二.混ざり者
義平一行が訪れた信濃国は、都より東の内陸に位置する。二つばかり国を通り、三十日ほどかけて到着するその国は、南北に長く、四方を高い山々に囲まれている。さらに東へ進むと、海沿いの東国へと通じるため、古来より交通の要でもあった。
国力は上国。甲斐、武蔵、上野とならび、信濃もまた御牧が決められている。御牧とは、朝廷の料馬を飼育する牧を指す。
また、「みすずかる信濃」と詠われるように、湖沼が多く、葦や薦、茅が多く生える土地でもあった。
この頃、信濃国に赴任していた受領は藤原友保といった。数年前に任命されて以来、任期を終えてもなんのかんのと理由をつけて帰国していない。
また、今回の龍神退治を訴えた張本人でもあった。いわく、領民を困らせる龍神が退治されてからでないと帰るに帰れないというのである。
近年、朝廷から派遣された受領が任期満了となっても帰国せずに土着し、有力な豪族となる例が後を絶たなかった。
なかなか帰国しようとしない友保に手をこまねいていた朝廷は、ならば援軍を送るからさっさと始末して帰国せよと義平を派遣した。義平の龍神退治の裏側には、そうした理由もあったのである。大半の人間は龍神の存在を信じず、帰国しないための方便だろうと高を括っていた。
「まさか、こんなことになるなんて……」
義平の愛刀を握りしめながら、紅葉は唇を噛みしめた。
義平を失った一行はいったん退き、逗留している友保の屋敷へと戻った。怪我を負った者は別の場所で手当てされている。
部屋に戻った紅葉は背中を丸めて座り込み、その場から動けなくなった。紅葉に怪我はなかったが、その胸の内には掻き毟らんばかりの後悔ばかりがあった。
当初、義平から龍神退治の話を聞き、同行を命じられた紅葉も懐疑的だった。龍神の存在ではなく、本当に龍神の仕業なのかという点について、紅葉は眉を顰めた。
「ああいう存在は滅多に人前に現れませんし、ほとんどひとに干渉しません。罰を与えるというならありえるかもしれませんが、困らせているというのは、ひとが勝手に龍神の仕業にしているだけではないでしょうか」
紅葉の考えに、義平は神妙に頷いた。
「だが、帝直々に命を下されたのだ。万が一ということもあるからな。行かぬわけにはいかん」
「ですが、都を離れてまで龍神退治だか受領の連れ戻しだかを、なぜ義平様がやらなければならないんです? ほかに適任者がいるでしょう?」
「諾子が俺を推挙したそうだ」
「諾子様が?」
紅葉が義平の屋敷で暮らすようになってから、諾子とも交流があった。従姉弟の間柄というが、二人の間に漂う空気には実の姉弟同然といった気安さとそれ以上の親密さがあった。
なんとなく、この二人は将来夫婦になるのだろうと紅葉は思っていた。義平からは好意が駄々漏れであったし、諾子もまんざらではなさそうだった。
しかし、諾子の入内が決まり、紅葉の考えは絵空事で終わった。これはさぞかし悲嘆に暮れているだろうと思いきや、義平は常のとおりだった。「行き遅れるかと心配していたが、これで安泰だな」と軽口さえ言ってのけた。
日頃から、おのれを律し、無様な真似はするまいと心がけている主人である。表立って、破れた恋を嘆く真似を良しとしないのだろう。紅葉はそう思っていた。
入内前に諾子が里帰りした日、用事を済ませた紅葉が義平の元に戻ると、義平は一心不乱となって弓矢を射っていた。的には刺さった矢が溢れ、的の後ろの木や塀にも刺さっている始末である。
なにか心乱れることでもあったのかと尋ねたが、義平はなんでもないと答えた。諾子の来訪が原因であることは一目瞭然だった。
さっさと夫婦になってしまえば、帝に横取りされることもなかっただろうにと思った。聡明な紅葉は、思うだけで口にはしない。口にするときは、どうしても我慢できなかったときだ。
紅葉が知るかぎり、義平の心を乱す女人は諾子以外にいない。その諾子が帝に義平を推したとあっては、義平はなおさら拝命せざるをえなかっただろう。断れば、諾子の面目を潰しかねない。
「体よく面倒ごとを押しつけられた気がしますが、諾子様のためというなら、致し方ありませんね」
「別に、諾子のためだけというわけではないぞ。帝の憂いを取り除くのも臣下たる者の役目だ」
「うわーよく言いますね。想い人を横恋慕してきた相手ですよ?」
「なんの話だ?」
義平は心底わからないという顔をした。妙な沈黙が落ちる。紅葉はまさかと思った。
「まさか、義平様、無自覚で……?」
「だから、なんの話だと聞いている」
紅葉は膝から崩れ落ちた。実際は片膝をついて座っていたのでそんなことにはならなかったが、心境としての比喩である。
はた目には好意が駄々漏れであったにも関わらず、自分の恋情に気づいていなかったのだ。夫婦にならなかったわけである。
当時の慣習では、求愛や求婚は男がするものであって、女から行なわれることはない。男が自覚していなければ、求愛もなにもない。
ひょっとすると、諾子は義平から向けられる情を知りながら、歯がゆく思っていたかもしれない。
義平が自分の想いに気づくよりも前に、諾子は手の届かないところへ行ってしまった。たとえ自覚したとして、義平の性格からして、絵巻物の男のように妻となった女人を寝取ったり連れ去ったりなどするわけがない。
悲恋というにはあっけなく、滑稽というには物足りない。ままならないものだなあと、紅葉はただため息を吐くしかなかった。
そんなやりとりをした一か月後に、敬愛する主人を失くすとは思ってもみなかった。
龍神は存在し、その龍神に義平が襲われたのだ。紅葉が手を伸ばす間もなく、黒き龍は義平を連れ去ってしまった。残されたのは、義平の愛刀のみだった。
「失礼する」
野太い男の声にはっとして顔を上げる。
「元次様」
部屋に入ってきたのは、上背のある大柄な男だった。筋骨隆々とした体つきで、ひと目で武官とわかる。太いもみあげに、いかつい顔つきだが、どこか愛嬌があった。青朽葉の狩衣は、先ほどの争いでところどころ汚れていた。
綱森元次は義平の家臣のひとりで、補佐的な立場にある。元々綱森氏は、義平の一族が臣籍降下する前から仕えていた一族であった。元次は嫡流の出であったが、さまざまな事情から本家へ迎えられ、義平に仕えることになった。
「友保殿には俺から報告しておいた。義平様は龍神に襲われ生死がわからず、怪我人も出ていると」
「そうですか。ありがとうございます」
紅葉は家臣の中でも並外れて強いが、主人の代理として表に立つのはもっぱら元次であった。
「ほかのみなさんの様子はいかがですか?」
「怪我はしているが、命に関わるほどではない。あばら骨が折れた奴もいるが、すぐくっつくだろ」
「それは意外と重傷では?」
「まあ、しばらく寝たきりになるだろうさ」
元次は豪快に笑ってみせた。元次自身は怪我ひとつしていなかった。
「それで、友保様はなんと」
「呆然としていたぞ。都で随一と名高い義平殿が討たれるなどとは……とな」
「ずいぶん持ち上げますね。あと、勝手に殺さないでくれます?」
「俺に言うな。だが、正直生きているとは思えんよ」
元次は顔をしかめた。
「俺もあの瞬間を見ていたが、腹を裂かれたまま沼に引きずり込まれたんだ。とても無事じゃあないだろう」
「そう……ですけど……」
紅葉こそ、目の前で、その瞬間を目撃している。思い出すだけで怒りがこの身に充満してくる。よりにもよって、憎悪の対象である妖しの者に主人を奪われたのだ。神であろうと、憎いものは憎い。
