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第二十七節*サハラウと渓谷の王

 サハラウ滞在六日目。

 この日、ヴフトはサハラウ国王とケペリア国王との三国間会談に出席する予定だった。

 しかし朝食後、身形を整えていたヴフトの所にサハラウの従者がやって来て、唐突に会談の中止を告げた。伝達曰く、国王は急な案件が出来たため、会談を取り止めて速やかに帰国して欲しいと言うことだ。

 確かに今日の会談がサハラウで最後の予定だった。

 だが昨日までは何の音沙汰もなかった。それを当日になってキャンセルとは、一体どれほどの事件が起きたのだろうか。

「訳をお聞かせ願えますか?」

「申し訳ありません。子細は私も聞かされておりませんので、お答えしかねます。会談の中止に伴いまして、ご予定を一日早め、本日正午にはご帰国願います。魔方陣のご用意はすべてこちらで整えますので、皆様はご準備だけしていただければ…」

「帰国の手筈よりも、まず会談の中止について説明を求めているのですが?」

「で、ですから、それにつきましては私の口からは……」

 取次役として対応したフリーレンは、何度聞いても理由を言わない従者を、長い前髪越しに睨みつけた。最初っから知らないの一点張りが繰り返され、全く話にならない。フリーレンの青白い肌は、苛立ちを含んで青みを増していった。

「…帰国せよとのご命令ですが、本日は産業の卿も会談のご予定があります。それが終わらない限り、帰るわけには参りません」

「そちらの会談も中止となりました。ですので、速やかにご帰国をお願いしたく…」

「産業の卿のご予定も中止? この当日にっ?」

「ひっ…、は、はい……」

 サハラウで会談を組んでいたのはヴフトだけでない。同行していた産業の卿も、要人が集まるこの機会にいろいろな話をしていた。そしてやはり、この日予定されたサハラウとの会談が最後だった。

 それについて言及すると、伝達からはまたもや中止と言う言葉が返ってきた。努めて落ち着き払っていたフリーレンも、これには思わず声を荒げる。透き通った低い声が容赦なく男を責め立て、その体を震わせた。

「二つもの会談を突然中止し、その理由も話さない。これが我が国に対する、サハラウ国の態度だと言うことですね?」

「そっ、それは、その、しかし……」

 フリーレンに強く問い(ただ)され、従者は酷くうろたえる。

 だがそれでも、伝達係は背中の鋏を小さく丸めるだけだった。

 その埒が明かない様子に、奥からヴフトが口を出す。

「フリーレン、もう良い。何を言っても無駄だろう」

「陛下…」

 梳き終わった黒髪を艶やかに垂らしながら、ヴフトはフリーレンの隣に立った。

 本当ならばこの後、会談へ出席するために丸く結わせるはずだった。

「この者はただの伝令役だ。責めても仕方が無い」

「では、ご帰国なされるのですか?」

「そうだな。まずは産業の卿を呼んでくれ。今の話だと彼の予定も中止になったはず。帰国に向けて打ち合わせをする必要がある」

「畏まりました」

 ヴフトが手短に指示を出し、フリーレンが部屋を出て行く。

 それを聞いていた従者は、どうにか自分の役目が終わったものと思い、はあっと一息ついた。喉元を過ぎれば何てことはない。後は退出するだけである。

 だが、しかし。

 立ち上がった彼の前に、すっと褐色の美貌が近付いた。

「ひッ……!」

 磨かれた石よりも滑らかな肌の、何と美しいことか。左右に等しくはめ込まれた翡翠の瞳の、何と輝かしいことか。またそれらを縁取る黒髪の、何と厳粛なことか。

 容姿も文化も異なる種族を前に、優蠍の従者はこの王を《美しい》と思わずにはいられなかった。それ以外に表す言葉があるとは到底思えなかった。この王が美の体現者でなければ、この世に美など有り得ないとさえ思った。

