第三話.大精霊ノームの真実
3.
鉱山の町はまさに鉱山の中にある。
日光が届くような浅い場所にはないのでとても暗く、あたりを照らすのはゆらゆらと揺れる篝火か。いや、そこかしこの工房から流れる火花のせいもあるかもしれない。
火花は漏れなくカァン、カァンと鉄を叩く音と一緒に生まれていき、そして空気に溶けていく。
此処は鍛冶師の聖域、鍛冶神の巣窟。
精霊ノームを崇めるドワーフたちの聖域だった。
「本当に行くんですかぁ……?」
「もちろん行くわ。当然でしょ?」
涙目のフィリシスの尻をユピーはげしっと蹴り飛ばした。
ユウトたちは鍛冶神の巣窟の端っこにある『この先進むべからず』と書いた看板の前にいた。
看板の奥には大きな洞穴がある。
フィリシス曰く、ここから先に真っすぐ進めばすぐに精霊ノームの住処へと行けるとのことだった。
だがそれはドワーフの一族――というよりもノームへの精霊信仰の教えに反することらしく、今からいくぞ! という段階になってフィリシスは尻込み始めたのだ。看板を凝視しては頭を振ってケツを蹴られ罵られる、これをセットにして幾度も飽きずに繰り返されていた。
その大きなお尻を蹴り飛ばされるたびにフィリシスの大きな胸がぶるんと揺れて、たわわに育ったお尻もついでに揺れる。篝火に照らされた凛々しい顔立ちが羞恥に染まり、涙を浮かべる様は情欲的だった。はあ、と漏れる熱い吐息がもう耳にこびりついてしまったように離れない。
これを見るのは目に毒だ。わかってはいても、ユウトはやはり目を逸らすことはなかった。
「僕、あいつのこと嫌いだッ! 優柔不断だしっ! 何よりユピーちゃんにずっと構われててずるいっ!」
ザッシュが今にも飛び出して行きそうだ。尻尾がシャキーンと立っている。
ユピーの事好きすぎだろと思いユウトは溜息を吐くが口には出さない。
件のユピーと言えばしきりにフィリシスを攻め立てているが、こちらの視線に気づいたのか。物欲しそうにするフィリシスを置いてユウトの傍へとやってきた。「何か言いたいことあるんでしょ? わざわざこの私が来てやったわよ」とその瞳は言っている。
ユウトは大仰に肩を竦めてみせた。
「俺たちはノーム教とやらの部外者だからよくわからないんだが、この先には進んでいいのか?」
「大丈夫よ。怒られるのはフィリシスとあんたたちだけだから。私はなんでか大体の悪さは見逃してもらえるのよね。愛されキャラだからかしら?」
「それは、その、大丈夫なのか?」
「ん? 私は大丈夫だから大丈夫でしょ?」
それは大丈夫とは言わない。
「僕はユピーちゃんにどこまでもついていくよ!」
「ええ、あなたは本当に忠実な犬ね。その忠誠心の高さは私も飼い主として誇らしいわ」
「僕は犬じゃな――「お手」――うわあああああ!」
お約束の光景にユウトはもはや安らぎすら感じるが、フィリシスはそうではないようだ。
どこから取り出したのか、手ぬぐいを噛みしめてぐいーっと引っ張っている。目は吊り上がり、嫉妬の焔が宿っていた。
彼女はずいとユピーの前に出るとさりげなくザッシュの脛を蹴り飛ばす。きゃいん、とザッシュは真上に跳ねた。
「ユピー様! 私、行きます。さきほどユピー教に入信したので、ノーム教に従う道理はないことを思い出しました!」
「あー、そんなこともあったわね。じゃあほら、さっさと進むわよ」
そう言ってユピーは看板を無視して洞穴へと進みだす。次いでフィリシスが、そのあと唸り声を喉から鳴らすザッシュが、最後にユウトが続いた。
洞穴の中は真っ暗だった。
「私を美貌を正しく示せ【後光/ライトニング】」とユピーが呟くと、その手に光球が浮かび上がった。
「前から気になってたんだが、それって何なんだ?」
ユウトはユピーに近づくとその光球を指さした。
「それって、これ? ただの魔法よ?」
「魔法って何だ?」
「は? ゴブリンでも使えるやついるでしょ? 見たことないの?」
「俺に友達はいない」
「――あー、もうっ! 堂々とそんなこと話さないでよ」
ユピーはいたたまれなくなったのか、悲し気に目を伏せた。
「ザッシュも使っていたし、お前もたまに炎を出したりしていただろう? どうやって使ってるんだ?」
「えー、うーん、何となく? 内から溢れ出る、こう、なんていうのかしら。腹の奥底に集中すると感じるものが何かない?」
「“気”のことか?」