「落ち着け、紅葉殿。目が輝いているぞ」
元次に窘められ、慌てて高揚した感情を抑え込もうとする。このままでは怒りに任せて屋敷を壊しかねない。
深呼吸して背筋を伸ばすと、「……すみません」と頭を下げた。
「いやなに、わからんでもない。主人を奪われて口惜しいのは俺も同じだからな」
「これからどうなさるおつもりです?」
義平が不在であれば、元次に判断を仰ぐことになっている。紅葉が尋ねると、元次は渋面を作った。
「友保殿は、動揺はしていたが、龍神退治をどうあっても遂行したいらしい。面と向かっては言われなかったが、端々に『お前たちだけでなんとかしろ』と仰せだ」
「都からの増援はなしですか?」
「帝に心配かけたくないとさ。ならば、はじめから自分たちだけで始末しろという話だが」
元次はふんと鼻を鳴らした。友保の態度に相当腹を据えかねている様子だった。
「しかし、引き受けたからには義平様不在でも遂行しなければ、あちらで顔向けができん。このまま任務を続けることとする」
「だから、まだ死んだと確定したわけでは……いえ、どちらにせよ、ぼくたちがやるべきことは変わりませんね」
心の整理がつかなくとも、優先すべきは任務である。紅葉は無理やり気持ちを切り替えた。
「おうとも。途中で投げ出すのは、義平様が嫌うことだからな」
「そうなると、作戦を立てねばなりませんね。実際に対峙して感じましたが、あれは本物の神です。今まで対峙してきた妖しの者とは格が違います」
「ふむ。神殺しとは骨が折れそうだ」
元次は思案気に、武骨な手で顎をさすった。
「真っ向からかかっても勝ち目はないでしょう。周到に罠を仕掛けて、押さえつけたところを一気に仕留めるべきかと」
「たしか、昔話かなにかに、妖しの者に大量の酒を飲ませて、酔っ払ったところを仕留める話があったな……さて、なんの話だったか」
「ああ。有名な大蛇退治の話だね。酒で不意を衝かれるのは鬼退治にもある話だけど、今回は大蛇の話を採用しよう」
元次が首を捻っていると、どこからともなく話に割り込んでくる声があった。
「そこッ!」
紅葉がすぐさま天井に向かって短刀を投げつける。
「待ちなさいよ、君。殺す気か」
慌てた声と同時に、天井から梅の狩衣を纏った男が飛び降りてきた。白の面紙で覆っていて顔立ちはわからないが、年若い声である。烏帽子は被りつつも、黒髪を結い上げることはせず、背中でゆったりと結わえているだけである。
「天井を這い回る鼠を始末しようと思っただけですよ」
投げつけた短刀を男から受けとりつつ、紅葉は冷ややかに応対した。
「はっはー、いつにもまして辛辣だな、君は。そんな不機嫌な様子ではせっかくのかわいい顔が台無しだぞ」
つんつんと頬を突いてくるので、手首を掴んで捻り上げる。
「痛いんだけど! ちょっと! 離してくれないか!?」
「それで、元次様、話の続きですが――」
「無視しないで!」
「おお、誰かと思えば初音殿か。久しぶりだな」
「あ、うん、久しぶりね綱森元次。よかったら紅葉を止めてくれるとありがたいかな。そろそろ骨がやばい」
「紅葉殿、その辺にしておけ」
元次が取り成すと、紅葉は渋々腕を離した。視線は険しいまま、「なんであなたがこんなところにいるんです?」と尋ねる。
「帝お抱えの術者がほっつき歩いていていいんですか?」
「諸国を見て回るのも私の仕事さ。都から離れた国ほど監視の目が届かないからねー。いろんな意味で」
実務的な政治は太政大臣をはじめとする臣下が執り行っているが、国家安寧のための祭事は帝の役割である。
天の乱れ、地の乱れ、そして人心の乱れのない世の実現のため、諸諸の神事を執り行えるのは、天照大御神を祖神とする帝だけである。世が下るにつれ、形式的な儀式と化した面もあるが、神々との交信を行うとされる帝も、ある意味術者であると言えた。
役所の機関として術者が集まる寮があるが、それとは別に、帝が私的に抱える術者がいる。初音はそのひとりであり、帝の命により、諸国を巡る役目を負っていた。目的は、諸国に存在する神々の監視である。
帝に仇なす者は『ひと』ばかりではない。伝承にあるとおり、この国は、大国主神を筆頭としたクニツ神による国譲りを経てアマツ神の統治となった。とはいえ、いまだにまつろわぬ神があちらこちらにいる。大抵は恭順の意を示したり、封じられたりと大人しくしているが、いつ争いの火種が起きてもおかしくはないのだった。
アマツ神に反逆する者はすべてまつろわぬ者として扱われている。よって、まつろわぬ神はクニツ神とはかぎらず、古の神や怨霊も含まれる。不穏な動きがないか諸国を監視し、すこしでも怪しいと思われれば帝に報告するのが初音の仕事だった。
この辺りの事情を深く知る者は限られている。帝抱えの術者集団がいることすら、宮中でも一握りの者しか知らない。
一介の武官でしかない義平たちがなぜ知っているかといえば、初音が幼い頃からの友人であり、彼からの依頼で妖しの者の退治を請け負ううちに、必然的に国政の裏事情を知ることになったのだ。
「役人の監視までするのですか? 術者のあなたが?」
「いろんな意味でって言ったでしょ。ほら、贄を求めて民を困らせている龍神とかさ」
「……あなた、まさか」
「初音殿もこの件に関わっていたのか」
紅葉と元次の問いに、初音はあっけらかんとして頷いた。
「まあね……って、なんで紅葉の殺気がさっきより増しているのかなあ!? お兄さん、失禁しそう!」
「お、落ち着け紅葉殿! また目の色が変わっているぞ!」
「いいえ、止めないでください元次様。今回ばかりは一発殴らないと気が済みません!」
初音に殴りかかろうとする紅葉を、元次が慌てて羽交い絞めにする。
「え!? 紅葉に殴られたら私死んじゃう!」
初音は嫌々と首を振って、後ずさった。紅葉は手足をばたつかせ、激高した。
「毎度毎度厄介な案件ばかり持ち込んできて……やれひと攫いの河童だの疫病を流行らせる天狗だのと面倒事を押しつけてくるじゃないですか! 義平様の仕事は宮城の警護であって、妖し退治じゃないんですよ!」
「毎回引き受けるのは義平だし、常に功績を上げてくるじゃないか。それに、妖し退治だって、宮城の警護に一役買ってるよ!」
「それで評判になったせいで、こんなところにまで来る羽目になったんです! あげく、あんな目に……!」
紅葉が小さな手を振り上げる。怒りが迸っているせいか、硬く握りしめられ、血管が浮き上がっている。
「わーわー逆恨み反対! 暴力反対! その握り拳引っ込めて!」
「待て待て紅葉殿。ひとまず初音殿から話を聞こうではないか。もしかすると、解決の手口が見つかるかもしれないぞ。それに、義平様がおっしゃるには天才術者だと聞く。なにか助言をいただけるやもだぞ」
羽交い絞めにしていた元次が紅葉の拳を掴み、そっと下ろす。
「自称、ですけどね」
紅葉は肩でふーふーと息をし、なんとか怒りを収めた。
「はあ、義平もだいぶ好かれたようだ」
初音はかいてもいない額の汗を拭う仕草をしながら呟いた。
「それで、こたびの経緯を話してくださるかな?」
「経緯と言われてもなあ……東に不穏な動きありと帝にお伝えしただけだよ」
大雑把すぎる返答に、紅葉はこめかみを引くつかせた。いちいち突っかかっていては話が進まないので、冷静を装って尋ねる。
