第三十二節*サハラウと救出作戦
偵察から戻ったピペトは、直ぐにタラルへ結果を報告した。サラーフ国王は礼拝堂に、ヴフトたちはそこから程近い会議室に捕らわれていた。彼は猫の姿で廊下を走り抜ける瞬間、透視魔法で部屋の内部を確認していたのだ。人々の居場所を知ることができ、タラルは一先ず喜んだ。
しかし軟禁場所が分かったところで、依然としてこちらの分が悪かった。ドゥンケルタールからの連絡は未だなく、三人だけで救出作戦を立てるのは無理がある。今度失敗すれば、もうやり直すことは出来ないだろう。
タラルの脳裏に先日の苦い経験が過ぎっていた。
その上、連続した魔法の使用でピペトは動けなくなってしまったのだ。これは急激な魔力不足が原因で、強い眠気と倦怠感に襲われるらしい。彼は一通りの報告を終えると、そのまま夕食も取らずに朝まで眠っていた。
翌日、魔力が回復したピペトを交え、三人はまた話し合った。
次の課題はどうやって援軍と合流するか、である。出来れば宮殿内の状況が変わってしまう前に、救出作戦に移りたかった。しかしサハラウとドゥンケルタールは地理的に遠く、即座の連絡が取れない。直接行こうにも、アーデルの家から最寄りの交差点には馬で数日かかる距離だった。
結局、妙案は浮かばず、もう数日連絡を待つことになった。
カールは早く助けが来てくれないかと、そう思いながら話を聞いていた。
だがその日の夕方、俄かに街が騒がしくなり、アーデルが二階へ飛び込んできた。
「タラル様っ! 大変です! 宮殿から、お触れが。国王様がお倒れになり、タラル様も床に臥せられたとの、告知があったそうで……。大将軍様が、一時的に王の務めを代理なさると…。昨日、王都まで出掛けていた者が聞きつけて、今、表通りで噂に……」
「何だって? 父上がっ? ……いや、私はここにいる。ラムジめ、私が行方をくらませたのを良いことに国まで乗っ取る気か! 絶対に許さぬ。王は必ずお救いする! 王子たる私もここに健在する! 逆賊に国を渡してなるものかッ! ピペトさん、申し訳ありませんが、援軍はもはや待てません。私たちだけでも向かいましょう。我らで乗り込み、何としてでも王たちを解放しなければなりません! 決行は明日の朝です!」
「明日っ?」
アーデルから話を聞いたタラルは直ぐに立ち上がった。いつもは穏やかな黒の瞳が、激しい怒りに揺れている。王を幽閉され、自身は宮殿を追われ、この上、国まで奪われるなどと言うことは、王子にとって少しも許せるものではなかった。
一刻も早く、この国から凶漢を取り除かなければならない。
それにはドゥンケルタールからの救援を待っている時間はなかった。
「ラムジが王権を代理したとなれば、ケペリアとの開戦も奴の意のまま。穏健派の大臣たちでは、とても止められないでしょう。そうなる前に事を納めなければなりません。早朝ならば兵士の数も少ないはず。ここから夜の間に移動し、夜明けとともに救出作戦を実行するのです。王たちだけでもお救いしなければ!」
王子は決意に満ちた目でピペトの手を握った。その手はじわりと汗ばみ、小さく震えていた。本当ならば守られる側の人物である。ここで援軍を待ちじっとしていたとして、誰も彼を責めはしない。しかしタラルは、この悪夢のような状況に立ち向かおうとしていた。この内乱を鎮めることは、自分の使命だと考えていた。
その熱い眼差しに打たれ、ピペトは腹を括った。
「…では、私たちで出来る限りの作戦を考えましょう」
「ありがとうございます」
街は不穏な空気とともに朱色に包まれ、それから黒へと落ちていった。
『洗濯屋と魔王様』 第三章
月明りを頼りに二羽が飛び立った。片方がピペトで、もう片方はタラルである。
ピペトが変化した鷲の首元には、小さな鼠がしがみ付いていた。逼迫した状況を案じたカールも力になりたいと言い出して、結局三人で向かうことになったのだ。
『手伝うと言ったからには、ちゃんと陽動してくださいよ』
『はい!』
『カールさんにまでご助力いただき…、本当にありがとうございます』
