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一.黒き龍

 轟々と風が吹き荒ぶ。暗雲はいよいよ立ち込め、今にも雨が降ってきそうだ。桜の季節は終わり、新緑がまぶしい頃合いだというのに、辺りは薄暗く、鳥のさえずりすら聞こえない。

 わずかな兵を率いて山に入った源義平(みなもとのよしひら)は精悍な眉を顰め、小さく舌打ちした。

 毎年、付近の集落の娘を贄に差し出させるという悪龍が棲む沼は、信濃国(しなののくに)の国衙がある筑摩郡(ちくまぐん)小県郡(ちいさがたぐん)の境にあり、いくつかの山を越えた先にあった。

 地元の者たちはおろか、この土地を治める受領や豪族の武力でもってしても退治することができず、都にまで訴状が届いたのは一か月ほど前のことだった。

 義平は武官貴族である。義平の一族は代々武芸に富み、義平自身も都で一、二を競う強者であった。また、少々尊大な態度が目につくものの、根は義理固く、誠実な男であったため、彼を慕う者は多かった。

今回の討伐も、帝みずから義平に下した勅命であった。なぜ自分なのかと不思議に思ったものの、義平は恭しく拝命し、腕が立つ者を家臣から選び、都より遠く離れた信濃国へとやって来たのである。

 くだんの龍が棲む沼までの案内は地元の人間に頼んだ。しかし、沼に近づくにつれ、雲ひとつなかった空があっという間に灰色に覆われる様を見るなり、龍神様のお怒りだと恐れおののき、途中で逃げ帰ってしまった。

 義平一行は途方に暮れたが、仕方なく先に進んだ。一本道だと聞いていたので、迷いはしないだろう。問題は、この天気がいつ嵐に変わるかということだった。

「なにが龍神様のお怒りだ」

 義平はぼそりと呟いた。彫りの深い、凛々しい顔立ちが険しくなる。

神仏の存在を軽んじているわけではない。なんとかしてくれと泣きついてきたくせに、いざ討伐となると臆病風に吹かれて逃げ出す様が気に入らなかった。

「仕方ありませんよ」

 義平の呟きを拾ったのは、白藍(しろあい)の水干を着た義平の従者だった。名を紅葉(もみじ)という。義平の人となりを二番目によく知る者であった。齢は十二、三ほどであるが、滅法腕が立つ童である。

 ちなみに、義平を一番良く知る者は従姉の諾子(なぎこ)である。母親同士が姉妹で、同じ屋敷にて一緒に育てられたせいか、姉弟同然の間柄であった。おおらかで、つかみどころのない雲のような女人で、義平は昔から振り回されてばかりいた。

 あとで知った話だが、帝がわざわざ義平を指名したのも、諾子の推挙があったからだと聞く。

 宮仕えしていた諾子は入内し、更衣となっていた。義平からすると、なにを考えているかわからない不思議な女人であったが、帝とはじめとする世間一般の評価では、和歌の上手い美人であるらしかった。帝が諾子を見初めたのも、和歌の上手さが決め手だったという。

「仕方ないとはどういう意味だ」

 大柄な義平に対し、紅葉は義平の胸ほどしかない。紅葉は頭の高いところでひとつに結わえたうねりのある黒髪を揺らし、くりんとした丸っこい瞳で義平を見上げた。

「誰だって、痛い目に遭うのは嫌ですもの」

「だから、贄を出さなくて済むよう、退治するのではないか」

「その代償として、龍神様に祟られるかもしれませんよ」

「贄か祟りか、どちらかを選べというわけか」

 義平はふんと鼻を鳴らした。

「自分たちではどうにもならないから、他人に押しつけるとはな。この国の受領も豪族も、ずいぶんと腑抜けた連中だ」

 呆れる義平を紅葉が「まあまあ」と宥める。

「ここで受領殿に貸しを作っておくのもいいかもしれませんよ。あれでいて、名家の出ですからね。都に戻られた際のお返しを期待しましょう」

 義平は数刻前に出立の見送りに来た受領を思い出した。藤原友保(ふじわらのともやす)という、三十を過ぎた頃の男である。義平より十歳ほど年上であると聞いたが、太って緩んだ体格のためか、実際の年齢より老けて見えた。人当たりのよい笑みを浮かべつつも、こちらを値踏みするような目つきが気に障った。

 それに、と紅葉が続ける。

「最近、あちらこちらできな臭い動きが出ているようですから。あの受領殿と関係を持っておくのは悪いことではないですよ」

 政の中心は都である。地方では都から派遣された役人――受領が管理を行っているが、杜撰であったり、不正を働いていたりとなにかと問題ばかり起きているのが現状だ。

 また、任期を終えても都に戻らず、不正に富を蓄えている受領もいると聞く。受領による圧政に耐えかねて、領民から訴状が届くこともざらにあった。

 義平が訪れた信濃国は今のところ問題はないようだった。

 今のところというのは、あくまでも都にまで問題を報告されていないという意味であり、実際は問題だらけの可能性もある。ただ、地方の政に関しては義平の管轄外なので、余計な問題には首を突っ込まず、勅命を果たすまでだ。

「友保殿に貸しを作るとして、祟りと引き換えにか? つり合いが取れないな」

 義平は苦み潰したように言った。借りを返してもらうなど期待はしていないが、家同士のつながりに発展する可能性もあるので無下にはできない。傍流とはいえ、相手は時の権力者である藤原氏の出である。

「そもそも祟りなんて信じてないですよね、義平様」

 紅葉の声が風でかき消される。かろうじて拾った問いかけに、「そうだな」と大声で返す。

 祟りの話を聞いても、実際に祟られた人間を見たことがない。あるともないとも断定できない現象を、義平は軽々しく信じることはしない。その祟りとやらには何かからくりがあるのではと考えてしまう性格だった。

 だから、今回の討伐にも、内心懐疑的だった。なにせ、くだんの龍神は集落の人間たちによる伝承のみで、誰も姿を見たことがないのである。集落の娘を贄に出すのも、そうした慣習が続いているからにすぎない。

 では、贄となった娘たちはどうなったのか。本当に龍神に喰われてしまったのか、あるいは――

「行けばわかることだ」

 義平は勢いを増す風の中をひたすら進んでいった。



 足場の悪い山道を登り、森を抜けたところで、視界が開けた。鬱蒼と生い茂る木々に囲まれるように、その沼はあった。

 水辺には腰の丈のほどの葦が生い茂り、水面は不躾な来訪者を拒むように不気味に波打っている。深い緑色をした沼の水底は見えず、相当深いのだろうと推測する。

 首の後ろが恐れおののくようにチリチリと疼いた。信じたくないが、何者かの気配を感じる。『いる』と確信した義平は、荒ぶる水面を睨み、口上を述べた。

「やあやあ我こそは源義平なり。この地に棲まう龍の神よ、我の声を聞き入れ奉り、その御姿を現し給え」

 義平の朗々とした声に対抗するかのように、風が一段と唸る。水面がひときわ大きく波打ったかと思うと、水中から赤く光るものがあった。

 目が合った――そう確信した義平はとっさに刀を抜いた。

 しかし、予想に反して襲ってこなかった。水面を波立たせながら姿を現し、天を仰いで黒々とうねる巨躯を空に舞い上がらせた。その拍子に、咽喉の下にある逆さに生えた鱗が見えた。ほかの鱗は黒曜石を見紛うばかりの黒い鱗であるのに、逆さ鱗だけは鋼のような銀であった。

 義平たちは皆呆気にとられて空に昇る龍を見上げた。黒の鱗は灰色の雲と相まって、いっそう禍々しい様相である。

「本当にいたんですね……」

 紅葉がぽかんとして呟いたのが聞こえた。呆気にとられる家臣たちに向かって檄を飛ばす。

「油断するな! 来るぞ!」

 次の瞬間、龍は湖面目掛けて一直線に落ちてきた。頭から覆うほどの激しい波しぶきが起こる。怯んだところへ、龍の尾が横に薙ぎ払ってくる。義平以外の家臣たちは後ろへ吹っ飛ばされた。

 刀を握り直した義平は間合いをとり、暴れ回る龍をじっと目で追った。龍は沼を五周しても足りないほど長大である。伝承に違わず、絵巻物に描かれた姿をしていた。

細長い面に、いくつかに分岐した雄々しい角、にょろりと生えた髭、鋭く伸びた爪に襲われたらひとたまりもないだろう。血を固めたかのような紅玉の眼が異様に煌めき、侵入者への怒りを如実に表していた。

「紅葉」

 義平は龍から目を逸らさないまま、後ろに控える従者に声を掛けた。

「あれに、ひとの言葉が通じると思うか?」

「……どうでしょう。先ほどの口上どおり、姿は現してくれましたが、たまたまでしょうね。なにより、あの方は本物ですから」

 淡々とした物言いだが、声に震えが混じっている。さっと視線を滑らせると、紅葉の黒い瞳が黄金色に明滅していた。

「おい、紅葉」

「……すみません。すこし、あの方の神気に中てられたようです……が、ご心配なく」

 言うなり、紅葉はざっと駆け出した。並みの子どもにはない脚力でもって瞬時に沼に近づき、跳び上がる。周囲の木々よりも高く跳んだ姿は、さながら鳥のようであった。

 いつの間にか抜刀していた短刀を構え、龍に挑む。義平は猛禽類の猛々しい様子を連想した。

ふだんは口うるさい童だが、ひとたび出陣すれば並み居る家臣の中でも真っ先に功を上げる手練れである。ひとを相手に後れをとることはほぼないだろう。

 ただ、ひとの姿をしていても、混じりけのない『ひと』であるとは言い切れないのが紅葉であった。だからこそ、『ひとならざる者』への退治に紅葉も同行させたのだ。

ひとならざる者は、怪し(あやし)や妖しの者とも呼ばれ、『ひと』ではない存在を指す。たとえば目の前の龍や鬼、魔物、物の怪などの総称である。ひとには持ちえない尋常ではない力を持つため、大抵の人間は妖しの存在を恐れた。

 しかし、ひとであるからといって、そのような存在にまったく太刀打ちできないわけではない。ある者は武芸によって、ある者は方術によって、様々な対抗手段をもって討つ。義平は前者であった。

 成り行きから、義平はこれまでにも何度かひとならざる者の退治を請け負った経験がある。紅葉と出会ったのもそうした経緯からであったし、諾子が今回の龍神退治に義平を帝に推挙したのも、妖し退治の実績があったためであった。

