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第二十五節*サハラウと新米従者

 ドゥンケルタールの一員として、カールは砂漠にあるサハラウへやって来た。そこでサハラウ国王の誕生祭に参列し、夜の晩餐会にも出席させてもらえた。初めての国に、たくさんの魔物、珍しい料理。長い儀式には多少辟易しながらも、カールは異国訪問を大いに楽しんでいた。

 しかし晩餐会の席で、給仕が皇太子の衣裳を汚してしまうと言う事故が起きた。王子の涼やかな袖を台無しにしたのは、シミになりやすい赤ワインだった。会場の和やかな雰囲気は一転、警備兵の間にもどよめきが走る。汚れてしまった服を見た瞬間、カールはデイジーが止める間もなく王子の前に飛び出していた。

 二度の衝撃が走った会場には目もくれず、カールはその場でシミ抜きをする。お陰で汚れは落ちたが、後に待っていたのは賞賛ではなく、ヴフトからの痛い視線であった。



『洗濯屋と魔王様』 第三章



 一時は前代未聞の珍事に騒然となった晩餐会だったが、何とか落ち着きを取り戻した。王子は衣裳を改め、再び国王とともに来賓の間を挨拶に回った。ヴフトとパコも、また要人たちの輪に戻っていった。そして一般席にいる従者たちも再び食事を楽しんだ。

 会場の大部分は事故を忘れ、元通りに戻ることが出来た。

 だが、デイジーのところに彼が帰ることはなかった。

 小さな事件を大事件に変えた張本人。カールはパコに掴まれ廊下へ出されると、そこでピペトに引き渡された。

「全部終わったら陛下と行くから。それまで部屋で待機な」

「承知致しました」

 会場が元の明るさを取り戻した一方、カールはピペトと二人、シンと静まりかえった部屋で待機を言い渡されたのだった。


 パコに摘まみ出されたときも、廊下を歩くときも、部屋に入った後も、カールは一言たりとも話さなかった。話さなかったと言うより、話せなかったと言った方が正しい。赤ワインのシミを見た瞬間にあっと思い、それから作業が終わるまで周りが見えていなかった。汚れの対処が済んで一息ついたときには、ヴフトとパコが頭を下げていた。

 従者としてやって来たのに、自分の主に謝らせてしまった。

 いくら世間知らずなカールでも、主人の顔に泥を塗ることがどれだけ不味いかは想像がつく。雇い主に恥をかかせ解雇されたという話は王国でも珍しくない。自分のしでかした事を思うと、暗澹(あんたん)たる気持ちで一杯だった。だから、彼は黙って床を見つめることしか出来なかったのだ。

 部屋に入ってもカールはジャケットを脱がず、椅子にも座らなかった。ただじわりと痛み出した腹の上に手を当てて、ただただ突っ立っていた。その真正面に、見張り役のピペトがスンッと立つ。氷のような視線が突き刺さる気がして、カールは益々(うつむ)いた。

 ヴフトとパコはいつ来るのだろうか。全部とは、やはり晩餐会がすべて終わった後を指すのだろうか。それなら、後どのぐらい掛かるのだろうか。カールはピペトに見つめられたまま、いつ終わるとも知れぬ待機を受け入れるしかなかった。

 元はと言えば自分が悪い。袖の持ち主を確認せず、周りにも無断で、警備をすり抜け無礼な行動をしてしまったのは分かっている。洗濯の事となると反射的に動いてしまう悪癖は、家にいた頃にも怒られた記憶があった。確か妹が流行りで染めたハンカチを、色移りと勘違いして脱色してしまったのだ。染めの風合いは二度と同じ物が出来ない。散々に泣かれ、怒られ、許してもらうまでに半月以上かかった。親には仕事で頼まれた物以外は勝手に洗わないこと、と念押しをされていた。それなのに、この癖はまだ抜けきらず、今日、再び重大な過失を引き起こしてしまった。

 カールは今後どうなるのかと、もうそればかりが気がかりだった。

 会場から離れた静かな部屋で、どうすることも出来ずに立ち尽くす。

 息が詰まるような時間がどれぐらい経ったのか。まだほんの数分かもしれないし、既に半時ぐらいは経ったかもしれない。キリキリとした腹の痛みが麻痺してきた頃、正面に立つピペトからぽつぽつと声が聞こえてきた。

