十五話 温泉地に向かう二人
峠を越えて、なだらかになった下り坂をゆっくりと一行は進んでいた。
このペースならば、避難小屋は使わなくて良さそうだとジョゼフは思い、胸を撫でおろす。
この峠は、両側に街はあるが間には人は一切住んでいない。
どの街からも歩いて半日近く掛かる避難所にわざわざ掃除をしに来る奇特な住民も居ない。
だから、この春先の避難小屋は、小さな虫たちの愛の巣となってしまっており、その中で寝ようと思えば朝には虫刺されだらけになってしまうのだった。
ジョゼフも一度だけ仕方なく夜を過ごした事があるが、それ以来峠を越えきれないと判断した場合には、必ず麓の街で時間を潰してから出発する事にしていた。
魔物の虫とは戦えても、小さな羽虫に対しては人間は無力だなとジョゼフは思う。
「ねえ。ジョゼフ。あの藪に埋もれているのが避難所なの? 」
「そうだ。今年は特に凄いな…。昔あそこに泊まった事があるんだが、そりゃ酷い目にあってな…。」
ジョゼフは自分の身に何があったかを簡単にシーラに伝えた。
この辺りは峠の中で唯一と言って良い平地で、百人は充分くつろげるほどの広さがあった。その平地の入り口を見下ろすように、避難小屋は立っている。
木の枝葉が広がっていて、広場からはその姿を見る事すら出来なさそうだった。
雪が融けてから一気に藪が広がったようで、その避難所の建物は既に屋根から伸びた煙突しか見えなくなっていた。
「止まれ! ちょうど昼時だ。ここでメシにするよ。」
アーシアから号令が掛かり、団員たちが準備を始める。あらかじめ誰が何をするのか決められているらしく、四十人から成る聖歌隊は、馬車から荷物を下ろしたり、火の準備を始めたり、食材を切る準備をし始めたりしていた。
「俺たちに何か手伝う事はあるか? 」
「あんたたちは、準備が出来るまでその辺りを警戒しててくれ。段取りが決まっているから、下手に手を出されると邪魔になるんだよ。」
ジョゼフはアーシアに言われた通り、周囲の森にふたたび気を配る。この隊を襲って来られるような気配は、先ほどと同じように感じられない。
この気配感知の能力は、国王が各地に放っているとされる盗賊の一団以外なら充分に見つけられるとジョゼフは自信を持っていた。
一人でも魔物の居る森で野営をすることが出来るのも、この能力があるおかげだと言っても良かった。
小さな魔物が居るのは感じられたが、その膨大な魔力に気が付いたのか、あっという間に一つ向こうの山へと逃げて行った。
*
「ねえ。ジョゼフ。あの建物をちょっと変えちゃって良いかな。」
「何をするつもりだ? 」
「ん? ここで夜を明かさなくちゃならない人も居るんでしょ? ちょっと住みやすくしようと思って。」
「そう…だな…。良いんじゃないか? 」
建物があるだけで、魔物に襲われる確率は非常に低くなる。しかし、すきまだらけの古い避難所は、雨と魔物からは身体を護ってくれるが、小さな虫たちと風からはその身を護ってはくれなかった。
シーラならそれなりの建物として直してくれるだろうと、石造りの露店風呂を作り出した時の事を、ジョゼフは思い出していた。
「任せといて! 」
シーラが両手を藪の中にごくわずかに見えている建物に押し付ける。あっという間に藪が水を引くように払われていって、建物の姿が見えた。
「お…おい…。」
「こんなもんか。それじゃ、よしっと。」
藪の刈り払いくらいは手伝おうと、刀を抜きかけたジョゼフが驚いている間に、シーラはさらに両手に魔力を込める。
木で作られた建物が、基礎の方から石造りにも見える白い壁に変わって行った。
「あちゃー。ちょっと広さが足りないや。」
避難小屋が全て白い壁に変わると、今度は奥行きが増えて行く。
「こんなもんでいいか。」
シーラは腰に手を当てながら、出来上がった建物を見つめた。
ジョゼフはあまりの光景に、口をあんぐりと開けたまま何も言えずに固まっていた。
「ちょっと入ってみない? ジョゼフ。」
シーラはそう言うと、重そうな木のドアを開けて、ジョゼフを手招きするのだった。
ジョゼフが招かれるまま入ると、部屋の中は明るく照らされていた。