 だが、いくらひとならざる者を討伐できるほどの武芸を磨いたからといって、義平は所詮ひとである。ひとならざる者の生態に詳しいわけではない。それに近しい存在である紅葉ならば、なにかと助言してくれるかもしれないと同行を命じた。当の紅葉は「命じられなくても同行するつもりでしたけど」とかわいげなく言い返した。

「義平様のご期待に応えましょう……と言いたいところですが、ぼくは混ざり者ですし、龍神とは種族が違います。きっとわからないことの方が多いですよ」

 紅葉が断りを入れると、義平はそれでも構わないと答えた。

「まったくわからぬ俺より、すこしでも知識があるお前がいた方が心強い。頼りにしている」

 臆面もなく言えば、紅葉はすこしだけ頬を膨らませ、「これだから義平様は」と呟いた。怒っているようにも照れているようにも見え、おかしな奴だと義平は首を傾げた。

 龍を相手に、紅葉は苦戦していた。小柄な体躯を活かし、すばしっこく動き回り、龍に刃を向けるも、決め手に欠ける。龍も自身の周りを跳び回る紅葉を払いのけようと巨躯を蠢かせる。そのたびに湖には波しぶきが立ち、周囲の木々がなぎ倒されていく。

 義平は太刀を構えつつ、じりじりとにじり寄った。龍が紅葉に気をとられている間に間合いを詰め、一気に討ち取る算段である。

「ああ、もう! なんて硬い身体なんですか!」

 苛立ちまぎれに叫びながら、紅葉が龍の体躯に刃を立てる。龍にとってはかすり傷ほどの一撃だろう。けれど、痛みを感じるには感じるに違いない。唸り声を上げ、さらに激しく巨躯を蠢かせ、紅葉を振り払おうとする。

「わわっ!」

「紅葉ッ!」

 体勢を崩した紅葉が振り落とされ、地面に叩きつけられる。その隙を狙って、龍の鋭い爪が迫った。義平は駆け出し、紅葉の前に躍り出る。

 すんでのところで、爪を刃で受ける。ギチチ……と耳障りな音がする。

「くっ……」

 とっさに受けたものの、力では押し負ける。次の一手を考える前に、龍がすっと後ろに引いた。

「な、に……?」

 龍にしてみれば好機だったはずだ。そのまま押し切って爪の餌食にしてしまえば、侵入者を排除できる。けれど、退いたのだ。思惑はわからないまでも、攻撃してこないのならば、今度はこちらに好機がある。義平はさっと右手を挙げた。

 弓矢による攻撃が始まった。一度は吹っ飛ばされた家臣たちが矢をつがえて待機していたのだ。事前の打ち合わせでは、紅葉が先陣を切り、後方から弓矢で援護する段取りであった。

 紅葉が戦っている間は迂闊に射撃できなかったが、その紅葉が地に落ちてしまった。

 矢の雨を浴びた龍は怒り狂ったように暴れ回った。

「いったん引くぞ。矢を放ちつつ、後退せよ!」

 義平は怒鳴った。すると、逃がすものかと宣言するように雷鳴が鳴り響き、しまいには大粒の雨が降り出してきた。

「はあ……神罰ってやつですかね」

 よろけつつも立ち上がった紅葉が呟く。

「この程度で済めばいいがな。ひとまず退却するしかあるまい」

 今さらではあるが、地の利は龍にある。さらに、伝承どおり天候まで操れるとなれば、義平たちに勝ち目はない。ここは引いて策を練り直すのが適切だろう。

「なに、龍神殿の力を推し量れただけ良しとするさ」

「はじめから上手くいくとは思ってなかったですもんね。ひとまず、あの胡散臭い受領殿の屋敷へ戻りますか」

 軽口を叩き合ったときだった。

先に気づいたのは紅葉だった。

「義平様ッ、後ろ――」

 振り向くと同時に腹に衝撃が加わる。鮮血が飛び散り、燃えるような熱さと痛みを覚える。

 爪で腹を裂かれたか――そう悟るのと意識が落ちるのはほぼ同時だった。



***



 山城国(やましろのくに)・平安京。

 桓武(かんむ)帝が遷都して以来二百年近く、政の中心地として栄えている。二年前に先帝が退位され、弟であり、先々帝の第十四皇子が即位された。御歳二十二。義平より一つ上だ。そして、血筋を見れば、遠い親戚にあたる。

 義平の先祖は、歴代の帝に連なる者であり、何代か前に臣籍降下した家柄であった。いわれは立派な名家である。

 しかし、世の移ろいは儚く、義平が生まれたときは上流と中流の狭間にある貴族に過ぎなかった。帝自らが政を行なう世から遠ざかって久しく、実質的に権勢を誇るのは、臣下である一族――藤原氏だった。

 帝の一族と婚姻関係を結ぶことにより、徐々に権力を握るようになった藤原氏は、現在宮中での主要な役職を占めている。内裏では絵巻物ごとく政治闘争が繰り広げられている……らしい。

 らしい、というのは、人づてに聞くばかりで、義平にはまったく関係のない話だったからだ。衛府のいち武官として出仕しているものの、権力争いにはとんと興味がなかった。おのれの武を磨き、おのれの務めを果たすことこそ、帝に仕える者の忠義であると考えているためだ。

 周囲の人間はそんな義平を清廉な人物と評したが、従姉の諾子は違った。

 諾子が入内する前である。宮仕えしていた諾子が里帰りした際、おっとりとした風情で辛辣に言った。

「清廉な男前とひとは言うけれど、実際は気の利いた和歌のひとつも送れぬ朴念仁ですよねえ」

 庭で弓矢の鍛練を行なっていた義平は、危うく的を外すところだった。いつの間にか、釣殿に向かう透廊に諾子が立っていた。

「いきなり訪れてなにを言うかと思えば、俺の悪口か」

「おや、聞こえていましたか」

 悪びれもせず、諾子は軽やかに笑った。手入れの行き届いた艶やかな黒髪が小袿の背で揺れる。

「女房の間ではたいそう人気があるのですよ、義平殿は。器量もよく、誠実な人柄で、浮いた話がひとつもない堅実な殿方だと。武芸にしか興味のない唐変木はそのように見えるのですね」

「悪かったな、つまらぬ男で」

 複数の妻を娶ることが当然とされる世間では、適齢期を過ぎても独り者でいる男はさぞかし噂の的だろう。

 義平は弓矢を従者に預け、汗をひと拭きすると、改めて諾子に向き直った。

「つまらぬ男とまでは申しておりません」

 諾子は相変わらず顔に笑みを浮かべ、しれっと言ってのけた。朴念仁だの唐変木だのと散々こき下ろしたくせにと思ったが、黙っていた。ひとつ上の従姉に口で勝てたためしはない。

 それに、この程度の応酬はいつものことだった。いちいち突っかかっていた幼い頃とは違う。長年の慣れと諦めでもあった。

 しかし、このように気安く言葉を交わせるのも今だけである。数日後に、諾子は帝の元へ嫁ぐことが決まっていた。

 思えば、伯父である諾子の父から、諾子が入内する話を聞かされて以来、本人と顔を合わせるのは今日が初めてだった。

「改めて、おめでとうございます」

 義平は深々と頭を下げた。

「ところで、帝の前ではどのような猫かぶりをされていたのか、ふだんの従姉殿を知る身としては気になるところだな」

「まあ、猫かぶりとおっしゃりますか」

「まさか、帝にも朴念仁だの唐変木だのと申し上げたわけではあるまい」

「帝はそのような方ではござりませぬゆえ。ただ、少々浮名を流しておいででしたので、あっちにふわふわ、こっちにふわふわとまるでたんぽぽの綿毛のようだと」

 義平は目を見開いた。

「……申し上げたのか?」

「ええ。思ったままを和歌にしたためました」

 帝が諾子の器量と和歌の腕前を見初めたとは聞いていたが、猫をかぶるどころか失礼極まりない内容の和歌を送っていたとは思わなかった。

「よく咎められなかったな」

「むしろ喜ばれたようで……しとやかな見た目と違って歯に衣着せぬ物言いが良いと」

 諾子はすこし困り顔をして、ふぅと息を吐いた。

「とんだ変人に好かれたようですねえ」

「仮にも帝にそんなことを言えるのはお前ぐらいだと思うが」

 物怖じしない諾子らしいと言えば諾子らしかった。

「それで、今日は入内前の挨拶に来たというわけか」

「はい。こうして義平殿とも言葉を交わせる機会は減るでしょうから」

 今上帝にはすでに何人もの后妃がいる。更衣は妃の中では身分が低いが、女人にとって帝の妃に選ばれるほど栄誉なことはない。

 それに、娘を持つ親もまた、我が子を入内させようと躍起になる。帝との結びつきがあれば、立身出世が期待できるからだ。

 しかし、帝の寵愛が得られなければ、後宮という名の鳥かごに入れられた鳥である。たとえ寵愛を得られたとしても、ほかの妃たちの妬みを買うことは想像に難くない。

 とくに今上帝が即位される前に初めての后となった女御は、嫉妬が酷いと噂になるほどだ。宮仕えで後宮の実情を知っているとはいえ、息苦しい暮らしを諾子は強いられるに違いない。

 義平は不意に湧き上がった言葉を慌てて噛み殺した。

 本当に、帝の元へ行くのか。

 それはお前の意思なのか。

 尋ねたところで、決定は覆らないし、無意味である。諾子の入内は、諾子の父にとって悲願だったはずだ。

 諾子の父は皇孫である。しかし、彼の父の代のとき、やむを得ない事情で臣籍に下り、今では一介の中流貴族でしかない。

 出自はどうあれ、今上帝との結びつきが強くなければ、立身出世どころか政争への参加すら認められない。端から出世を諦めている義平の父とは違い、諾子の父は降って湧いた好機を逃がす真似はしないだろう。

「わたくしよりも父上の方が舞い上がっておりますわ。しまいには、帝に連なる血筋のわたくしこそが中宮にふさわしいとまで言い出す始末で……巡り巡った好機とは、ひとを狂わせるのでしょうか」

「諾子、それは」

「もちろん、わたくしのみにおっしゃった言葉です。さすがに公の場では言えませんもの。潰されてしまいます」

 誰に、とは言わなかった。

 権力の座を狙う者であれば、戯言でも大きく取り上げ、糾弾し、潰し合う世界である。実際、宴の席での戯言を政敵に知られ、国家転覆を図ったと讒言されて流罪になった貴族もいる。些細な発言でも注意を払わなければならない。