「……お前は、いったい何のためにここまで付いて来たんだ。お前が持つ技術は、陛下や丞相様、卿の方々を癒すためのものではなかったのか。陛下たちは、日々多くの執務をこなされている。下からの声を聞き、国の未来を考え、諸国との関係にも目を配り、……その身を捧げて民を守って下さっている。そんな陛下たちの疲れを、柔らかなタオルや丁寧に手入れされた衣服で労るのが、お前の役目ではなかったのか。お前は陛下を支える従者の一人として、この訪問団に加わったのではなかったのか。どうしてお前の失態で陛下のお手を(わずら)わせねばならなかった? 主に頭を下げさせるなど恥を知れッ!………浅はかにも程があるっ。他国の要人も大勢いたというのに。お前のためにパコ様は膝をつき、陛下は頭を下げたのだ! 自分の行動がどう周りに思われるのか、何も考えなかったのか? …幸いにもサハラウの国王陛下と皇太子殿下はお人柄が良い。この件でこちらを責めることはなさらないだろう…。しかし相手が違えば、あの場で戦争が始まっていたかもしれないのだぞ。他国の王族に無礼を働くなど、お前の首一つで収まるならば安いもの。国同士の軋轢(あつれき)や争いは、何が発端になるか分からない。だから我々は細心の注意を払いながら、全力で陛下たちにお仕えせねばならんのだ。国を背負うという重い仕事が、少しでも和らぐように、我々が誠心誠意お支えせねばならんのだッ! ……それをお前という奴はっ、汚れ一つで、仕える国を窮地に追いやるつもりか…」

 シンと静まりかえった部屋に低く、押さえつけられた声が響いた。

 腹の底から湧き上がる怒りを、理性でぐっと堪えたような声だった。

 カールはその言葉を聞いて何とも言えない気持ちが込み上げ、がばりと顔を上げた。ピペトの言葉に胸を抉られ彼を見やった。けれどもカールの口から反論が出ることはなかった。言い返せるはずもなかった。ピペトの言うことは(もつと)もで、カールは苦し紛れに縋るような視線を送ったに過ぎない。

 自分の幼さを、彼の怒りを、カールは泣きそうになりながら受け入れた。

 じわりと視界が歪む。

「おれは、ただ…」

「口を開くな。今は待機だ。私の言葉は独り言だ。会話ではない」

「………」

 カールはぐっと両手でズボンを掴み、再び下を向いた。


 騒ぎが収束した後、ヴフトはパコを連れて各国の要人を回った。順に、一人残らず、従者の非礼を詫びて回った。幸いどこもサハラウ国王の誕生祭に呼ばれた友好国だったため、一様に笑いごとで済ませてくれた。ヴフトが一通り詫び終えた頃、衣服を改めた王子が戻り、ヴフトは再度そこを訪れた。

「タラル皇太子殿下、先ほどの涼やかな色合いのお召し物も素敵でしたが、鮮やかな朱のお衣装も良くお似合いでございます。しかし、余計なお手間を取らせてしまったこと、重ね重ね申し訳ありませんでした」

「ヴフト国王、もうお言葉は十分頂戴いたしました。確かに彼の行いには驚かされましたが、実に見事でした。私の顔に免じて、どうかあまり怒らないであげて下さい」

「お心遣い誠に感謝致します」

 タラル王子は先程と同じように、優しく微笑み許してくれた。

 サハラウの皇太子、タラル・ビン・サラーフ・ア・ラクラブは、現国王のサラーフ・ビン・ジャファル・ア・ラクラブの実子である。サラーフ国王には長いこと子が出来ず、ようやく生まれた一人息子だった。そのため国王が八十七歳の誕生日を迎えた今年、皇太子はまだ齢三十に満たない。タラル王子は聡明で人望も厚い皇太子だったが、国王の地位を担うには今一つ若すぎた。密かに譲位の噂があったものの、今年の誕生祭でそれについて触れられることはなかった。

