第三十三節*サハラウと三国の王
反乱も無事収束が見えたところへ新たな問題が発覚し、三国の王に緊張が走った。
水問題を巡りケペリアを潰そうとしていたラムジが、偽の情報で既に軍を扇動していたのだ。タラルは直ぐに馬を呼び、ヴフトに今一度の助力を願い出た。ヴフトはこれに応え、ハルと国防隊のサティ、ドゥアムを引き連れ共に向かうことにした。
居場所が判明したサラーフ王の救出をシュピッツに任せ、他をパコに託す。
ヴフトたちが馬を待つ間に、ハルは部下を連れて先に飛び立った。
二国の間には砂丘がいくつか連なっている。
そのどこで両軍が会うかは分からないが、サハラウ軍は奇襲を命じられているようであった。ケペリア軍は、ハビブ王の具合が悪くなったと言う理由で呼び出されており、おそらく戦闘の準備はない。もし攻撃を受けた場合、一団は壊滅するものと思われた。
戦争の火蓋を切るには十分である。
タラルとハビブ王は一振りずつ剣を取り、用意された馬に跨った。
ヴフトも軽々と飛び乗り、首に巻いていたスカーフをうんざりした様子で外した。
見送りのフリーレンにそれを手渡す。
「好みの物でも、四日も巻いていると嫌気が差してくるな。帰ったら紅茶を一杯頼む」
「畏まりました。お気を付けていってらっしゃいませ」
三頭の馬が砂丘を向く。
そのとき、縄をかけられた将軍が目を覚まし、王子に対して大声で嘲笑した。
「ハハハッ! 口だけの者が軍を止められると思っているのか! 諦めろ! 私の計略は叶った! 必ず争いは起きる! 戦闘が始まれば王など無力だっ!」
負け惜しみに聞こえるそれは、しかし嫌に迫力を帯びていた。
周りの兵士が急いで眠りの魔法をかけ、静かにさせる。将軍が再びその巨体を傾けると、今度こそ大人しく宮殿へ運ばれていった。
呪いのような言葉に手綱を握る手がじわりと汗ばむ。
それでも若い王子は意を決し、二人の王とともに砂漠へと向かった。
『洗濯屋と魔王様』 第三章
砂漠の丘を三頭の馬が駆ける。
兵士からの情報に基づき、タラルが行軍の跡を追った。砂で覆われた大地は街を離れると、右も左も同じような景色が続く。一見、緩やかに見える砂丘は実際に駆けてみるとかなりの高低差があった。そこを鞭打たれた馬が、砂煙をもうもうと沸き立てながら全速力で駆け抜ける。
一つ目の砂丘を登り切ったあたりで、進行方向から鳥が三羽やって来た。ヴフトはそれを見ると、タラルに足を止めてもらった。
すっと一羽だけが下りて来て、着地する手前で元の姿に戻る。ハルだ。
「ご報告します。次の砂丘を越えた所で陰に潜むサハラウ軍を発見致しました。ケペリアの軍勢はまだそこへ至っておりません」
「良かった! まだ交戦していないのですね。ヴフト様、ハビブ王、急ぎましょう!」
「それとタラル王子、ご確認したいことが一点」
「何ですか?」
先鋒からの報告にタラルはほっと息をついた。まだ両軍は出会っていない。馬を駆ればまだ間に合う。そう大きな希望を持って王子は再び馬を走らせた。
その後を追いかけながらハルが尋ねる。
「サハラウの軍に優蠍族以外の者はおりますか?」
「我が軍に? いいえ、我が国には優蠍族しかおりません。軍も同じです」
懸命に馬を走らせながら王子は質問に答えた。
「ハル、何か気になる事が?」
「……上から確認した折、鋏のない者が混ざっておりました」
「何だと? それは本当か」
「はい。戦略的な理由で変化していれば分かりませんが、優蠍以外の種族が混ざっている可能性もあります」
「…先に戻って注視してくれ。戦闘を始めさせないように頼む」
「承知いたしました」
ヴフトの命令を受け、ハルは再び先を行った。
《鋏のない者》という言葉にタラルも頭を捻る。旅人を除いて、サハラウ国にいるのは優蠍族だけだった。国軍に所属する者は猶更選別され、間違っても他種族が紛れ込むことは有り得ない。それに優蠍が持つ背中の鋏は戦闘に役立つ天性の武器である。これを活用することはあっても、わざと隠す作戦は聞いたことがなかった。種族を偽って近付くのであれば、全員がそうすべきで、一部だけというのはやはり妙だ。