 物怖じせず、歯に衣着せぬ諾子だが、場をわきまえる賢さも持ち合わせている。ふだんはおっとりとした風情で、儚くも見えるが、肝は据わっており、才覚もある。更衣としての暮らしも、それなりに上手く渡り合って行けるだろう。

 そう思い直しても、義平の胸の内にはしこりが残っていた。

「父上の野心はさておき、わたくしも楽しみにしておりますのよ」

「嫁ぐことをか?」

「はい」

 諾子はにっこりとほほ笑んだ。何度も見てきた従姉の顔が、まるで知らない女人のように映った。

「たとえ数多いる妃のひとりに過ぎないとしても、好いた殿方の元へ嫁げるのですから」

「……そうか」

 てっきり、帝が一方的に諾子を見初めたのだとばかり思っていた。けれど、二人は想い合っているようである。その事実がやけに重くのしかかった。

 それからしばらく言葉を交わし、諾子は自分の居住である対屋に引き上げて行った。

義平はふたたび弓矢の鍛練を始めた。使いに出ていた紅葉が戻り、「いったいいつからやっていたんですか」と呆れられるまで、ひたすら矢を射続けた。的は矢で埋め尽くされていた。



***



 夢というより、過去をありのままに見せられた気分だった。あのときの感情までもが生々しく感じられ、いったんは収まった胸の靄がぞろりと蠢く気配すらする。

 最悪の目覚めだ――そう思いながら、ゆっくりと目を開く。

 真っ先に飛び込んできたのは、こちらを覗き込む一対の紅い眼だった。

 叫び声こそ上げなかったものの、驚きのあまり、おかしな呻き声が漏れた。一対の紅い眼は先ほどまで対峙していた龍神と瓜二つだったが、その姿かたちはひとであった。

 年は十五、六ほどだろう。藍の混じった黒髪は背丈を超え、木の根のように板敷の床に伸びている。紺鉄(こんてつ)の水干を着た童のようであったが、物憂げな表情や細い首筋のせいか、女童のようにも見える。

「気がついたか?」

 発せられた声は玲瓏としていたが、性別の区別はつかなかった。

義平はゆっくりと体を起こし、ぐるりと周囲を見回した。

 どうやら、どこかの屋敷の中に運ばれたらしかった。しかし、床に直接寝かされていただけで、寝具の類は一切ない。調度品もなく、建てられたばかりでまだ人が住んでいない新築のようであった。

 蔀戸は開けられているが、御簾が下げられ、外の様子は皆目わからない。昼なのか夜なのかも曖昧とした不可解な場所であった。

 義平は改めて童――と仮定した――に向き直り、「お前が助けてくれたのか?」と尋ねた。童はこくんと頷いた。

「名は何という?」

「スズだ」

「そうか。俺は源義平という者だ。礼を言う」

 深々と頭を下げる義平に、スズは「上手くいって良かった」と言った。

「ひとの傷を治すのは初めてだったから」

 そういえば、龍神に腹を裂かれたのだったと思い出す。だが、不思議と痛みを感じなかった。

裂かれた瞬間の痛みは筆舌に尽くしがたく、間違いなく死んだと思った。相当の大怪我を負ったはずなのに、痛みを感じないというのはあまりにおかしな話だった。

 軽く体をひねってみても、何の支障もない。痛みもなければ動かしづらいといった不具合があるわけでもなかった。

 義平は眉を顰めた。武官であれば傷のひとつやふたつ、これまでにも負ってきた。致命傷にはならずとも、怪我を負えば痛みはあるし、部位によっては動かすのに不都合が生じる。それなのに、何事もなかったかのような状態は明らかにおかしかった。

 おそるおそる、自分の体を見下ろす。武具は龍神に剥ぎ取られてしまったのか、見当たらなかった。手にしていたはずの太刀も鞘ごとなくなっている。藤の狩衣は朝に着たときと同じ状態で、ほつれひとつない。烏帽子も被ったままだ。

 まさかと思いつつ、着物を脱いで確認すると、引き締まった筋肉質の腹には傷ひとつなかった。

「お前が治したと言ったな?」

 義平の傍らで正座をするスズに、着物を直しながら、警戒心露わに問う。スズは、やはり、こくんと頷いた。

「どうやって治した?」

 義平の問いに、スズは首を傾げる。

「正直、あのとき死んだと思った。それほどの傷を跡形もなく治すなど、ひとの技ではありえない」

 スズの不思議な佇まいも、彼の正体がひとならざる者と考えるなら合点がいく。さらに言えば、妖しの者とひとの混ざり者である紅葉と似た空気を感じ取っていた。

 ふだんはひとの姿をとり、義平たちと暮らしている紅葉だが、時折、妖しの者の気配を纏わせる。極度に感情を昂ぶらせたり、ほかの妖しの者の妖気に中てられるなどしたときに感じる気配と似ていた。

 義平には、妖しの者の気配を察知できる特殊な能力があった。空気に湿り気が混じり、ひと雨来ると予想するような、些細な察知ではあるが。

 友人である術者に言わせれば、「微々たる気配を感じ取れるってのは一種の才能さ。いかにも妖しの者でござい、なんてのは滅多にいない。あいつらはいろんな場所に紛れているからね」ということらしい。

 目の前の童が『ひと』ではないと、徐々に確信へと変わっていった。ただ、奇妙なことに、童を前にしても嫌な感じがしなかった。

 妖しの者の気配を感じると、本能的に危機感や不快感を覚えるのだが、そうした嫌な感じがしないのだ。むしろ、清浄で心地よく、懐かしさのような、抱擁されているような、妙な親近感や安堵があった。

「ひとの、技では……ないな」

 スズはうろうろと視線を彷徨わせつつも言葉を紡いだ。どう説明したらいいか、考えあぐねているようである。

「えぇと……まず、おれは、ひとではない」

「だろうな」

 嘆息交じりに相槌を打つ。するとスズは目を丸くした。

「なっ……い、いつからバレて……」

「つい今しがただ」

「……そうか。がんばって、ひとに化けてみたんだがな……」

 あからさまに落ち込む姿に、義平は拍子抜けしてしまった。

 自分を助けたということは、敵意がないとみていいだろう。けれど、何か企んでいるのかもしれない。そう思って警戒していたというのに、この妖しときたら、自分が明かすよりも前に正体がバレていたことにひどく狼狽していた。

「たしかに、ひとの姿をとってはいるが」

 義平は思わず声をかけていた。

「俺はすこしばかり気配に敏感な方でな。ひととそうでない者の区別がつくのだ」

「そんな人間もいるのか」

「あとは、まあ、紅い眼の人間はいない」

「そうなのか?」

 スズは目を隠すように両手で顔を覆った。

「ああ。もしかしたら存在するかもしれないが、俺が知るかぎり、この国に住む人間の目は黒い」

「黒い」

 義平の言葉を反芻し、手をどける。すると、スズの眼は紅から黒へと変わっていた。しかし、すぐに元の色に戻ってしまった。

「一瞬だけ黒かったぞ」

「……変化は苦手だ」

 そう言って肩を落とす。

「なに、苦手は克服すればよい……いや、違う、そうじゃない」

 話のずれを自ら修正する。『苦手を克服しようとがんばる童』をつい応援しそうになったが、正体は妖しの者である。うまくひとに化け、誑かすようになってはたまったものではない。咳払いをして仕切り直す。

「お前が妖しの者なのはわかった。俺の怪我を治してくれたことも感謝する。それで、これから俺をどうするつもりだ? 元いた場所へ戻してくれるというなら願ってもないが」

「それは無理だ」

 スズはきっぱりと言った。

「あんたは、戻れない」

「なぜだ?」

 剣呑な表情で語気を強めるが、スズは怯んだ様子もなく、淡々と言ってのけた。

「あんたは、おれの眷族だからだ」



 義平は耳に入ってきた言葉を咀嚼するように目を瞬かせた。

 眷族とは、親族や同族、あるいは従者や配下といった隷属身分の者を指す言葉ではなかったか。

「俺をお前の従僕にするのが目的だったのか」

 死にかけの人間をわざわざ助けたのは、眷族にして従わせるためだったのかと納得しかけたが、スズは目をぱちくりとさせた。

「その考えはなかった」

「は?」

「あんたを従僕にするつもりはない」

「だが、眷族にするから元の場所へは戻らせないのだろう?」

「いや、すでになっている」

「……なんだって?」

 話が噛み合わないというより、そもそも前提が違っているらしい。

「つまりだな、その……」

 スズはたどたどしく説明を始めた。

 要するに、大怪我をした義平を助けるために自分の血を分け与えたところ、一命を取り留めたはいいが、血の影響でスズの眷族になってしまったということらしい。

「俺が、妖しの者の眷族だと……?」

 呆然と呟く義平に、スズはさらに追い打ちをかける。

「もっというと、今のあんたは半分妖しの者、半分ひとだ」

「なっ……」

 頭の整理が追いつかない。致命傷を負い、目を覚ましたら妖しの者に助けられていて、自分も半分妖しの者になり、眷族になっていたなど、なかなか受け入れがたい状況である。

「嘘だろう……」

 思わず呟いたひとり言をスズが拾い上げる。

「本当だ。信じられないなら……ああ、こうすればいいか」

 義平の手を取る。とたんに真っ白い光に包まれる。とっさに瞑った目を開くと、屋敷は跡形もなく消え失せ、水の中にいた。

 慌てて呼吸を止めるが、耐え切れずに口を開く。ごぽっと気泡が吐き出される。口内に水が入ってくる感覚はあったが、不思議と息ができた。水中に浮いてはいるが、地上にいるときとまったく変わらない居心地だった。

 呆気にとられる義平を囲むように、黒々とした物体がとぐろを巻いている。それがのっそりと顔を上げる。紅い眼をした黒い龍は、間違いようもなく、義平に重傷を負わせた龍そのものだった。

「これで、信じたか?」

 その声はスズだった。

「お前だったのか!?」

 思わず叫ぶと、スズがうるさそうに目を細めた。自分を殺しかけた張本人が命の恩人でもあり、これから主人となるのだ。

 夢なら醒めてくれ――切実に願った。

「龍神であるおれの眷族になったのだから、水の中でも自在に動ける。息もできるだろう?」

 スズは淡々と現実を突き付けてきた。

「あとは……そうだな」

 ふたたび白く光る。景色は水中から先ほどの屋敷に戻っていた。水の中にいたというのに、体には水滴ひとつついていなかった。スズは童の姿をとり、義平の前にちょこんと正座している。

