表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/11

第二十六節*サハラウと事の始まり

 翌朝、カールは早い時間に目が覚めた。誰かに呼ばれた訳ではなく、ふと自然に起きたのだ。昨晩あった騒ぎや説教などが響いたのかもしれない。夢の中でもだいぶ昔の、父親に怒られた思い出が再現されていた気がする。もう二十歳を超えていると言うのに同じ理由で失敗するとは…。自分のことながら情けなく、カールはため息をつきながら寝返りを打った。

 転がった視界の真ん中にピペトのベッドが入る。彼はまだピシリと真上を向いたまま眠っていた。性格の几帳面さがここにも反映されているのか、寝ていても姿勢が良い。カールはそれを妙に感心しながら見ていたが、しばらくするとピーッピーッと小さな笛の音がして飛び起きた。

 聞き慣れない音に、また自分が何かしたのではないかと慌てる。

 しかしピペトがすっと起きて枕元で何かを手に取ると、音はぴたりと止んだ。

 暗い部屋の中で自然と目が合う。

「…おはようございます」

「お、おはようございます! ……あの、それ、今の音は何ですか?」

「音? 私のタイマーですけど」

 もそもそとした動きでカールは身を起こし、テキパキとした手つきでピペトは部屋の灯りをつけた。カールが不思議そうに指さしたのはピペトの懐中時計だった。

 カールの質問に、彼は当然と言ったふうに答えた。

「私はいつも職務開始の一時間半前に起きるようにしています。だから、今このタイマーが鳴ったわけですが」

「…たいまあ………、たいまーって、何ですか?」

「は? タイマーはタイマーですよ。時計に付けて、時刻を設定して、魔力を蓄積しておけば音が鳴る…」

 ピペトは怪訝な顔つきで、手のひらサイズのそれをカールに見せた。文字盤の上に蓋が付いていて、頭頂部のボタンを押すと開くタイプだ。蓋の外側には装飾が、内側には呪文が浮き出るように刻まれていた。

 魔国では一般的に普及している魔道具の一つで、魔力をコントロールできれば簡単に扱える。ピペトはそこまで思いながらハッとした。

「……そうか、君は使えないのか…」

「ああ、魔道具っ! 好きな時間に音が出せるなんて凄い! 便利ですね」

 ペンダントの効果で魔物に見えていることもあり、ピペトはカールがヒト族であることをすっかり忘れていた。自分と差ほど変わらない背格好だが、彼に魔力はない。当然、魔道具も使えない。そう気が付くと、ピペトはタイマー付き懐中時計を珍しそうに見るカールが、急に年端のいかない子どもに思えてきた。

 魔力のコントロールが出来ず、魔導具が使えないのは十歳ぐらいまでのことである。

「………私と同じ時間で良ければ、朝、声をかけましょうか?」

「いいんですか? ありがとうございます! 実は、お城だとテディーが来てくれるんですが、今回は一緒じゃないからどうしようかと思ってたんです。へへへ、助かります」

「そうでしたか。では、改めて、よろしくお願いします。カールさん」

「こちらこそ! よろしくお願いします、ピペトさんっ」

 ピペトが大きな手を差し出すと、カールもまた大きな手を出して握り返した。



『洗濯屋と魔王様』 第三章



 ドゥンケルタールからの一行はおよそ四十名で、滞在二日目になると洗濯物がそれなりに出てきた。カールは部屋の前に出された籠から洗い物を回収し、庭でタライに入れ替えた。どう洗おうかと考えながら湯を沸かす。しばらくすると要人の部屋まで回収に行ったデイジーが、ヴフトたちの洗濯物を持って帰ってきた。

 彼女はカールの姿を見るなり大声で愚痴を零した。

「もおーっ! 逃げたくせに先に帰ってるとか何よ! ずるいッ! あ、そう、さっきの続きだけど、私もう絶対にあんなの嫌だからねっ! あなたが飛び出して行ったとき、本当に本当に驚いたのよっ? 私が知ってることは何だって教えるし、姉さんにだってキツーく研修してもらうよう言ってあげるんだからっ。だからその飛び出す癖、絶対に、絶対に直しなさいよねっ! もー、本当に息が止まるかと思ったんだからっ!」

「ううう、本当にごめんなさい! ごめんなさい! もうしないです! …しないように頑張ります! 俺もあの後、生きた心地がしなかったし……。礼儀作法も頑張るんで、とりあえず挨拶と道の譲り方を教えてください…」