行きがけに聞いたラムジの言葉が脳裏を過る。
必ず争いが起きると、奴は確信を持ったように言い切っていた。
タラルは不安を抱えながら馬を走らせた。
その隣にハビブ王の轡が並ぶ。
「タラル義兄様、お顔色が…。ドゥンケルタールの皆様も、微力ながら私もついております。どうかお一人で抱え込まないでください。共に立ち向かいましょう。そうすればきっと衝突は避けられるはずです」
「ハビブ王……。ありがとうございます。貴方が義兄弟でいてくださることが、私にとってどれほど心強いことか! 未だ王とならぬ我が身を義兄とお呼びくださり、本当に感謝しております」
「サハラウとケペリアで結ばれた契りは砂漠の平和を願ってのもの。義兄様にも平和を願う御心があります。なれば義兄と慕うは当然のこと。今回の件で、恥ずかしながら、私は水問題に対する認識の甘さを痛感いたしました。利益や権利を主張する大臣たちに押され、砂漠全体での平和を考えることが出来ていなかった…。我々が再び戦火を交えれば、今度こそ、この地は砂に覆われた不毛の大地となってしまいます。それを望む者は誰もいないはず。王家の務めとして、この争いは必ず食い止めなければなりません」
「はいッ…!」
ケペリアのハビブ王はタラルより十歳以上、歳上だった。だがケペリア王の三代目であり、王としてはタラルと同世代に当たる。かつて優蠍と転陽の二種族は、それぞれの長が義兄弟の契りを結ぶことで争いを終わらせた。そのときから、実年齢に関係なく、サハラウ王が兄でケペリア王が弟となった。
だからタラルが未だ王位を継いでいなくとも、ハビブにとってタラルは義兄だった。
転陽族は優蠍に似た固い皮膚を持っている。関節の数も同じで、背格好も近く、違いと言えば頭部が短く、鋏と尾がないことぐらいである。この乾いた大地に住みついた、たった二種族だけの魔物が彼らであった。
水を求めて争い合い、湖水より多くの血を流した過去を繰り返してはならない。
それが、戦争を終わらせた長の血を引く、両王家の使命であった。
馬がガフガフと息を切らせながら砂丘を駆け上がる。
すると正面の丘にケペリア軍の先頭が見えてきた。隊は整然として特に乱れた様子はない。そこへ近付く奇襲部隊の姿も見られない。しかしその一行がこれから通るであろう小さな丘の上で、三羽の鳥がくるくると旋回していた。
丘の影がわずかに歪み、何かが息を潜めているのが見てとれる。
タラルとハビブは無言で頷き合うと、それぞれの軍に向けて馬を飛ばした。
「ヴフト王はタラル王子の方へっ! 私の方は姿を見せるだけで止まるでしょう!」
「分かりました!」
争いを留まらせるために三人の王が力を尽くす。
ハビブは大きく手を振りながら真っ直ぐ自軍へ向かって走り寄り、タラルは声を張り上げて軍の注意を引こうとした。ヴフトがその後を追いかける。
タラルが精一杯叫ぶと、思った通り、潜む影からサハラウの兵士が顔を出した。いるはずのない王子の姿を前に動揺が走ったのだ。彼らはラムジが捕縛された事をまだ知らない。将軍の命である奇襲を王子に止められ、どうすべきか判断に迷った様だった。
ざわつく兵士の中から隊長らしき人物が向かってくるのが見えた。
「良かった! 間に合った!」
タラルは軍が気付いてくれたことに安堵し、もう一踏ん張りと馬を駆り立てた。
これで奇襲はなくなる。誰も血を流さずに済む。
そう確信して軍に駆け寄った。
だがこのとき、その様子を後ろから見ていたヴフトは少しの違和感を覚えていた。
兵士のほとんどは王子の声に反応して、武器の構えを緩めていた。構えが解かれた矛先はどれも下を向く。そこから隊長が抜けたとなれば、軍は一旦、待機状態になる。再び号令がかからない限り戦闘態勢に入ることはなく、況してや戦闘が開始されることもないはずだった。
けれども彼らの中に、武器を構えたままの者たちがいたのである。
それはハルが言っていた《鋏のない者》たちであった。
「……そうか、あれはっ。ハルッ! ケペリアを守れッ!」
ド、ドド、ドッ!