「ここは、なんだ?」

「おれの住処だ。沼の底にある」

 ひとはおろか、スズとその眷族以外入れない領域になっているらしい。いわゆる神域である。

 スズはおもむろに懐から手鏡を差し出した。義平は鏡をのぞき込み、あっと声を上げた。

「なんだ、これは!」

 黒い髪は深紅に、黒い瞳は銀に変わっていた。

「紅はおれの眼、銀は逆さの鱗の色だ。おれの眷族は、その証としておれの色をまとっている」

 義平は、ひとの姿はそのままに、在り方を変えられていた。水中でも息ができ、自在に動ける体、妖しの者と言わんばかりの色をした髪と瞳。まっとうな『ひと』ではなくなっていた。

「元には戻れないのか?」

「無理だ。すくなくとも、おれは戻す方法など知らない」

「そうか……」

 義平はがくりと肩を落とした。正直、妖しの者――正しくは混ざり者になるのだろうか――に身を落とすくらいなら、死んだ方がよかった。こんな体になってしまえば、元の暮らしには到底戻れないだろう。しかも、自分が退治すべき妖しの者の眷族となってしまったのだ。これほどの屈辱はない。

 愛刀がこの手にあれば、即座に死を選んだだろう。不幸なことに、幾度も妖しの者を屠ってきた太刀は手元になかった。名工が打った刀であれば、妖しの者と化したおのれを容赦なく斬り伏せてくれたに違いない。

「…………もしかして、余計な世話、だったか?」

 項垂れる義平に、スズがおそるおそる尋ねた。

「俺を眷族にするつもりではないなら、何故助けたのだ?」

 スズはぶんぶんと首を横に振った。

「あのとき、一斉に矢で射られて、動転してしまったんだ。それで、慌てて沼の底に戻ろうとして、動いたら、あんたにぶつかってしまって……」

「俺を狙ったわけではないと?」

「ああ。傷つけるつもりはなかった」

 血まみれになって倒れ伏す義平にさらに動揺し、助けなければと沼の底に連れてきた。そして、怪我を治すために血を分け与えたところ、半分妖しの者となり、スズの眷族になってしまったという次第である。

「だから、あんたを従わせようと思っていたわけではなかったんだ」

 助けるために血を与えようとしたのも、ほかの龍神に、龍の血には傷を治す神威が宿っていると聞かされたからだ。虫の息だった義平におのれの血を飲ませると、たちどころに傷は癒え、土色をしていた肌の血色も良くなった。

 その過程で、髪と眼の色も変化した。中途半端ではあるが、『ひと』から妖しの者へと在り方を変え、眷族にまでなってしまうのは、副作用のような現象だろう。

 訥々と語るスズに嘘はないようだ。

「龍神の血を分け与えた者はそうなると知っていたのか?」

 スズは「知らなかった」と言った。

「でも、知っていたとしても、同じようにしたと思う」

「なぜだ?」

 義平は龍神を退治しに来た、いわばスズの敵である。在り方を変え、従わせようと考える方がまだ理解できた。スズは小首を傾げた。

「ひとは、死を嫌がるだろう?」

「まあ、好みはしない」

「嫌がることはしたくない」

 そう言って俯くスズに、義平はますますわからなくなった。毎年集落の娘を贄として要求され、困り果てているというのが今回の龍神退治の理由だった。ひとの嫌がることをする悪龍の言葉とは思えない。

「お前が、自分のうっかりで俺を死なせたくなくて助けたというのはわかった。結果、こんな姿になったのも、お前の眷族となったのも、致し方ないだろう。だが、仕えることはできない」

 自分を殺しかけた下手人が命の恩人であることに複雑な思いがあるものの、恩義を感じていないわけではない。かといって、眷族になったのだからスズに仕えるという受動的な理由で鞍替えすることは、義理堅い義平には受け入れがたかった。

 これまで、『ひと』として帝に仕えてきたのだ。妖しの者になったからとはいえ、そうやすやすと変心できるほど柔軟ではない。

 スズは大して気にした様子もなく、「構わない。好きにすればいい」と言った。

「ただ、今後はおれの傍から離れられないぞ」

「どういう意味だ?」

「眷族は、おれの力で生かされているんだ。あまりに離れすぎると、おれの力が届かず、魂ごと消滅する。そうならないよう、移動できる範囲には限りがある」

「命も行動も、お前に縛られているということか」

「そうだ。おれが生きているかぎり、あんたは滅多なことでは死なない。が、おれが死んだら、あんたも死ぬ」

「つまり、俺は一生この沼で生き続けなければならんわけか」

「そうだな」

 スズはこともなげに頷いた。義平はこれまでの人生を振り返り、これからの生き方に思いを馳せ、深々と息を吐いた。

 武官貴族として、帝に仕えてきた。都を守ることこそがおのれの使命と心得て、生きてきたのだ。ひたすらに武を磨くことが生き甲斐だった。都を脅かす怪しの者と死闘を繰り広げたこともある。

 それが今では、退治される側となってしまった。何の因果だろうかと思わずにはいられなかった。

「……いや、ひょっとすると戻る方法があるかもしれん」

 不意にそう閃いたのは、友人である術者を思い出したからだ。知識が豊富で、あらゆる術に精通し、各地を遊脚している自称天才術者なら、妖しの者からひとに戻る術を知っているかもしれない。

問題は、どのようにしてくだんの術者と連絡を取るかだった。

 しかし、その前にやるべきことがあった。義平は居ずまいをただし、スズに向かって「これから世話になる」と頭を下げた。

 スズは驚いたようだったが、義平に倣い、おずおずと頭を下げた。



「しかし、いいのか?」

 顔を上げた義平は、今さらだが、自分を眷族にしてしまって問題ないのかと尋ねた。

「俺はお前を退治するために遣わされた人間だぞ」

 スズはこてんと首を傾げた。

「眷族になってしまえば、あんたはおれに歯向かえないぞ」

「……やはり、そうか」

「だから、別にいい。あんたはおれを害せない」

 だが、義平ではなくても、別の人間が遣わされる可能性は大いにある。そうなったとき、自分も戦わねばならないのだろうか。

 スズに忠誠を誓ったわけではないので、仕えることはできないと宣言した。スズも、義平を従僕にするつもりはないと頷いた。しかし、自分の命を守るためには、必然的にスズを守らねばならない。武官の習い性ゆえ、武器を取って戦うしか守る方法が思い当たらなかった。

 宮城を警護する武官として、仇成す者であれば、ひともひとならざる者も討伐してきた。武をもって制する方法に躊躇いはないが、見知った者たちと敵対する可能性を考えると気が重い。

 真っ先に思い浮かんだ人物は紅葉だった。紅葉は生まれつきひとと妖しの者の血を引いている。身体能力の高さは並外れており、武芸にも秀でている。

 なにより、妖しの者への憎悪が小柄な体に渦巻いている。妖しの者となった義平をどう思うかなど、想像に難くない。おのれを屠るとすれば、紅葉しかいないだろう。

 紅葉を相手にするのは骨が折れそうだ。

「いや、そもそも退治する理由を失くせばいいのか?」

 義平は思いついたように呟いた。スズが贄を要求しなくなれば、退治する理由がなくなる。集落の人間を脅かさずにひっそりと棲んでいれば、スズは守られる。当然、自分もひとと敵対することなく、静かに生きられる。

 もし義平が生きていると知れば、ひょっとすると家の者が探しに来るかもしれない。けれど、妖しの者となった身を晒したくはない。ならば、このまま何も告げずにこの沼で生きていく方がいい。

 龍神との暮らしは具体的に想像がつかなかったが、きっと侘しいものだろう。見知った者が誰ひとりいない、暗く、冷たい沼の底で過ごさなければならないのだから。

 賑やかさより静寂を好む義平ではあるけれど、話し相手が龍神だけというのも、やはり寂しい。はたしてそんな暮らしに耐えられるのか、考えただけで目眩がする。

 憂鬱な気分になったので、先のことはとりあえず棚に上げ、まずは龍神退治をやめさせることを考えるべきだと思考を切り替える。

義平は「スズ」と声をかけた。義平がしかめ面で考え込んでいる間、スズはじっと正座したままだった。まるで主人の命令を待つ従者のような控え方だった。

 義平よりも見た目が年下ということもあり、紅葉と接しているような気分になる。だが、立場は自分の方が下なのだから、口調や態度を改めるべきかもしれない。義平は「スズ様」と言い直した。

 二度も義平に呼ばれたスズは、大袈裟なほどびくりと肩を震わせた。

「な、なんだ?」

「いや、驚かせたか?」

 スズの反応に義平も驚く。

「……その、名前を呼ばれるのが久しぶりで、驚いたというか……」

 スズは面はゆげに答えた。

「だが、今までどおりにしてくれ。あんたに様づけで呼ばれると居心地が悪い」

 一瞬だけ照れくさそうにしていたものの、心底居心地が悪そうな表情で言われたので複雑だった。改めなくていいならそうする。義平は、「ほかの者は呼ばないのか?」と続けた。

「呼ぶ者がまずいない」

「自分のほかに眷族はいないのか?」

「いることにはいるが、言葉を持っていない。こうして話せるのは、あんただけだ」

「だが、久しぶりだと言ったな? 以前はお前の名を呼ぶ者がいたのだろう?」

 スズはこくんと頷いた。

「おれが、うまれたばかりの頃、スズと名を与えてくれた者がいた。そいつぐらいだ」

 その者はここから山をいくつか越えた土地に棲む龍で、今はあまり交流がないらしい。

「それでは、ずっとここにひとりきりか?」

「……ああ。だから、正直戸惑っている」

 自業自得とはいえ、予期せずして人間を眷族として迎え入れたことに、スズもまた困っているのだと義平は思った。けれど、スズは思いもかけない言葉を繋いだ。

「……けれど、うれしいとも、思う。こうして、言葉を交わせるのが」

 わずかにはにかみを見せるスズに、義平はまさかと思った。

「まさか、ふもとの集落から贄を要求するのは、そのためか?」

 話し相手が欲しいために贄を要求し、眷族とするつもりだったのか。

 突拍子もない思いつきを、スズは即座に否定した。

「そんな真似はしない。というか、贄など一度も要求したことなんてないぞ」

「なんだと?」

 話が違う。

 義平は眉をしかめた。

「毎年集落の娘を贄として要求されて困り果てていると訴えがあったのだぞ。だから、俺はお前を退治しにきたんだ」

「そもそも贄は必要としないんだがな」

 心当たりがないのか、スズも首を傾げている。

「ほかの龍神は、もしかしたら、要求することもあるかもしれないが……おれは贄などいらん」

 龍神とは、龍の形をしている神の総称であり、本質はさまざまである。川や雨など水にまつわるものが多く、日照りが続いたときなどは術者や高僧が雨乞いの祈りを捧げ、龍神が雨を降らせたという伝承もある。