明り取りの窓がある訳ではなく、壁につけられているランプが光を放っていた。
「火魔法でドアを開けたら勝手に点くようにしておいたの。」
シーラはそのまま窓まで歩いて行って、大きな鎧戸を開け放つ。森の爽やかな空気が部屋の中に流れ込む。
「虫よけの加護が張ってあるから、羽虫も建物の中には入って来れないわ。清掃の魔法が三日に一度掛かるようになってるから、藪に埋もれたりもせずに中も快適よ?」
唖然としたままのジョゼフにシーラが得意げに答える。
「あとは…こっち。」
シーラが最後に奥行きを増やした方へとジョゼフの手を引いて案内する。
「これがあると無いとでは大違いのお風呂場です! 」
奥に続く引き戸を二つくぐると、そこには宿屋の部屋ほどもある浴室が作られていた。
そこにはすでに湯が張ってあり、浴槽の脇の樋から常に湯が注がれて浴槽からあふれ出ていた。
「近くにお湯が湧いてたから、引き込んでみたの。もうちょっと時間があれば、一緒に入っても良かったけど…。」
もじもじと身体をくねらせるシーラを見てもジョゼフの驚きは止まらない。
「……。」
「住む事を考えたら、もっときちんと作るんだけどね。もっと気合入れた方が良かったかな? 」
ジョゼフの沈黙を失望と捉えたのか、シーラは不安げにジョゼフに聞いた。
「いや、そんな事じゃなくて、驚いているだけなんだよ…。魔族はみんなこんな事が出来るのか? 」
「誰でも…では無いかな。あたしは特に錬金術が得意だったし、こうやって物を作るのが好きだったし。」
よく見れば、壁は白一色では無く、こげ茶に染められた梁や柱が通されており、鎧戸や引き戸にも凝った意匠が施されていた。
「シーラはこういうのが好きなんだな。」
「うん……。」
「いや。凄いぞシーラ。これならずっと住みたいくらいだ。俺たちの家はシーラに建ててもらう事にしよう。楽しみになって来た!」
「うん! 」
まるで子供のようにはしゃぐジョゼフを見て、シーラは本当に嬉しそうに頷くのだった。
*
「なんだい…? こりゃ…。」
ジョゼフとシーラが避難所を出ると、アーシアとノルンが固まっていた。
避難所の建っていたところに、白亜の豪邸が出現しているのだから、無理も無かった。
「アーシアさん。どうしたの? みんな待ってるよ…? って、えっ…。みんなー!」
アーシアたちを呼びに来たらしいマーガレットは、建物を見て固まると駆け出して聖歌隊の皆を呼びに行った。
あっと言う間に狭い避難所の建物は人で溢れる。
「前にここに泊った時は嵐でなあ。すきま風は酷いし鎧戸がたまに開いて雨風が吹き込むしで大変だった…。みんな濡れ鼠になって臭いしよ…。これがあの時にあったらなあ…。」
「あの時はしょうがないよ。まさか急に天気が変わるなんて思ってなかったもん。」
「お風呂もついてるんだ! 夏場にここを通る時、あったらいいなって思ってたんだよね! 」
「俺、ここなら住んでもいいかも…。むしろ住みたいよ。」
みな、口々に避難所の中を見ては喜ぶ。
シーラが作ったと聞くと、手を取ってありがとうと感謝の言葉を掛けて来るメンバーも多かった。
実際にこの峠は難所の一つと数えられていて、陽が暮れるのが早くなる時期には道に迷って遭難をする事件が後を絶たなかった。
「ただ、こんな建物が出来ちゃってたら、何が起こったのかという話になっちゃうかも…。」
「確かに。誰が作ったんだって偉い人なら興味を持つだろうし。」
確かに面倒な事にはなりそうだなとジョゼフも思う。シーラの力を知って、よからぬ事を考える者も出て来るかもしれない。
そんな事はさせないとジョゼフは決意する。シーラが辛い思いをする事を許す気は無かった。例え何を犠牲にしたとしても。
「女神さまの奇跡って事にしちゃえばいいんですよ! 」
黙ってニコニコと話を聞いていた聖女のノルンが皆に言う。
「そりゃいい。ノルンがお墨付きを与えれば、誰も何も言えないだろうしね。」
聖女は魔の者が世界を脅かすとき、勇者と共に女神によって選ばれる。そして時が来るまで勇者の到着を待つ事になっていた。
古の時代から、背中に聖刻が浮かび出た者は生まれた時からその存在を教会によって保護される。