「もちろんよ! 今日の洗濯が終わっても、覚えるまで明日も明後日も繰り返すわっ!」

 そう語気を強めて話すデイジーと、カールが会うのは騒動以来だった。

 あのとき、彼女はカールが要人側の席へ飛び込んでしまったため、自ら後を追うことが出来なかった。彼女もまた立ち入りを許される立場ではないからである。だからどうすることも出来ず、ただカールが帰って来てくれることを願う他なかった。しかし結局、彼はその場でシミ抜きを行い、パコに摘まみ出され、ピペトに連行されたのだ。彼女は青ざめながら部屋に戻るのがやっとだった。部屋でベッドに潜った後も、カールにどんな処分が下されるのかが気になって、なかなか寝付けなかった。

 それなのに一晩経ってみると、本人はピペトと朝食を済ませ、晴れた顔つきで中庭にいたのだ。その脳天気な顔を見た途端、デイジーの感情は爆発した。

 カールはそんな彼女に散々叩かれ、洗濯物の回収に逃げたのだった。

「本当に、もうっ! 私の安眠返してよっ!」

「あ、あっ、お湯が沸いたし洗濯しましょう! デイジーさん!」

 その回収作業も終わり、もう逃げ場はない。

 彼女の怒りがまた再発しそうになったのを見て、カールは慌てて話をすり替えた。

 デイジーはまだ言い足りない様子だったが、一先ずは仕事を優先させてくれた。今日は昨日と違って仲間の分も洗わなければならない。空はずっと晴れているが、干すのが遅くなれば乾く前に夜が来てしまう。どうせなら夜気に当たって冷えた洗濯物よりも、日光で温まった洗濯物を返したい。洗濯係として二人が思うことは同じだった。

 気持ちを切り替えるために、二人はまず昨日試しに洗った服を手に取ってみた。

 何の変哲も無いシャツとタオルだ。事前に聞いた話だと、サハラウでの洗濯は城よりもごわごわになりがちと言うことだった。

「カールさん的にはどうなの? この仕上がり」

「ううん、言うほど悪くはないと思います。そもそも、そんなに汚れてなかったし…。でも言われてみれば、少しごわついているような……」

「私が前に洗ったときはもっとタオルが固くなって、どうにもならなかったのよ」

「そんなにですか?」

 手にした衣類をもさもさと触りながら、二人は違和感の原因を探した。これが分からないことには、さっぱりとした洗濯が出来そうにない。今日はヴフトたちの分も洗わなければならないのだ。出来るだけ良い仕上がりを目指したかった。

 デイジーが以前洗ったときと昨日とで異なる点は、水かお湯かという事ぐらいだった。

 カールが普段やるお湯で洗う利点は、一つは石けんが溶けやすく、もう一つは洗浄力が増すことだ。あらかじめ液体に作り替えた石けん水はともかく、基本的に石けんとは温度が低いほど溶けにくい。溶け残りがあるとそれが衣類に付着し、(かえ)って汚れの原因になってしまう。だから石けんを十分に溶かすことが、洗濯をする上では重要だった。