 一方で、龍神は暴風雨や川の氾濫など、水害と関連付けられることも多い。空や河川が荒れれば龍神が怒っているからだと考えられ、怒りを収めるための手段として人身御供を差し出す習わしが各地にある。

 そうした天候や災害の話は、妖しの者の悪行のひとつとして伝承の中で語られる。

都で妖しの者を退治してきた義平は、伝承を参考にしても、そのすべてを鵜呑みにしているわけではない。

 現に、スズと遭遇するまで、義平は龍神の存在に懐疑的だった。しかし、実際に目の当たりにして存在を認識すると、ひとに害を及ぼす敵と認識した。同時に、龍神が贄を要求するという話が俄然信憑性を増した。

 龍神が存在するなら、贄を要求されて困っているというのも本当なのだろう。

 そう信じて疑わなかった。

「だが、実際に贄に出した娘は家に戻っていないと聞くが」

「集落の人間が、女を置いていくようになったのは、ここ最近だ。それまでは、沼のほとりにある社に参る程度だった」

「では、置いて行かれた娘たちはどうなったんだ?」

「悲観して沼に身を投げるか、獣に喰われるか……逃げた者もいるようだが……」

 一度贄に選ばれ、龍神に差し出された以上、集落に戻れるわけがなかった。戻ったところで、龍神様の怒りを買わないうちにと集落の人間に再度連れてこられるか、大事な役目を放り出した不届き者として罰せられることは想像に難くない。

 スズの言い分を真実とするならば、さらに疑問が湧く。

「なぜ龍神が贄を要求するという話になったんだ?」

 どうにもならない天候や災害をひとならざる者の仕業だと考えたくなる心情は理解できる。そうした考えに基づいて、災害が起こらないように贄を差し出す習わしがあるのも知っている。

 この集落でも、あるときを境に、そうした習わしを始めたのだろう。ということは、集落の人間が贄を差し出さなければならないと決めたきっかけがあるはずだった。

 だが、実際は、この沼の龍神――スズは贄など求めていなかった。自分たちで自分たちの首を絞めていたのだ。

 贄を出し続けるうち、やめるにやめられなくなったのかもしれない。贄を出しても災害が起きたこともあっただろう。だが、贄など意味がないと考えるより、贄を出したからこの程度で済んだのだ――そう納得させてきたのだろうと想像できる。

 しかし、そのせいで、自分はとんだ巻き添えを喰ったわけである。義平は憮然とした面持ちで思考を重ねていった。

『龍神が贄を要求する』というのは、あたかも龍神自ら言い出したかのように聞こえる。だから、自分たちは仕方なく贄を差し出している。それが嫌だから、龍神を退治してほしい。

 文脈としては通じるが、義平は妙な引っ掛かりを覚えた。まるで、龍神を悪者にしたがっているような作為を感じる。

 災害を起こさない代わりに贄を差し出せ――伝承に出てくる典型的な悪神である。

 だが、スズは当てはまらない。

 なぜスズが贄を要求するという話が流布したのか、その理由が分かれば、集落の人間たちを納得させ、退治しなくても済むように話をもっていけるような気がした。

「ひとが、おれを怖がるのは道理だと思う」

 義平が解決の糸口を探っていると、スズが不意にぼそぼそと言った。

「あんたたちがやって来たとき、空が荒れただろう? あれはおれのせいだ」

「だが、すべての嵐の原因はお前ではないだろう」

「大半は自然現象によるものだ。嵐を司る神や天候に関連する神はいるが、逐一管理しているわけじゃない。成り行きに任せている」

 この国の万物には米の一粒にまで神が宿ると言われている。かといって、人間のために、都合よく天候や農作物等の管理を行っているわけではない。敬意を払えば、それなりの見返りを得られるかもしれないが、基本的にひとの営みに無関心なのだ。

「空が荒れたのは、荒れさせようと思ってではない。おれが荒ぶると、なぜか、空も荒れる」

「自分の意思ではないのか」

 スズは困ったように頷いた。

「昔は、大勢の人間に信仰されていたんだ。けれど、あるときから、おれを恐れるようになった。多分、そのときも空が荒れていたからだろう」

「やはりな。悪天候をお前の仕業としたのか。だが、それはお前が荒ぶったせいか?」

「いいや、ただの大雨だ。誰の仕業でもない」

 それから、一方的に贄を差し出され続け、挙句の果てに、退治されようとしている。

「今まで退治にやって来た者を、お前はどうしていた?」

 義平たちにしたように、波しぶきを立てたり、木々を薙ぎ払ったりと威嚇して追い返してきたとスズは言った。自分の命と住処を守るためであり、傷つける意図はなかったとも。

 たしかに、出発前にこれまでの退治の様子を藤原友保に尋ねたときも、怪我人はいたが、死者は一人もいなかったと言っていた。怪我自体も大したことはなく、すっ転んでかすり傷を負ったとか、薙ぎ払われた木々の枝が当たって骨折したとか、命に関わるほどではない。

「たいてい、ちょっと驚かせただけで引き返して行った。おれの姿を見ただけで逃げていった奴もいる。だが、何度も何度もやって来た。そんなにおれが恐ろしいのかと……ここに居てほしくないのかと思った」

 抑揚のない喋り方がかえってやるせなく、聞いている義平の眉間の皺は徐々に深くなっていった。

「おれは、この沼に宿る者だから、ここを捨てることはできない。いつまで続くのだろうと思っていたら、あんたたちが来た。あんたたちが一番手強かった」

 姿を現しても、怯むどころか短刀で攻撃をしてくる子どもに、爪を刃で受け止めた男、さらには一斉射撃してくる複数の兵までいる。スズが動転するのも頷けた。義平率いる精鋭が本気で仕留めにかかってきたのだから。

「おれは、静かに暮らしていければ、それでいい。害するつもりは、ないんだ」

 ぽつんと落ちた言葉が切なく響いた。

義平の眉間の皺が一気に深まった。

「お前が恐ろしいからと、一方的に危害を加えていい理由にはならんだろう!」

「義平?」

 義平の胸の内に湧き上がったのは、怒りだった。今回の討伐には、贄を要求されて集落の人間が困り果てているからという大義名分があった。

 しかし、実際は違った。

 贄など要求しない、ちょっとおっちょこちょいな龍神がいただけである。龍神が恐ろしいから、災害を起こされると困るからなどと、とにかく理由をつけ、最終的に贄を求める悪神と決めつけて排除しようとしているように思えた。

 お互い理解し合うのはきっと難しい。在り方も違えば、価値観や風習も違う。ならばせめて、互いの領分を越えないように棲み分けていれば平和は保たれるはずだ。

 スズの話を真実とするならば、ひとが一方的に事の次第を大きくし、攻撃しているようにしか見えない。それが義平にはたまらなく理不尽に思えた。

 そして、知らなかったとはいえ、そちら側に加担していたことを恥じた。これまでに退治してきた妖しの者は、ひとを攫って喰うなど直接的な被害を与える輩ばかりであった。だから、『ひとに害を与えるから』という一点のみにおいて、問答無用に斬り伏せてきた。

 妖しの者の事情など、知ったことではなかった。たとえ会話ができたとして、聞く耳を持たなかっただろう。

 けれど、スズの話を聞いてしまった以上、おのれが眷族であることを差し引いたとしても、見て見ぬ振りはできなかった。理不尽な討伐をなんとしてもやめさせるべきである。

 紅葉がこの場にいたら、真面目にもほどがあると呆れられていただろう。自分の性分なのだから仕方ない。義平は、膝に置いていた拳に力を込めた。

「お前を退治に来た俺が言う台詞ではないと重々承知だ。だが、状況が変わった。俺はお前を守る。俺自身のためだけでなく、お前の安寧のためにも」

「なんで、あんた、怒っているんだ?」

 語気を強める義平に、スズは呆気にとられていた。

「お前の事情を知ろうともしなかったおのれの浅はかさが腹立たしいからだ」

「よくわからんが、知る必要、あるのか? おれはひとの事情などに興味はない。自分とこの沼を守るだけだ」

「俺自身の問題だ。気にするな」

 そう言って、義平は深々と息を吐き、昂ぶった心を落ち着かせた。

「しかし、わからんな。都にまで助けを請うなど、お前を退治したいよほどの理由があるとしか思えん」

「なぜだ?」

「ここだけでなく、ほかの土地でも似たような習わしがあると聞く。それなのに、朝廷に窮状を訴えてきたのはここだけだ」

「そういえば……」

 なにか思い出したのか、首を傾げながらスズが口を開いた。

「すこし前に、社を訪れた者がいたな。なんだか、おれに力を貸してほしいそぶりだったが、興味がなかったので断った。そのあとから、ひとが退治しに来るようになった気がする」

「何者だ、そいつは?」

「それは――」

 そのとき、ふたりの会話を遮るように、鈴の音がシャンシャンと辺りに鳴り響いた。



***



「なんだ!?」

 驚く義平に、「客の訪れを告げる音だ」とスズが説明する。

 とたんに、するすると御簾が勝手に上がり、廂にはひとりの男が立っていた。

 銀が混じった黒髪に、瑠璃色の目をしており、学者然とした雰囲気が漂う男だった。義平の父親ほどの年のくらいに見えたが、もっと若いようにも、あるいは老いているようにも感じられた。檜皮色の狩衣姿で、烏帽子は被っておらず、足首まで伸びた髪をうなじの辺りでひとつに結わえている。

「おや、これはこれは」

 男は義平に近づき、息がかかるほど顔を寄せ、まじまじと見つめた。やや垂れ目の、柔和な目元は人好きするように思えて、その実油断がない。とっさに距離をとろうとしたが、男から妙な重圧を感じ、指ひとつ動かせなかった。