 従者はヴフトから目が離せず、動けず、息をすることも忘れて見入った。

「伝達ご苦労だった。最後に一つだけ聞くが、これは誰からの命だ?」

 ヴフトが静かにそう尋ねると、従者は深く(こうべ)を垂れてそれに答えた。



『洗濯屋と魔王様』 第三章



 サハラウを代表する花にロータスと言う植物がある。この花から作られる香油は淡く甘い香りが特徴だった。様々な種類の香油を生産するサハラウでも、一番人気の香りだ。香油は体につけるだけでなく、湯船に垂らしたり、火で温めたりしても楽しめる。

 室内では、灯心の差し込まれた香油瓶がちろちろと香りを灯していた。

 僅かに開けられた窓からは乾いた風が入ってくる。

 部屋の空気は穏やかだったが、テーブルに集まった面々は険しい表情をしていた。

「私の方には、大臣が体調を崩したため会談を中止する、と言ってきました。ありえませんよ! 会う予定だった三人全員がですよ? 確実に何か隠してます」

「帰国は促されたか?」

「はい、予定を一日早めてくれと」

「ではこちらと同じだな。子細は分からないがきな臭い感じがする。悪いが、今からお前の方で帰国の準備を進めてくれるか?」

「畏まりました。陛下は如何されるんで?」

「伝達に来た者はラムジ大将軍の命だと言っていた。将軍筋の者でなく、直接サラーフ国王に会って真相を確かめたい」

 産業の卿であるパコからも状況を聞くと、ヴフトは直ぐに方針を固めた。

 もし予期せぬ事態が起きているのであれば、安全なうちに国へ帰らなければならない。何が起きたのは分からないが、言えない理由で会談が中止というのは明らかにおかしかった。大勢の従者を抱えたまま、そんな場所に留まることは避けたい。

 その一方で、会談中止の真相を確かめるために、ヴフトはサラーフ国王本人への接触を試みることにした。本人に会えずとも、せめて王直属の者から事情を聞きたい。このまま帰国することなれば、今後の国交を考え直す必要もある。最悪の事態を避けるためにも、正しい情報を入手しておきたかった。

 従者はおよそ四十名。その全員に予定の変更を伝え、急ぎ荷物をまとめさせなければならない。突然のことに戸惑う者もいるだろう。だがサハラウの従者が告げたとおり、正午の出発となると帰国開始まで残り三時間を切っていた。

 話が終わるとパコは補佐官のピペトに指示を出し、全従者への帰国準備令を出した。それを聞き、室内にいた他の係たちも急いで支度を始める。

 周りが慌ただしく動き出す中、ヴフトはフリーレンを伴い部屋を後にした。


 サラーフ国王を探しに客室の区域を抜けると、宮殿の中は予想以上に静まりかえっていた。広い造りとは言え、守備兵すら見当たらない。先日、式典があった大会堂は閉じられていたし、食堂や厨房などに王直属の者はいなかった。

 さすがのヴフトも王室の居住区へは入れないので、会談場所であった客間の区域に足を向けた。その付近もほとんど人がいなかったが、とある角を曲がった途端、ヴフトの前にさっと兵士が立ちはだかった。

 左右から交差するように槍を掲げられる。より体躯のがっちりとした優蠍の兵士が、議場への道を塞いでいた。

「ここより先は通行止めとなっております」

 兵がそう告げると、ヴフトの後ろにいたフリーレンが一歩前に出た。

「こちらはドゥンケルタール国のヴフト王です。サラーフ国王陛下に面会願いたいのですが、こちらに国王陛下はおいでになっておりませんか?」

「……こちらにはおられません。陛下へのご伝言でしたら、秘書がお受けいたします。秘書室までご案内いたしましょう」

「でいいえ、結構です。こちらから伺いますので、居場所をお教えください」

「申し訳ありませんが、それは存じ上げません」

 フリーレンがヴフトの身分を明らかにしても、兵士たちは態度を崩さなかった。それどころか、一層強い口調で質問をはね除け道を塞がれる。そして頑なな姿勢を取られ、全く交渉のしようがなかった。

