしょうか」
風が吹き、さらさらと指先から崩れていく。輪郭を保つことすらできなくなっていた。
「さすがに、永く、在り過ぎたようです……このまま……消えてしまうのも……悪くは、ない……」
「待ってくれ」
声を掛けたのはスズだった。ふらつきつつも、篝火に近寄ろうとする。
「あんた、あの男が言ったように、ちゃんと己が為に生きれたか?」
「ふふ、どうでしょうね……貴殿は、ちゃんと、生き」
みなまで言い切る前に、篝火は跡形もなく消えた。永く在り過ぎた、かつて神だった者のあっけない終わりだった。
***
義平一行は山を下り、諏訪の社に赴いた。諏訪の社は湖の北岸に下社秋宮と春宮が、南岸に上社本宮と前宮がある。クロガネが呼んでいるとスズが案内したのは、下社春宮だった。
義平たちは徒歩で移動した。初音は篝火の消滅を確認すると、八星衆の筆頭に報告するための式神を飛ばしたとたん、力突きて倒れてしまった。紅葉も万全の状態ではない。スズが龍の姿をとって運ぶと言ったが、それでは人目につく。
義平が初音を、スズが紅葉を背負った。紅葉は恐縮し、自分で歩くからと拒んでいたが、スズにひょいと背負われてしまうと大人しくなった。
春宮に近づくにつれ、大勢のひとが集まっていた。社に仕える神職や氏子で賑わっている。境内の四隅に大木が建立されるごとに、わあっと人々の歓声が上がる。
七年に一度の祭があるのだったなと思い出した。自分たちの奇異な恰好――とくに、義平の髪と目の色――のせいで耳目を集めたくはない。ひと目のつかない場所に潜み、暗くなるのを待ってから社殿に忍び込んだ。
「ご苦労だったね」とクロガネの声が聞こえ、柱の陰からゆらりと姿を現した。
「ここは我が神域の一部だ。ほかの者からは見えないようになっている。もちろん、干渉するのもほぼ不可能だ。まずは体を休め、回復に努めるといい」
「心遣い感謝する」
義平は初音を床に横たわらせた。目立った外傷があるわけではなく、体を休めれば回復すると、気絶する寸前に初音が言っていた。スズの背から降りた紅葉はクロガネに気圧されたのか、ぎくしゃくとしてその場に正座した。
「さて、言いたいこと聞きたいことは山ほどあるが、まずは彼の者の暴挙を止めたこと、礼を言おう」
「ああ。だが、篝火の命と引き換えに、だ。建御名方神にとっては同族の神であろう。それしか手がなかったとはいえ、申し訳なく思う」
「なに、構わんさ。あれは自分でも本当の望みを分からずに動いていたフシがあるからな。神の座にも戻れぬ哀れな存在よ」
心の底から同情した物言いだった。義平は疑問を口にした。
「以前、名を持たない神と言っていたな。それと関係があるのか?」
「名を持たないということは、神として存在が認知されていないということだ。ひとにも同胞にも神と認知されない者が、神の座に戻れるはずがない」
「……なら、あいつはどうなったんだ?」
スズが気がかりな様子で尋ねた。
「神とひととでは、死の定義や概念が異なるが、ひとまず『この世からその存在を足らしめるものが失われた』状態であるとしよう。ひとは死んだら魂が巡る。神は死んだら隠れる」
「隠れる?」
義平は首を傾げた。
「この世という表舞台から降り、二度と現れないということだ」
「じゃあ、どこかに存在しているのか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。なにせ、隠れているからな」
「篝火もこの世ではないどこかにいる可能性があるわけか」
「あやつは異例だ。神として隠れたのか、ひととして死に、死者が集う場所――根の国へと向かったのか、見当がつかない」
義平とクロガネのやり取りを聞いていたスズは「そうか」と頷き、静かに目を伏せた。
「ところで、あれを滅したのは何だ? 夜明け間近だというのに、一瞬だけ山際が昼のような明るさだったぞ」
「俺も詳しく知らんが」
前置きして、初音の説明をそのまま伝える。クロガネは興味深そうに頷いた。
