三十七話 穢れの前に立つ二人
ジョゼフの目の前に、大きく口を開けた大雀蜂が迫る。
カイエスの言葉が気になっていたが、一瞬にして目の前が黒と黄色の縞模様の乱舞に変わり、ジョゼフは戦いへと意識を切り替えた。
「シーラ! 来るぞ! 」
大きく張り出した牙をジョゼフは戦斧で弾く。
重たい岩のような手応えをジョゼフは感じていた。
今まで襲って来ていたハチは、一撃で始末をする事が出来ていたが、この護衛のハチはその魔力も強大で、ジョゼフの攻撃を弾いてしまう。
「硬っ! なにこいつ! 」
シーラの大剣の一撃も牙によって弾かれてしまったようで、ジョゼフの隣から驚く声が聞こえた。
「神よ! 私たちに護りの力を! 」
ノルンが祈ると、ジョゼフたちの上にうっすらともやのように守護の力が漂う。
「真上からの攻撃はこれで気にしなくていい、正面から来る奴に集中しな! 」
アーシアが、飛び込んで来ようとするハチの顔面に聖槍を突き出す。
金属同士をぶつけ合ったような音が響き、アーシアを襲ったハチはあわてて間合いから離れる。
「このままだと、そのうち魔力を使いきってしまいます! 何か方法は……。」
次々と襲いかかって来る大雀蜂の攻撃を杖でいなしながらライザが皆に叫ぶ。
「魔力を集中すれば、胴なら攻撃が通る! 」
リオンが魔力で出来た矢をつがえながら叫ぶ。
出来るだけ細く、出来るだけ硬くと念じて作られた矢は、暗い部屋の中を照らすほどに見えた。
リオンが放った矢は、大雀蜂の胴体に深々と突き刺さるとそのまま破裂する。
ボンと音がして一匹が弾けた。
ジョゼフの後ろからも、ぐしゃりと何かが潰れる音がした。
「行けるぞ! これは! 」
フレデリックも自らの拳に魔力を籠めてその密度を高くしていた。紫色の光がフレデリックの拳を覆い、ほの暗く光っている。
ジョゼフも魔力を戦斧に通し、その刃先をひたすら固く細くして行く。
刃先だけが強く光り始めると、ジョゼフは不思議と魔力の流れが落ち着くのを感じていた。
武器に魔力を籠めて使うと、一気に魔力が減ってしまうのを今までは感じていた。だが、今は逆に力が沸き上がって来るようにも思えた。
*
「これ…。なに…? 」
ふとシーラの方を見ると、彼女も大剣の刃先が紫色の光に包まれていた。
「行くぞ! シーラ! 」
ジョゼフはシーラも同じような魔力の落ち着いた流れを感じていると理解し、声を掛けて一歩だけ前に出る。
陣形から突出したジョゼフとシーラに、大雀蜂たちが一気に群がって来る。
空気を切り裂く音がすると、数匹のハチがばらばらになって広い部屋の隅へと散らばって行く。
「これは凄いな…。一体なんだ…? 」
ジョゼフは自分の力に驚く。
身体の隅々まで魔力が行きわたり、指先一つ動かすだけでも大気の魔力が震える。
戦いの最中だというのに心の内は穏やかで、沸き上がって来る闘志だけを感じる事が出来た。
「そのまま蹴散らしてください…。今の貴方たちなら出来るはずです。」
ハチの羽音の中で、ノルンが静かに囁いた声だけがはっきりと聞こえた。
*
「そっちに行ったぞ! 」
ジョゼフたちが紫の魔力に覚醒してからは、押されていた戦いは一気に形勢が逆転し、逃げ惑うハチたちを蹂躙する体制となっていた。
矢と魔法でハチたちを前衛の前に追い込み、ジョゼフとシーラが一気に殲滅する。
「また行きます! ライトニング・アロー! 」
討ち漏らしたハチたちが逃げた先にライザが魔法を打ち込む。
魔法耐性が高いと聞いていた大雀蜂だったが、魔力を雷や火と言った物理的なものに変換して行う攻撃を、一点に集中すれば十分通用する事が解って来ていた。
「ほら、そっちじゃない! 」
後ろに回り込もうとするハチの鼻先の岩をリオンの矢が砕く。
身の危険を感じたハチは、本能のままに反転してライザが追い込んだハチと集合する。
「はあああっ! 」
ジョゼフとシーラが渾身の力で大剣と戦斧を振るい、集まった大雀蜂を屠って行く。
「これで…最後ね。」
ぶんと振るわれた大剣が、討伐の終わりを告げた。
部屋の中にはハチたちの死骸が積もり、床が見えないほどになっていた。
「カイエス。それじゃあ話してもらおうか。」
ジョゼフは 玉座と言っても良いような石造りの椅子に座り、黙って戦いを見ていたカイエスをまっすぐ見ると、戦斧の切っ先を向けて宣言する。