「不穏な動きとは、具体的にどのようなことでしょう?」
「うーん……詳細は掴めてないんだけど、謀反を促す動きがあるというか……」
「はあ!?」
「なんと!」
紅葉も元次も思わず声を上がえた。謀反とは只事ではない。しかし、それを言った張本人は悩ましげに首を傾げてみせた。
「でも、確実じゃないんだよね。ほら、だいぶ前にもあったじゃない。承平と天慶の頃だっけ」
「ああ、坂東の」
元次が十数年前に東国で起きた乱ではないかと指摘する。初音は「そう、それ!」と人差し指を立てた。
「地方で力をつけた受領が帰国せずに住みついて、勢力拡大した挙句、その子孫が武力蜂起して自ら新皇を名乗り、独立政権を樹立させたやつ」
いわゆる平将門の乱である。平将門は桓武帝の曾孫である高望王の孫である。高望王は、平朝臣の姓を賜って臣籍に下ったのち、上総介として坂東の受領となった。そして、そのまま住みつき、地方豪族となった。
将門が乱を起こしたきっかけは、一族同士の争いが発端といわれている。一族の争いが坂東を巻き込み、やがては東国政権を樹立させるに至った。しかし、将門の死によって、たった二か月で終焉を迎える。
この乱の勃発は都の権威を貶めることにひと役買った。そして、東国を注視するきっかけにもなった。
「ふたたびそのような乱を起こす者がいると?」
元次は野太い眉をひそめた。
「うん。ただ、あのときは武力によるものだったけど、今回ばかりは違うみたいなんだ。その動きを追っていたら、ここの龍神騒動に行き着いたのさ」
「まったく話が見えないんですが」
調査の途中なのか、初音の話は曖昧で、紅葉も眉をひそめた。
「凶事のきざしは見え隠れしているんだけど、全体像が掴めなくてね。暗躍している者がいることは事実だ。今回の龍神騒動は、その人物が関わっている」
「誰です?」
「正体不明の謎の術者さ」
神妙に告げる初音に、紅葉は思わず声を荒げた。
「ほとんどわかってないじゃないですか!」
「いやいや。術者が絡んでるってわかるだけですごいことなんだよ! ふつうは誰にも見つからず、暗躍してこその術者だからね? この業界、隠れてなんぼだから」
「そういうものなのか。ふむ、勉強になった」
苛立つ紅葉とは対照的に、元次は感心したように言った。
「だが、役所に勤める術者はどうなのだ? 初音殿とは働きが違うのか?」
「厳密に言えば、違うね」と初音はきっぱりと言い切った。
「役所――つまり、陰陽寮の者は天体の動きを読み、暦を作成し、卜占を司る部署だ。豊富な知識と高度な技術が必要とされるから術者なんて呼ばれているけど、『ひと』の領域だ。狭義の術者は、『ひと』と『ひとならざる者』の領域の狭間に立つ者だよ」
たとえば、と言って、初音は外を指さした。御簾は上がったままで、手入れの行き届いた庭が一望できる。西の空は、日が傾きかけ、山の稜線が橙に燃えていた。
「空を見て、これからの天候を予想するのが彼らだ。我々術者はその予想を覆すことができる。いちおう、理屈上はね」
「理屈の上でとは?」
「つまり、明日の天気が晴れだとしたら、雨を降らせることができるってわけさ」
「術を使って、ということですか?」
「そう。一瞬でも雨雲を呼び、一滴でも降らせればそれは雨だ。本格的に降らせたければ、雨乞いだね。神に願いを叶えさせるのさ」
「雨乞いなら誰でもできそうですが」
もっともな意見に、初音は両手を合わせ、祈りの真似事をした。
「そう。願うだけならね。その声をたまたま神様が拾い上げて、気まぐれで叶えてくれるかもしれない」
「術者が行なうと違うのか?」
「術者はひとならざる領域に接触し、確実に願いを届ける。それを聞き入れて降らせるかは神様しだいだけど。結果的にただの『ひと』が祈ろうが術者が祈ろうが降るかどうかはわからない。ただ、こちらの要望を伝える確実な手段があるというだけの話さ」
初音は大袈裟に肩を竦めてみせ、「もちろん、私のように幻術や方術を扱う陰陽寮の役人もいるけどね」と付け加えた。
「主とする目的と手段が違うんだよ」
初音は役人と一緒にされたくないと言いたげだったが、門外漢から見れば微妙な差異でしかない。元次はわかったようなわからないような珍妙な顔をし、紅葉は眉間に皺を寄せた。
「……聞けば聞くほど胡散臭さが増すんですが、言いたことはわかります。ぼくも、ある意味では狭間に立つ者ですから」
「ひとと鬼の混ざり者だからね、君。いやあ、私たちが見つけて、義平に拾われなければ、今ごろは――」
「あなたが妖しの者であれば、すぐさま食ってやったのに」
感情のこもらない目で見つめ返し、冷ややかに告げる。事実だからこそ、出自に関する発言は紅葉の奥深い部分を刺激する。
「おっと。食うのは勘弁してくれ。とにかく、術者っていうのは『ひと』とは違う。だから、表立って活躍するより裏で動いた方が何かと都合がいいんだ。術者同士も互いに素性を明かさないほどだからね」
「あなたはいかにもって感じですが」
紅葉はじろりと初音を眺め回した。絵巻物に登場する高名な術者さながら、絵帽子を被り、狩衣姿で神出鬼没に登場する。初音はけらけらと笑った。
「私はいいのさ。帝お抱えの術者なんてものは公に存在しないうえ、人前に姿を現すこともない。ああ、君たちは特別だよ。なにせ義平の忠臣だからね」
「それは光栄だな」
「あなたはずいぶん信頼してくださるようですが、ぼくはあなたの顔を一度だって見たことがありません。胡散臭さ倍増です」
義平といるときでさえも、一度たりとも面紙を外さず、素顔を見せたことはない。初音はしらばくれるように、「あれ? そうだっけ?」と首を傾げた。
「まあ、仕方のないことさ。この紙には特殊な呪が掛けられていてね。風が吹こうが何しようが、私が望まないかぎり外れないし、どの角度からも絶対に見えない優れものさ。なぜそんなものをつけているのかと言うとだね――」
「あ、興味ないので。それより龍神騒動の続きをお願いします」
「初音殿の話は後で聞こう。俺からも先に進むことを願いたい」
紅葉は面倒臭そうに、元次は生真面目に話の先を促した。初音は「もっと私に興味持ってくれていいんだよ?」と泣き真似をしてみせたが、誰も取り合わなかった。
「その術者とやらが、今回の龍神騒動を起こしたということでよかったか?」
「まあ、そんなところ」と初音は素直に頷いた。
「もっといえば、術者がこの地に赴任したばかりの藤原友保を唆し、龍神を退治するように仕向けた。だが、龍神は手強かった。そこへ、都から帰国するようにと催促が来る。友保は龍神退治を理由に断る。何度か応酬があったのち、痺れを切らした朝廷が都から増援部隊を送るからさっさと始末しろということになった。さすがに撥ねつけることができず、君たちを迎え入れたというところかな」
「友保様からの訴えと聞いていますが、違うのですか?」
「表向きはそういうことにした方が朝廷の面子が立つだろう? 『困っている民を助けるために派遣』というのと、『帰国しない受領に手を焼いて強制的に派遣』というのでは、結論として同じでも、見え方が違う」
「そんなものですか」
紅葉はくだらないとばかりに呆れたが、元次は得心がいったように頷いた。
「ふむ。それこそ、あの乱の影響だろう。あの後、帰国しない受領を厳しく取り締まるようになったと聞く。またいつ武力蜂起されるかわかったものではないからな。それに、受領ごときに手を焼いていると知れたら、朝廷の権威が完全に失墜していると思われても仕方なかろう」