 また種類によって適温は異なるが、全体的に水よりもお湯の方が洗浄力が増す。同じ石けんを使っても、お湯で溶いた方が泡立ちが良い。

 城で使用する石けんは変わっていないので、今回デイジーの記憶よりも上手く洗えた理由は、お湯を使ったためだろう。水に溶いたときよりも洗浄力が上がったのだ。

 徐々に湧き始めた鍋を見ながら、カールは粉石けんを匙で突いた。

「うーん、何が違うんだろう? 水よりお湯の方がマシで。でもお湯を使っても、お城で洗うより少し固い…? 石けんの量はタライ一つに匙一つ……」

「不思議だわ。……あら? でも昨日、あなた石けんを匙一つ半入れてなかった?」

「えっ? そうでしたっけ?」

 さくり、と匙が粉に埋もれる。

 デイジーに言われてよくよく思い出してみると、確かに匙を一つと半分程入れた気がする。日頃、泡の量を見て石けんを調整しているので、無意識にしたことだった。

 つまり汚れの少ない服だったのに、泡立ちが悪かったのだ。

 カールはふと気になる点に思い当たり、デイジーに相談した。

「デイジーさん、このお城の排水溝って見れませんか……?」

「排水溝っ? そんなところ見て何か分かるの? このお城の洗濯場には入れないわよ」

「洗濯場じゃなくても、石けんを流している所だったら、たぶん分かると思うんです。調理場とか、お風呂場とか。俺も聞いたことしかないから、自信ないんですけど…」

「あ、お風呂場だったら湯浴み係の二人に言えば入れてもらえるかも! 陛下がお借りしているお部屋は浴室付だから」

 また妙なことを言い出した、とデイジーは思ったが、既に慣れたものだった。冷静に少し考え、名案を思いつく。カールはそれに賛成し、さっそく向かうことにした。


 要人専用の客間には浴室も厠も、専用の物が付いていた。カールのような従者の部屋には洗面台が一つあるだけで、他は共用である。デイジーが二人に取り次ぐと、カールはその小さいながらも豪華な部屋に入れてもらえた。

 そして更に、部屋の隅から繋がる風呂場へと入っていく。浴室は黒っぽい石が床や壁にはめ込まれた、落ち着いた雰囲気の造りだった。

 排水溝を見たいと言うカールの頼みに、湯浴み係の二人は仕事を止めて見物し始めた。そんなことを言われたのは初めてだからである。カールが一体何を調べるのか、二人もデイジーと一緒になって興味深く見守った。

 浴室の排水溝は浴槽の中と、洗い場付近の二箇所についていた。浴槽の方はちょうど洗い終えたところで、ぴかぴかに磨かれた状態だった。カールが試しに指を突っ込んでも、手の届く範囲は十分きれいだ。彼は少し残念そうな顔をしながら洗い場の方へ移動した。こちらはまだ途中らしく、排水溝の周りに泡が溜まっていた。係の子に断ってそれを洗い流すと、彼はまた手を突っ込んだ。今度はその指先に、少しざらざらしたものが当たった。次いでシャワーの口も確認すると、そこには白っぽい水の跡を見つけた。

「あの、このシャワーのところの汚れ、すごく落ちにくかったりしません?」

「するっ! それすっごい固いの! でも最初からその状態だから、諦めてるのよ」

「ドゥンケルタールでは見ないのに、ここに来るといっつもそんな感じよ」

「やっぱり!」

 湯浴み係の返事を聞いてカールは嬉しそうに叫んだ。シャワー口に付いた、石けんで磨いても落ちない白い跡。彼が探していたのはこの汚れだった。自分の予想が当たり、カールはふむふむと頷きながら水垢を観察した。

「ねえ、結局、何か分かったの?」

 しかし納得したのは彼一人で、デイジーたちはまだ何も解決していない。こっちは何も分からないままなんだけど、と目で訴えながら説明を求めた。

 その質問にカールが口を開く。

「えっとですね、サハラウの水は、硬水なんだと思います。俺の故郷は軟水で、ドゥンケルタールもたぶんそうなんですけど、ここは硬水の地域なんですよ。この白い汚れは、硬水に含まれる成分が結晶化したものです。俺の父が西の大陸出身で、やっぱり硬水の地域だったんですけど、水回りにはこうやって白くて固い汚れが付着しやすかったそうです。水の性質の違いは見た目じゃ分からなくて、使っているうちに現れます。硬水の特徴はこうやって白くて固い水垢が出来ること、石けんと相性が悪くて洗浄力が落ちること。それに味もちょっと違うらしいです。俺も実物を見るのは初めてなんですけど、本当にこんな汚れがつくんですね! おもしろいっ」

 カールは始めての事に興奮気味で、わあっと一息に回答し、聞いている方が目を丸くした。水の違いなど気にしたことがなかったし、それによって出る影響の差など、尚更知らなかった。目の前で嬉しそうに証拠を指されても反応がしづらい。