 あくまで事情を知りたいだけであって、事を荒立てるつもりはない。ヴフトは様子を察し、フリーレンを連れて引き返した。

 止められた廊下の先では、何やら数人の兵士が集まっているようだった。


   ***


 どこも似たような王宮の廊下を、しかしピペトは迷わずに歩いていた。仲間と手分けをして従者全員に帰国を伝え、自らも帰り支度をしに部屋へ戻る途中だった。

 ピペトは産業の卿に付いてよく国外へ赴くことがあったが、こんなにも急な予定の変更は珍しかった。そもそも会談当日に中止を言い出すなど失礼極まりない。これが原因で国交が断絶したとしても、全く不思議ではなかった。

 今後についてちらつく想像を振り払うように、ピペトは足を速めた。後のことは気になるが、今は帰国することが先である。宿泊している区域に近づくと、辺りは既に帰国準備に戻った係たちで溢れていた。ピペトは当然、同室のカールも戻って荷物をまとめているだろうと思い、何の疑いもなくドアノブに手を掛けた。しかし。

 ガチャリ。

「えっ?」

 彼の予想に反して扉は開かず、危うく額を打ち付けるところで踏み止まった。

 ピペトが帰国を促しに回った範囲にカールの姿はなかったが、彼もどこかで話を聞いたはずである。周囲の状況を見るにほぼ全員が戻っていた。

彼はデイジーと一緒に作業をしているのだから、一人だけ聞きそびれると言うことも有り得ない。仕事道具を広げてしまい、撤収に手間取っているのだろうか? 出来れば一度その姿を確認しておきたいと思っていたピペトは、やや不安を感じた。

 しかし、ここでのんびりと彼を待っている暇はない。それに彼も子どもではない。急とは言え荷造りぐらいどうにかなるだろう。

 それよりも自分は早くパコのところへ戻り、全体の帰国を手伝わなければならない。ピペトは直ぐにそう思い直して手持ちの鍵で扉を開けた。

 部屋に入ると直ぐに、数少ない荷物をベッドの上に掻き集めた。

 鞄を手繰り寄せ、適当に畳みながら詰め込んでいく。

 その途中で、誰もいないと思っていた室内から声がかかった。

「ピペトさん! ピペトさーんっ」

「ん?」

 聞き覚えのある、ひそひそとした声が自分を呼ぶ。ピペトは部屋を見回し、ベッドの向こうにカールの頭を見つけた。なんだ、戻っていたのか。ピペトは少し安心すると同時に、なぜ彼はベッド脇に隠れているのかと不思議に思った。

「カールさん、何をやっているのですか。あなたも早く支度を…」

「鍵っ、部屋の鍵を閉めてください!」

「はあ?」

「いいから早く! それからこっちに……!」

「一体、何なんですか…」

 ベッドに隠れつつ、小声で喋るカールの様子はどう見てもおかしかった。だがあまりにも必死なので、ピペトは彼の言う通りに部屋の鍵を閉め、そちらへ近付いた。

 カールはわざと身を屈めてベッドの影に隠れている。何かをかばっているのか、或いは立てない事情でもあるのだろうか? ピペトが理由を想像しつつ回り込むと、カールの前に、彼よりもさらに身を屈めた優蠍の青年がいた。

 思わぬ第三者にピペトの足が止まる。

 優蠍族の顔はなかなか判断が難しかったが、ピペトは相手が誰だかすぐに分かった。まさか。しかし。訪問先の要人の顔だけは、違えずに覚えていた。

「タッ、タラルお…、んぐっ」

「しいーッ!」

 さっと身を屈め、その名前を口にしようとしたピペトにカールが飛びかかる。大の男二人が転げる様にタラルが驚き、倒れた拍子にベッドから掛布が落ちた。打ち付けた尻がじわりと痛む。邪魔なカールを押しのけつつ、ピペトは眉間に皺を寄せた。

 また彼が何かしでかしたのではないか?