ただでさえ、平将門の乱は朝廷の権威を大きく傾けたのだ。朝廷の威光を知らしめるためにも、地方の統治に躍起になるのは当然の流れだろう。
「しかし、友保様が龍神退治に固執する理由はなんですか? なぜ友保様は術者に唆されてしまったんでしょう」
紅葉は首を傾げた。贄を要求する龍神への対応に苦慮しているのはわかる。ならば、後任に引き継げばよい話だ。友保自身が居残ってまで対応すべき問題とは思えなかった。
さらに穿った見方をすれば、有力者の一族である友保は、地方に留まらずにさっさと都に戻った方が出世できるのではないか。
初音は悩ましげに息を吐いた。
「そこなんだ。最初、藤原友保からの書状を読んだとき、帰国しないための言い訳だと思った。在地に住みついた方が、場合によっては都に戻ってしがない宮仕えで一生を終えるより、財を蓄えたり領地を拡大したりと好き勝手できるからね」
「あえて出世の道から外れるのですか?」
「そういうこと。だけど、朝廷が許すわけがない。ただ、あまりに龍神が龍神がと騒ぐので、よくよく調べてみたら、術者の存在に行き着いたわけさ」
術者の目的はいまだ不明らしい。
「ただ、友保の目的は実に明快だ」
「なんです、それは」
「沼に眠る資源だよ」
「資源?」
「そんなものがあの沼にあると?」
紅葉と元次は驚いて顔を見合わせた。山深い静かな沼に、友保が固執するようなものがあるようには見えなかった。
「そう。調べてわかったことだけど、この土地は昔から鉱石が採れることで有名だった。とくに良質な錫石がね」
龍神が棲む沼こそ豊富な採集地であったが、いつしか忘れ去られてしまっていた。それが最近になって再発見されたらしい。
「現在の製鉄の主流は砂鉄だけれど、錫石でもできないわけじゃない。友保はそこに目をつけた。資源の獲得は勢力拡大に繋がるからね」
「なぜです?」
「錫石からは鉄が生成できる。そして、鉄は武器だけでなく、田園開拓にも役立つからではないか?」
元次の答えに、初音は大きく頷いた。
「そのとおり。鉄製の鋤や鍬を使えば、耕地の開墾は容易に拡大可能だ。開墾すれば、それだけ自分の領地が増える。何代も前に定められた土地公有の制度なんて、あってないようなものだからね。くわえて、信濃国には朝廷に献上するための馬を飼育する御牧がある。蹄鉄を作らせれば、あっという間に騎馬隊も編成可能だ。現に、平将門も、鉄があったからこそ、同じ理屈で独立政権を樹立することができたのさ」
「先例があるんですね」と紅葉が納得する。
「つまり、そのためにも鉄が必須で、採集するには沼に棲む龍神が邪魔だと?」
元次は腕を組み、しかめ面で唸った。
「そう考えると、龍神が贄を要求してくるというのも、一方的な言いがかりかもしれませんね」
「うーむ、さすがに勝手ではないか?」
「まあ、そんなところだと思うよ。龍神を退治し、資源を独占して得するのは友保で、術者にどんな得があるのかは謎だけど」
「友保殿が術者を雇ったのではないか? 雇われたからには、相応の働きをするために、その沼の資源や龍神のことを進言したとも考えられる」
元次の考えに、初音は首を振る。
「なくはないと思うけどね……ただ、雇い主の利益を考えるなら、朝廷に対して龍神云々とは言わずに、別の言い訳をするように助言するんじゃないかなあ。朝廷に錫石のことを嗅ぎつけられたら、取り上げられる可能性があるわけだし。現に、龍神退治のために君たちはここにいる」
自分なら秘密裏に動くように進言すると初音は言った。
「だから、あえて朝廷に龍神の話を出して、朝廷の目を向けるようにしたとも考えられる」
「なぜです? 友保様の目論見が露見する恐れがあるのに?」
「露見したところで構わないのかもしれない。術者にとっては」
紅葉は首を傾げた。そんなことがありえるのかと思いつつも、考えを口にする。
「つまり、術者の目的は龍神退治そのもので、遂行するためなら朝廷の兵でも構わないってことですか?」
「たぶんね。友保はすでに自部隊での討伐に失敗している。術者としては強力な援軍が欲しい。そこで、都から派遣するように仕向ける」
「友保殿を丸め込んだわけか」
元次は嘆息した。
「おそらく。たとえば、都から派遣された兵が龍神を退治した後は、その者たちを始末してしまいなさい。朝廷には、龍神に殺されてしまったと言えばいい。そうすれば、あの一帯の資源はあなたひとりのものだ――と、こんなところかな」
「うわ、術者ってえげつないんですね」
初音があまりにすらすらと筋書きを予想してみせるので、紅葉は顔を引き攣らせた。同じ穴の貉だからか、思考回路が似通っているのだろう。
「目的のためなら手段を選ばないのさ」
初音はふふんと笑った。
「それで、白羽の矢が立ったのが義平様だったのはなぜだ? 帝自らご指名あそばされたと伺ったが」
「諾子様の推挙があったからだとは聞きましたが」
「表向きは諾子殿、裏では私から進言したのさ」
二人からの問いに、初音は胸を張って答えた。
「またですか。裏だの表だのと面倒臭い」
紅葉がうんざりとして呟く。初音はうんうんと頷く。
「本当にねえ。けれど、ひとを動かす術でもあるのさ。『誰が言ったのか』はのちのち大きく影響するからね」
「たしかに。義平様は臣下の身であり、今上帝とは直接的な繋がりは持たない。従姉殿で更衣となられた諾子様からの推挙という形がなければ、いくら妖しの者の退治の実績があるとはいえ、直々に勅命を下されることはあるまい」
「太政大臣の一族か息のかかった重臣が関の山だね」
「それでよかったと思いますが。なぜ、義平様を推したのですか?」
宮中で権勢を誇る一族なら、いかようにも有用な人物を縁者から選出できたはずである。それなのに、わざわざ『帝自らいち武官である源義平を選んだ』という体裁をとるのが気になった。
「もちろん、義平のこれまでの実績と力量を見て判断したのさ。あとは、しいて言うなら、術者でもない義平が持つ能力と友人たる私からの贈り物さ」
「能力って、妖しの者の気配が察知できるあれですか?」
「まあね。ただ、あれって副次的なもので、私が期待しているのはもっと本質的な部分なんだよね。帝の一族であっても、今じゃあ今上帝と義平ぐらいにしか残ってないからなあ」
初音はぶつぶつと独り言のように呟いた。
「贈り物というのは?」
元次が尋ねる。
「なに、今回の退治が成功すれば、晴れて帝の覚えめでたく出世できるかと思ってね。ただでさえ重要な役職を一部の貴族に牛耳られているんだ。義平だって、もっと日の目を見てもいいだろう? せめて昇殿を許されるくらいにはさ」
貴族の家に生まれ、強者と知られている義平だが、自身の官位は低い。五位以上でなければ、清涼殿への昇殿は許されなかった。
「なに勝手に出世街道走らせようとしてるんですか!」
「義平様はまだお若い。これから出世なさると考えれば、そこまで不遇だとは思わないがなあ」
紅葉は抗議の声を上げ、元次はピンとこない様子で首を傾げた。
「いやー最近太政大臣抱えの術者に目をつけられたみたいでさー。表向きまだ陰陽寮の学生なんだけど、そいつがまた厄介でね。きつねの子って噂されるだけあって、実力は本物なんだ。だから、宮中にも術者以外の味方が欲しいなあって思って。それで、義平がいてくれたら心強いなんて痛い痛い痛いっ!」