 一瞬引いてしまったデイジーは、気を取り直して肝心な部分を聞いてみた。

「…じゃあ、洗濯物がごわつくのは仕方がないってこと?」

「そうですね。いつも通りじゃ駄目です。お湯の温度を上げるか、石けんを多く使うか、汚れが少ないから、過炭酸ナトリウムや炭酸ソーダだけで洗っても良いかも」

「ふうん。つまり水に合わせて洗い方を変えるのね。じゃ、早速やってみましょう」

「はい!」

 細かいことはともかく、洗濯が上手く仕上がりさえすればそれで良い。

 幸いその方法はカールに心当たりがあったので、デイジーは長話をされる前に戻ろうとした。湯浴み係の子らに礼を言い、浴室を後にする。

 しかしそのとき、ハッと思いついたように二人が袖を引っ張った。

「ねえ! その洗濯ついでにこの汚れも落ちないっ? シャワー口って結構、目に付くから気にはなっていたのよ!」

「それ私も思った! ね、試すだけで良いの。落ちなくって元々だもの。夜までに返してくれれば大丈夫だから!」

「えっ」

 きゅぽん、という水音が響いて、シャワーヘッドがカールの胸に押しつけられる。

 カールが困った顔をしても彼女たちは「試しに」と言って譲らなかった。結局そのまま廊下に放り出され、白く汚れたそれを持って帰ることになった。


 庭に戻ってきた二人は、新しく薪に火を付けてお湯を沸かし直した。

 カールは空いていたバケツを引き寄せ、渡された部品を放り込み熱湯を注いだ。そこにクエン酸を入れてしばらく混ぜる。後はそれを傍らに置き、洗濯物を分け始めた。

 デイジーも近くに座って、仕分けの基準を聞きながら作業に取りかかる。

「まず汚れが目立つ物は避けて、それ以外の綿や麻は浸け置きにします。絹は長く浸けると痛むので別にしてください。あと、装飾の多い物も別で」

「シャツと下着ばっかだからほとんど綿ね。お湯はどのぐらい熱ければ良いの?」

「お風呂ぐらいの温度が良いです。炭酸ソーダを入れたら、しっかり溶けるまでしばらく混ぜます。後は三時間ぐらい浸け置きにします。汚れの酷い方は熱湯で石けんを使いましょう。絹や装飾のある物は、過炭酸ナトリウムで俺がやりますね」

「分かったわ」

 やり方さえ決まれば、デイジーも洗濯は慣れたものだった。

 延々とお湯を沸かし続け、分けられた物から順に洗っていく。炭酸ソーダや過炭酸ナトリウムの洗濯では泡が立たないので、一見ただのお湯に浸かった洗濯物が二人の周りに溢れた。すべての洗い物がタライに入った頃、今度は浸け時間の短い絹物が仕上がる。カールは浮いた汚れを落とすために中身を攪拌し、それから濯ぎに移っていった。

「ところで、どうしてシャワー口にはクエン酸を入れたのよ」

「え?」

 作業の途中で、デイジーは気になったバケツの中身を指さした。

「だって、洗濯には炭酸ソーダや過炭酸ナトリウムを入れたじゃない。どうしてあっちはクエン酸なの?」

 湯浴み係の二人は薬品で洗濯ができると聞いて、カールにシャワーヘッドを託した。彼女たちは炭酸ソーダや過炭酸ナトリウムで白い汚れが落ちると思ったのだ。デイジーもそう考えていたので、カールがバケツにクエン酸を入れたことが気になっていた。

 理由を問われ、カールは少し難しそうな顔をして(うな)るに喋った。

「ううん…、その……、まず硬水が洗濯に向かないのは、中に金属成分が多いからなんです。これが石けんの油分と混ざって、ごわごわの原因になります。もっと酷いと、逆に汚れがついたりもするそうです。でも炭酸ソーダと過炭酸ナトリウムには油分が入っていません。石けんより洗浄力は劣りますが、硬水でも洗えます。ただこれはアルカリ洗濯と言う方法で、別に白い水垢を落とすような作用はないんですよ。だから困ったんですけど、金属成分が付着してるなら、クエン酸の方が良いかなあって………」

 辿々しい説明に面倒臭そうな声色が乗っかる。カールはデイジーと視線を合わせず、いそいそと洗濯を進めた。

 そのあからさまな様子にデイジーは思わず声を裏返す。

「エッ? もしかして勘?」

「……店にいたときも偶にあったんですけど。俺は洗濯屋です! 掃除屋でも、道具屋でもありません! 布以外の洗い方なんて、せいぜい革製品までですよ…」

「た、確かに…」

 洗濯物を扱う手は優しいまま、カールは語気を強めた。

 ついでに、と渡されても専門外の物はよく分からなかったのだ。それに興味もないので自然と扱いが雑になる。バケツに沈むシャワーの口は、まさにそんな状態だった。


   ***


 炭酸ソーダでの洗濯は上々で、数日が経過した。あのとき渡されたシャワーヘッドはそこそこに汚れが落ち、浴室へと帰っていった。洗濯の合間に、デイジーから基本的な立ち振る舞いを教えてもらい、カールはだいぶ作法に従って動けるようになっていた。長いような気がしていた滞在期間も残すところ後二日である。

