十四話 峠越えに挑む二人
「おはよう。ジョゼフ。」
ジョゼフはシーラの胸の中で目覚めた。
昨日の夜にすがり付くように泣いて、そのまま眠ってしまったようだった。
「お、おはよう。シーラ。」
慈愛に満ちた瞳で見つめるシーラに、ジョゼフはなんとなく気恥ずかしさを覚えていた。
「どうしたの? ジョゼフ。いつもは直ぐに起きるのに。」
「もうちょっとだけ、こうしていて良いかい? 」
「ふふっ。意外と甘えん坊さんなのね。」
ジョゼフはシーラを抱きしめ、その豊かな胸に顔を埋めると、目を瞑って甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。
今までに感じたことがない幸福感が、ジョゼフの心を満たしていった。
*
「おはよう! リオン。」
水場に顔を洗いに行くと、リオンがちょうど冷たい水に顔を浸しているところだった。
ジョゼフは、リオンのそんな背中を叩きながら挨拶をする。
「…。やあ。ジョゼフ。」
「なんだ? その間は。」
目の下にくまが出来ているように見えるリオンが、呆れたようにジョゼフを見る。
「いやね。君のところがどういう趣向をしていようが良いんだけどさ。テントの距離が近い時には、もうちょっと遠慮して欲しいなって。」
「…なんの事だ?」
「まさか、ジョゼフが攻められる側だとは思わなかったよ。おかげでライザにも火がついちゃってさ…。」
何を言われているかが理解出来ていないジョゼフの顔に、困惑だけが浮かぶ。
「あ、ジョゼフさん! おはようございます! 」
そんな二人にライザが声を掛けて来て、何故かリオンの背中がピクリと震えた。
「ああ。おはよう。ライザ。今日はずいぶん顔色が良いんじゃないか? 」
どことなく艶々としている感じがするライザは、そのままリオンの腕に絡み付く。
「昨日は良いことがいっぱいありましたからね。ね? リオン。」
「そうだね。確かに…。」
普段は、あまりベタベタとはしないリオンとライザだったが、今朝は甘い空気がこちらにも漂ってくるようだった。
「なんかスマン…。リオン。」
「あら。ジョゼフさんが謝る事なんて何も無いですよ? 久しぶりだったから、感謝したいくらいです。一時間くらいしたら出発らしいので、準備しておいて下さいね! 」
どこかウキウキとした口調でライザはジョゼフに連絡を告げると、腕に絡み付いたままリオンを連れ去って行く。
何があったかようやく理解したジョゼフは、心の中でもリオンに詫びるのだった。
*
「あ、その棒はこっちの袋だ。」
ジョゼフに続いて顔を洗って来たシーラが、野営の撤収作業を手伝い始める。
もう大分慣れて来たようで、ジョゼフがいちいち指示をしなくとも、要領は掴めているようだった。
「俺は敷いていた藁束を片付けてくる。シーラは幕体をその木に掛けて乾かしておいてくれ。」
「任せて。夜露に濡れたままだとカビが生えちゃうんだっけ? 」
「そうそう。気がついたら荷物が全部カビだらけになっちまったりするからな。」
シーラが一夜の屋根となってくれていた大きな布地を手早く纏めはじめたのを見て、ジョゼフは敷いていた藁を再び束にすると、それを担いで小屋まで持って行く。
「おう。ジョゼフ。昨日はよく眠れたか? 」
「あ、エルヴィン。昨日は色々ありがとう。」
小屋の前で、ジョゼフは出てきたエルヴィンと鉢合わせた。
「なに。俺たちの事を気に病んで、危ねえ仕事ばかり請けてる阿呆が居ると聞いてな、そのうち文句を言ってやらなきゃならねぇって思ってたからよ。こっちこそスッキリしたぜ。ありがとな。」
そう言って、お互いの拳を付き合わせる。
同じ戦場で戦った冒険者同士の挨拶だった。
今まで、グラーフでの戦いで生き残った冒険者と出合う事は無かった。ジョゼフも大怪我を負い、作戦終了と共に王都の治療院まで護送されたからだった。
「ここで会えて良かったよ。エルヴィン。」
「こんな縁じゃ、王都でもまた顔を合わせる事になるかもな。じゃあな。」
そう言って手を上げながら去って行くエルヴィンの姿に、ジョゼフはいつかのように頭を下げるのだった。
*
「あ、さっきリッタさんが来て、挨拶していったよ。、『ご主人さんにもよろしく。』って。」
小屋の中に藁束を片付けて戻って来たジョゼフに、どこか自慢げにシーラが言う。
「そうか。良かったな。奥さん。」