紅葉はへらへらと笑う初音の耳を思い切り引っ張った。
「なにが贈り物ですか! 結局自分のためじゃないですか!」
「一石二鳥だなあとは思った」
「はははっ、正直で良いではないか」
元次は笑い飛ばしたが、紅葉はふと疑問を抱いた。
「でも、諾子様を巻き込むことはなかったんじゃないですか?」
「うん?」
「諾子様こそ、後宮ではなんの後ろ盾もありません。有力な貴族と繋がっているわけでもなく、帝の寵愛がすべてです。なのに、いち更衣の進言を帝が受け入れたなんて、諾子様の立場が悪くなるのではないですか?」
「ほかの女御たちから嫉妬されるだろうね。あるいは、諾子殿の影響力を知って、政争の具として有用だと思われたかも」
「利用しようと近づく輩がいるかもしれないと?」
「もうすでに初音様に利用されてますよ!」
紅葉にとって、義平はかけがえのない主人である。その主人が想う女人がいるのであれば、二人そろって幸せになってほしい。
諾子の入内により、結婚は叶わなくなってしまったが、それぞれの道を行くことになっても、二人にはなんの不幸も苦労もなく、生を全うしてほしかった。
それなのに、である。目の前の男が余計な真似をしてくれたせいで、義平も諾子も迷惑を被っているように思えて仕方なかった。
「それもまた業というものだよ、君。因果応報とやらはいつ、どんな形でやって来るかわからないものだからね」
「お二人が初音様に利用されるのが業ならば、今ここでぼくが初音様を葬るのも業ですかね」
紅葉はスッと短刀の柄に手をかけた。
「待ちなさいって! なんで、君、すぐ暴力に訴えるかなあ。義平を失ったのがそんなに衝撃的だったかい?」
「……ッ!」
初音の言葉に、びくりと肩を震わせる。
「やはり存じていたか」
元次は深々と息を吐きながら言った。
「まあね。義平の姿を見かけないから、すぐに分かったよ。ああ、やられたんだなって」
初音はしんみりと声を落とした。
「義平なら大丈夫だと思ったんだけどなあ。すこし敵を侮り過ぎたか」
「あなたがそれを言うんですかっ!?」
紅葉が初音に掴みかかる。
「紅葉殿!」
「あなたが仕向けたことでしょう? あなたのせいで――」
「紅葉殿。それ以上は義平様をも貶めることになるぞ」
元次はきつく紅葉の腕を掴んだ。紅葉は両の瞳に力を入れた。それでも流れる涙を止めることはできなかった。
力なく初音から手を離し、くるりと背を向ける。
「……頭を冷やしてきます」
そう言い残し、部屋から出て行った。
「すまんな、初音殿。しっかりした童ではあるが、さすがに今回は冷静ではいられないのだろう」
「私がきっかけを作ったのは間違いないからね」
初音は皺になった衣を伸ばしながら言った。
「本当は私も同行する予定だったんだけどね。遅れてしまって悪かったね」
「だが、義平様の最期は、義平様が負うべきもの。その過程で他人の介入があったとて、誰かにその責を押しつけるものではあるまい」
「ふうん。君はそういう風に考えるんだ」
元次の物言いに、初音は興味を引かれたように言った。
「初音殿が申したであろう。業とはそういうものだと。いつ何時死ぬかもわからん。たとえ理不尽な終わり方であっても、今ここで死すべきなら、それがその者の業だと、俺は思う。だからといって、龍神が憎くないわけでも、納得できるわけでもないがな」
「えらく達観してるね、君」
「なに、受け入れたくないことばかり飲み込んできたのでな。それに、まあこれは勘だが、義平様ほど悪運の強い方が早々に死ぬとは思えんのだ」
そう言って、元次はにかりと笑ってみせた。
「そうであってほしいけど……」
「ところで、初音殿ほどの術者であれば、ひとの生死を見ることはできないのか?」
閃いたとばかりに元次は言ったが、初音は渋面を作った。
「やろうと思えばできなくもないよ。ただ、諸諸の理由からやりたくはないかな」
「そうか。聞いてみただけなので、気になされるな」
元次は素直に引き下がった。
「そう言ってくれると、私も気が楽だな。今回の件をこのままにするのは後味が悪いから、私も最大限協力するよ……と言ったところで、いったんお暇するね」
そう言って姿を消すと同時に、「失礼します」と女の声があった。この屋敷で働く使用人らしき女が膳を運び入れる。
「主人より、労をねぎらうようにと仰せつかっております」
「ああ。心遣い感謝する」
元次の前に、酒が入った瓶子と杯が置かれる。ほかにも、数種類の肴が皿に乗っていた。膳を運んできた女は下がろうとせず、かといって酒を注ぐでもなく、その場で震えている。元次は「下がってよいぞ」と声を掛けようとした。すると、女が先に口を開いた。
「ええと、あの……」
頭を下げたまま、声を震わせて元次に告げる。
「どうか、龍神様を見逃してはいただけませんでしょうか?」
思わぬ申し出に、目を丸くする元次であった。
***
紅葉の生まれは、都の外れにある山中である。
産み落とされてすぐ、母親だった女に、死んでしまえと首を絞められた。しかし、女は衰弱していた。首にかけられた手は弱々しかった。
生まれて間もない赤子であったが、紅葉は鮮明に覚えていた。頬は痩せこけ、目は落ち窪み、髪を振り乱した亡者さながらの女が、ありったけの呪詛を自分に向かって吐き散らす禍々しい姿を。
「ああ……ああ……その紅い髪、その黄金の眼、あの鬼とまったく一緒……お前なぞ、胎の中で死んでしまえばよかったのに……!」
女はけたたましく耳障りな声で笑った。そうして、ふらふらと歩き始め、崖の上から飛び降りた。
そんなに憎いのであれば、自分を投げ捨ててくれたらよかったのに。
けれど、女だけが飛び降りてしまった。一緒に死ぬことすら厭われたのだ。
三日三晩山中で泣き続けた赤子を拾い上げたのは老僧だった。鬼に孕まされた女が生んだ忌み子だと知ったうえで、『紅葉』と名付け、育て始めた。
物心ついたときだった。なぜ自分なんかを拾ったのかと問えば、生きようとあがく命を見捨ててはおけなかったと返ってきた。
それを聞いた紅葉は、生きようと足掻いて泣いていたわけではないと思った。この世に生まれさせた女と鬼を憎み、喚き散らしていただけだ。
ひとでも鬼でもない中途半端な混ざり者では、ひととしても鬼としても生きられない。どちらからも爪弾きにされるぐらいなら、生まれてこない方がよかったのだ。
どちらにもなれぬのなら、どちらかを選び、それらしく振る舞えばよいと老僧は言った。
ひととしては鬼の力を持つ異形、鬼としては力があっても最弱である存在――それが紅葉だ。
鬼は力こそがすべてである。非力な自分では生き乗れないだろう。どちらがマシかといえば、ひとに擬態する方がマシのように思えた。
ひとであることを選ぶと告げると、老僧は紅葉に術をかけた。燃えるような紅葉色の髪と黄金の眼は黒へと変わった。無意識に放っていた妖気も抑えられた。紅葉の鬼の力は封じられた。
ひとらしく在れ――そう言い残して、老僧は数年後にこの世を去った。紅葉は老僧が遺した庵に住み続けた。ひととして育てられたため、ひとの習性も価値観も理解しているので、不便はなかった。
ひととしての暮らしは、鬼である側面を殺すことであったが、なんら問題はなかった。生きやすさを選ぶなら、弱いながらにひとに擬態し、ひっそりと暮らす方が性に合っていた。