礼拝堂にいるサラーフ国王と、会議室にいるヴフトたちを一度に助け出す。二ヵ所で同時に騒ぎを起こし、兵力の分散を狙う。そもそもの数や力が足りないタラルたちは、あえて固まらず、分かれて行動する作戦に出た。
礼拝堂と会議室からは異なる経路で脱出し、待ち合わせ場所で合流する。
沈み始めた月とともに、二羽は宮殿の屋根に降り立った。
鼠は屋根に下りると同時に猫の姿へ変えられた。
『昨日、サラーフ国王を確認したのはあの礼拝堂です。ヴフト様たちがいらっしゃるのはこの先の会議室。空に茜が差し始めたら、行動を開始しましょう』
『分かりました。では、煙玉をお渡しいたします。中に眠り薬を混ぜてありますので、出来るだけ兵士の近くへ投げてください』
『ありがとうございます』
簡単な説明と共にピペトへ小さな玉が渡される。短く突き出た筒口からはちょろりと導線が伸びていて、そこへ火をつけると中から煙が噴き出す仕組みだ。眠り薬はあまり強力なものではなかったが、明け方の不寝番には十分だろう。極力戦闘を避ける為にとタラルが拵えた物だ。これを柱の上から垂らしたり、足元へ投げ入れて使う事にした。
その間、兵士の注意を引くのが猫になったカールの役目である。
空に神々しい金色の帯が差し込み始める。太陽はまだ見えないが、薄っすらと周囲が明るくなってきた。
三人は一度顔を見合わせると、静かに頷き行動に移った。
礼拝堂の入口に二人の兵士が立ちながら、眠たそうな目で喋っていた。
「ふああ、もうちょっとで交代かな? 空が明るくなってきた」
「そうだな。…それにしても、こんな所で不寝番なんて。大将軍様は何を考えていらっしゃるのだろうか?」
「さあな。でも、今日明日には決着がつくのだろうよ」
「ああ、確かに。そうかもしれん」
「これでサハラウの水は守られるんだよな? 俺たちは……」
「シッ! 黙ってろ。兵士に無駄口はいらないって、いつも言われてるだろ」
仲間が口にしかけた言葉をもう一人が即座に遮る。それはまるで、言うことを禁止されているかの様な態度だった。止められた方の兵士は尚も物言いた気に視線を送ったが、相手は取り合わず直立の姿勢を正した。会話が途切れ沈黙が広がる。
二人の兵士は前を向き、ただジッと交代を待った。
そうしていると、どこからか一匹の白い猫がやって来て、廊下の先で止まった。
兵士たちのうろついていた視線がすっとそこに集まる。
そう言えば昨日の昼間にも、猫が入ったと言う引継ぎがあった。確かブチだと言っていたので、目の前のやつとは別物だろうか。猫などそこら中にいる。
眠い頭にそんな考えがぽつぽつと浮かび、兵士たちの視線は一層釘付けになった。
その背後で、静かに筒口から煙が上がっていた。
とある会議室の前を兵士たちが見張っていた。部屋の中に人の気配はあるものの、物音一つ聞こえやしない。彼らはただその静寂を耳にしながら立っていた。
そこへどこから迷い込んだのか、にゃあと猫の声が響く。
「ん? 昨日の奴らが言ってた猫か?」
「かもな。奥へ行かれるとまずい。お前、見てきてくれ」
「分かった」
兵士の片方が辺りを見回し、少し離れた所にその影を見つけた。軒下を通り抜けるぐらいなら構わないが、宮殿の奥へ進まれると流石に困る。兵士は優しい声色で呼びかけて、何とか猫を捕まえようとした。
しかし何がお気に召さなかったのか、後少しのところで猫は急に走り出し、兵士の股下を抜けて扉の方へ走っていった。
「あっ! すまん、そっちへ行った!」
「うわっ、何だよお前、出ていけ。シッ! シッ!」
「にゃー」
小さな侵入者に兵士は腰をかがめながら対応する。
二人の間で猫は右に左に動き回り、そのうちひょいっと窓から外に出ていった。
努力が徒労に終わった兵士は、それでも猫を追い払えたことにほっとした。
その足元にコツンと何かがぶつかる。視線を下げて見ると、小さな玉から勢い良く煙が吹き出し、あっという間に周囲を埋め尽くした。
一晩中起きていた兵士たちは眠気を追加され、深い眠りに落ちてしまった。
風が奇襲の証拠を吹き流す。
煙が晴れた廊下に再び猫が現れ、今度はするりと会議室へ忍び込んだ。