 彼は咄嗟にそう思い、容赦なく襟元を締め上げた。

「状況を説明していただきましょうかっ?」

「うえッ! う、うう、えっと…、タラル様が、助けて、って……」

「王子が?」

 (うめ)くカールの口から出たのは意外な言葉だった。

 まさかと思い、ピペトは隣にいた王子本人の顔を振り向く。

 タラルは慌てて頷き、手を放すよう訴えた。

「あの、この部屋には私自らやって来たのです。来たというか、逃げ込んだというか…。カールさんは匿ってくださっただけで、何も悪いことはしておりません。仔細は私から説明いたします。なのでどうか手を放してください、補佐官殿」

 王子からそう頼まれ、ピペトは眉を顰めたまま手を引いた。誤解が解けてカールも胸を撫で下ろす。だがどうして王子がここにいるのか、ピペトは全く予想がつかなかった。

「なぜ皇太子殿下がこの様な場所に? 逃げ込んだとは、如何なる理由でしょうか?」

「……お話いたします。そして、どうかヴフト陛下にお取次を願います」

 タラルはそう言って居住まいを正し、真剣な表情で語り始めた。


 最初に妙だと感じたのは、私の父、サラーフ国王が礼拝にいらっしゃらなかったときです。この宮殿には礼拝堂があり、そこで朝と夕に祈りを捧げるのが私たちの日課です。それぞれに起きて、沐浴をし、それから礼拝をするので、必ず父母と共に行くわけではないのですが、それでも朝、最初に顔を合わせるのは礼拝堂でした。今朝は母を見ましたが、父を見かけませんでした。そして礼拝の後でいただく朝食にも、父の姿が見えなかったのです。私は不思議に思い周りの者に尋ねたのですが、今日はご予定が忙しいからだと言われました。母は、そう言う日もあると納得されていらっしゃったのですが、私はどうにも腑に落ちなかったのです。

 なぜなら、今朝、一番最初に祈りを捧げたのは私だったからです。

 父はご予定が忙しい日も、必ず礼拝をしていらっしゃいました。礼拝を欠かすことは、今まで一度もありませんでした。けれども今朝は、本当にいらっしゃらなかったのです。

 私は連日のご公務で具合を悪くしたのではないかと思い、寝所を訪ねました。しかし行ってみるとそこはもぬけの殻で、使用人に聞くと、お部屋は出られたと言うのです。私はいよいよ分からなくなって父を探しました。礼拝堂で神官に尋ねてみたり、父の執務室や書庫なども回りましたが、どこにも姿がありませんでした…。それで行く当てもなくなり廊下を歩いていると、ラムジ大将軍にお会いしました。将軍は父と同じぐらい宮殿内のことを良くご存じなので、もしかしたらと思い尋ねてみました。すると、やはり将軍はご存じで、父は会談のために応接室にいらっしゃると言いました。でも場所が、私の聞いていた所とは、別のお部屋でした。

 将軍はそのまま案内を申し出てくださり、私が彼について行こうとしたときでした。

 父の補佐役がまろぶ様に走ってきて、内乱があったと叫んだのです。

 私は直ぐに振り返りました。先日、あのように大勢の方々に祝われた父が乱に遭うだなんて、思ってもみませんでした。何かの間違いではないかと思いました。しかし補佐役はハッキリと言ったのです。軍の内乱であると。私がその言葉を聞いたのと、将軍の部下が私の腕を掴んだのはほぼ同時でした。

 驚く私にラムジ大将軍は顔色一つ変えず、案内すると言いました。…恐ろしかった。何度も顔を合わせ、見知っていたはずの将軍が、全く知らぬ賊のように思えました。

 私は必死で手を振り払い、駆けつけた補佐役のおかげでその場から逃げることが出来ました。逃げて、逃げて。しかし我が国の兵士で将軍の部下でない者は一人もおらず、どうしようもなくなり、この客間の区域へ来たのです。カールさんがたまたまお部屋におられ、それで難を逃れることが出来ました。


 タラル王子は少しずつ記憶を絞り出すようにこう説明した。そしてその後で、ピペトの手を固く握った。その小さな手は、喋ることによって蘇った恐怖で幽かに震えていた。

「詳しい状況は分からないのですが、乱が起きたことは確かです。父が、国王様が危ないのです! どうかこの件をヴフト陛下にお伝えし、私にご助力くださるようお取次いただけないでしょうかっ?」