「ははあ、お前の新しい眷族は『ひと』ときたか。実に興味深い」

 そう言って、義平の顔を両手で包み込むように掴む。

「ああ、だが、混ざっているな……ひとと我らと……んんん?」

「おい、その辺にしておけ」

 スズの制止を聞くことなく、男はさらに覗き込んできた。

 瞳の奥の、さらにその奥まで探るように。

「……これはこれは。懐かしい者まで混ざっている」

 男の顔が奇妙に歪んだ。顔は笑っているが、ぶつけられたのは圧倒的な憎悪だ。チリチリと首の後ろが焼ける。

 本能的に、これには敵わないと悟った。ヒュッと息を吸い込んだきり、呼吸ができなくなる。まさしく、蛇に睨まれた蛙だった。魂ごと握り潰されそうな、生まれて初めて感じる類の恐怖だった。

「やめろ」

 義平と男の間にスズが割って入った。とたんに息ができるようになる。極度の緊張状態から解放されたとたん、全身から力が抜け、その場に倒れ込んでしまった。

「おれの眷族だ。あんたに手出しはさせない」

「いっぱしの口をきくようになったじゃないか、スズ」

「あんたは相変わらずだな、クロガネ」

 クロガネと呼ばれた男は、にっこりと人懐こい笑みを浮かべた。

「いやあ、引きこもりのお前が眷族を持つこと自体珍しいじゃないか。だから、つい興奮してしまってね」

「『つい』で消滅させようとする奴があるか」

「ははは、すまないね、君」

 笑いながら、ふたりの前に座る。敵意こそ感じ取れなかったが、油断はできなかった。体を起こしながら厳しい視線を向ける義平に、スズは「大丈夫か?」と尋ねた。

「ああ。ところで、この者は」

「さっき話した龍神だ。おれにスズという名を与えてくれた」

「親のようなものか?」

「同じ血族に連なる者を親子と呼ぶなら、親ではないな」

 答えたのはクロガネだった。

「我らの在り方は多様でね。ひとのように親が在る者、年を経て意思が生じるようになる者、それの誕生とともにそれに宿る者……スズは三番目だ」

「三番目?」

「そう。この地に沼ができ、葦が生え、錫石が成るようになったとき、スズが生じた。錫石が成る沼の神だから、スズと名付けたというわけだ」

 何百年も前の話だが、と付け加える。

「元々この辺り一帯は私の散歩道でね。たまたま通ったときに、生まれ立ての龍神がいるじゃないか。永く生きていても同胞の誕生の瞬間には滅多に立ち会えるものではないからね。うん、あのときも興奮したなあ」

「興奮すると暴走するから気をつけろ」

 スズが義平に向かって忠告した。先ほどの威圧も興奮して暴走したためなのか。近づきたくないとひそかに思った。

「それで、用件はなんだ? 番人たるあんたがあそこから離れるなんて、よほどのことでもあったか?」

「番人?」

 関わらないでいようと思った矢先だったが、思わず聞き返してしまった。クロガネはにこにこと笑みを作ったまま答えた。

「いやあ、その昔、とある神に騙されて、別の神を見張るように命じられているんだ。本来なら離れてはいけないんだが、息抜きは必要だろう?」

 さぼり癖のある勤め人のような言い草だなと思いつつ、黙って頷く。

「それに、もうすぐあれが始まる」

『あれ』が何を指すのかわからず、義平は首を傾げた。気になる言葉がいくつかあったが、余計な口出しはするまい。スズは思い出したように頷いている。

「……そんな時期か」

「ああ、七年に一度の大仕事さ。すでに準備は始まっているがね。本格的に始まったら、息抜きどころではない。まったく、面倒くさい仕事まで押しつけられたものだ」

「あんたはいつも息抜きばかりじゃないか」

「お前は出不精だからね。君、引きこもりの相手は大変だぞ。この沼どころか神域からすら出ようとしない。ああ、そうだ、君、都から来たのだろう?」

 義平はそのとおりだと首肯した。だが、何故わかったのだろう。

 不思議に思っていると、クロガネは見透かしたように「このような鄙びた土地に、君のような身なりのいい人間は滅多にいない」と言った。

「たまには都の話を聞きたいね。この引きこもりは世の流れに無頓着すぎて話し相手にすらならない。あれさえなければ、西まで飛んで見物に行くのだがなあ」

 残念でたまらないといった様子のクロガネに、スズが呆れる。

「あんた、番人だろう。行きたくても、あそこから離れられないのをわかっているくせに」

 気安い雰囲気で話すクロガネに、好奇心が勝った義平はおそるおそる尋ねた。

「ただの見張り役ではないのか?」

 義平の問いに、クロガネは笑みを深くした。

「悪い神が出てこないように、封じているのさ」

 表面上は軽い調子で返ってくるが、なにやら含みを感じさせる。あまり突っ込んで聞かない方がよさそうだと判断し、「そうか」とだけ答えた。クロガネは目を細めた。

「君、知りたくはないかい? 悪い神の話を」

 試すかのような物言いに、義平はきっぱりと言った。

「話すというなら聞くが、無理に聞きたいとは思わない」

 義平を凝視していたクロガネは破顔した。

「……うん、気に入らないな」

「は?」

 脈絡のない発言に、義平は眉を顰めた。表情と言葉が一致していない。

「気に入ってしまったのが、気に入らない。あれの混ざり者なぞ丸呑みにしてやりたいほど憎たらしいが、君なら話し相手として連れて帰ってもいい。どうだね、私の社に来ないか」

「なぜだ!?」

「クロガネ!」

 義平は思わず腰を浮かせて逃げを打ち、スズは怒気を走らせた。

「義平はおれの眷族だ。あんたには、やらない」

「はは、ずいぶん気に入ったようだな。しかし、どうしてひとを? しかも、私が嫌うあれが混ざっている」

 後半になるにつれ、クロガネの口調が刺々しくなる。『あれ』を大層憎んでいるようだ。スズは気まずそうに黙り込み、ちらりと義平を見た。

「別に隠すことではないと思うが」

「……実は」

 義平に促され、渋々事情を話す。クロガネの険しかった表情が徐々に呆気にとられていき、そして、大爆笑へと変わった。

「……だから、言いたくなかったんだ」

 スズは拗ねたように口を尖らせた。

「ははは、いや、すまない。だが、傑作だ。お前のうっかりで殺しかけて、混ざり者かつ眷族にしてしまうなんて……あっーはっはっはっ!」

 腹を抱えて笑い転げる様に、義平まで居たたまれなくなってきた。

「だが、うん、君は実に運がいい」

「え?」

 笑いを収めたクロガネが真顔になった。

「眷族になるほどの大量の血を取り入れると、たいていの生き物は龍の血に耐えられずに死ぬんだよ」

「そうなのか!?」

 驚きの声を上げたのはスズだった。義平は青褪め、困惑したままクロガネの言葉を待つ。

「お前に教えたのは同種や同格以上の存在……たとえば、私のような龍神や神霊に類する者を前提に話している。力の弱い妖しの者やひとなどは論外だ」

 龍神の血には神威が宿っている。その血を大量に取り入れると、龍神に類する存在へと変容してしまう。たいていの生き物は、変容の過程で負荷に耐え切れず、死んでしまうのだ。

 変容もせず、治癒の恩恵だけを受けられるのは、同じ龍神と龍神以上の神格を持つ神霊に類する存在のみである。当然、脆弱な『ひと』は龍神の血には耐えられない。

「だが、俺は生きているぞ」

「そりゃそうさ。君、あれの……アマツ神の血筋だね?」

 この国の神は三つの系統に大別される。天に座すアマツ神、地に座すクニツ神、そのどちらにも属さない(いにしえ)の神である。

 帝の一族はアマツ神を祖としている。義平の系譜を遡れば、アマツ神の一柱に辿りつく。クロガネはそのことを指摘しているようだった。

「たしかに先祖は帝の一族ではあるが、俺は神などではないぞ」

「わかっている。ひとと交わるうちにだいぶ薄まっているからね。だが、アマツの血を引いていることに変わりはない。とくに君は色濃く受け継いでいる。そのおかげでスズの血に耐え、生き永らえた。魂の在り方は変わってしまったがね」

「戻る方法はないのか?」

「ないだろうな」

 クロガネはけんもほろろに言いきった。

「砕けた岩が、一切の継ぎ目なく元の姿に戻ると思うか? たとえ戻る術があったとして、魂に刻み込まれた事実は消えない。まっとうなひとには戻れぬだろうよ」

義平は顔をしかめ、「そうか」と短く答えた。

「そこまで言われてしまえば致し方ない。腹を括ろう」

 おそらく、当てにしていた術者に聞いても同じ回答だろう。おのれの身に関しては、むやみに足掻くより、観念するほかない。

「ああ、だが、そうだね。あの(ふた)つ神ならひょっとすると知っているかもしれない」

「あいつらか……」

 スズが嫌そうに顔を歪める。どんな神なのかと問えば、「二柱一体の神だ。ふもとの集落に祀られている」と返ってきた。

「仲が悪いのか?」

「やかましいから好まない。この前も、突然訪れて、騒ぐだけ騒いで帰っていった。迷惑だった」

 愚痴るスズを見て、相当嫌だったんだなと思った。

「ああ、それは悪いことをした。ここに来る途中、双つ神の社にも寄ってきたんだが、お前の社に行くと言ったら、自分たちも遊びに行くと」

 クロガネの言葉を遮るように鈴が鳴り、一陣の風が吹く。風圧の強さに、義平は思わず目を瞑った。同時に、「スーちゃん!」「スーくん!」とけたたましい子どもの声が響き渡る。

 おもむろに目を開くと、七、八歳ぐらいのふたりの子どもがスズに抱きついていた。ふたりの顔は瓜二つだった。やや垂れ目がちの丸っこい瞳は深縹で、赤みのある頬はふっくらとしている。ふたりとも、薄萌葱の水干を着ていた。

 違っているところといえば、髪型ぐらいだろう。ひとりは薄緑の髪を二つに分け、首元で結わえている。もうひとりは、一つにまとめて頭の高いところで結わえていた。毛先がくるりと巻かれ、ふたりが動くたびにふわふわと揺れる。