部屋の中にいた兵士たちは珍客に驚き槍を構えたが、それが猫だと分かると首を傾げながら警戒を解いた。
「何だ、驚かせやがって…。しかしどうして猫が? 外の奴らは何をしている」
「とにかく摘まみだそう。今は猫も立ち入り禁止だ」
そう言って兵士の一人が猫へ手を伸ばす。
彼らの意識が緩んだその隙に、扉の間からもっと大きな影が侵入した。
何かがさっと背後に回り込み、兵士の首元に手を当てる。バチッという異音とともに仲間が倒れ、もう一人は慌てて槍を構えようとした。だがそちらも体勢が整う前に強い電撃を当てられて、ぐらりと意識を手放した。
物音で目覚めた人質たちが何事かとざわめき出す。その前にすうっとピペトが姿を現し、どくどくと煩い胸を押さえながらヴフトの前に跪いた。
「さ、産業の卿が第一補佐官、ピペトです…。お助に、上がりました」
「随分と無茶をしたな。護衛隊は来ていないのか?」
「状況がやや切迫しておりまして……、陛下のお力を、お借りしたく…」
「分かった。手枷の鍵を兵士が持っているから、まずはこれを外してくれ」
ヴフトは手短にそう返事をすると、背中側で拘束された手首を見せた。他の人々も同じように枷が嵌められている。ピペトは直ぐに鍵を探し、これを外して回った。
体が自由になったことで人々の間に安堵が広がった。
ヴフトが倒れた兵士を改めて無力化し、部屋の扉を魔法で閉じる。
その間に呼吸が落ち着いたピペトは人々に変化を促し、鳩の群れとなって窓から飛び立たせた。目指す先はタラルとの合流地点、ナツメヤシ畑の井戸である。
ヴフトとピペトは人質が全員飛び立つまで部屋に残り、最後を見届けてから窓辺に近付いた。するとその足元に猫が寄ってきて、自分を主張するようにひと鳴きした。
「にゃああ」
「………お前、カールか?」
覚えのある魔力にヴフトが目を丸くする。
「大丈夫です。忘れて行きませんよ。また私の上に乗ってください」
「チュー」
猫が一瞬のうちに鼠となり、鷲の首にしがみ付いた。
その不思議な光景に小さく笑いながら、ヴフトも鳥となって宮殿を後にした。
***
空のほとんどが金色の帯で埋め尽くされ、サハラウは眩しい朝日に包まれていた。ナツメヤシは堅い、羽のような葉っぱが上へ上へと伸びて幹を成す変わった植物だ。最初は葉が地表にくっついているが、成長とともにその位置が高くなり、やがて小さな赤い果実を鈴生りに実らせる。これはそのまま食べたり、乾燥させて持ち歩いたり、酒にしたりすることが出来た。
そのナツメヤシの頭がずらりと並んだ畑の中に、水路へ水を引き上げるための井戸がぽっかりと口を開けていた。
国中を飛び回っている鳩に紛れ、脱出した人々がその脇へ降り立つ。そこで元の姿に戻って互いに手を取り、やっと声を上げて解放の喜びを分かち合った。サハラウの王妃も、ケペリアの国王も、一先ずは無事なようである。ヴフトとピペトも井戸へ到着し、カールはようやくヒトの姿に戻れた。
「何とお礼を申し上げれば良いでしょう!」
「本当にありがとうございます」
助けに現れたピペトに対し、王妃も国王も膝を折って篤く感謝した。ピペトはそれに恐縮しながらより深く膝を折り、まだ事は全て終わっていない旨を告げた。
タラル王子が、サラーフ国王と共にここへ合流するはずである。そしてこの救出作戦が完了したとしても、まだ軍を制圧し、宮殿を取り返す必要があった。将軍を捕らえ、民衆に国王と王子の無事を伝えないことには、事態を収束できたと言えない。
ピペトは詳細を伝えながら、ヴフトに今後の行動を相談した。
それからしばらくして、立木の間からタラルが現れた。
我が子の無事を喜び王妃が直ぐに駆けつける。だがその足は王子まで後数歩と言うところで、背後に立つ巨大な影を見つけて立ち止まってしまった。
「タラルッ!」
王子の後ろから姿を現したのは、サラーフ国王ではなく、ラムジ大将軍だった。
悲鳴に似た王妃の声で周囲にいた人々がはっとする。
将軍はタラルの首筋に剣を当て、背中の鋏を大きく掲げて脱走者たちを威圧した。