 今日も二人の仕事は洗濯物の回収から始まった。

「ね、今日は陛下たちの方お願いして良い? 髪留めを忘れちゃったから、回収ついでに部屋へ寄りたいの」

「いいですよ! 今ならちゃんと、ヴフトさんに会っても挨拶が出来ると思います」

「ふふ、そうね。じゃあ、よろしくっ」

 段取りをつけ、それぞれ回収用の袋を持って庭を離れる。

 カールは従者用の客室を通り過ぎ、要人専用の区域へ向かった。既に誕生祭終了から三日経っているので、もう泊まっている国はほとんどいない。今日あたり帰国する所もあるようだ。廊下にぽつぽつと立っている警備兵に挨拶をしながら、カールは順調に洗濯物を回収していった。

 教わったことがちゃんと活かせている気がして、足取りが弾む。

 たっぷりの洗濯物を抱えても、失礼のないように注意しながら廊下を戻った。もう後少しで一般の区域だ。初実践は上々だったが、慣れない分疲れを感じカールは早く戻りたいと思っていた。

 あと少し。あと少し。

 駆け足になりそうな気持ちをぐっと堪えて、カールは廊下を急いだ。

 だがもう少しで中庭へ着く手前、曲がり角からこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。体格の良い優蠍族のようである。しかも後ろに従者が付いていたので、明らかに位の高い人物だった。

 カールはあっと思い、直ぐに脇へ寄った。相手はそれを当然のように受け入れ、何も言わずに近付いてくる。道を譲るときは全員が通り過ぎるのを待って、一呼吸置いてから頭を上げれば良い。デイジーはそう言っていた。

 けれども、先頭を歩く優蠍の男はカールの前で不意に止まった。こちらを向いた足先を見てカールの胸がどきっとする。なぜ相手が立ち止まったのか分からなかったが、声を掛ける訳にもいかない。カールはただ黙ってドキドキするばかりだった。

「君、ドゥンケルタール国の従者だな?」

「え? …は、はいっ」

 頭上から声がかかり、カールは驚きながら返事をした。会話の仕方も聞きはしたが、挨拶より一層難しいので出来ればしたくない。カールは下を向いたまま、相手が早く立ち去ってくれるよう祈った。

「ドゥンケルタール国は急遽、本日ご帰国いただくことになった。今頃、伝達が回っているはずだ。君も早く支度をしに戻りたまえ」

「えっ? 帰国? そんな話、聞いてな……」

「ん? お前…」

「あッ」

 せっかく頭を下げていたのに、カールは帰国と聞いて思わず顔を上げてしまった。しかし同室のピペトでさえ、そんな話は一言も言っていなかったのだ。産業の卿の補佐官である彼が知らないとなれば、本当に急な話である。

 姿勢を崩したカールと視線が合い、優蠍の男は目を細めた。彼はサハラウ軍のトップ、ラムジ大将軍だった。

「お前、晩餐会を騒がせた男だな? ふんっ、渓谷の王は従者の躾けがなっていない。誰が顔を上げて良いと言った? 無礼者め。これ以上失態を曝す前に、さっさと支度をして国に帰れ!」

「っ……も、申し訳ありません…」

 空気を重く震わせる声に、カールはびくりと飛び跳ねた。急いで頭を下げ謝罪を口にする。将軍はもう一言二言嫌味を言っていたが、縮み上がったカールの耳にはそれ以上何も入らなかった。頭の中は帰国のことで一杯である。

 黙って頭を下げ続けていると、今度こそ将軍は通り過ぎて行った。

 動けるようになったカールは洗濯物を持って先を急いだ。

 庭に着くととデイジーの様子がおかしく、洗濯物を片付けている。カールはまさかと思いながら声をかけた。

「あの、デイジーさんっ」

 彼女はその呼びかけに直ぐ反応した。

「カールさん! ね、いま、今日中に帰国するって知らせが来たんだけど、あなた何か知ってる? ピペトさん何か言ってた?」

「聞いてないです。俺も、さっき優蠍の人から話を聞いて…」

「そう…、何かあったのかしら? でも知らせが来たんだし、一応支度をしましょう。私が洗濯物を見てるから、カールさん先に行って。そっちの用意ができたら交代ね」

「分かりました。ヴフトさんたちの洗濯物、ここに置いておきます」

 デイジーは直ぐに判断を下し、カールはそれに従った。回収した物を彼女に預け部屋に向かう。どうしてそうなったのか知る由もなかったが、帰国の話は本当のようだった。彼は早く荷物をまとめようと、転がるように駆け足で戻った。