ズドンッ!
ヴフトが声を上げた直後、サハラウ軍の中からケペリアの一行に向かって攻撃が放たれた。低地から高地を狙ったため、何発かは目標に届かず砂丘を抉った。ケペリアの軍に到達する角度だった攻撃は、ハルたちが上から衝撃波を重ね、寸前で打ち消した。
高い砂煙が舞い上がる。
攻撃は当たらなかったものの、ケペリア軍は奇襲されたという事に気が付いた。一行はまだ王と接触しておらず状況を知らない。ざわめき立つ軍を見てハビブは急いだ。
タラルは何故、奇襲が始まったのか分からないでいた。軍がこちらに気付いた時点で、作戦は止められたはずだった。その証拠に、走り出てきた隊長も、驚いたように後ろを振り向いていた。
隊列が俄に乱れていく。
「傭兵ですッ! 将軍の息の掛かった傭兵が、軍の中にッ!」
「なっ、では、今の攻撃は、…うわあっ!」
「タラル王子! くっ……!」
ズドドッ!
ヴフトが《鋏のない者》たちの正体をタラルに伝えた瞬間、二人の目の前で砂柱が上がった。音に驚いた馬は前足を大きく振り上げ、ヴフトを振り落とした。同様にタラルも放り出され地面に倒れる。仕事を邪魔された傭兵が、相手構わず攻撃してきたのだ。ケペリア軍の近くでも再び爆音が轟いた。
致命的な一撃はハルたちの奮闘で免れていた。
だが傭兵を何とかしなければ切りが無い。
砂に埋まったヴフトとタラルが這うように立ち上がると、そこへ鳥が一羽、国防隊のサティが飛んできた。
「陛下ッ! タラル王子ッ! ご無事ですかッ? ハビブ王はケペリア軍との接触に成功しました。守勢で耐えてくださっております。後は奇襲隊からの攻撃が止めば…」
まだ年若く実践経験の少ない彼は、王たちに目立った傷がなく素直に安心した。馬は逃げてしまったが、目視できる距離ならばどうとでも移動できる。状況を端的に伝え、ヴフトにも奇襲部隊の鎮圧を手伝ってもらおうと考えていた。
だが、向けられた王の視線は予想外に冷えていた。
「………無事に見えるか? これが」
「あッ…」
ぞわりと身の毛がよだつ。
重圧を感じさせるヴフトの声に、隣にいたタラルも目をぱちくりさせた。
誰よりも美を愛する王は、落馬したために全身が砂まみれであった。髪留めが緩み、汚れた毛が散らばる。頬に塵がつき、襟元が乱れ、至る所に砂利が挟まっていた。
傭兵が尚も放ってきた追撃を、ヴフトは口早に呪文を唱え相殺した。
「……はぁ、サティ、お前は何も悪くない。全てはあの将軍が謀ったこと。ケペリアへの攻撃をよく防いでくれた。だがな、私は軟禁され四日も着替えられず、今は落馬して砂まみれになった。これの一体どこが無事に見える? ……駄目だ。駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だッ! 私はもう我慢ならんっ! これ程までに我が美貌を穢されて、立腹せずにいられるかっ? 鉄槌を下すッ! お前はタラル様を軍の所へお連れしろ! 王子、兵士を止める役目はお任せいたします。私はあの傭兵共を排除します。彼ら、いいや、彼女らは優蠍族ではありません。あれはおそらくヴァールでしょう」
「ヴァ、ヴァール? それは、一体……」
「何百年も昔に、戦争で自国を滅ぼした愚かな戦闘狂の種族です」
最早タラルの問いかけに答える声すら物々しい。
怒りは心頭に発していた。翡翠の瞳は憎き相手を真っ直ぐに捕らえていた。ずわり、ぞぞぞ、と一歩のうちに容貌が変化し、ヴフトが臨戦態勢に入る。