 つまり少なくとも向こう一年は、引き続きサラーフ国王が続投すると言うことである。

 実は今でこそ平和に式典を行えるサハラウ国だが、つい数十年前までは隣国との争いが絶えない国であった。原因は水にある。サハラウがある砂漠には、優蠍(ゆうけつ)族の他に転陽(てんよう)族という魔物が住んでいて、彼らも一とて例外ではない。砂漠の端は海に面しているが、塩分が多分に含まれた海水では生活や農業には利用できなかった。二つの種族は砂漠にぽつぽつと点在する真水を求めて長い間争っていた。水を求めて戦争し、その結果枯れてしまった水源もいくつかある。サハラウが現在の位置に落ち着くまでは、ずっと水源を争い移動する日々を繰り返していたのだ。

 最終的に二国はこの砂漠で最も大きな湖をかけて争い、優蠍がそれを手にした。湖はサハラウ湖と名付けられ、今はこの国の中心となっている。戦いに破れた転陽族は水を確保できずにその数を減らし、砂山を二つ越えた先にある小さな湖へ落ち延びた。そこで以後サハラウ国王の義弟となることを条件に、ケペリアの建国を許されたのである。

 これがサラーフ国王の父、ジャファル初代国王時代の話だった。

 現国王の治世によりサハラウは平和を築き、ケペリアとの関係も大いに修復された。大きな湖を手に入れたことで今は水不足にも悩まされていない。湖は遙か遠くの山脈から続く地下水が湧き出たもので、年に一度緩やかに増水し、サハラウ全域に十分な潤いを与えていた。

 だが、やはり、先代までは力がすべての軍事国家だったのである。今もその名残で、国王に次ぐ丞相の位は大将軍が兼任している。王室に仕える者も過半数が軍所属だった。

 サラーフ国王はこれを徐々に縮小させようとしているが、この仕事は非情に困難なものであった。現在の丞相、ラムジ・ビン・ムバラク大将軍は軍の縮小に反対だからである。平和を勝ち取った今も、軍は治安維持に役立つのでむしろ増やすべきだ、と言うのが彼の専らな意見だった。

 今は大将軍よりも年上の国王が軍縮を含め(まつりごと)を行っているが、もし皇太子に譲位されたとなれば、新しい国王は大将軍よりも年下となる。サラーフ国王が杖をついてまで王座に居続ける理由が、そこにあった。

 ヴフトとタラルが会話する様子を、サラーフ国王はにこやかに眺めていた。

 ドゥンケルタールはサハラウにとって重要な貿易相手の一つだ。輸出入の量が多く、大臣が出席する国家間会議も盛んに執り行われている。今回の誕生祭でも、続けて幾つかの会議が予定されていた。そんな国の王と、自分の後継者が穏やかに話している様子を、彼は嬉しく頼もしく感じていた。

「我も、タラルも、長い歴史を持つ貴国に比べれば赤子のようなもの。これからもどうぞ末永く、平和の智恵をご教授ください」

「こちらこそどうぞ、よろしくお願い致します」


   ***


 晩餐会が終了し解散となったのは、騒ぎがあってから約二時後のことだった。ヴフトは部屋に戻り埃を流してから就寝する予定だったが、会場から直接別の場所へ向かっていた。その後ろには同じく正装したままのパコが付いている。

「世話をかけたな、パコ。お前がすぐに気付いてくれて助かった」

「いやあ、単に私の方が近くにおったってだけですよ。何や見覚えのある服が飛び込んで来るんで、まさかと…。あれが陛下に怯むことなく、故郷も飛び出てうちに来た職人の度胸なんですなあ」

「……向こうでも雇われた経験がないらしい。訪問先で対応を迫られる役割ではないから平気だと思っていたのだが、こちらの予想を超えてくるのが奴だった…。一瞬のうちに警護もすり抜けて飛び込むとは。それに白ワイン? 何か壺も抱えていたな。とにかくお前が周りを制して奴の手助けをしてくれたお陰で、騒ぎが長引かずに済んだ。礼を言う。………そして、疲れているところ悪いがもう暫く付き合ってくれ」