「お前たちは…最後までボクの邪魔をするのだね…。まあいい。もう時間も無い。話してやるとするか。」
やれやれと言わんばかりの所作で、カイエスは玉座から立ち上がり、ジョゼフたちに向けて話を始めるのだった。
*
「ボクにはね。攻撃魔法の才能がほとんど無かったんだ。これがどういう意味か君になら判るだろう? 」
カイエスは武器を構えたまま陣形を崩しても居ないジョゼフたちに、世間話でも始めるかのようにつぶやいた。
魔力はほとんどの人間が扱えるが、その扱える力の大きさや種類は人によって異なる。
貴族であると言う事は、いざと言う時にはその力を以て領民を護らなくてはならない。貴族でありながら扱える魔力が小さい場合には、爵位を剥奪される事もある。
「ふん…。そう言う事だ。ボクはね、小さな頃から居ない者として扱われて来た。だが、それでも良かったんだ。ボクには虫の研究者になりたいと言う目的があったからね。」
遠い目をしながら、カイエスは話を続ける。
「だが、父上はそうは思ってはくれなかった。長子であるボクが家を継がなければならないと妄執に突き動かされているようにも思えたよ。フレデリック、貴様は知らないだろうが、学園でのボクの立場はそりゃ酷いものでね。何度自分で命を絶とうと思ったか知れないよ。」
貴族の子弟や才能のある若者に魔術を教える王都の魔術学院で使われる魔法は、敵を倒すものに限られる。授業も実戦に倣った方式で行われるため、当然のように弱いものが真っ先に狙われる。
「そんな毎日を何とか過ごせていたのも、家督を継いでしまえば自分の自由に出来るからと言う希望があったからだった。だが、そんな望みも父上は認めてくれなかったんだ。
ある日授業でボロボロになった身体を引きずって屋敷に戻ると、飼っていた虫や資料、その全てが捨てられていてね。…あの時は本当に許せなかった…。」
*
カイエスの周りにうっすらと黒い霧のようなものが立ち上るのが見えた。握られた拳と腕には特に濃い黒い煙がゆらゆらと揺れていた。
「ボクにはね、攻撃魔法の力は無かったけれども、虫や魔物の行動を操れるという能力があったんだ。その時まで気が付く事はなかったんだけれどもね。庭でボクが作った資料を焼いている父上と家人たちに虫が襲い掛かるまではね。…あの時は楽しかった…。」
「ちょっと待て、グラムハルト卿は健在じゃないのか? 」
「ああ、そうだな。フレデリック。外からはそう見えただろうさ。だが、父上はその時に死んでいる。今は生きていた時の記憶を元に動いているだけのアンデッドみたいなものだよ。」
「なっ……。そんな事が……、お前…まさか…? 」
「そうだ。フレデリック。そのまさかだよ。心臓の代わりに奴には魔核を埋め込んでやったのさ。その時に運悪く屋敷に居た連中全てにもな。ふふっ…はははは! 」
何がおかしいのか、カイエスは楽し気な笑いを暗い洞窟に響かせた。
「狂ってる……。」
シーラがぽつりとこぼした。
「狂ってる? そうか。確かに間違いない。ただね、シーラルヴァ殿下。あなたたち魔族が隠している真実を知ったとしても、果たして人々は正気で居られると思われますか? ウハハハァ…! ひーッひッひ! 」
カイエスの周りに漂う黒いもやが、どんどん濃いものになって行き、彼の姿を徐々に覆い隠して行く。
カイエスの一番近くに居たジョゼフは、その光景に目を奪われながら、何故俺がこんな事をしなくてはならないと心がささくれ立って行くのを感じていた。
*
「ジョゼフさん! シーラさん! 彼から離れて! 」
ノルンの悲鳴のような叫び声に正気に戻ったジョゼフは、慌てて後ろに飛び退った。
ジョゼフは指に嵌った指輪からどす黒い煙が流れ出て、焼けるように熱くなっている事をその時まで気が付いていなかった。
あまりの痛みに決して外れそうに無い指輪を放り投げてしまいたくなる。
「くっ…。ジョゼフが飲まれそうになった時と…同じ…。」
額に玉のような汗を浮かべたシーラが、苦しそうに言う。
「まさか……。こんな痛みを押して俺を……。」
ジョゼフはシーラに抱きしめられて正気に戻る事が出来た時の事を思い出す。あの時のシーラは、こんな苦しみを物ともせず、闇に落ちそうになっていた自分の心を必死で呼び止めていてくれていた。
「シーラ! もう俺は大丈夫だ! そっちに引っ張られるな! 」