褐色の玉肌は、日に焼けた雄々しい髭面に。艶やかな黒髪は、強く燃え盛る赤髪に。森を閉じ込めた瞳は、澄み渡る空を映した双眼に。服や装飾品まで全てが変わり、手甲を填めた身軽な兵士風の男が現れた。
王の髪が赤くなったのを見て、サティは直ぐにタラルを抱き寄せた。
変化したヴフトがもう一歩前に出る。
その瞬間、地面が抉れ、タラルはサティの腕の中で風圧に押された。そして容姿を変えたヴフトが消えた数秒後、サハラウの隊列から次々に人が弾かれ始めた。
タラルは何が起きたのか理解できず、残ったサティを見上げた。
その彼も、王子の視線で我に返ったようだった。
「……あっ…失礼いたしました。ヴフト様のことは心配ありません。傭兵は王にお任せいたしましょう。タラル様は私にお捕まり下さい。あちらまでお連れ致します」
「はい…」
二人は気を取り直し、軍を説得しに急いだ。
***
ケペリアとの戦争を確実に引き起こすため、ラムジは奇襲部隊に起爆剤を仕込んでいた。それに雇われたのが、ヴァールと言う女だけの傭兵集団だ。
聞いた事のない名前だったが、呼びかけに応じたのは彼女たちだけで、ラムジに選択の余地はなかった。一般的に傭兵の仕事は里の警備とか、富豪のお守りとか、そういう楽なものが人気なのだ。こんな辺境での争いなど、他の奴らは見向きもしなかった。
ヴァールを雇ったラムジは、彼女たちに最初の一撃を入れるよう命じていた。
サハラウとケペリアはかつて争いをしていたが、既に和解している。その感情に引きずられ、サハラウの兵士が攻撃を仕掛けられなかった場合、彼女たちが火蓋を切ると言う流れだった。
だがその一撃目はハルたちによって防がれた。邪魔が入ったことに舌打ちしつつ、彼女たちは攻撃対象を増やして尚も交戦状態に持ち込もうとした。
実はラムジの思惑とは別に、彼女たちにも戦争を欲する理由があった。
ヴァールとは、傭兵稼業の裏で他者の魔力を食い物にしている種族だったのだ。
魔物はその体内に魔力を蓄え、活動したり魔法を使うときにこれを消費する。普通に生活していれば、減った分の魔力は食事や睡眠で自然に回復される。それを魔法の使用によって短時間で大量に失うと、ピペトのように倒れてしまう。そしてもし魔力が尽きた場合、彼らは体に損傷がなくとも死に至る。
これは魔物であれば避けようのない特性だが、好戦的な種族にとっては不都合な弱点だった。つまりどれだけ力を誇示したくとも、短期間での連戦は不可能なのだ。そんな事をすれば、勝つよりも先に己が死んでしまう。例え死なずとも、魔力切れでまともに戦えなくなるだろう。彼らにとって魔法を使わない戦闘は有り得ない。だから戦うには必ず魔力が必要で、どうしても回復時間が必要だった。いかに高い戦闘能力を有していても、魔力が尽きれば獣の餌にすらなり得る。
それを彼女たちは、他者から直接魔力を吸い取ることで克服していた。
魔力をそのまま吸収することで、自然回復を待たずに戦う術を身につけていた。
ヴァールと言う種族は、この技術を以てかつての戦乱を制し、大陸の東西を問わず名を馳せた魔物だった。
……だがそれも結局は度を超した争いを招き、彼女たちの国は滅んでいる。
国を失い、辛うじて生き残ったヴァールの末裔が、ラムジの雇った傭兵だったのだ。