「……は、はい…」

 話を聞き終えたピペトは半ば呆然としながら短く答えた。

 彼の頭の中では王子の話と会談の中止、早まった帰国、この三つがぴたりと合致していた。そしてそれらが繋がると同時に、自分一人ではとても処理しきれない難題に突き当たり、頭を強く殴りつけられた気分になった。

 早く、この件をヴフトやパコに知らせなければならない。その一方で、やはり帰国の準備をする必要もある。更には、隣で狼狽えているカールも放っておけない。

 最善かつ最短を尽くさなければ。

 ピペトは一瞬だけ下を向いてぎゅっと目を閉じた。その視界を遮断した一瞬で頭内をフル回転させ、目を開くと同時に意を決した。

「我々ドゥンケルタールの一行は、今、会談の中止を言い渡され、帰国の準備をしております。私とカールも荷物をまとめますので、タラル王子はしばらくお待ちください。カールさんは直ぐに支度をして、荷物を持ったらデイジーさんと合流。その後は彼女について帰国の列に加わること。正午前には帰国用の魔方陣が開くはずです。…ここまでありがとうございました。後のことは、こちらに任せてください」

 それは身の引き締まるテキパキとした指示だった。

 カールはこれでやっと肩の重荷が下ろせ、はあっとため息をついた。急ぎ準備をし、デイジーが待つ中庭に向かう。ピペトはそれを見送ると、自らは小さく変化した王子を懐に隠して部屋を出た。


   ***


 ピペトがヴフトの所へ戻ると、既に荷物は運び出され、護衛隊長シュピッツを交えて帰国の段取りがされていた。世話係もほぼ返された後で主要な人物しか残っていない。ピペトはそんな部屋の状況を確認し、直ぐにあちこちの鍵をかけ出した。

「なんや? まだ戸締まりには早いでピペト」

「はい。ですが、他の者が入ってくると面倒になりますので。ご容赦ください」

 その妙な行動にパコが声をかける。しかしピペトは手を止めず、全ての扉と窓を閉めてしまった。何かから隠れているのか、或いは漏らしたくない話があるのか。ヴフトたちはいつにない彼の様子を不思議に思った。

 部屋を完全に封鎖し終えると、ピペトはヴフトの近くに寄った。

 黙って先を促す王の前で一匹のサソリを床へと下ろす。それに魔力を感じて皆が視線下げると同時に、サソリは王子の姿に戻った。

「突然の訪問、誠に申し訳ありません。サラーフ・ビン・ジャファル・ア・ラクラブの子、タラルでございます。この度はヴフト陛下に火急のお願いがございまして、ピペト補佐官にお頼みし、ここに参上した次第でございます」

 思わぬ訪問者にガタリと椅子が鳴る。こんな形で王子が訪れるなど、普通なら有り得なかった。驚きを隠さないヴフトの前で、タラルは今起こっている事を再び語った。


 …タラルの証言により、突然の会談中止と帰国勧告の謎は解かれた。だがそれで一件落着とはいかず、むしろ一同の顔つきはより険しいものに成らざるを得なかった。

「将軍による内乱? それで部外者である我々を早く帰国させたかったと言うことか。しかしそれなら、後二日も経てば予定通り帰っていた。なぜタイミングで…」

「心当たりはあります。将軍は、ずっと水問題に関して父と対立しておりました。今日の会談ではヴフト陛下と父、そしてケペリア国のハビブ陛下がお揃いになると聞いておりました。将軍はここ数年の水位低下の原因を、ケペリア国によるカナート事業であると主張しており、おそらく両陛下が揃うのを狙ったものかと」

「ハビブ陛下の所在も分からないのですか?」

「はい。父のことを伺おうと思い探したのですが、ケペリアの方をお一人も……」

 ヴフトの質問に答えるうちに、タラルは段々と俯いてしまった。それに引きずられるように場が沈黙する。王子に何と声をかければ良いのか誰も分からなかった。

 そうこうしている間に、部屋の外からは魔方陣の準備が整ったと言う連絡が入った。点呼を任されたシュピッツが先に退席する。もう一刻足らずで、列を動かし始めなければならなかった。ヴフトたちの帰国を目前に、タラルは床に跪いて助力を願った。