山菜を採り、獣を狩り、ときに庵を訪れる行商人やふもとの住人たちと必需品や食料を売買して細々と暮らしていた。老僧が面倒を見ていた子どもということもあり、人々は紅葉をふつうの『ひとの子』として接した。
穏やかに年月は流れ、しだいに本当のひとになれた気がした。
だが、そんな暮らしもつかの間だった。
あるとき、山に鬼が現われ、ふもとの集落や山を越えようとする旅人を襲うようになった。はじめは山で暮らす紅葉を心配していた集落の人たちだったが、しだいに紅葉をも不気味に思うようになった。
あんな小さな子どもが鬼に襲われずに山で暮らしていけるわけがない。ひょっとして、鬼の仲間なのではないのか、と。
一度広がった不信感は容易には消えない。集落を訪れるたび声をかけてくれた人間たちはよそよそしくなり、不安と猜疑の目を向けるようになった。
並外れた身体能力も裏目に出た。人前で披露したことはないが、その能力を駆使して、大の大人が苦労して採取する薬草を難所から採ってきたり、紅葉の体よりも大きな猪を狩ったりしたことが、人々の憶測をさらに深めた。
半分当たっているな、と紅葉は思った。くだんの鬼とは対面したことはないけれど、種族としては鬼の血を引いている。いや、鬼の方は混ざり者を仲間とは認めないだろう。
結局自分はどちら側からも白い目で見られ、存在を認められない。そういう生き物だったなと冷ややかに認識を改めた。ひとになれたと錯覚した自分が愚かで惨めだった。
義平と出会ったのは、そんな折だった。
人々を襲う鬼を退治しに来たのだと、二人の若い男が紅葉の庵を訪れた。義平と初音である。
義平は、ひと目見て紅葉をひとではないと見破った。驚き、警戒する紅葉に、「妖しの者の気配には敏感なのでな」と義平は言った。そして、紅葉がくだんの鬼とは関係ないと知ると、鬼退治に協力してくれないかと請うた。
「この山の地理に精通している者がいると助かると思ったんだがな。ふもとの人間には断られてしまった」
「そうそう。それで君を紹介されたってわけ。まあ、紹介っていうか、君に押しつけた感が否めなかったけど」
集落の人間たちの紅葉に対する態度を、二人は知っているようだった。
「ついでに、ぼくも殺すように言われませんでしたか?」
「ははは、さすがにそんな非道を口にする者はいなかったね。本心はどうだか知らないけど――ぐふっ」
朗らかに笑う初音の脇腹を、義平の手刀が襲った。悶える初音をよそに、義平は紅葉を真っ直ぐ見つめて言った。あまりに真っ直ぐな力強い視線にたじろぐほどだった。
「紅葉と言ったな。お前が俺たちに協力すれば、あやつらもお前への態度を改めると思う。どうか鬼退治に協力してほしい」
初音と名乗る術者とやらは胡散臭かったが、自分の目を真っ直ぐ射抜いてくるこの男ならば良いかと、紅葉は協力することにした。
鬼が出没する場所や時間帯から、数日かけて鬼の住処を特定した。そこを急襲する段取りで、途中までは順調だった。
初音の術と義平の剣技による連携で、鬼を追い詰める。紅葉は二人の戦う姿に圧倒された。鬼よりも弱い『ひと』でありながら、鬼に対抗している。個々の力量では互角とは言い難いが、息の合った連係技で退治しようとする様に、紅葉は羨ましいと思った。
自分より強いものへ立ち向かう勇ましさも、弱いなりに創意工夫して戦う姿勢も。
自分にはないものだった。
自分はただ、生まれが生まれだからと諦め、何もしないで生きてきた。ひとに擬態するなら、徹底的に擬態すればよかった。並外れた身体能力も封じ、山から下りて、ひとの輪に交じり、暮らすべきだった。
中途半端にひとになり、中途半端に距離をとったものだから、ほかの人間たちから避けられる羽目になったのだ。
「よし、あと一息だ。気を抜くなよ!」
義平が発破をかける。
瀕死の鬼は最後の力を振り絞り、死にもの狂いで抵抗した。三人の包囲網から抜け出してしまったのだ。
逃げた先はふもとの集落だった。
運悪く、一人の男が家から出てこようとしていた。そこへ鬼が突進していく。
短い悲鳴を上げ、腰を抜かす男の前に、駆けつけた紅葉がとっさに立ちはだかる。紅葉は弱り切った鬼に飛びかかり、狩猟用の小刀で鬼の首を掻き切った。返り血を浴びた紅葉は、髪も肌も真っ赤に染まった。
騒ぎを聞きつけた集落の人間たちが集まってくる。鬼に襲われかけた男は、紅葉が鬼を殺したのだと怯えた声で言った。
小柄な子どもが巨躯の鬼を瞬殺する場面は奇異な光景に映ったらしい。紅葉に向けられる人間たちの目には恐怖しかなかった。これまでの態度を改めるどころか、よりいっそう疑惑を深めただけだろう。
紅葉は何も言わず、鬼の首を持って山に戻った。
一部始終を見ていた義平は「紅葉が鬼から集落を守ったというのに」と憤っていたが、紅葉は最初から諦めていた。
「いいんです。自分が同じ立場なら、すこしでも危険な存在は遠ざけたいですもの。それに、あの人たちはぼくを怖がるだけで、排除しようとはしなかった」
「時間の問題だと思うけどね」
「だから、今のうちにここを去ります。山暮らしにも飽きてきたところですしね」
笑ってみせるが、心の内は寒々しかった。
どこへ行こうと同じだろう。自分という存在は決して受け入れられない。
「当てはあるのか?」
「ありません。まあ、大抵のことは何でもできますし、どんな場所でも暮らしていけるだけの能力はあるので、適当にやっていきますよ」
「ふむ。では、俺のところへ来い」
「はい?」
義平の誘いに、思わず聞き返す。
「お前の身体能力の高さと混ざり者としての在り方は実に興味深い。当てがないのなら、俺の従者になる気はないか?」
なんの冗談かと思ったが、義平にふざけている様子はない。真面目くさった顔で紅葉の返答を待っている。
義平の提案に、初音が乗っかってきた。
「いいね、それ。義平のところなら衣食住は保障されているから安心だ。貴族の風習や教養はこれから身につければいい。君、賢そうだからすぐ覚えてしまいそうだね」
「あの、行くとは言ってな」
「あえて難をあげるとするなら、今回のような仕事に同行せざるを得なくなるだろうけど、君、同族殺しに耐えられるかな」
紅葉の言葉を遮り、気取った感じで人指し指を立ててみせる。
面紙に隠され、表情は窺い知れない。けれど、初音の挑発的な声色から、酷薄そうな笑みを浮かべていそうな雰囲気だった。
「今さらでしょう。ぼくはすでに鬼を討っている。なんなら、存在するすべての妖しの者を屠ってあげてもいいんですよ」
紅葉はにっこりと笑い返した。
「鬼がひとに手を出さなければ、混ざり者のぼくは生まれずに済んだ。ならば、悪いのは鬼――ひいては妖しの者すべてに通じます。そんな輩は滅べばいい」
「……うわー極端だね、君」
初音は肩を竦め、呆れてみせた。
義平は紅葉をひたと見つめた。真っ向から向き合おうとする視線に居心地の悪さを覚える。この人間に、嘘やおためごかしは通じないのだろうなと思った。
「妖しの者は嫌いか?」
「ええ、もちろん」
力強く即答する。
「ならば、『ひと』はどうだ?」
言葉に詰まった。静かな問いが、紅葉の本心を探る。
「……好きにはなれません」
正直に答えた。嫌いだと断言できるほど、紅葉はひとを知らない。かといって、好感があるわけでもなかった。「そうか」と義平は短く答えた。
「ならば、お前はお前のために刃を振るえ。行き過ぎたときは俺が止める」
「……なんで、あなたがそこまでするのです?」