 抱きつかれたスズの顔がどんよりと曇る。ただでさえ陰鬱な雰囲気を漂わせているのに、より陰気になった。ふたりは構わずに話しかける。

「スーちゃん、久しぶり~! 元気だった? たまにはあたしたちんトコにも来てよ~」

「そうだよ、スーくん! たまには沼から出ないとお友達できないよ?」

「双つ神、いったん離れなさい。スズが困っているだろう」

 クロガネがたしなめると、ふたりは聞き分けよく離れた。しかし、逃がさないとばかりにスズの両隣に陣取り、着物の裾を掴んでいる。

「……何しに来た?」

 地を這うような声でスズが問う。

「クロちゃんがスーちゃんのところに行くって言うから!」

「ぼくたちもクロくんについて行こうと思って!」

「遊びに来ちゃった」とふたりの声が重なった。息の合った見事な掛け合いだが、どちらもやかましい。スズの嫌がる気持ちがわからなくもない。

「ねえねえスーちゃん、あれ何?」

「どうしてひとがスーくんの神域にいるの?」

 二対の深縹(こきはなだ)の瞳が興味深そうに義平を見つめる。子どもだと思い込んでいたが、れっきとした神だ。義平の体が固まった。クロガネほどの圧ではなかったが、身動きがとれない。

「やめろ。おれの眷族……義平だ」

「眷族!?」

 ふたたび声が重なった。

「ひきこもりのスーちゃんが!?」

「世捨て神のスーくんが!?」

 スズが制止してくれたおかげか、圧がなくなった。義平は深く息を吸い、呼吸を整えた。命がいくつあっても足りないのではないかとすこし不安になる。

 ふたりは「何で!?」「何で!?」としつこく理由を問い質し始めた。話すのも億劫なのか、スズはだんまりを決め込んでいる。クロガネはやれやれと肩を竦めた。

「双つ神よ、まずはスズの眷族に名乗りなさい」

「あ、そうだね、スーちゃんの眷族はあたしたちの身内だもんね」

「ぼくたち種族は違うけど、同じ土地に棲む仲間だもんね」

 女童は「あたしはイク。イクちゃんて呼んでね」と名乗り、童は「ぼくはタル。ターくんて呼んでいいよ」と名乗った。義平もぎくしゃくと頭を垂れ、名前を告げた。

「義平だから、よっしーだね」

「よろしくね、よっしー」

 ふたりはにこにこと屈託のない笑みを向けた。そうしてスズへの質問攻めを再開する。呆気にとられる義平に、「いやあ、なかなかに面白い神だろう」とクロガネが言った。

「……ものすごく、元気がいいな」

「正直に、やかましいと言っていいぞ」

 義平は、思うだけにとどめた。

「あの双つ神は、古くよりこの地に勧請された神だ。いちおうあれと関係のある系統だがね」

「アマツ神ということか?」

 クロガネが頷く。ふたりには親しみを覚えている様子から、アマツ神だからと憎しみを抱えているようには見えなかった。

「まあ、()の者らは父神の頃からの古い付き合いだからね。あれに関わる神とはいえ、別枠さ」

 人間が想像するより、神々の世界は複雑のようだ。

「双つ神、ひとつ聞きたいんだがね」

 クロガネが声をかけると、イクとタルはそろって振り向いた。

「スズの眷族だが、元はひとだ。スズの血を取り込み、混ざり者となってしまったが、元に戻る方法はあるか?」

 ふたりは顔を見合わせ、ずいと義平に近づいた。タルがぐいっと義平の顎を掴み、イクが顔を寄せて覗き込んでくる。

 魂の奥底まで暴かれそうな視線に、ざわざわと背筋が震えた。体内の臓腑がひっくり返るような気持ち悪さも覚える。

「無理だよ」とふたりが声を揃えて言った。

「見事に混ざり合っちゃっているもん。清流に入り込んだ泥水は取り除けないのと同じだよ」

「……おれの血は、泥水なのか」

「落ち込まないで、スーくん! イクちゃんのたとえが下手なだけだから!」

 タルが慌てて慰める。

「無理やり取り除こうとしたら、ひとですらなくなっちゃうね」

 そう言いながら、イクが離れていく。ほっと安堵の息をつく。

「ということだそうだ。君、今のままでいるしかないな」

 義平はこくこくと頷いた。あまりに暗い面持ちでいるので、クロガネが不思議そうに首を傾げる。

「龍神の眷族になったんだ。誇りこそすれ、嘆く必要はあるまいに」

「ひとの暮らしに未練があったものでな。だが、断ち切らねばならん」

 言いながら、思い浮かべたのは諾子の姿であった。しかし、すぐに頭の片隅に追いやった。

「眷族生活は楽しいよ、たぶん!」

「沼から出られないと思うけどね、絶対!」

 イクとタルは励ましているつもりなのだろう。が、逆効果だった。あまり良い未来は描けない。

 顔色の悪い義平を見たスズは、「黙れ」と低く唸った。本気で怒っているのだと察したのか、ふたりは口を噤んだ。心なし拗ねた様子で、スズの髪を引っ張っている。

「ところで、だいぶ話が逸れてしまったが、クロガネの用件はなんだ?」

 スズはふたりを無視して尋ねた。

「ああ、そうだった。私の元へとある使者がやってきてね。簡潔に言えば、力を貸してほしいと頭を下げてきた」

 義平とスズは顔を見合わせた。義平たちも似たような話をしていたところだった。

「まあ断ったがね」

「どんなやつだったか、覚えているか?」

 スズの問いにクロガネが頷く。

「ああ。男のひとの姿をしていた。最後まで名乗らなかったが、致し方ない。あれは名を持たない者だからね」

 クロガネの憐れむような不思議な物言いに、義平は首を傾げた。名を持たないとは、その言葉どおり、名前がないということだろうか。

 尋ねようとして、スズが呟いた。

「おれのところに来た奴と同じかもしれない」

「なんだ。もう来ていたか」

「ああ。おれも断ったがな」

「そうだろうな。引きこもりのお前が、表立って出るはずがない。だが、それでいい。神頼みする輩なぞ、ろくなものではないさ」

「ひとつ聞きたい」

 義平が口を開いた。その者の名前よりも、ほかに気になることがあった。

「そいつの目的はなんだ? なぜ神の力を必要とする?」

「さてね」

 クロガネは肩を竦めてみせた。

「そこまでは知らんさ。聞く耳持たずに追い返してしまったからね」

「あれに一矢報いるというなら考えたかもしれないが」と一瞬だけ残念そうに顔を歪め、すぐにスズに向き直った。

「念のため釘を刺しに来たのだが、まあ、すでに断っていたなら済んだ話だ。私は帰るとしよう」

そう言って、クロガネは立ち上がった。「あたしたちも帰るね!」とイクたちも後に続く。

「またね、スーちゃん、よっしー」

「ばいばい、スーくん、よっしー」

 御簾が勝手にするすると上がる。クロガネたちが部屋から出ていくと、ひとりでに下がった。

「帰ったのか?」

「ああ」

 義平はほっと息を吐いた。クロガネたちがこの部屋にいる間、ずっと気圧されているように感じ、息苦しかったのだ。

「大丈夫か? 顔色が優れないようだ」

「正直生きた心地がしなかった」

 素直に吐露すると、スズは「それは仕方ない」と言った。

「クロガネも双つ神も、おれよりもずっと昔から存在する神だ。たぶん、この国が生まれたときからいる。年数を経た神は、その場にいるだけで他を圧倒するからな」

 すると、クロガネたちは千年近く――ひょっとするとそれ以上――生きていることになる。あまりの長さにピンと来ない。

「悪い神を見張っていると言っていたな。なかなかに大変そうだ」

 感想を漏らすと、「あいつは、ここより南にある湖に棲む龍神だ」とぽつぽつと語り始めた。

「あるとき、西方からクニツ神の一柱が土地を追われて逃げて来た。クロガネの父神とクニツ神は争い、クロガネたちは追い出された」

「待て。俺が聞いていい話か、それは」

 スズはこてんと首を傾げた。

「あんたのことが気に入ったようだから、別にいいんじゃないか?」

 隠すことではないというので、耳を傾ける。

「そのクニツ神に土地を奪われたわけか」

「ああ、そうだ。だが、それで終わらなかった」

 クニツ神を追っていたアマツ神が、クロガネの父神を唆し、共謀してクニツ神を殺そうとした。しかし、それはアマツ神の罠だった。

「クニツ神はあまりにも強大で、殺すことは容易ではなかった。そこで、アマツ神は、クロガネの父神を贄とし、クニツ神をかの湖に封じたんだ」

「なんだと?」

 神が神を贄とし、神を封じる。にわかには信じがたい。身の毛がよだつ話に、思わず眉を潜める。

「恨みを呑んで死んだ神は、祟り神となる。住処を奪われ、利用されて殺された神は、さぞかし最強の祟り神となっただろうな」

「……つまり、祟り神となったクロガネの父神の力を使って、アマツ神はクニツ神を湖に封じたということか?」

 スズはこくんと頷いた。

 残されたクロガネは見張り役となった。父神を犠牲にして封じられたクニツ神が、この世にふたたび現れないように。

「だから、クロガネは、父神を騙したアマツ神も、自分が見張っているクニツ神も憎んでいる」

 義平の祖であるアマツ神と同一の神であるかは不明だが、同じアマツ神の血を引いているというだけで、クロガネにとっては『あれ』と言って、口にしたくないほど憎むべき対象なのだろう。クロガネが時折見せた残忍そうな笑みや含んだ物言いは、強い恨みを宿しているからだ。

「伝承では、かつてクニツ神である大国主(オオクニヌシ)(ノカミ)が国土を治めていたらしい。そこへ、高天原におわす天照(アマテラス)大御神(オオミカミ)の命により、使者が天より降りられて、国土を譲り受けたという話だ。その子孫がやがて東征し、諸国の統一を図ったというのが通説だが」

「ひとの間ではそうなっているのか」

 スズはすこし驚いたようだった。

「俺も詳しく覚えているわけではないが、違うのか?」

「おれが生まれる前だから、詳しくは知らん。ただ、クロガネの話だと、国土を譲り渡す際、クニツ神の中でもアマツ神に恭順する者もいれば、抗う者もいたそうだ。そして、抗う者は徹底的に攻め入られた」

「ひょっとして、クロガネが見張っているクニツ神は、そのときの?」

「おそらくな」

 後世には詳細が伝わっていないだけで、その当時、各地では血なまぐさい争いがあったのかもしれない。

「しかし、クロガネやお前の元を訪れた者は一体何者なのだろうな」

「ひとにしては、変わっていた」

「と言うと?」

「一方的に、祈りや願いを捧げてくる『ひと』はいる。だが、そいつはおれの返答を待っていた。おれに声が届いていることをわかっていたんだと思う」

 神が直接姿を現さないかぎり、ひとが神と対話するのは不可能である。けれど、その者は社に祭られている御神体を通じて語りかけてきたのだという。

 スズが祭られている社は、沼のほとりにあり、神域と現世を繋ぐ場所でもある。その道に通じている者であれば、神霊の類との対話あるいは託宣や預言といった交信は可能だろう。