「我が国の兵士は皆、大将軍の指揮下にあります。国王だけは別に護衛の軍を持っておりますが、この静かな状況を見るに、既に掌握されている可能性が高いです。どうか、どうか此処に留まってお力をお貸しいただけないでしょうかっ? サハラウ国の王子としてお願いいたします! 国を、国王を守るためにドゥンケルタール国のお力をお貸しくださいッ! どうか、お願いいたします!」

 両手を祈るように握りしめ頼み込むタラルの姿に、誰もが助けたいと思った。抵抗する手段なく窮地に陥った青年を、とても憐れに感じた。出来ることなら力になってやりたい。そう思いはした。

 しかしヴフトが従える一行のうち、兵士と言えるのは護衛隊の十名のみ。その他は戦闘訓練を受けたことがない一般従者だった。更に言うと、この内乱にドゥンケルタールは関係がない。タラルの推測が正しければ、これはサラーフ国王とラムジ大将軍の対立であり、サハラウ国とケペリア国の水問題である。たまたま会談の都合で居合わせただけのヴフトたちは、将軍が帰国を急かした通り、不必要な第三者にすぎなかった。

 この状況下においてヴフトが最も優先するべきことは、自国の従者を無事に帰国させることであった。

「……手伝えないと、言ったら、貴方はどうするおつもりですか?」

「……………この宮殿に仕える全員を巻き込んででも、抵抗するしかありません。王は国の柱であり、民を導く者です。如何なる犠牲を払おうと、失うわけにはなりません」

 タラルの声は震えながらも強い決意を含んでいた。

 犠牲など本当は考えたくもない。けれども他に手段がないければ、覚悟はある。若い王子の眼にはその思いが雫となって溜まっていた。

「…出来る限りのことはしましょう。私が残ります」

 固く結ばれた手の上に、滑らかな褐色の手が置かれた。

 まつげのない丸々としたタラルの瞳が、驚きで更に丸みを帯びる。

 しかしこの判断に直ぐパコが異を唱えた。

「陛下! お待ち下さいっ! この件は、確かにお痛ましいですが、でもだからと言って陛下を置いて我々だけが帰国する訳にはッ…」

「そう声を荒立てるなパコ。丞相たちの小言は私が請け負う。帰国までの間、お前を私の代理とする。全権を預けるから皆を帰国させてくれ。先日の恩を返そうではないか」

「ちょ、調子のええことを言わんでください! 報告と同時に私が絞られるに決まっとるやないですか! 先日の恩って、そりゃあ、でも、そんなっ……」

 何とか考え直してもらいたい。パコは家臣としてそう思った。ヴフトは先日の一件を引き合いにだしたが、そんなものとは比べものにならない話だった。内乱なのだ。他国の騒動に巻き込まれるなど、外交上最も避けるべき事態だった。こんな話をしに来たタラルを、パコは睨みつけそうにすらなった。

 だがその一方で、誰かが残るとすれば、それはヴフトであると言う事も理解していた。

 ドゥンケルタールは代々、国を守るための魔力と知恵があるかどうかで王が決められてきた。世襲はなく、先王からの指名と、国民からの承認を以て決められている。だからあの渓谷において最も秀でた魔物は王であり、王とは常に有事の最前線に立つ存在であった。護衛隊や国防隊と言った組織はあっても、それは土地と民を守るためのもので、厳密には王の守りではない。王とは彼らと共に戦う存在で、誰よりも危険な場所に立つ役目を負っていた。

 だから今、王にとって最も重要なのは国民たる従者たちが無事に帰国することであり、そのために自分がここへ留まる事には何ら迷いがなかったのだ。

 パコも、フリーレンもピペトも、この王の在り方を知っているため、強く反対することが出来なかった。反対したところで、それが聞き入れられない事を分かっていた。

「皆を頼む」

 帰国の時間が刻々と迫る。

 パコがどれだけ苦渋の表情を浮かべても、ヴフトはタラルの手を放さなかった。

「……仰せのままに」

 産業の卿は目を伏せ、強く美しい王の命令を重く受け止めた。

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