「なるほど、北の星神の力か……まったく、アマツときたら星神まで仲間内に引き込むとはなあ。小癪な真似をする」
「厳密には、何代か前の帝が施した術らしいぞ」
八星衆が結成されたのも同時期だと聞く。
「同じことさ。アマツの血を引く者のすることなぞ」
ふんと鼻を鳴らし、いけ好かない様子でスズに向き直る。
「一番の問題はお前だよ、スズ。神域である住処を失くしたら、永くは生きていられまい」
「本当か、それは」
声を上げたのは義平だった。
「アマツやクニツのような人格がある神とは違い、我ら自然から成る者は神域こそが生命線とも言える。といっても、すぐに消えるわけではない。せいぜい二、三百年は保つだろう」
「あの沼に戻るわけにはいかないのか?」
義平の問いに、スズが答える。
「あの場所とは縁が切れてしまった。戻ったところで、おれの神域とするのは難しいだろう」
縁が切れたとは、篝火に封じられたときに義平も感じていた。スズが戻ればひょっとしたらどうにかなるのではないかと淡い期待を抱いていたが、そうはいかないらしい。
「ではどうする? このままでいるわけにもいかないだろう?」
「別の土地を探すしかあるまい。スズと相性が良く、清浄な土地を。そこで上手い具合に縁を結ぶことができれば、スズの神域となる」
「すると、やはり錫石が成る土地がいいのか?」
「まあ、そうだな。あとはこの社のように、ひとびとに存在を認知され、信仰を集めるとなおいい」
諏訪の社は建御名方神を封じる装置であるとともに、建御名方神への信仰を集める舞台でもある。
クロガネの説明に、義平はふと疑問を覚えた。アマツは建御名方神が邪魔で封じたはずだ。それなのに、社を建て、信仰を集めさせたら、建御名方神に力を与えるようなものではないか?
義平の問いに、クロガネが答えた。
「たしかに、彼の神への信仰をなくせば、彼の神の力を削ぐことができる。その逆もしかり。だが、アマツにそれはできない」
『信仰する』という行為は、『ひと』が自発的に行なうものであり、他者が強要するものではない。強要した信仰は、ただの洗脳である。
建御名方神を攻めたとき、すでに彼の神を信仰するひとが大勢いた。だから、殺せなかった。建御名方神を殺せば、ひとはアマツに鞍替えして信仰するどころか、憎悪するだろう。神であるかぎり、ひとからの信仰はアマツも必要とするところなのだ。建御名方神を封じ、信仰の拠りどころを残すことで、ひとびとの憎悪を和らげたのだ。
「この社は彼の神を信仰しつつ、私をも信仰するように巧みに設計されている。ひとが信仰するほど、結界は強まるのさ」
クロガネから絡繰りを聞いた義平は、上手く出来ているものだなと感心してしまった。口にするとクロガネに睨まれそうなので、決して言葉にはしなかった。
「おれの住処か……」
スズがぼそりと呟いた。スズの住処探しは本人にとっても義平にとっても急務である。
「今後新たな住処を探すとして、それまでの間はどうしたらいい」
「仮初の神域を作るのがいいだろう。気休めだが、ないよりはいい」
要は封印と同じだとクロガネは続けた。
「彼の者がしてみせたように、ひとつの物に封じてしまうのだ。そこに宿らせると言ってもいい」
「ひとの姿をとり続けるのは駄目なのか?」
義平とクロガネのやり取りを聞いていたスズがおもむろに口を開いた。
「変化の術は苦手だとぼやいていたじゃないか」
義平が指摘すると、「……練習する」と渋々ながら答えた。
「何にせよ、仮初の神域は必要だ。私が用意をするから、しばらくここに逗留するといい」
「わかった」
「礼を言う」
頭を下げる義平に、「練習が必要なのは君もだよ」とクロガネは呆れてみせた。
「せっかくスズとまぐわって得た妖力を使わないでどうする」
「まぐっ……!」
紅葉が素っ頓狂な声を上げ、慌てて義平を見上げた。
「な、なぜそれを……」
「スズの濃厚な神気が君から漂ってくるんだ。気づかないわけがない」
「本当なのですか、義平様!」