「勿論ですとも。元はと言えば今回の訪問では、産業省が彼の見守り役でした。役目が至らず申し訳ありません」

「最低限の人数で来ているのだ。奴をずっと見ていられるほど暇な者はいない。それに、あれだって従者の一人。礼儀作法ぐらい弁えてもらわねばこの先が思いやられる!」

「あっはっは、陛下、彼を他へも連れ回すおつもりで?」

 二人はカールが待つ部屋に向かって歩きながら淡々と話した。

 その途中で、ヴフトはずっと結い上げていた髪からピンを外し、いつものように下ろした。玉になっていた黒髪がするりと滑り落ち、ベールのように背中を覆う。真後ろにいたパコはその様子を間近に見、思わず背筋を震わせた。

「私の美しさが、協議をする上で有益だと言うことはお前も知っているだろう? 奴の技術は、私をより美しく見せるために必要だ。連れ回すに決まってる」

 パコを少しだけ振り返り、ヴフトは目を細めて笑った。


 部屋が静かであることを確認し、パコが扉をノックした。内側でピペトが対応しドアが開かれる。カールはさすがに意気消沈している様で、ヴフトが中に入っても顔を俯けたままだった。

 ピペトが恐縮しながらヴフトに備え付けの椅子を勧め、彼はカールから少し離れてそれに腰掛けた。そしてその左側にパコ、パコの後ろにピペトが控えた。床伝いに一対三の様子を感じ取り、カールはますます視線を下げる。しばらく経ってもカールは動かず立ち尽くしたままだった。

「…カール、そこに座りなさい。お前は少々特別な扱いだが、一応、私は王で、お前は従者という役柄だ。王の話を聞くときは、片膝を折ってその場にしゃがめ。これは他国の王に対しても同じことだ」

「えっ、あ、はいっ。すみません……」

 ヴフトは分別(ふんべつ)のつかない子どもに教えるように、ゆっくりと喋りだした。

 思いの外優しく話しかけられ、カールは驚きながら膝をつく。言われてみれば、式典のときはずっとこの状態だった。あの時カールはただ周りに合わせていただけだったが、皆はこれが正しい作法だからそうしていたのだ。自ら気を付けて見ていれば、座り方も話し方も、手本となるものはそこら中にあった。

 カールは自分が恥ずかしい程に浮かれ、半人前以下の従者であることを思い知った。初めての国に、初めての務めで、知らないことだらけだったはずなのに、それを知ろうともせず遊んでいたのだ。

 先ほど言われたピペトの言葉が一層胸に突き刺さるようだった。

 この失態をどうにか謝らなければならない。でもどう謝るのが正しいか分からない。しかし謝らずにいるのは更なる過ちである。この期に及んで、分かりきっている間違いは重ねたくない。

 カールはどんどん重くなっていく頭に耐えつつ、振り絞るように声を出した。

「…………申し訳、ありませんでした…」

 静かな部屋にすうっと謝罪が溶けていく。

 ヴフトは一呼吸置いてからその言葉に応えた。

「カール、何が悪かったのか、お前が思い当たるところを挙げてみなさい」

「えっ? …えっと……、警備をくぐり抜けて、しまいました…」

「うむ」

「…それから、確認をせずに作業を始めてしまいました。説明も、後回しで……」

「そうだな」

「後は……あとは、分かりません…。まだあるかもしれませんが、俺には…」

「概ね今の二つだ。細かい事は、この過ちを繰り返さないようになってからだな。順を追って行動していれば、白ワインをもらうのに大声を出す必要もなかっただろう?」

「うっ、それも、済みませんでした……」

 始終穏やかなヴフトの声色に安心し、失態を思い出しながらも、カールの顔は徐々に上を向いていった。鼠色の靴先から白いズボンの膝頭、太ももの上に置かれた細長い指。袖口に施された上品な刺繍、藤色のウエストコート。きっちりと閉じられた首元に輝く国章のボタン。しかし顔を見るまで後僅かと言うところで、勇気が持てなかった。

 思っていたよりは、怒っていない。開口一番に(いとま)を出されるかと身構えていたが、そんな事はなかった。けれども今顔を上げたら、また失敗をするかもしれない。カールの頭はそんな小さな考えで一杯になって、視線が泳いでいた。

 ヴフトはしばらく待っていたが、結局それが収まることはなかった。

 再び王が話を切り出す。

「…済まなかったな、カール。ここへ来る前に、お前に礼儀作法を教えるべきだった。城内の者は事情を知っている訳だから、新人研修にお前も参加させれば良かった。そうすれば今回の件も、もっと別のやり方があっただろう」