「そいつは相当高度な術を使う者なのだろう」

 義平は友人である自称天才術者の顔を思い浮かべながら言った。

「術を使う?」

「ああ。ひとでありながら、妖しの者と似た力を駆使する者を術者と呼んでいる。俺も詳しいわけではないが、術者は札や呪文などを使って、天候の行く末を占ったり妖しの者を退治したりするのだ。それで、そいつはお前に名乗ったか?」

「名か……そういえば、名乗っていなかったな。神との対話を望むのなら、まず名を名乗るのが当然なのにな」

 神に名乗るという行為は、神に存在を認知してもらうことである。神と交信ができる術者が、行為の意味を知らないとは思えない。

 それがどうかしたのかと、スズは首を傾げた。

「クロガネが名を持たない者と言っていたのが気になったんだ。どういう意味かわかるか?」

「単純に、名がないんじゃないか?」

「神と交信できるほどの術者が、名無しであるわけないだろう」

 ひとにも、ものにも、それを表す名がある。名は、それの本質を表す記号であり、在り方を定める呪でもある。とくに、魂に刻まれた名を真名という。クロガネが憐れんだのは、本来あるべきはずの真名を持たないという意味だったのか。

「たしかに、名がないのであれば、名乗りようもないな。まあ、存在を認知してほしいだけなら、通り名でも偽名でもいいんだがな」

「そういうものなのか?」

「おれはどっちでもいい。名乗られても、すぐに忘れる。そのときだけ、存在が認知できればいいんだ」

 大雑把だなと思った義平はふと不安に駆られた。

「まさかとは思うが、俺の名前は……」

「覚えてる。眷族の名前は、さすがに忘れない」

 スズは慌てたように言った。

「なら、いい。それで、お前はそいつ――仮に、謎の術者としよう――に、何と答えたんだ?」

「ひと言、『否』と」

「それだけか?」

「力を貸してほしいと言われたが、面倒事に巻き込まれる気配を察知したからな」

 スズが断ると、謎の術者は社から去っていった。それからしばらくして、討伐隊がやって来るようになった。五年前の話である。

 それを聞いた義平は、「そんなに前なのか」と驚いた。

「つい最近だろう?」

 スズは首を傾げた。何百年と生きる龍神と数十年のひととでは、時間の流れ方の感覚にずれがあるようだ。

「となると、クロガネの元に訪れた術者も、実は数年前の話かもしれんな」

「ありえると思う。基本的にクロガネは湖から離れないが、息抜きだとか散歩だとか言って、時々抜け出してくるからな」

「見張りをやめることはできないのか?」

「クニツ神が封じられているのは、元々クロガネ父子が棲んでいた湖だ。見張りをする代わりに、ふたたび棲むことを許されたらしい」

 父神を殺され、クニツ神を封じた場所であっても、クロガネはそこでしか生きられない。元の住処を離れるのは、命を絶たれるようなものだ。その土地から生じた神は、その土地そのものが生命線と言える。

「では、たとえばだが、この沼が枯れたり、埋め立てられたりしてなくなったら、お前はどうなる?」

「恐ろしいことを言うんだな、あんた」

 スズはぎょっとして義平から距離をとった。

「たとえばの話だと言っている」

 人でなしのように言われ、義平は慌ててたとえ話だと強調した。

「消える。住処を失ったら、存在する意味がなくなる。そうなったら、生きていられない」

 義平は思案気に「そうか」と頷いた。

「いいか、可能性の話だ。お前を退治するためなら手段を選ばない者がいたとして、沼ごと失くしてしまうというのはありえると思うか」

 スズは青ざめ、「……おれを、本気で殺したいなら」と答えた。

「だが、考えにくいと思う」

「なぜだ」

「集落の人間は、この沼の恩恵を受けているからだ。この沼の水は川となり、ふもとまで流れ着く。沼の水がなくなれば、川もやせ細る。暮らしてはいけまい」

「なるほど」

 水は生きていくうえで欠かせない。水源である沼そのものを失くす方法をとる可能性は低いと考えていいだろう。

「それに、錫石が採れなくなる」

「……錫石か」

「そうだ。この辺りは良質な錫石が採れると、一時期ひとが押し寄せたことがあった。社が建てられたのもその頃だ」

「錫石が成る沼に神がいると、人々の間でも認知されるようになったのだな」

「ああ。おれの気配を感じ取った人間――術者の類かもしれんが、この沼には神が宿ると宣言して、社を建てていった。何百年も前の話だ」

 話を聞きながら、義平は首を傾げた。

社が建つほど信仰を集めた神が、贄を要求する悪しき神へと変わり果てていることに違和感を覚えたからだ。

 長い年月の中で、伝承や信仰が変わっていくことはありえるだろう。けれど、その変化に謎の術者が関わっているとしたら、話は変わってくる。

「お前が申し出を断ったから、腹いせに退治してやろうとほかの人間たちをけしかけたとか」

「とんだ逆恨みだ」

 スズは憤慨した。たしかに、やることが幼稚である。

「そういえば、錫石を採りに来る人間はいないのか?」

「もう長いこと、誰も来ないな」

「取りつくされたわけではあるまい」

「だいぶ前に、大雨が降って、大勢のひとが土砂に巻き込まれて死んだ。たぶん、そのせいだ」

「お前の仕業という意味か?」

「違う」

 スズはきっぱりと否定した。

「だが、おれのせいにされた……ひとが欲張って、おれの沼を荒らし回ったから怒っているんだと……」

 だから、大雨を降らせて罰を与えた。

 そういう理屈なのだろう。

「お前は、ひとが勝手に採っていって、気にならなかったのか?」

「別に。おれの沼に成ったものだが、おれの所有物ではない。おれにはなくても、ひとに使い道があるというなら、使えばいい。それがこの世の理だ」

「理?」

「そうだ。この世に無駄なものなどない。おれにとっては無用でも、誰かにとっては有用だ。それを必要とする者が使えばいい」

「なるほど」

 スズがひとに対して悪意を持っているようには感じられない。むしろ、ひとから一方的に悪意を向けられているとしか思えなかった。その理由がわかれば、退治をやめさせられるかもしれない。

「こんなことになるなら、あの男からこの辺り一帯の仔細を聞いておくんだったな」

 脳裏に浮かんだのは、龍神を退治してほしいと懇願してきた受領の、一癖も二癖もありそうな男の顔だった。



***



 出立の前夜、信濃国筑摩郡にある受領の屋敷にて、義平と友保は酒を酌み交わしていた。用意された酒杯と肴が並ぶ。

「実に嘆かわしいことです」

 杯を呷りながら、友保が深々と息を吐く。樺桜(かばざくら)の狩衣は手入れがされているものの、着古した感が否めない。

「ふだんは穏やかな沼なのですが、年に一度、贄を要求してくる始末でして。ふもとに住む者はほとほと参っているのです。小さな集落ですので、働き手が失われるのは痛手でしょう」

「それで、友保殿が立ち上がったわけですか」

 ふだんから嗜む程度にしか飲まない義平も、相手の調子に合わせて杯を仰ぐ。退治に差し障りがあってはならないので、飲み過ぎないようにしなければ。義平は友保の杯に酒を注いだ。

「もちろんですとも。しがない役人の端くれとはいえ、こうして任地に参ったのです。ならば、領民のために働くのも、ひいては帝のためになりましょう」

「立派な心がけですね。ほかの諸国では、民に圧政を敷いて、訴えられる受領もいるというのに」

 すこし持ち上げただけで、友保は気を良くしたように笑った。

「はは、なんの。自分は圧政を敷くには小心者でしてな。それよりは、わずかな労力で最大限の利を得たいと考える人間なのですよ」

 藤原友保について知っていることといえば、藤原氏の傍流の出であることくらいだ。都を出立する前にそれとなく周囲に評判を聞いてみたが、可もなく不可もないという印象だった。「野心家だが、器が小さすぎて空回りしている」と辛辣な評価もあった。

 聞くところによると、先の受領は国衙に到着したその日に災害に見舞われ、死んでしまったそうだ。空いた席を狙い、次の信濃守に任ぜられようと、友保は貢物をするなどして随分と無理を通したらしい。

 義平はさらに酒を注ぎ、「そのためには、民のために働いた方が結果的に自分の利益となり、さらには帝の利にもなるとお考えですか。双方にとって好ましいやり方ですね」と当たり障りなく褒めた。

「そのとおり。決して聖人君子を気取るわけでないが、力任せに働かしては、働く者も働かなくなりますからな」

「なるほど。ところで、くだんの龍神ですが、贄を差し出さないと何を」

 しでかすのかと、問いかけたところへ、友保に遮られた。

「実に嘆かわしいことです」

「はあ……」

「この地の有力な豪族の武力であっても、退治できなかったのです。だが、なんとしても、自分が退治せねばなりますまい」

「……友保殿、ひょっとして、酔っておいでか?」

 顔色はあまり変わっていない。だが、義平の問いには答えず、一方的に話すあたり、だいぶ酔いが回っているようだ。

「義平殿、なにとぞ龍神を退治してくだされ。この件が帝の御耳に入られた以上、この友保、解決するまで帰りませんぞ」

「友保殿が帰国せねば、いろいろと不都合なのでは? 次のお役目も決まっていると聞きましたが?」

「いいや、帰りませんぞ! 責任はこの友保にありまする!」

 問題をそのままにして帰国したとあっては、帝に顔向けできないと言いたいらしい。数年前に信濃守に任ぜられた友保の任期はとうに終わっている。「即刻帰られよ」と義平は思ったが、口を噤んだ。

 明らかに友保は酔っている。話を聞き出すためとはいえ、飲ませ過ぎたかと反省する。

 正論を突きつけたところで、覚えてはいまい。それに、受領の人事管理は範疇外である。滅多なことは言えない。

 龍神を退治して、それでも理由をつけて帰国を渋るなら、そのときは口を出すしかあるまい。

 自分に命じられたのは龍神退治だが、ついでに友保を連れて帰って来いと言外に命じられた気がしないでもない。

 友保は「嘆かわしい……嘆かわしい……」と繰り返している。これ以上、有益な話は出てこなさそうだなと、義平は注がれた酒を呷った。



「……今思い返しても、実に無駄な時間でしかなかったな」

「何がだ?」

 問いかけるスズに、何でもないと返す。

 さて、これからどうしたものか――義平は頭を捻った。




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