紅葉は不思議そうに目を瞬かせた。好きでもない『ひと』のために嫌いな妖しの者を屠る必要はないと義平は言うのだ。
紅葉の好きなようにすればいい。行き過ぎのときは自分が止めるからと。
傲慢にさえ聞こえる言葉が、紅葉の奥深い部分に入り込んでくる。
「従者の責を負うのも主人の務めだ」
当然とばかりに胸を張る義平に、こういう『ひと』なのだと紅葉は理解し、おかしくなった。
「従者になると了承した覚えは……いいえ、わかりました。あなたがそうおっしゃるなら、ぼくは好きにさせてもらいます――義平様」
いつの間にか、紅葉は義平に受け入れられていた。その懐に入れられてしまえば、抜け出すのは困難だった。
それから、紅葉は義平のために刃を振るうようになった。ひいては、それが自分のためになるからだと信じていた。
義平とともに在ってこそ、自分は生きる。
支えとなり、標となっていた義平を失っては、もはやどうしていいかわからなかった。
「ぼくが暴走したら、誰が止めるっていうんですか」
紅葉はぽつりと呟いた。
頭を冷やそうと訪れたのは、友保の屋敷の裏手にある竹林だった。
いっそのこと、あの場で暴走してでも戦っていれば、義平を失わずに済んだだろうか。そもそも、今回の話を断るように強く進言していたらよかったのか――後悔と自責の念ばかりが渦を巻く。
一陣の風が吹いた。竹の葉がかさかさと乾いた音を立てる。「もし」と涼やかな声がした。
深く考え込んでいた紅葉ははっとして振り向いた。声を掛けられるまで、まるで気配がなく、風に乗って現れたかのようだった。
声の主はたおやかな風情の青年だった。海松色の狩衣で、烏帽子は被っていない。射干玉色の髪は後ろで三つ編みにされていたが、右の側面だけ雪のように真白くなっていた。その部分をひと房に結わえ、前に垂らしている。
涼やかな目元を細め、艶めいた唇をゆるりと解けさせるだけで、ひとを魅了する不思議な雰囲気がある。そのくせ、得体の知れない不気味さが漂う。
「どなたですか?」
紅葉は警戒を解くことなく尋ねた。胡散臭さの程度は初音よりも格段の差だった。
「篝火と申します。以後お見知りおきを」
「術者ですね」
「そんなところです」
紅葉の指摘にも狼狽えず、篝火と名乗った術者は笑みを深める。
「よくわかりましたね。さすがは源義平様の従者といったところでしょうか」
「胡散臭い輩は術者と決まってますから」
「おや、ずいぶんと目の敵にされているようですね。この生業に携わる者を」
篝火の気配を探るが、ひととも妖しの者ともとれる。力量のある術者ほど、たとえひとの身であっても、気配が曖昧になる。初音の言う『狭間に立つ者』だからなのだろう。
「我が主人をご存じのようですが、何用ですか?」
「仇をとりたくはありませんか?」
「……何ですって?」
突拍子もない申し出に、紅葉はますます警戒を強める。
「あの龍神には手を焼いていましてね。都随一の武官と名高い義平様に期待をしていたのですが、このような有様」
篝火は面を伏せ、芝居がかった様子で悲しんでみせた。
「見ていたのですか?」
「ええ。一部始終拝見しておりましたが、大分苦戦なされたご様子でしたね。挙句に、腹を裂かれ、沼に引きずり込まれてしまうとは」
「義平様を愚弄するのですか」
癇に障った紅葉は声を低くした。短刀の柄を握る。義平を愚弄されたことにも腹が立つが、篝火の発する気配が本能的な恐怖を呼び起こした。
一瞬でも隙を見せれば、呑み込まれてしまいそうなほどの重圧を感じ、全身から汗が吹き出す。おそらく、わざとだろう。わざと力量の差を見せつけ、紅葉を揺さぶりに来ている。紅葉は目に力を込めて睨み返した。
「いえいえ、決してそのようなことはありません」
ゆるゆると首を横に振り、やんわりと否定する。たおやかな風情とは裏腹に、徐々に重圧が増していく。術者といえど、決して生身の『ひと』が到達することはない境地――神に似ていた。
「ですが、現状手詰まりなのは事実です」
「それで、ぼくに協力しろと?」
「はい。ですが、今のあなたに用はない」
「え……うわっ!」
不意に突風が巻き起こり、紅葉を空へと舞い上げる。とっさのことに、何が起きたのか把握すらできなかった。
「用があるのは、あなたの内に眠る鬼の力です」
そうして、篝火も風のように姿を消した。竹林は何事もなかったかのように、かさかさと葉を鳴らしている。
***
「龍神を見逃してほしいとは、どういう意味だろうか?」
元次は、眼前で頭を伏せたままかしこまる娘に向かって問いかけた。
「とりあえず、面を上げてくれんか。あと、名を聞こう」
娘はおずおずと頭を上げ、元次に問われるまま、自分はこの屋敷で働く下女で、名はよしのだと告げた。
「実は、あたし、安宗郷の出で」
「たしか、龍神に毎年贄を差し出しているという集落がある場所だな?」
「はい。でも、違うんです。あの方は、贄はいらないって。それで、あたしを逃がしてくれて。だから、退治しないでください!」
そう言って、よしのはふたたび頭を下げた。元次はふむと頷いた。
「すると、お前は贄として差し出された娘か?」
「あ、はい」
「だが、龍神がわざわざ逃がしたと言うのだな?」
よしのはこくこくと首肯した。
「そうです。あたし、沼のほとりにある社に三日三晩放置されて、お腹は空くし、遠くの方で獣の声はするし、もういっそ自分から飛び込んだ方がいい気がして、水辺に近づいたら、龍神様が現われて」
一度に話し始めたよしのを、慌てて制する。
「待て。その龍神はどんな姿をしていた?」
「えっと、全身黒くて……あ、でも、眼は赤かったです」
元次が目撃した龍神と同一だと考えてよさそうだ。
「それで、龍神はどうした?」
「あたし、驚いて、思わず食べないでくださいって言っちゃったんです。器量も良くないし、食べても美味しくないって。そうしたら」
「そうしたら?」
「龍神様、『おれは、ひとは喰わん』て言ってくれたんです」
「話せるのか」
元次は驚いた。ひとの言葉を使う妖しの者と遭遇した経験はある。だが、猛々しい様子で襲ってきたあの龍神が話せるとは思いもよらなかった。
「元の場所に戻れって言われたけど、戻ったら、怒られるだけじゃ済まなくて」
「戻ったらどうなる? 生きて戻れば、みな喜ぶだろう?」
よしのは悲しそうに項垂れた。
「いえ……龍神様に戻れと言われたと言っても、嘘つき呼ばわりされて、折檻されてからまた沼に連れて行かれるか、龍神様に気に入られなかったんだろうとほかの娘を差し出すに決まってます。ずいぶん前の話ですが、沼から逃げ戻ってきた娘は、不吉だからと……」
よしのは言葉を濁したが、碌な目に遭わないのだろうと元次は察した。
「だから、あたし、山を下りて、ここで働かせてもらってるんです。ちょうど人手が足りなかったらしくて」
元次は頭を捻った。よしのの話が嘘とは思えない。嘘を吐く理由が見当たらないのだ。
「お前は運よく逃げられたかもしれんが、龍神がいるかぎり、集落の者は贄を差し出し続けると思うがなあ。実際、それで困っているのだろう?」
「あ、そ、そうかあ……」
よしのはがくりと肩を落とす。
「毎年どの家の娘を差し出すのかくじで決めるんですけど、すごい険悪な空気になるんですよね……いない方がいいのはわかってるんですけど、でも……」
公平にくじで決めているとはいえ、選ばれた家の者はたまったものではない。