「えっ? や、そんな! ヴフトさんが謝ることなんてありませんっ! 俺が、俺がいきなり飛び出したのが悪いんです! 家でもやらかした事があって……、ちゃんと状況を確認しなかった俺のミスです。ヴフトさんが謝ることなんてありません。本当に、本当に済みませんでしたっ」

 思いも寄らないヴフトからの謝罪に、今度こそカールは顔を上げきった。そうして身振り手振りで自分に非があったことを改めて表現し、床につくまで頭を下げ直した。

 顔を上に下にと忙しいカールを見てヴフトはふふっと笑った。

「もう良い。十分だ。過失は誰にでも起こり()る。大切なのはこれを改め、繰り返さないことだ。帰国したら、お前には礼儀作法の研修を受けてもらう。しっかり覚えて、次は失礼のないように対応してくれ」

「………次? 俺、またこうやって、国外に付いて行ってもいいんですか…?」

「そうだ。研修に合格すれば、な」

「はい、はいっ! ありがとうございますッ!」

 城務めも危うく、随行など二度とないと思っていたカールは、ヴフトの差配を心から喜んだ。同じ失敗は出来ないが、教えてもらえるのであれば学べば良い。それで他の国へも行けるのなら、こんなに嬉しいことはない。

 カールは心底ほっとして、その場で頬を緩ませた。


 沈鬱な様子から一転、端から見ても分かりやすく喜ぶカールに、パコは思わずふっと吹き出した。それを堪え切ったヴフトが視線で窘める。パコが誤魔化すように咳払いをし背筋を伸ばすと、王は再び口を開いた。

「ところで、あの時お前はいったい何をしたのだ? あの場に石けんはなかったはずだ。どうしてタラル王子の袖からワインの汚れを消せた?」

 ヴフトからの質問は、王子本人に後で教えてくれと言われていた事だった。

 晩餐会の席には誰も洗濯道具など持ち込んでいない。だから袖の飾り布にワインがかかっても、右往左往しタオルを持ってくるのがやっとだった。

 話が洗濯のことに切り替わり、カールは一段と表情を明るくした。好きな話題はいつだって楽しい。だが先ほど言われたことを念頭に、カールは言葉を選んで話し出した。

「…はい、ご説明します。タラル王子のお袖にかかったのは赤ワインでした。赤ワインは時間が経って乾くと、シミが落ちにくい飲み物です。でも乾く前に処置をすれば、跡が残らないように洗えます。その処置に使用するのが白ワインと塩です。白ワインには赤ワインの色を薄める作用があって、塩は布地の代わりに汚れた水分を吸い取ってくれます。あのときは丁度、俺がいたテーブルに塩の瓶があって、それを使いました。この方法は一度汚れが乾ききってしまうと効き目が薄くて、それで思わず……」

 初めての従者らしい行動にカールはどきどきした。目の前に座っているのは《客》としてのヴフトではなく、《主》としてのヴフトである。カールはそのことを改めて感じながら説明をした。当のヴフトはカールの話を聞き、感心したように頷いていた。

「なるほど。汚れの種類によっては、石けんだけが洗濯方法ではないのだな。お前がやたらと慌てていた理由も分かった。白ワインにそのような効果があったとは初耳だ」

「白ワインの他にも、色の薄いアルコールであれば代用できます。それと炭酸水があればもっと落ちやすくなります。あの細かい気泡が、汚れを浮かしてくれるんです」

「炭酸水? あれの水源は珍しいし、輸送も困難なはずだが。お前の店ではそんな気軽に使用していたのか? 故郷に水源でも?」

「いえ、うちで使っていたのは重曹とクエン酸で作る即席のものです。天然の炭酸水は父の話でしか聞いたことがありません」

「………つくる?」

 何気ない説明の続きに、黒い柳眉がぴくりと反応した。隣に立っていたパコとピペトも虚を突かれたように目を開く。一斉に丸い目で見返され、作ると言ったカール本人も思わず「えっ」と驚いた。

 ドゥンケルタールには重曹の生産工場がない。だから当然、炭酸水を作ると言う発想もなかった。炭酸水はそれが湧く水源からのみ手に入る貴重な品だ。そもそもの水源が少ないし、絶え間なく逃げていく気泡を保ったまま輸送することも難しい。エールなど生産過程で炭酸が発生する物はともかく、純粋な炭酸水は高価で入手困難だった。