「わかんないけど、たぶんそれよ。私はゴブリンじゃないからあなたたちがどう使ってるかっていうのもわからないし、自分の仲間にでも聞いてよ」
「じゃあお前が教えてくれ。お前は俺の仲間だろ?」
そうだったっけ? とユピーは頬に手を当て考え込んだ。
少なからずショックを受けるユウトだった。
ひそかに肩を落としているユウトを見てユピーはけらけらと笑う。
「冗談よ。ま、機会があれば教えてあげるわ」
頼りになる仲間がいてよかったわね? とユピーは嘯いた。
純白の頬がかすかに紅潮していて、羽はせわしなくパタパタと動いてそよ風を起こしている。照れ、だろうか。
ユウトも何故か少し恥ずかしくなってぶっきらぼうに「助かる」と返した。
それからしばらく会話もなく、淡々と洞穴を進んでいくとふいにザッシュがクンクンと鼻をひくつかせ始めた。
「何か良い匂いがするッ!」――と尻尾をぶんぶんと振り始める。
ザッシュの言葉を聞いたユピーは顎に手をやってうーんと考え始めてしまう。
「どうした?」
ユウトが聞いてみると、おかしいのよね、とユピーは言った。
「ザッシュの言っている通りなのだけれど、良い匂いがするのがおかしいのよ。爺の住居と言えばいつも泥粘土に腐った肉を突っ込んだみたいな臭いがするのに。鼻が曲がりそうになるからドワーフの人たちも立ち入り禁止にしているのよ」
「そんなことないですよ!? 大精霊ノーム様の住居に入るのは不敬だからですよ……!?」
「こう言い訳してるけどね。体臭のひどいムサイ男なんて近づきたくもないから祠への入り口を封鎖しているのよ」
違いますぅ……! とフィリシスは手をパタパタと動かして否定しているが、かすかに目が泳いでいる。
よほどの臭気だったのか。近づくのも憚るほどに。それはおそろしいものだ、とユウトは思う。
「ちょっと見てくるよっ!」
「あ、ちょっと! ノーム様の前ですよッ! 失礼のないようにぃぃ――ッ!」
飛び出すザッシュをフィリシスが制止しようとするが間に合わない。凄まじい速度だった。
「――追いかけなくていいのか?」
「なんで? あのまま放置した方が面白そうじゃない?」
「そ、そうか」
光球が照らすユピーは口角を吊り上げて楽しげだった。
「ま、急がなくてもそろそろのはずよ。ね、フィリシス?」
「はいぃ。でも、あの青犬がノーム様の前で何をやらかすかと思うと心配で……」
「大丈夫。大丈夫よ。どうせ大した事は出来ないわ。あの犬は小心者だから」
道なりに進むとほのかに温かくなってくる。
洞穴は深くなればなるほど道幅が広くなってきて、壁には埋め込まれたように宝石が中途半端に露出していた。さまざまな色の宝石は光球の明かりを反射してキラキラと輝いていた。
「初めて来たんですけど、すごく綺麗ですね」とフィリシスは目を見開いてツンツンと宝石をつついている。こっそり持ち帰りそうなくらいに物欲しそうにしていた。
反してユピーはあまり興味がなさそうだ。
「宝石なんてものに興味はないわ。男が必死に手に入れて持ってきた高価なものだから意味があるの。それ単体はただの綺麗な石ころよ」
とのことらしい。
歪んでいるな、とユウトは思った。
さて、この宝石群を抜けるとその奥の奥には明かりが灯されている。ユピーは光球をもみ消しすと、「ほら、あそこに爺がいるわ」と先を指さした。
フィリシスはこのまま進んでいいものか、と自分自答していたが、やはりユピーはためらいもなく進んでいくし、ユウトも呑気に進んでいくと、
「がるううううううううううううっっ!!」
犬の唸り声が奥から響いてくる。
フィリシスはピンときた。
あの青犬、絶対何かやらかしてる! フィリシスは確信すると思わず飛び出して行ってしまった。
フィリシスは思う。
――あの青犬は嫌いだ。
見た目は可愛い。認める。犬っぽい仕草も実はフィリシスの好みである。子犬じみた少し高めの声も耳心地よくて、思わず保護欲を掻き立てられる。
正直なところ。ゴブリンは見た目からしてご遠慮させていただきたいし同じ空気を吸っていると思うだけで気分が悪くなるが、コボルトのことはまあ少しくらいなら可愛がってやってもいいと思っていた。
けれどユピーに愛撫されている途中に邪魔されたあの憎悪は筆舌に尽くしがたい。あの瞬間、青犬は葬るべき敵となった。
――そんな奴がノーム様に馬鹿みたいに突っかかってるかもしれないかと思うと!