彼女たちは自国を滅亡させて尚、その性分を改めなかった。だからこうして傭兵を隠れ蓑に、今も戦場で傷ついた魔物たちを喰い漁っていた。争いの最中で人が死んでも、誰も彼女たちを疑ったりはしない。傭兵家業は金と、戦場と、魔力を同時に手に入れられる格好の狩り場だった。
ヴァール族は傭兵として形を小さくしながらも、集団で生きながらえていた。
彼女たちと同じように、他者から魔力を喰らい転戦し続け、自国を失った種族がもう一つある。それはソルデイト族と言う種族で、こちらは今や見る影もなかった。
その姿はヒト族とほぼ同じで、耳の先が少しだけ長い。血で染まったような赤い地毛が特徴だった。
サハラウ軍に混じった傭兵を、何者かが次々と弾き出していった。予期せぬ襲撃を受け、待機していた兵士たちも武器を構え直す。狙われたヴァール族は敵を見つけようと躍起になったが、赤い残像が見えるばかりだった。
優蠍の兵士たちは仲間同士で陣を組み、自分たちにその被害が及ばないよう守勢を取った。そこへサティに連れられたタラルが到着し、大声で呼びかける。
「今すぐ戦闘を止めなさいっ! ラムジ大将軍は王家が捕縛しました! 彼による反乱は終わったのです! これ以上ケペリアの民を傷つけてはなりません!」
やっと届いた王子の言葉は、兵士の手から武器を放させた。
ヴァールたちは屈辱で震えていた。
彼女たちはこの仕事が謀反であると知っていて、邪魔が入ることは想定済みだった。だから一撃目を落とされても、特に慌てることはなかった。けれどもまさか、高い戦闘能力を誇る自分たちが、こうも軽々と排除されるとは思ってもみなかった。
強い衝撃でサハラウ軍から隔離された彼女たちは、目の前に現れた赤髪の男に有らん限りの殺意を向けた。
男は男で、砂まみれの汚れた格好をし、大層不機嫌な様子だった。
「何者だ貴様ッ! 我々をヴァール傭兵団と知ってのことか! 我らに手を出したこと、後悔させてくれるっ!」
雪辱を果たすため彼女たちは声を上げた。何人かが先んじて飛びかかり、男を打ちのめそうとした。だが相手はこれを難なく躱し、呆れたように口を開いた。
「……かつて貴様らの国と大戦を繰り広げたソルデイトの容姿を忘れたか? 国が滅びれば歴史も何も残らぬのだな。哀れなものよ。さっさと失せろ。私は機嫌が悪い」
「…ソルデイト? まさか。ソルデイトがこんな所にいるわけが………」
傭兵の一人が男の言葉に反応し、驚きで目を見開いた。
ヴァールとソルデイトの二種族は、共に高い戦闘能力を誇り長く争っていた。片方が国一つを滅ぼし力を示せば、もう片方は国二つを滅ぼしてみせた。領土や食糧を奪い合うこともあれば、名誉をかけて戦うこともあった。だから国が滅び傭兵となった今も、ヴァールの戦士たちはソルデイトの名を忘れてはいなかった。
しかし、ソルデイト族がたった一人で戦うと言うことは、彼女たちの間で語り継がれている歴史には無いことだった。
ソルデイトもまた他者から魔力を奪う者。常に複数人で行動し、仲間のために狩りをする種族。それが一人でいては瞬発的に高い力を誇っても、たちまち魔力が減って逆に襲われてしまう。
傭兵は男が本当にソルデイトなのか分からず、指笛で付近に伏せていた仲間を呼んだ。ラムジに雇われた数名とは別に、魔力を補給するため待機していた者たちだ。彼女たちは襲撃の混乱に乗じてサハラウ、ケペリアの区別なく魔力を奪うつもりだった。
空を駆けてきた仲間は槍でもって男の心臓を狙った。