その言葉は女神のものと同一視され、それに意義を唱える事は教会に対する批判と取られても仕方ない事だった。
「シーラはそれでいいのか? 」
「もちろん。これくらいの事で面倒に巻き込まれる方がイヤだもん。」
屈託なく笑うシーラに、ジョゼフはホッとする。
もし彼女が不当に束縛され、嫌な事をさせられると考えた時、ジョゼフは自分の心の中にどす黒い感情が巻き起こるのを覚えていたが、何とか振り払う事が出来た。
「どうしたの? ジョゼフ。怖い顔して…。」
「あ、いや。何でもない。」
「それなら良いけど…。でもね、人に喜んでもらえるって、こんなに嬉しいものなのね。」
そう言ってほほ笑むシーラを、自分の気持ちをどう言葉にしてよいか判らなかったジョゼフは、しっかりと抱きしめる事で返事としたのだった。
シーラは、こんな幸せな気持ちを誰かにまた分けてあげられますようにと自分が建てた避難所に向かって願う。
――確かに承ったよ。
そんな言葉がシーラには聞こえていた気がしていた。
*
すっかり冷めてしまった昼食を摂り、一行は峠道を下り始めていた。
「ねえ。アーシアさん。たまには屋根のあるところで寝たい…。」
「そうだねえ…。下りたところはエーザウの街だ。温泉もあるし、たまには宿に泊まるか! 」
団員の皆から歓声があがる。
屋根のあるところに暮らしていると、布一枚だけのテントが恋しくなる、テントで暮らしているのが長くなると、屋根のあるところで寝たくなる。誰しもそう思うものなんだなとジョゼフは思った。
「なんかイオウの臭いがする。」
「ああ、ここの温泉は肌にいいらしいぞ? 」
突然森が切れると、ごつごつとした岩肌だらけの景色が広がる。
浅くえぐれた谷の上に道が続いているのが見えた。
谷の底には湯気を立てる泉があり、その縁には黄色いイオウが付いているのが見える。
「ここから温泉を引いて、街にある宿の風呂に流しているらしいぞ。」
「そうなんだ。冷めちゃわないの? 」
「あそこの湯は沸き立つ寸前くらいの温度らしいからな。麓の宿に着く頃はちょうど良くなってるんだろ。」
避難所の件で時間を取ってしまったせいか、既に陽はすこし陰り始めていた。南の方に下ると違うらしいが、陽が落ちてしまうとこの辺りは一気に暗くなる。
「さあ。もうちょっとだ。早くしないと宿が埋まっちまうよ? 」
そんな号令を聞いて、団員たちは足を速めるのだった。
*
「何とか全員分確保出来たか…。」
宿探しに奔走していたアーシアがホッと溜息をつく。
町一番の大きな宿で、突然団体客のキャンセルがあったらしく、皆一緒の宿に泊まる事が出来た。最初は小さな宿に分かれて泊まる予定だったが、何処も一杯だった。
今日はテント泊かと諦めかけた時に、万が一と問い合わせてみたところ、50人近い人数でも受け入れる事が出来ると返事を貰えたのだった。
「今日は頼むよ。突然押し掛けちまってすまんね。」
「いらっしゃいませ。いえいえ。こちらこそ聖女さまの一行に泊っていただけたとなれば、また評判も上がります。願っても無い事ですので。」
アーシアが詫びると、フロントにいた丸眼鏡の男が答える。
「さて、鍵を貰ったら自分の部屋に行って後は朝まで自由行動だ。晩飯はここで食べないならあらかじめ言っておくこと。羽目を外しすぎないように気を付けな! 」
アーシアは最後の一節を一部の男に目を向けて言うと、解散と号令を掛ける。
各々は二人づつのグループに分かれて、まずは部屋へと荷物を置きに行く。
「じゃあ、僕らはここでのんびりするよ。」
リオンとライザが先に部屋へと向かう。
「うちは…どうしようかね。」
「とりあえず、荷物を片付けて…。ちょっと楽な格好がしたいかな。」
そう言うと、お互いに薄汚れた鎧を見る。ジョゼフの防具は前日の戦闘でボロボロに
なっていた事もあって、さすがにこうした観光地を歩くにはみすぼらしく見えた。
「では、とりあえず部屋に向かいますかな? 奥様。」
「案内してくださるの? 旦那様。」
時代がかった口調で言いあうと、ジョゼフが出した肘にシーラが掴まり、二つの影は仲良く階段を上がって行くのだった。