腰紐に吊るしたホルスターに収められている大振りの金槌を取り出した。
これで頭を叩けば綺麗な花が咲くだろう。
ククク、とフィリシスは闇を感じさせる哄笑を漏らしていた。
果たして。
フィリシスが辿り着いたノームの住居にはフィリシスが想像する以上にちょっとよくわからない展開が繰り広げられていた。
ノームの住居は地下にあるとは思えないほど大きな広間だった。
そこかしこに伝説の名剣と思われる神々しい武具が突き立っていて、奥には今まで見たことがないくらいの魔力が籠ったオリハルコンの塊が鎮座している。
オリハルコンと言えば神々が造った奇跡の鋼と呼ばれるほど貴重なものであり、それで造られた武具は神々ですらをも切裂くことができると言い伝えられている。そんな塊が置いてあるなど、もはや現実とは信じられないほどの奇跡だ。
他にもさまざまな貴重な鉱石が転がっていて、もはやここは鍛冶師にとって夢に見るほど素晴らしい光景が広がっている――のだが。
「わー! 可愛いワンちゃん!!」
「放せッ! くそっ! 身体さえ動けば……なんで僕の身体は動かないんだ――ッ!!」
幼女がコボルトをとっ捕まえてモフモフしていた。
――は? とフィリシスが大口を開けて呆気にとられてしまうのも無理からぬことか。
さらにはだ。
その幼女とコボルトが戯れている姿を微笑ましく見つめている好々爺が傍にいるものだから相当に混沌としていた。
「ほっほっほ、これ、アンちゃん。あまり激しく動いては怪我をしてしまうぞい。のぉ? コボルトよ……」
好々爺が小さく呟くとその指先から茶色の何かが飛び出してコボルト――ザッシュを包み込んだ。
するとザッシュは石化したようにぴたりと動かなくなってしまい、アンと呼ばれた幼女に好き勝手モフられる運命をたどる事になってしまった。
「ほら、見て! この毛皮! 青くてきれいで、ちょっと焦げ臭いけど、すっごい触り心地良いの!」
「ふむ。でも相手が嫌がるようなことはしてはならんぞい」
どの口が言うのか。身動き取れなくした犯人のくせに。
「ノーム様、何故人間がノーム様の御所にいらっしゃるのですか……? その人間は一体……」
そう、この好々爺こそノームその人だった。
極東の島国で好まれる゛着流し゛を身に纏った小柄な爺だった。
刺繍でもされたかのようにその目は薄く開くだけで、とても大きな鷲鼻が特徴的と言えば特徴的か。
ノームはフィリシスの姿を見つめると、ドワーフが来るなど久しいな、と呟いた後にこう言った。
「嫁じゃ」
嫁って、その嫁であって、つまり奥さんとか妻とかそういう――? フィリシスは人生最大の混乱を迎えた。
「嫁!? ですが、その、嫁とはいってもですね。何をするんですか?」とノームに突っ込んでしまうくらいに。
ノームと言えば、ふう、と長くため息を吐いた。
「わからんのか? 愛でるのじゃ」
溜息混じりの返答は皺がれた声で、まるで賢者が愚かな教え子に知識を伝えるような言い方だった。
ただフィリシスはノームの本当に言いたいことがわからず、オウム返しに「愛で――る……?」と聞き返してしまう。
ノームの再びの嘆息はとても深いものだった。
「おぬしらドワーフはワシを崇めてくれている。しかし生贄的な女人を寄越すことは終ぞなかった。イフリートなどは毎年毎年新たな女人を捧げられているというのに!」
その声は絶望とすら呼べる悲哀が籠っていた。
「精霊といえども寿命はある。ワシもそろそろ一万歳、転生の時期が近付きつつある。だというのに未経験のままこの世を去りたくはない。次のワシは上手くやるかもしれんが、それはワシであってワシではない。ワシは今! 生きている間に温もりを知りたかったのじゃ!!」
問題としては言っていることが凄まじく小さくて、フィリシスはがっくりと肩を落とした。
(私たちドワーフはこんな変態クソ爺を奉っていたの?)