 しかしカールからしてみれば、家には商売道具の一つとして常に重曹とクエン酸が揃っていた。彼が言う炭酸水とは、重曹つまり炭酸水素ナトリウムを水に溶かし、そこにクエン酸を加わえた物である。こうすることで化学反応が起こり、水の中にはしゅわしゅわと二酸化炭素の気泡が生まれる。天然ではないがこれも立派な炭酸水であった。細かい泡は乾く前のシミや油などを浮かすので、彼の家では普通に使っていたのだ。

 思いがけない方向に話が逸れ、全員がしばらく言葉を失った。

 やや間を置いて、最初に口を開いたのはパコである。

「陛下、この件、帰国後に一度お話の機会を。貿易に繋がりそうな気が致します」

「分かった。私も興味がある。好きなときに作れるのであれば、以前産地で入った炭酸風呂が城でも出来るかもしれん……。カール、その重曹とクエン酸で作る炭酸水とは、飲んでも平気な物か?」

「はい。重曹はパン作りに使う粉ですし、クエン酸はレモンに含まれている成分らしいです。だからレモネードに重曹を混ぜると、炭酸レモネードになって美味しいんです」

「ふむ、それも良いな。この件は帰国後にもう一度説明してくれ。明日からは五日間、私と産業の卿が、今回の誕生祭に集まった各国の要人と会合の予定がある。お前はもう改まった場に出ることはないと思うが、廊下ですれ違う際など、くれぐれも粗相のないように。挨拶の仕方や道の譲り方ぐらいデイジーも十分知っている。よく聞いておけ」

「はいっ!」


 意外にも話が明るく終わり、カールは内心ほっとした。覚えることを覚えれば、次に繋がっていくと言う希望も持てた。恵まれた環境に感謝をし、これからは洗濯以外のことにも積極的になろう、と密かに意気込んだ。

 ヴフトは要件が済んだので、部屋へ戻るためにすっと立ち上がった。それに気付いたカールが、しかし作法を知らず飼い犬のように見上げてしまう。

「……目上の者の見送り方は、相手が立ったら、お前はその場で頭を下げる。上げてはならない。私が部屋を出るまで姿勢を崩さないように」

「え? あっ…、はい!」

 また一つ教えられ、カールは急いで頭を下げた。ヴフトはそれを見届け、ゆっくりと扉に向かう。取り急ぎ必要なことだけでも、カールが覚えるべき作法は多そうだった。

 ヴフトに続いてパコも退出し、用があると呼ばれてピペトも一旦出ていった。部屋の扉が完全に閉まるのを待ってから、カールはどさりと床に倒れ込んだ。無事に済んだ安心感から大きなため息も漏れる。話していた時間はほんの僅かなものだったが、今までで一番長い説教を聞いたような気がした。

「…頑張って練習しよ……」

 まずは明日、デイジーに会ったら基本的なところを聞こう。そう思いながらカールはもそもそと寝間着に着替え、足の短いベッドの上で頭から布団を被った。


   ***


 面談の終了後。パコに呼ばれ、ピペトは黙って後について行った。要人専用の客室は従者が寝泊まりする場所から少し離れている。二人が中に入ると留守番が数名いたが、パコは労りの言葉をかけて下がらせた。外では大臣らしくしているものの、彼は基本的に自分のことは自分で行う。本人曰く、その方が性に合っていると言うことだ。仕えて数年になるピペトはそれを知っているため、パコが手ずからジャケットを脱ぎ水を一杯飲み終えるまで、テーブル付近で直立不動に待っていた。

 長い一日が終わりパコもやっと一息つく。もう後は寝るだけなので、次に備えてかしこまる必要もない。彼は窮屈な椅子ではなく、大きなベッドにどさりと腰掛けた。それに合わせてピペトがさっと面前に跪く。その少しの遅れもない様子を、パコは片膝に肘を置きながら感心した。