しかしそれを奪われ、返す一振りで他の仲間が吹き飛ばされる。繰り出す攻撃がどれも躱され、次々と仲間が倒れていく。彼女たちは目の前の光景が信じられなかった。ヴァールである自分たちが、たった一人のソルデイトに負けるはずがないと思っていた。
個々の戦闘能力が拮抗する二種族の争いは、数が決め手だった。戦略を駆使し、多数で囲んだ方が勝つ。それが当たり前だった。これだけ圧倒的な数でいながら、多数の方が負けるなど有り得なかったのだ。
だがソルデイトを名乗る男は、遂にすべての傭兵を打ち据えた。
理解が追いつかないヴァールたちを前に、男が再び口を開く。
「不思議そうな顔をしているな。まあ、もう何百年か経つ。昔語りが途絶えていても、仕方のない事だ。だが、もし此処にいる他にも仲間がいるのなら尋ねてみろ。ひょっとしたら、まだ覚えている者がいるかもしれん。遠い昔に、一人で渓谷の地に住みついた、はぐれソルデイトがいたことを…」
男は砂が吹き飛んで露出した岩肌に、拾った剣で呪文を書き付けた。
淡々とした口調で最後の一文字を記し終え、そこに軽く切っ先を当てる。
「ゴーチェス。それがこの男、私の先代に当たる王の名だ」
鋭い魔力が呪文に走り、魔法が発動する。岩を中心にすり鉢状の窪みが現れ、斜面に足を取られた傭兵たちが落ちていく。
先代魔王の姿を模したヴフトは、足元に溜まったヴァール族を見下げた。
「しばらく砂の中で頭を冷やせ」
「ま、待て貴様! 止めろっ……!」
岩から剣が離れ、魔法の効果が消える。すると歪められていた地形が音を立てて元に戻っていく。周囲から穴に向かって砂が降り注ぎ、傭兵たちは地中深く埋まった。
ヴフトの足元が静かになったとき、窪みの跡はすっかり消えていた。
岩に書き付けた呪文を打ち壊し、用済みの剣を捨て、赤髪のヴフトがため息をつく。そこへサハラウとケペリアの軍が引いたと言う知らせを持ち、ハルが飛来した。
これで本当に全てが片付いたのだ。
宮殿へ帰る頃には、サラーフ王も助け出されているであろう。
「陛下。両軍は矛を収め、サハラウの宮殿へ向かいました。我々も参りましょう」
ハルは素直に任務の完遂を喜び、王に呼びかけた。
だがその王の心は、未だ晴れず沈鬱な空気を漂わせていた。
汗と砂に塗れた顔がくしゃっと崩れる。
「……無理だ。四日も同じ服で、砂塗れになって、肌も髪も荒れ放題! この男は元々粗雑な奴だったからこの状態でも違和感ないが、こんな、こんな有様でいつもの姿になど到底戻れん! ハル、どこか水辺へ連れて行ってくれ! 人目のない所に! 今すぐ! 帰るよりも水浴びが先だ! それと服っ! ああ、もう、これ以上このままで過ごすなど………無理だッ! 美しい私が、こんな! 私の美しさが、こんなにも、穢れて! ああ、あああっ、うっ、………うう…」
「へ、陛下、お気を確かに…」
「ううう、ハル! 早く、早く何とかしてくれッ……!」
ヴフトは荒れ果てた美貌を嘆き、堪えきれずに泣き出した。今はその悲しみを覆う指先すら、黒く汚れている。
ハルが急いで慰めようにも、ぱっと猫の姿に化け胸元にしがみつかれてしまった。
みゃあみゃあと切ない声が羽根を濡らす。
付近の地形を脳裏に浮かべ、ハルは王を抱えて飛び立った。
***
サハラウとケペリアの軍が宮殿に到着した後、解放されたサラーフ王とハビブ王が家臣らに説明を行った。そして大将軍の命令で動いていた兵士たちは、王家に改めて忠誠を誓い、この件は不問とされた。ラムジは身分を剥奪の上、投獄となった。