今にも倒れそうなくらいに脱力してしまう。
そんなとき、背後から笑い声が聞こえてきた。
目を向ければユピーが腹を抱えて笑っていて、その隣に佇むユウトは憮然と顔を顰めていた。
幼女に弄ばれるザッシュは「ユウト、助けてぇ――ッ!」と懇願の眼差しをユウトに向けている。
――なんなの、この状況は……。
フィリシスは深淵をのぞき込んでいる気分になった。
「今日は来客が多いのぉ――?」
ノームは鬱陶しげに呟くが、ユピーの姿を見つけた途端その細い目をかすかに広げた。
その双眸は野獣のような光を称えているように見えて、フィリシスはかすかにその身を竦めた。
ユピーはそれに気づいたのか気づかなかったのか、ふうん、と軽く吐息を漏らすと胸を張ってフィリシスの前に立ち塞がった。
その姿はまるで恋人を守る紳士のようで――トクン、とフィリシスの心臓が高鳴った。
ユピーにそんなつもりは一切なかったのだが。
三日月のように吊り上がった唇はとても楽しげだ。
どんなふうに煽ってやろう、とその美しい顔は小憎らしく歪んでいた。
そして。
「化石爺、あなたはとうとう狂ってしまったのね。嘆かわしい。化石爺から幼女嗜好変態化石爺に様変わりしてしまうなんて――ん、よく考えればお似合いね。そんな顔してるわ」
ノームはその言葉を聞いてくずおれてしまった。
その口からは怨嗟のように何かが呟かれていて、よく聞こえない。
相手の弱みを逃すほどユピーは優しくはない。「言いたいことがあるなら言ってみなさいよ、変態」とここぞとばかりに口汚く罵ってみせた。
ノームはふるふると震えてしまう。
「じいじ、大丈夫?」とアンと呼ばれた少女はザッシュを放り出してノームを気遣う。するとノームは「大丈夫じゃよ」と頷き、そして、涙の滲む瞳をユピーに向けた。
「――もともと言えば、ユピー、貴様のせいじゃ」
「は?」――とユピーは呆気に取られた。
ユピーの困惑をよそにノームは地を強く踏みしめて立ち上がった。その姿は絶望に屈しない勇者の雄姿そのものだった。
彼は叫んだ。
「ワシは本当はおぬしのような程よく育った小さなツガイが欲しかったのじゃ! しかしおぬしは露出狂のような目に毒の格好ばかりをし、男を小馬鹿にする振舞いはまさに小悪魔じゃ! ワシのような未経験の男では手が出せぬ、そういう魔性の女じゃった……ッ!」
ノームの目からぶわっと涙が溢れた。
拳は強く握られ、身震いしている。
「何度も言ったじゃろう。清楚に、慎ましく、女性らしく振舞うよう。しかしおぬしは日に日に色気を増すばかりじゃ! だからワシは穢れなき幼女を――ワシ好みに育てることを決意したのじゃあああああああああああ!」
ノームの魂からの慟哭に対するユピーの感想はとても簡便だった。
――なにこの爺。気持ち悪い……。
思わずフィリシスに振り向いて言ってしまう。
「――ねえ、こいつ頭おかしいんじゃない? フィリシス、あなた私に鞍替えして本当正解だったわよ?」
「正直引きますね……」
女性陣は一歩退き、その身を守るように身体を両腕で抱きしめていた。暴漢に襲われた処女のようだった。
しかし、ユウトだけは違った。
泣きながら震えるノームにずかずかと近づくと、その肩にポンと手を置いた。
わかるぜあんたの気持ち、と呟いた。
「ノームさん、あんたの魂――確かに俺に伝わった」
「ゴブリンの貴様に何がわかる。女を浚っては食い、浚っては喰い、年中子作りに励んで居る。汚らしい本能のケダモノめ。清純を守り通したワシの何がわかるというのか! 経験豊富なおぬしらはワシら純情派の男を陰で馬鹿にしていると相場が決まっておるのじゃ!」
「俺も、未経験だ」
ユウトは恥ずかしそうに顔を背けた。
「俺は剣にその身を捧げた。そのとき女人と触れ合うことは己に禁じている。でもそれは言い訳だったのかもしれない。俺は、俺に嘘を吐いていた。――女の子と触れ合いたいよなあ。わかるぞ。その気持ち」
「――ゴブリンよ……」
もはや二人は親友だった。
秘密をさらけ出した二人の絆は完全に硬く結ばれていた。
「でも幼女趣味はどうかと思うぞ。そこは改めた方がいい」
絆はあっさり壊れたが。
ノームはその目を信じられないくらいに見開くと。
「――信じた瞬間裏切るとは、所詮ゴブリンなど真実に信ずるに値せぬということか!」
絶叫とともに大地が揺れた。
ノームの心にトドメを刺したのはユウトだった……。