「ふふん。人妻の魅力って言うのが溢れてきてるのかも。」
「あとはテントの幕体を干すだけじゃなくて、寝袋も乾かしておいてくれたら完璧だったな。」
「あっ…。」
そのシーラの情けない表情が面白くて、思わずジョゼフは笑ってしまう。
「もう! 次からは完璧にこなすんだから! 」
「頼むよ。俺ももう君の居ない暮らしなんて、考えられないからな。」
その言葉に驚いた表情のシーラが、ジョゼフを見つめていた。
「お二人さん。準備は出来てるかい? もうすぐ出発だってさ。」
「ああ。こっちも後は寝袋を畳めば終わりだ。そっちは…大丈夫か。」
隣に張られていたテントのあった場所には、今はリオンがいつも背負っている背嚢が置いてあるだけになっていた。
ずいぶん小さくまとまっているもんだとジョゼフは感心する。快適さと荷物の多さは相反するので、小さくまとめられる道具についての話は、旅人の間では尽きる事が無い。
「なあ。この背嚢の横に付いてる四角い袋には何が入ってるんだ? 」
「あ、それは組み立て式の弓が入ってるんだ。こう見えて、僕は弓兵だからね。」
「そうだったのか。ま、ライザが魔術師なら二人で居る時は剣を使うようになるよな。」
「そうそう。だから、これからは頼むよ。前衛のお二人さん。」
「任せておいて! 」
ジョゼフの言葉を待たず、ふんぞり返るように胸を叩くシーラに、皆から笑いが漏れた。
「ねえ。ジョゼフ。ライザってあんなにベタベタする子だったっけ? 」
水を汲みにいって来ると行って去って行くリオンとライザを見て、シーラが不思議そうな顔をする。
「夫婦にはああ言う時もあるもんさ。」
ジョゼフは、寝付くまでシーラに攻められていたと思われてしまっている事を、胸に秘めておく事にした。
*
「そろそろ出発だ。準備はいいかい!? 」
アーシアから号令が掛かり、隊列が動き出す。
今日は峠を一つ越えなくてはならない。一年で一番日の長い時期に差し掛かってはいるが、何か予期せぬ出来事が起こってしまうと、山中にある避難所に身を寄せるしかなくなる。
山深い場所でもあるので、魔物が出てくる恐れもあり、出来れば無事に峠を越して、王都に連なるヴァッフェン平原まで入りたいとジョゼフは思う。
「ねえ。魔力はもう回復したの? 」
隣からシーラの心配そうな目が覗く。
「ああ。昨日は戦闘の直後にポーションも飲んだしな。それに一晩寝て八割がた戻ってる感じだ。」
「それなら大丈夫そうね。ね、あたしの居ない暮らしなんて考えられない? 」
「もちろんだとも。シーラが居ないなんて、俺にはもう考えられないさ。」
「んふふっ。大好き。」
そう言ってシーラは殿を務めるジョゼフに抱きつく。
*
「ありゃ俺たちにゃ目の毒だな。」
「ちがいない。こんな旅暮らしさ。出会いがあっても続かないよ。」
前を歩いていた聖歌隊のメンバーの男二人がボヤく。
「あら。こんな良い女たちが居るのを差し置いて、出会いが無いなんて言うの? 」
「そうよ。あんたたち。声だって掛けて来たこと無いじゃない。」
その二人の隣を歩いていた女性二人から、今度は非難の声が上がった。
「そんな事言ったってな、マーガレット。おまえ、この前も王都の歌劇団のトップの男を振ってたじゃないか。」
「そうだよ。あんな怖い顔で振られたら、立ち直れなくなっちゃうさ。キミもなんだっけ、どこかの大店の息子を振ってたろ? モリーン。」
「あんたたち…。ホントに解ってないのね。いい? ああいう連中が、あたしたちみたいな旅暮らしの女に声を掛けるのは、後腐れなく遊びたいだけよ。そんな話をまともに受けるのは、何も知らない若い娘くらいなものよ?」
「そうそう。『君の全てが気に入ったんだ。』なんて言っちゃってさ。昨日今日会ったばかりの奴に、わたしの何が解るの?って聞いてやっただけよ。」
「そうだったのか。俺たちはてっきりどんだけ高望みなんだよって思ってたわ。」
「あのね、結婚相手なのよ? あたしたちみたいな年頃の女が探してるのは。共に苦労して色々な事を分けあって、そして歩み寄れる相手なの。白馬の王子様なんて、一緒にいても疲れるだけだわ。」
「なあ。マーガレット。王都に着いたらデートに付き合え。ちょっと行ってみたい店があるんだ。」
「なっ…。はぁ…。まあいいか。良いわよ、デートくらいなら付き合ってあげる。あんたのそういう強引なところも、別に嫌じゃないしね。」