「第一、退治をやめさせたくば、主人である友保殿に訴えたらよかろう。俺たちの判断でどうこうできる話ではない」
そう言って諭すが、よしのは諦めきれない様子だった。
「……ご主人様の兵は弱っちいので、大丈夫だと思ってたんです。でも、都からとっても強い御方が来るって聞いて、さすがにまずいかもって」
使用人にすら侮られているのかと呆れたが、元次は口を噤んだ。
「だが、あの龍神は義平様……俺の主人を襲ったのだ。見過ごすわけにはいかん」
「うぅ……そこをなんとか……。あたしを助けてくれたのに、殺されるなんて、おかしいじゃないですか……」
よしのはしょんぼりと声を落とした。恩義を感じていると伝わってきたが、元次にも譲れないものがある。
「ばあちゃんの言うとおり、心やさしい方なのに……」
「祖母も会っているのか?」
「あ、はい。子どもの頃に沼で溺れて、助けてもらったそうです。その頃は贄なんか要求されなかったのにって」
「それは妙な話だな」
元次は腕を組んで唸った。せっかく酒を差し入れてもらったというのに、ひと口も口をつけていない。飲んでいる場合ではなかった。
「あたしが子どもの頃、大雨が降って、沼の水が溢れて、集落の一部が飲み込まれたことがあったんです。そのときに、龍神様のお怒りだって、誰かが言い始めて」
「それで、贄を差し出すようになったわけか」
「そうなんです。誰も反対する者はいなくて」
「言い出したのは集落の者か?」
「えっと……たぶん、違うと思います……ほとんど覚えてないんですが」
大規模な水害が起きたのは龍神が怒っているからであり、怒りを鎮めるためには贄が必要だ。
そうした考えなら、いちおう筋は通る。だが、よしのの話を信じるなら、龍神自ら贄を要求したとは考えにくい。
あくまでも集落の人間が、これ以上水害を起こされたくないからと、勝手に理屈をつけて、贄を差し出しているように思える。
「ふむ。なにやら裏がありそうだな。さて、どうしたものやら」
「元次、大変だ、紅葉が――」
「きゃああああッ!」
天井から初音が舞い降りてきた。よしのが飛び上がって驚き、元次の胸にしがみつく。
「おや、取り込み中すまない。だけど、それどころではなくてね」
「いや、誤解だ。しかし、貴殿はもうすこし登場の仕方を見直した方がよいぞ」
「え、そうかな?」
「何事ですかな!?」
よしのの叫びを聞きつけ、友保と家の者が駆けつけてきた。初音は瞬時に姿を消し、よしのは元次にしがみついたままである。友保は元次とよしのを交互に見比べ、得心がいったように下品な笑みを浮かべた。
「おお、これはこれは失礼した。その娘が気に入りましたかな」
「いや、そうではない」
「鄙びたところゆえ、なんのもてなしもできず心苦しかったのですが、どうぞ傍で仕えさせてやってくださりませ」
そう言って、友保と家の者はそそくさと部屋から出て行った。
「違うと言っているんだが」
「わ、ご、ごめんなさいっ」
よしのは慌てて元次から離れた。
「下女とはいえ、家の者を軽々しく側仕えさせるのはどうかと思うぞ」
「そんなもんじゃないかなー。今ここで君たちを帰したくないはずだからね。多少のご機嫌取りくらいするだろうさ」
「ひっ――」
「はいはい。君は黙っていようね」
姿を現した初音はよしのの口に人指し指を当てた。よしのはこくこくと頷いた。
「それで、紅葉殿がどうかしたのか」
「あ、そうそう。あの子、連れ攫われちゃった」
「なんと!」
元次はカッと目を見開いた。
「相当参っているようだったからね。ちょっと気になって探していたら、風に舞い上げられて消えてしまったのさ。あれは術者の仕業だね」
「初音殿が言っていた者か!」
「そうそう。姿までは見えなかったけど、十中八九そいつだろうさ」
「いよいよお出ましかあ」と軽く言ってみせる初音とは対照的に、元次は太い眉をぐっと寄せ、重々しく口を開いた。
「紅葉殿はどこへ連れ攫われたのだ?」
「私の予想だと、あそこしかない」
「あそこ?」
「龍神の棲む沼さ」
元次はますます眉間に皺を寄せた。義平の不在時に紅葉が狙われたとあっては、家臣として義平に合わせる顔がない。
「しかし、何のために」
「紅葉の力を利用するつもりかもね」
初音は考え込むように言った。
「まさか、あれを?」
「義平が駄目なら鬼かあ。なりふり構わずって感じだね。そこまでして、龍神を退治したいなんて、一体何が目的なんだろう」
くいっと元次の着物を引っ張る者があった。
「何だ、よしの」
よしのは黙ったまま、初音を指さした。
「初音殿がどうかしたのか?」
よしのは口をぱくぱくと動かしたが、話そうとしない。
「あ、もしかして、私が黙っていようねと言ったからかい?」
「術をかけたのか?」
「いや。かけてはいないから、ふつうに声を出せるはずだよ」
黙るように言われたので、言いつけどおりに口を噤んでいるだけのようだ。
「ところで、この子、誰?」
元次はかいつまんで説明した。
「ふーん。あの集落の娘か。何か説明し忘れたことでもあるのかな。いいよ、もう話して」
初音が発言を許可するなり、よしのは「この人です!」と叫んで初音を指さした。指を指された初音は「ん?」と首を傾げ、元次は「何がだ?」と問うた。
「この人が言ったんです。龍神様は贄を必要としているって」
「えぇ……私、記憶にないんだけど」
困惑した様子で否定する初音に嘘はない。
「よしの、先ほどはほとんど覚えていないと言ったではないか」
元次が訝ると、よしのは語気を強めた。
「思い出したんです! この人が龍神様のお怒りを鎮め、雨を降りやませた後に言ってました。二度と龍神様を怒らせないよう、これからは毎年贄を差し出すようにって」
「うーん、私、その手のことはやらない主義なんだよね。神の怒りを鎮める祈祷とか、託宣とかさ」
初音はひらひらと手を振って、「人違いじゃない?」とあしらった。
「で、でも、こんな感じの衣を着ていて、顔は……わからないですけど、雰囲気がそっくりで」
しどろもどろに説明するよしのに、「ああ、そういうことか」と初音は合点がいったように頷いた。
「つまり、君の集落を助けた術者がいて、そいつが贄を差し出すように言った。そして、言われるがまま贄を差し出し続け、困り果てているところへ、義平たちを呼び寄せた。うーん、手が込んでるなあ」
「よしのの集落に現われた術者と今回の術者が同一人物だということか?」
「その可能性が高い。もっと言えば、『贄を差し出させる』ところか仕組んでいたのさ」
「なんと……」
元次は言葉を失った。初音の推理は突拍子もなかったが、否定も肯定もできなかった。よしのの話を聞いた元次もまた、今回の件に不可解さを覚えていたからだ。それが初めから仕組まれていたことだと言われて、納得しかけた。
だが、まだ不明な点がある。
龍神を退治する大義名分まで作って、術者は何をしたいのか。
術者の目的について、初音は想像すらできないと言った。
「そういえば、初音殿は東に不穏な動きを察知して、この龍神騒動に辿りついたと言っていたな。その絡みではないか?」
「私もそう思っているんだけど、どう絡むのか、肝心なところがわからないんだよね」
「向こうはクニツだし、こっちは古だし」と、元次には理解できないことをぶつぶつと呟いている。
「とりあえず紅葉を連れ戻すのが急務として、どうしたものかなあ」
初音はやれやれと肩を竦め、おもむろに思案を始めた。