「ご苦労さん、ピペト。まずは長い初日が終わったなあ。明日は午後から会談やから、予定通り午前中に打ち合わせするで。よろしゅうな」

「はい。承知致しました」

 パコとピペトは同じチグイレ族で背格好も近い。同種なら受ける印象も似そうなものだが、彼らのそれはだいぶ違った。穏やかで陽気な性格のパコは、下位の者とも気さくに話す頼れる上司だ。にこにことした笑顔は巨体から威圧感を取り除き、代わりに大きな安心感を与える。専属の係とも仲が良く、休憩時間を共にすることもあった。

 (かた)やピペトは、スンッと澄ました固い印象が目立つ男だった。口調も淡々とし、必要な分だけを喋る癖がある。資料の作成や会合の下調べ、調査など実務は優秀だったが、その性格が一部では敬遠されていた。パコの下で補佐官をするようになってから、やや柔和になったとも噂されるが、まだきつい雰囲気は根強い。しかし決して横暴な訳ではなく、面倒見の良いところがある事をパコは知っていた。

 だから今回、彼にカールの見守り役を頼んだのだ。

 パコがしばらく黙っていても、ピペトが姿勢を崩すことはなかった。おそらく下がれと言われるまで一歩も動かないだろう。

 そんな彼の生真面目な様子を見て、自然とパコから笑みが零れる。さすがのピペトもこれには顔を顰めたが、それでも怪訝そうにするだけで口は開かなかった。

「ふふ、ふ。……あ、いや、すまん。相変わらずやと思うてなあ。お前は初めて()うたときからド真面目で気が利く、ええ男やった」

「……ありがとうございます」

「うんうん。ほんま、ええ奴やなあ」

 訝しみながらもそつなく受け答えをするピペトに、パコはまた感心して頷いた。

 それからどっこいしょ、と気合いを入れて立ち上がり、手先で仏頂面な部下を呼ぶ。ピペトはやはり不思議に思いながらも、素直に数歩近付いた。

 正面で向き合うと、少しだけピペトの方が小さい。

 パコ彼のは固い頬を両手でむにっと握ると、笑顔を作るように上へ引き上げた。

「あぐっ?」

「ピペト、お前はええ男やで? 仕事が出来るし、気が利くし。でもなあ、いつも言うとるやろ? 表情が足らんねん、表情が。真面目で真剣なのは分かるけど、ちゃんとお前が優しい奴やっちゅーことも伝えな、ただの怖い大鼠やねん。そのキッツイ目つきで初対面をびびらせたらアカンよ? 事前に説明したと思うが、今回、彼の監督はうちの省が任されとる。そして私はお前を選んで彼と同室にした。部屋にいる時間は短いからあんま話す機会もないかもしれんが、せめてお互いギクシャクせえへん程度にコミュニケーションとらなアカンで? なあ? 周りをビビらして聞きたいことも聞けへん空気作ったら、それはお前の責任やで。外交官がそんなんじゃあかんやろ?」

「ひゅ、ひゅみましぇん…」

「お前が小さい子らに向ける優しい笑顔、彼にもちょっとぐらい分けたってえな」

「ふぁい……」

 むぎゅっと摘ままれたピペトは硬直し、つま先立ちになりながら話を聞いた。穏やかなパコの表情が優しいような、怖いような。それは会談で他国と腹の探り合いをするときに見る、隙の無い産業の卿の顔だった。大きな手は笑顔がしっかりと貼りつくように、何度も念入りに引っ張り上げてくれた。

 おかげでピペトの真一文字だった口元は、ヒクリと上に吊り上がった。

「なあ、お前も仕事に慣れるまで、失敗の一つや二つあったやろ? 私が頭を下げたこともあったよな? みんな通る道や。次はお前が導いたる番やで」

「……はい…」

「まずは怖がらせへんこと。ちったあ長い目で見たり。今日はお疲れさん。また明日な」

「はい。お疲れ様でした…」

 自分とは正反対の親しみやすい顔に見送られ、ピペトは部屋に戻っていった。

 室内は既に暗く、彼のベッド脇にあるランプだけが点いていた。暗い方のベッドでは、大きな塊がこんもりと丸まっている。ゆっくりと上下する布団の玉はもう寝ているようだった。ピペトもさっと明日の支度を確認し、静かにベッドへ入る。灯りを消してからしばらくは暗い天井を見つめていたが、やがて彼も目を閉じた。

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