目を怒らせて紅葉が詰め寄る隣で、スズが「……なるほど」と得心がいったように頷いている。
「あれもまぐわいと言えばまぐわいか」
「意味ありげな言い方をするな!」
「では、まぐわいに近い行ないをしたのは本当なのですね?」
紅葉の追及に、義平は「……口を、吸った」と正直に答えた。
「ふむ。最初はその程度が望ましいだろう。一気に神気を注がれたら耐えられないかもしれないからね」
我を忘れて暴走しかけたことを思い出し、義平は神妙に首肯した。
「それに、妖力を得たといっても、孵化した雛鳥がようやく歩き出したようなものだ。力の使い方を覚え、鍛練に励みなさい。私が直々に教えてやろう。もちろん、そこの鬼の子もね」
突然話を振られた紅葉はびくりと体を震わせた。
「は、はい、ありがとうございます……」
「申し出はありがたいが、一体どうやるのだ」
「それはあとのお楽しみさ」
クロガネはにんまりと笑った。その笑みを見た一同の背中に冷たい汗が流れた。
諏訪に来てから、ひと月ほど経った。
目を覚ました初音はひと足先に都へ戻った。目覚めた直後は気力に満ち溢れ、溌剌とした様子だったが、社の外に使いの式神が現われるなり、ひどく青ざめ、帰りたくないと駄々を捏ね始めた。理由を問えば、「怒られるから」と心底嫌そうに答えた。
「何故だ? 我々は篝火の暴挙を止めただろう」
「うん……私が奥義をぶっ放してね」
それが問題視されているのだという。
「あれ、奥の手だからあんまり乱発しちゃいけないことになってるんだよね。術者にも負担がかかるし、星の欠片を落とすわけだから、この世にも影響を与えかねない。事情聴取という名のお説教を受けに行くのさ」
しらばくれるわけにもいかず、初音は行きたくないと嘆きつつ、都へと向かった。
クロガネと顔を合わせる機会がなかったので、社の本殿で謝意を込めた祝詞を奏上していった。
残った義平たちはそれぞれの課題に励んだ。義平は妖力の使い方を、スズは仮初の神域に慣れることを、紅葉は鬼の力を自在に制御し、使役する方法の習得を課せられた。
こんなものだろうとクロガネが終わりを告げる頃には、皆一様に青ざめた顔をしていた。個別に行なわれたので、互いにどんな鍛練をしていたのか知る由もない。ただ、顔を見合わせ、目線だけで互いの苦労を感じ取り、労わり合った。
ともあれ、実践的な方法を学べたのは僥倖だった。義平たちは深々と頭を下げた。
「なに、暇を持て余した神からのありがたい手ほどきと思いたまえ。とくに君はスズのお気に入りだからね。身内にはやさしいんだよ、私は」
言外に、「鍛練してやったのだから、身体を張ってスズに尽くすように」と言われた気がした。一時的にでも、篝火の手に落ちたのがいまだに業腹らしい。
また、スズの一件を知ったイクとタルが諏訪の社に押しかけた。ふたりともわんわん泣いた。スズがうるさそうに、「お前たちが泣いたところで変わらん」と突っぱねるので、義平が宥めるしかなかった。
矛先は義平に向けられ、「よっしー、何とかして!」と詰められた。たとえ神でも、見た目は子どもだ。泣きつかれると邪険にはできない。良い場所を見つけるからとしか言えなかった。
クロガネは、まともに取り合わなくていいと言い、ふたりを社から放り出してしまった。薄々感じていたが、ふたりに対する態度が雑である。
ふたりは、「絶対戻ってきてね!」「約束だよ!」と言い残して去っていった。
義平たちは諏訪を後にし、都に向かった。先に、元次には後始末をしてから都に戻ると文で伝えてある。それに対する元次の文には、友保の帰国とあわせて自分も帰ること、沼から屋敷に戻る道すがら、よしのの集落に立ち寄り、友保の口から龍神が退治されたことを告げたと書かれていた。
元次によると、ほとんどの住人が安堵するなか、複雑そうな表情を浮かべる者もいたそうだ。
贄を要求する悪しき神とは、篝火によって作られた虚像である。古くからあの沼に在り、祀られていた神の不在を嘆かわしく思う心情は理解できた。