詳しい処罰の内容は協議の後に言い渡される。彼は最後までケペリア制圧を叫んでいたが、タラルはこれを一喝した。
「私たちは必ず平和な水を手に入れる! お前はそれをそこから眺めていろッ!」
王子の堂々たる姿勢にハビブ王は感銘を受け、カナート事業の見直しとサハラウ湖に繋がる水源調査の協力を約束した。
そして夕方にはサラーフ王とタラル王子が揃って民衆の前に姿を示し、これからも変わらず国を治めていくことを宣言した。
水に端を発した反乱は、これでやっと全てが落ち着いたのだった。
正常化した宮殿の一室で、カールたちはヴフトの帰りを待っていた。
砂漠からタラル王子とハビブ王が戻っても、彼とハルだけ帰りが遅かったのだ。段々と日が傾き、空が暗くなり始めた頃、二人はやっと皆の前に現れた。どうやら先に国王たちと話を済ませていたらしい。
ようやくソファーでくつろげたヴフトに、フリーレンは約束通り紅茶を供した。少量の水とたっぷりの牛乳で煮出したミルクティーだ。ふわりと上る湯気は仄かに甘い香りがした。一緒に出された小皿には干したデーツも載っている。
ヴフトは優しく広がる紅茶の味にほっと一息ついた。きれいになった指先でデーツを小さくちぎり、その赤い実を口へ入れる。
そこへカールがやって来て、一枚のスカーフを差し出した。
「ヴフトさん、お帰りなさい! …あ、お洋服を着替えたんですね。フリーレンさんからこれを預かっていたので、とりあえず洗っておいたんですが……」
「それは、……私のスカーフ! そうか! 洗っておいてくれたのかっ!」
普段の調子を取り戻しつつあったヴフトは、それを見て一気に顔を明るくした。直ぐにティーカップから手を離し、立ち上がってカールの手ごと受け取る。
洗濯ですっかり汚れを落としたスカーフは、絹の優しい色合いが蘇っていた。
普段はシャツの上に巻くそれを、着替えていたサハラウの民族衣装に合わせる。
滑らかな肌触りに満足し、ヴフトは口の両端を三日月のように釣り上げた。
「素晴らしいッ! 嗚呼、この巻き心地! そう、この柔らかな感触がとても気に入っていたのだ! 四日も巻いていたせいで辟易していたが……、やはり洗い立ては良いものだな。ありがとう、カール。お前のおかげだ。そうだ、他に着ていた物をハルに預けてあるのだが、今から洗って明日の朝までに乾くだろうか?」
「ふふふ、喜んでもらえて俺も嬉しいです。そうですね、サハラウは乾きが早いんで、今から洗えば大丈夫だと思いますよ」
「そうかっ! では済まないが宜しく頼む。ああ、それにお前たちも着替えを借りて洗うと良い。気分が良いぞ」
「確かに…。一着だけ洗うんじゃ、水も勿体ないですしね」
ヴフトの笑顔を見てカールもにこりと笑った。
それから提案されたとおり全員の衣服を預かって、室内で夜風に当てながら干した。改めて帰国の列に並んだカールたちの服は、どれも清潔に輝いていた。
宮殿内に設置された魔法陣から、ドゥンケルタール最寄りのチモ第八交差点まで一気に接続される。本国との連絡もつき、交差点から直ぐに国内へ帰れる手筈だ。まだこれからやるべき事が多いサラーフ王たちだったが、時間を作り見送りに来てくれた。
王同士の格式ばった挨拶の後で、タラルはカールとピペトの前にやって来た。