マーガレットと呼ばれた女性は、男二人間に割って入ると、楽しげに話し始めた。
「ねぇ…。モリーン? 」
「わたしは、雰囲気とかに流されないから。」
マーガレットに弾き出された男が、モリーンに話掛けるが、本題に入る前にぴしゃりと言われる。
「でもね。あなたが次のオーディションでパートリーダーになれたら考えてあげても良いわよ? 」
「わかった。僕、頑張ってみるよ。」
沈んでいた彼の顔が、みるみる明るくなる。
そうして四人は、最初とは別の組み合わせとなって、楽しげに話し合いながら、歩いていくのだった。
「ねえ。ジョゼフ。幸せな気持ちって伝染るのかな? 」
「きっとそうなんだろうな。そうに違いないさ。」
前を歩いて行く四人の姿を見ながら、二人もお互いに微笑み合うのだった。
*
峠道もいよいよ終盤に差し掛かり、道はつづら折れになって、ますます険しくなって行く。
馬車を引いている馬も、吹き出す汗でその身を濡らしていた。
「ここで小休止! おい。手分けして荷物を持つぞ。これじゃ馬が潰れちまう。かなり暑くなって来たしな。」
アーシアが団員たちに号令を掛ける。陽はもう高々と上がり、街道を歩く人々をじりじりと焼くようになって来ていた。
女たちはスカーフをかぶり、出来るだけ肌を焼かないように気を使う。
「シーラ。君も使うだろうと思って買っておいた。使ってくれ。」
「なあに? あ、素敵…。」
「陽射しが強いときにはあった方が良いかなと思ってな。ルデルで買っておいたんだ。」
「これ…。シルクじゃないの? 」
「シーラが喜ぶかなって思って、奮発してみたんだ。魔石も結構な金額になったし。」
「ありがとう。大事にするね…。」
慣れないシーラが、スカーフを巻くのにてこずっていると、マーガレットが来て手伝ってくれた。
「チャンスをくれたお礼。」
彼女はそう言ってシーラに目配せをすると、四人の下へ戻って行った。
「逆にちょっと暑いかも。似合う?」
スカーフをまとったシーラが笑う。
「良く似合ってるよ。それに日焼けは体力を奪われるからな。火傷をしてるのと一緒らしいぞ? 」
「ジョゼフは大丈夫なの? 」
「俺は…。あまり気にした事は無いな。元々肌の色も浅黒いし。」
「そうね…。確かにそうかも。」
シーラの視線が、ジョゼフの全身を眺めて行く。どことなく気恥ずかしさを覚えてしまう。
ジョゼフの中にイタズラ心が沸き起こった。
「おれはシーラの白い肌が好きだからな。」
「?……。!! 」
全身をなめ回すように見つめるジョゼフの視線にシーラが気付く。彼女の顔はみるみる朱に染まって行った。
「ジョーゼーフー! 」
真っ赤な顔のシーラが追いかけてくる。
逃げるジョゼフの頭からは、昨日の憂鬱な気分はすっかり洗い去られていた。
「こら! 護衛が余計な体力使ってんじゃないよ! 」
走り回っていたジョゼフとシーラは、とうとうアーシアに叱られてしまった。
「すみません…。」
「何かあった時の為に頼りにしてんだから。頼むよ? 」
そういうアーシアの顔にも笑顔が溢れていたのだった。
*
「それじゃそろそろ出発するよ! 峠まではあとちょっとだ。荷物が辛い奴ははやめに言いな。動けなくなってからじゃ遅いんだからね! 」
号令が掛かり、団員たちがやれやれと動き出す。
ノヴォト市側のキツい坂道を上りきってしまえば、あとはなだらかな下り坂が続くだけになる。
だが、旅なれた団員たちにも、徐々に疲れの色が見え始めていた。
「うわあ! 」
先頭を歩いていたライザが叫ぶ声が聞こえて来た。
ジョゼフは先頭がとうとう峠を越えた事に気が付く。
「なに? 大丈夫なの?ジョゼフ。」
前から続々と聞こえてくる感嘆の叫びに、シーラが不安の声を漏らした。
顔色を伺っていたシーラに、ジョゼフは指を前に差して、前を見てみろと無言で促す。
「うわっ…。すごい……。」
シーラの唇から漏れたのは、そんな声にならないつぶやきだった。
峠を越えた先に広がるのは、遥か遠くにまだ雪を湛えた山脈と、その麓からこの峠まで広がる大平原。そしてその平原にパッチワークのように広がる緑や茶色の畑。そして山脈の麓には王城の尖塔がうっすらと見え、それを中心に大きな街が広がっていた。
何度見てもここから見える景色には圧倒されるなとジョゼフは思う。
シーラは、しばらくの間、飽きもせずにその景色を眺めていた。