スズに告げると、「仕方のないことだ」と淡々と返された。
「おれはもう、あの沼の神ではないからな。沼は残るだろうが、おれの住処ではない」
淡々とはしていたが、無表情な顔にどことなくもの寂しさを覚えた。
「まずは都に戻るが、早めに良い場所を探そう」と義平は言った。スズはこくんと頷いた。
一行が諏訪を旅発つ日は、すべての祭が終わった日だった。クロガネによると、春の終わりから、ふた月ほどかけて行なう大がかりな大祭らしい。昔から伝わる祭と聞くが、本当の意味を知る者は少ないのだろう。
神域の中にいる間、ついぞ建御名方神と対面することはなかった。「彼の神は引き籠っているうちに、ほかの存在と面会することが厭わしくなったようでね。まるで隠棲した老人のようだ」とクロガネは茶化した。
あとで紅葉がこっそりと、「そんなにほいほい現われても困ります」と零した。
神とは秘されるべきもの、それでいて存在を信じられるものとして君臨する存在である。ひとはおろか、妖しの者の前にも滅多に現われない。神自ら手ほどきをするなど、もってのほかである。クロガネが義平と紅葉を鍛えたのは、ひとえにスズの為になると考えたからだ。
一行は都に至る道を進み始めた。厳しい鍛練のおかげで、義平は変化の術を体得した。深紅の髪と銀の眼は、今は黒く変じている。体感として、何十枚もの着物を重ね着しているような窮屈さがあった。慣れるしかない。
紅葉はすこしだけ背が伸びた。鬼の力を封じる術のせいで、身体の成長が阻害されていたそうだ。初音が細工して術を緩め、紅葉自身が制御できるようになると、鬼の力の負荷に耐えようと必然的に体が成長したらしい。長身の義平からすると、あまり変わっていないように見えたが、紅葉は背が伸びたと喜んでいた。
体を鍛えれば、鬼の力による負荷にさらに耐えられるようになるとクロガネに教わったそうだ。屋敷に戻ったら、紅葉と一緒に鍛練に励もうと思った。
そして、スズは手鞠ほどの大きさの玉の中に封じられた。そこが仮の神域である。スズの長大な龍の体をどうにか圧縮し、クロガネが用意した銀白の玉に押し込めた。仮の住処に馴染むまで、時間が必要だった。広大な沼で、龍の姿で悠々と暮らしていたのだ。さぞや窮屈だろうと思ったが、慣れてしまえば存外悪くないとスズは言った。
銀白の玉を布に包み、義平の背に負っている。姿は見えないが、声は聞こえるので、会話に不自由はなかった。歩きながら、義平は尋ねた。
「スズ、最後に篝火と交わした言葉、あれはどういう意味だ?」
スズは篝火の夢に渡り、過去の出来事を知ったのだと言った。そして、その内容を訥々と語った。
聞き終えた紅葉は驚いた表情を浮かべた。
「話を聞くかぎり、あの乱のことですよね」
紅葉の指摘に義平は頷いた。
「間違いないだろうな。あの乱にも関わっていたのか」
「途中までだそうだ。あいつは、ともにいきたがっていた」
「己が為に生きよ、ですか……その方の目には、あの者はどう映ったのでしょうね」
「さあな。俺の印象だが、アマツに嫌がらせすると言いつつ、それしか拠りどころがないような、不安定な感じはした」
行くあてもなければ、確固たる目的もあるようではなかった。篝火が語った言葉は本心ではあるだろう。けれど、空虚に響いたのは、篝火自身が今の在り様に納得しきれていない部分があったようにも思える。それを見抜いての言葉だったのかもしれない。
義平は軽く息を吐いた。当人たちにしか知りえないことを憶測で語るのは、解の無い問答を繰り返すようなものだ。
篝火の心に響いた言葉があり、それを最後にスズと語らった。部外者はそれだけを受け止めておこう。
「永く在るというのも考えものだな」
そう零すと、紅葉が拾い上げた。
「混ざり者でも、ひとよりは長命です。篝火の在り方は考えさせられますね」
つい他人事のように考えていたが、義平自身もそうなってしまったのだと思い至る。ひとと同じ時間を生きることはできないのだ。