 付近の廊下はまだ静かで、他の係は見当たらなかった。きっと皆出払っていて、順に知らせを受けているのだろう。部屋も施錠されたままだったので、カールは腰に下げた道具入れから鍵を取り出して自分で開けた。

 個人的な持ち物は衣類ぐらいである。荷造りは簡単に済みそうだった。

 それよりも回収してしまった洗濯物をどう持って帰るかが心配で、カールは荷造りをしながら頭を悩ませた。まだ濡らしていないとは言え、デイジーと二人で抱えるには量が多すぎる。小分けにして、他の係にも手伝ってもらうのが妥当だろう。分けるための籠や風呂敷が足りるだろうか。もし足りなければどうすれば良いか。

 カールがそんな風に考えていると、俄に廊下が騒がしくなった。

 走る足音が聞こえる。それから鍵の掛かったドアを揺らす音が近付いてきて、カールがいる部屋の扉がバッと開けられた。カールも、入ってきた本人も驚き、丸い目が合う。だが相手の方が先に我に返り、扉を閉めるとカールの方へ飛び込んできた。声を上げる間もなく押し倒され、ベッドの影で揉みくちゃになる。

 何が何だか分からぬまま、カールは頭を打って悶えた。

「じっとしてて」

 頭から布団を被せられ布越しに命令される。その声がどう聞いても自分そっくりで、カールはまた驚いた。相手を確認しようとしたところで、再び部屋の扉が開けられる。次から次へと起こる不測の事態に、カールは大人しくする他なかった。

「おい君っ! この部屋にタラル皇太子がお見えにならなかったか?」

「えっ、王子ですか? いいえ、どなたもいらっしゃっていません。そういえば、前の廊下を走り去る音は聞きました」

「どっちの方向へ行った?」

「扉を出て右です」

「分かった。君、我々はタラル皇太子に火急の用件がある。もしお見かけになったら、近くの衛兵に声を掛けてくれ」

「承知いたしました」

 自分の声で誰かが流暢に会話をしている。カールはそれを布団の下で、不思議に思いながら聞いていた。ばたばたと兵士が部屋を出ていく。足音が完全に遠のくと、今度は鍵を掛ける音がした。布団の上の圧迫感がなくなり、カールはそっと顔を出す。すると扉の前に、どう見ても自分そっくりの姿があった。

 さっきは上げそびれてしまった驚きの声が、今度こそ口を出た。

「お、俺がいる……?」

「君は! 晩餐会のときの! ああ、良かった、少しでも顔見知りで!」

 状況を掴めないままカールが目の前の自分に引いていると、カールの姿をした彼はほっとした顔で駆け寄ってきた。その途中で、ふわりと形が揺らいで背中に(はさみ)を持った優蠍族の青年に変わる。カールはそれを見て魔法だったのか、と納得した。

 しかし、本当の驚きはまだこれからだった。

「ドゥンケルタールの従者よ、突然のことで申し訳ないが、どうか私を助けて欲しい!ヴフト陛下にお取り次ぎを願うっ! タラルが直接話したいとお伝えください!」

「えっ、え?」

 青年はカールの手を取り、膝をついてそう言った。

「お父様の、国王陛下の一大事なんですっ! 事が収まればお礼は必ず! だからどうか、このタラルの願いを聞いてください! お願いします!」

「ええと、タラル……王子っ?」

 きつく手を握られ、必死な様子の青年にカールはハッとした。

 タラルと言えば晩餐会のときにシミ抜きをした袖の持ち主で、サハラウの王子である。どうしてそんな人物がこんな所に? つい今し方、兵士が探していたのは彼自信だったのではないか? 話の見えないまま手を取られ、カールは頭が真っ白になった。

 もう何が何だか分からない。

「どうか、我が父をお助けくださいっ!」

「…は、…はい……」

 カールは泣きそうになりながら、頷くことしか出来なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