大剣を杖のように立て、身体から溢れそうになっている黒いもやを必死で抑えているシーラの肩をジョゼフは抱く。
「ジョゼフ…。」
シーラの身体から立ち上るもやが、ジョゼフの身体の中に入って来る。
ジョゼフの身体を更なる激痛が襲う。
―――苦しい訓練
―――誰も助けてはくれない悲しさ
―――手に入らないものへの嫉妬
―――そんな運命を受け入れなくてはならない怒り
抑圧していたものが一気に溢れて来たようなシーラの感情の奔流がジョゼフを襲う。
「シーラ…。この旅が終わったら! きっと幸せにしてみせる! 」
「うん。だってもうあたし…幸せだもの…。」
今までジョゼフに重くのしかかっていた痛みがふっと軽くなる。
シーラから溢れ出しそうになっていた黒いもやも、今は全く見えなくなっていた。
ふとジョゼフが指輪を見ると、指輪に嵌っている赤い石は曇り一つない透明な物に代わり淡い光を放っていた。
「あれ…? なにこれ…? 」
ジョゼフに倣ってシーラも自分の指輪を確かめると、ジョゼフと同じように仄かな光を放っている。
カイエスから流れ出た黒いもやがその光に触れると、音もなく消えて行く。
「はやく! あと数歩下がれ! 」
リオンが叫ぶ声が聞こえ、ジョゼフが後ろを振り返るとノルンの手からジョゼフたちの指輪と同じような淡い光が溢れて、仲間たちを覆っていた。
ジョゼフたちが下がると、ノルンの光とジョゼフたちの光が合わさり、部屋全体を覆わんばかりとなっていた黒いもやを逆に押し返すほどになっていた。
*
「よかった……。ごめんなさい。まさかこれほどまで強い力だと思わなくって…。」
ノルンは印を組んだ手を前に出したまま、ジョゼフたちほっとしたような笑顔を向ける。
カイエスから溢れ出した黒いもやを見て、ノルンは咄嗟に加護の障壁を張ったものの、前に居たジョゼフたちまで届かせる事が出来なかった。
「もやに呑まれそうになってるのに、何度も呼んでやっと気が付いてくれたんだよ…。」
「ありがとう。助かったよ、リオン。」
その言葉を聞いて、ジョゼフはカイエスが居た方向を見る。
そこには黒い闇があるだけで、彼の姿を見る事は出来ない。
どうやら一切の光を反射しない黒い塊がそこにあるようだった。
渦をまいていたもやが動きを止め、そして、徐々に人の形を取って行く。
「穢れが来ます! 決して自分の感情に呑まれないでください! 」
ノルンが祈るように叫ぶ。
ジョゼフも戦斧の柄を手が白くなるほどに強く握りしめた。
「ははっ…。大罪なんて言うから、どれほど凄いのかと思ってたけど、何にも変わらないじゃないか。」
人の形を取り始めた黒いもやから、カイエスの声が聞こえてくる。
うっすらと晴れて来たもやの中には、不思議そうに自分の姿を眺める黒一色の鎧を纏ったカイエスの姿が見えて来ていた。
「大きな魔力を感じます! ノルンちゃん! 障壁を! 」
ライザの叫び声が聞こえた次の瞬間、辺りは轟音と共に黒い炎に包まれた。
*
一瞬の後には黒い炎が晴れ、徐々に視覚と聴覚が徐々に戻って来ていた。
「……か!? 」
リオンの声がぼんやりと聞こえてくる。
直前にノルンが張った加護の結界のおかげで、ジョゼフは自分の身体には怪我一つ負っていない事は解っていた。
ただ、広いとは言っても地下にある部屋で起った爆発に身体全体を揺さぶられて、目も見えず耳も聞こえない状態が続いていた。
―――こんな状態で襲われたらひとたまりもない…。
ジョゼフの心に焦りが広がる。
カイエスが居た位置は覚えている。
―――姿は見えないもののまずは斬りかかるか。
ジョゼフは捨て身の戦術を取る事すら考えていた。もし相手が次の攻撃に掛かっているとしたら…。そう考えると不安でたまらなかった。
―――自分の身はどうなっても良いが、シーラの身に何かあったら…。
そんなジョゼフの腕に誰かが手を触れた。
女性のものだと思われる小さなその手は、焦らないでと伝えて来ているようだった。
「シーラ…。」
ぼんやりと見えて来た視界に、いつも眺めている黒髪が映る。
相手には届いていないかもしれないとは思いつつも、ジョゼフはその手の主の名前を呼ばずにはいられなかった。
それまでは一秒が永遠のように感じられていた時間が、止まっていた時間が動き始めたように元の流れへと戻って行くのをジョゼフは感じていた。