「残念だが、あの女人を見送ることになるぞ、義平」
「あの女人?」
義平はすぐに思い当たらなかったが、紅葉は驚いた声を上げた。
「諾子様をご存じなのですか、スズ様」
「なっ……なぜ知っている? 俺は話した覚えがないぞ」
「最初、沼に連れ込んだとき、あんたの夢を見た」
言われて、徐々に思い出す。あのとき、諾子との過去を夢に見ていた気がする。
「義平様の夢を渡られたのですね……」
紅葉が気の毒そうな視線を義平に投げて寄こす。
「ひとの夢を渡るのは初めてだったが、なかなか面白かったぞ」
「勝手にひとの夢を覗くな!」
「勝手に迷い込んでしまうんだ。毎回ではないから、安心しろ」
「まったく安心できないんだが」
義平は咳払いをして、「諾子には帝がいらっしゃるから大丈夫だ」と言った。
「そういうことではないと思いますが……」
「帝がいることと、あんたが懸想していること、どう関係あるんだ?」
義平の足が止まった。
「なん、だと……?」
「あんた、あの女人を好いているのだろう?」
「……俺が、諾子を……」
ついでに時も止まった。重たい沈黙が落ちる。ややあって、スズが躊躇いがちに口を開いた。
「…………違うのか?」
「違いませんよ」
紅葉は義平の背中にある玉に向かってひそひそと囁いた。
「義平様、ご自分の御心に気づかれてないんです。あくまでも家族に向ける親愛の情だと思っていらして、恋情だとは露ほどにも思っていません」
「え……あんな夢を見ておいてか?」
スズの驚きが背中を通して伝わってきた。
「どんな夢か気になりますが、鈍さにおいては右に出る者はいないかと」
「……聞こえているぞ、ふたりとも」
顔から火が出るほどの羞恥だった。諾子への想いも、自分の心を知らなかったことも、他人には筒抜けだったらしいことも、すべて羞恥となって義平を襲った。穴があれば埋もれたかったし、人目がなければ大声で喚き出したいほどだった。
「ちなみに、元次や初音は……」
「ご存じですよ。諾子様も気づいておいでのようでしたけど」
今度こそ、義平は頭を抱えながら絶叫した。地鳴りのような低い呻き声が響き渡る。
「だから言ったじゃないですか。横恋慕した男の命に従うんですかって。それでも気づかないのはどうかと思いましたけど」
「そうだったのか……それは……かわいそうにな……」
おろおろとしつつ、慰めの言葉を捻り出そうとする雰囲気が嫌でもわかってしまう。あまりにも憐れまれるので、居たたまれなくなる。消えてしまいたい。
「もう何も言ってくれるな……」
打ちのめされ、虫の息である。他人様に指摘され、自覚すると同時に失恋するとは悲劇だ。それとも、ひとは滑稽な話だと嗤うだろうか。
「とにかく都に戻りましょう。どうせ帝には報告せねばならないのでしょう?」
「あの女人にも会いに行くのか?」
「諾子様は帝の妃になられたので、お会いするのは難しいでしょうね。忍んでいけばできなくもないでしょうけど」
「わかった。忍べばいいんだな」
真に受けた様子で頷くスズに、「よくない! 紅葉も余計なことを言うな!」と唸る。
「ですが、初音様に仕組まれたとはいえ、諾子様の推挙があったから、この件を任されたのでしょう? 諾子様も気にかけておられるのではないですか? 直々にご報告して差し上げるべきかと」
「そうだな。おれも、あんたをこのような身にしてしまったことを詫びるべきだと思う」
明らかにふたりは楽しんでいた。紅葉はいつもどおり義平に遠慮がないし、スズは声こそ淡々としつつも、なんとなく愉快な気分でいることが察せられた。
出会ったばかりは距離があると感じたふたりだが、諏訪の社で過ごすうちに打ち解けたらしい。主人たる神と長年の従者が仲良くなることは喜ばしい。が、ふたりして義平をからかいに来るのはいかがなものか。
この先が思いやられると、なかば諦めながら空を見上げる。
一羽の鳥が羽を広げ、悠々と飛んでいく。義平の千々に乱れた心とは裏腹に、のどかな青空だった。
了