「お二人には本当にご迷惑をおかけしました。何度お礼を申し上げても感謝しきれない程です。おかげで国王も、ハビブ王も無事にお救いすることが出来ました。今回はこの様なことになってしまいましたが、また是非サハラウへお越しください。私たちはいつでも皆様を歓迎いたします!」
王子はそう言って自ら手を差し伸べた。
ピペトはこの篤い感謝を有り難く頂戴し、王子の手を恭しく両手で受け取った。それから視線がカールに移り、こちらにも手が伸ばされる。カールもピペトを倣い、両手でもってこれに応えようとした。
手を前に出した都合で七分丈の袖がツ、っと上にあがる。
その露出した肌の部分に小さな痣が出来ていた。
「…カールさん、お怪我を?」
「え? あ、本当だ。いつぶつけたんだろう? ああ、でも大丈夫ですよ。このぐらい、直ぐに治ります」
それは本当に小さな青痣だったので、カールは全く気にしなかった。けれどもタラルは何かに気付いたように沈黙し、それから少し頭を振って改めて握手をしてきた。
カールは特に何も思わず、これを素直に握り返した。
王子の様子を見ていたピペトが一人静かに青ざめていく。
「あ、あのっ、タラル皇太子殿下、そろそろお時間なので……」
痣とはつまり皮下での内出血である。
「本当にありがとうございました。どうぞ、お大事になさってください」
「いや、そんな、大した怪我じゃ…」
腕にそっとハンカチが巻かれ、カールは恐縮した。
タラルはただにこりと微笑んでいた。
魔法陣を通り抜け、森の中にあるチモ第八交差点へ飛ぶ。行きには感じなかった気候の差、森林特有の湿気にカールは一瞬くらついた。樹木の香りをこんなにも濃く嗅いだことはない。空気が肌にまとわりつく様で、水分の多さを初めて実感した。
それからもう一度陣をくぐり、今度こそ全員が揃ってドゥンケルタールに帰ってきた。知らせを受けていた右丞相と左丞相、それにデイジーや他の係たちが出迎える。
カールはいささか伸びた初の随行を終えて、仲間のところへ駆け寄った。一通り無事を伝え、荷解きをした後でお茶をしようと誘われる。
カールはこれを喜んで受け、早速自室に足を向けた。
だがそれは数歩も行かない内に引き留められ、なぜか眉間に皺の寄ったピペトが待ち構えていた。
「カールさん、まだ駄目です。報告に行きますよ」
「えっ? いや、でも、とりあえず荷物…」
「駄目です! 特にそのハンカチ! そのままの状態で来てくださいっ! ああっ、もう、どこから説明すれば良いか……、何で貴方は最後の最後までっ…」
「え、あれ? ちょ、ピペトさん顔が怖い。……え、うそ。待って。俺また何かしましたっけ? 全然分かんないんですけど! 待って! ピペトさん腕、腕が痛いッ!」
先日のヴフト程ではないにしろ、凄みのある顔に睨まれカールは怯んだ。痣が増えそうな力でぐいぐいと引きずられ、有無を言わさず連れて行かれる。
後に残されたデイジーたちは不思議そうに首を傾けた。
ただ全員が、彼を囲んでのお茶会は後日だと予感していた。
「……今回の相部屋で仲良くなったのかしら?」
「さあ? でもピペトさん、面倒見が良いよね。ちょっと威圧感あるけど」
「分かりますワ! ちょっとお顔が怖いけど、とても優しいお方で」
「カールさん、他の係にも知り合いが増えて良かったですね」
連行される仲間を見送って、ふふふとアガシアの大きな瞳が微笑む。
彼女たちの予想通り、カールはこの日、説教と報告書に挟まれて夜まで自室に戻ることが出来なかった。
ヴフトは後日、直筆でタラル王子にお礼の手紙を送ったらしい。