「ハッ、私を出し抜けたとでも思ったのか? 愚かな王子の共謀者共め! 妙な猫が紛れ込んだと聞いてまさかとは思ったが、本当にやって来るとはな! おかげで王子はこの通り、我が手に捕らえた。国王もここにはいない! さあ、王妃たちよ、大人しく城へ戻ってもらおうか!」
「ラムジッ! お前は、大将軍の任を授かっておきながら、 王や王子に手をかけるとは何たることかっ!」
「ふん、黙れっ。国を潤すことの出来ぬ王など民衆は求めていないっ! 私がそれを打ち滅ぼし、新たに国を潤す王になろうと言うのに、一体何の不満があるっ?」
「戯言を。お前のような痴れ者に一国の王は務まらぬわ!」
「なっ……、言わせておけばこの女っ…」
力で従わせようとしてくるラムジに対し、王妃は侍女たちが止めるのも構わずに罵り返した。王を隠され、一人息子を人質に取られ、彼女の怒りは頂点に達していた。
その激しい口ぶりにラムジは顔を真っ赤にして激怒する。彼が剣を挙げると、井戸を取り囲むように木の陰から続々と兵士が現れた。皆、武器を携え物々しい雰囲気だ。
井戸の周りで一息ついていたカールたちは、背筋に冷たいものを感じた。最悪の事態が脳裏を過ぎり、体が硬直する。
「止めろラムジ! 皆に手は出さないとの約束だっ! 兵を退けっ!」
場の空気が剣呑になったのを見てタラルは声を上げた。背中の鋏を開き、精一杯ラムジを牽制する。だが将軍はそんな些細な抵抗など物ともせず、王子の細い腕を捻り上げると王妃目掛けて投げつけた。
我が子を受け止めようとした王妃が、王子もろとも地面に倒れ込む。
ラムジは二人を剣で脅しながら邪悪に笑った。
「約束! そう、確かに約束したっ! だがそれは、お前達が抵抗しなければの話だ! 今お前は私に鋏を向け、王妃は私を罵った! 立派に抵抗したではないか! 口先ばかりのお前達の腹など見え透いている。私に従う気など端からないのだろうっ? 私の慈悲を無下にするとは、どこまでも愚かな一族だ。もう良い、今ここで終わりにしよう! 総員かかれっ、一人も逃すなッ!」
怒号とともに剣から風の刃が放たれ、タラルたちを襲う。命令が出た兵士たちは意を決して逃げ延びた人々を殺しにかかった。
この行為が国のためか、そうでないかには関係なく、軍のトップである大将軍に逆らえる兵士など一人もいなかった。
カールは咄嗟に、ただ隣にいただけの優蠍の女性に覆い被さった。武器を相手に意味がないと分かりつつも、体が勝手にそうしていた。ピペトもそんなカールたちの前で身構え、少しでも兵士を追い払おうとした。フリーレンは人々をなるべく一ヵ所に集まるよう避難させた。
轟音が響き地面が揺れる。
もうその音だけでも恐ろしく、カールはぎゅっと目をつぶっていた。
ぶつかり合うような音、呻き声、また轟音。
恐怖が耳へ届く度に体がびくりと震え、いつ自分の番がやってくるのかと、気が気でない。将軍に攻撃されたタラルは無事なのだろうか? それを確認したいと思いながらも、顔を上げるのが怖くて動けなかった。
縮こまったカールの背中にどさりと何かがぶつかる。カールはそれに心臓が飛び出るほど驚いて、見ず知らずの侍女と一緒にぎゃあっと奇声を上げた。背中に当たったのは剣なのか、槍なのか、はたまた魔法による攻撃なのか。一向に感じない痛みを不思議に思い振り向くと、そこにいたのは尻餅をついたピペトだった。
「た、助かった……」
「へっ? ピペトさん? え、どうしたんですか、ピペトさんっ…」
どうやら攻撃された訳ではないらしい。自分も、胸を押さえるピペトにも、どこにも怪我はなかった。
それならどうして彼が腰を抜かしたのかと、不思議に思って視線を辿る。するとその先に、見覚えのある後ろ姿があった。
二本足で立つ青い鳥。
翼の間にきらめく多数の魔道具。
カールが彼に助けられるのは二度目だった。
「順序が前後し、申し訳ありません。右丞相様の命により、国防の卿ハル・フォーゲル以下四名、陛下ならびにサハラウ国残留者二名をお迎えに上がりました。交戦中のため背を向けたままで失礼いたします。……この者たち、陛下に刃を向けたため対処いたしましたが、後の処遇は如何致しましょう?」
「世話を掛けた。ラムジ大将軍は本件の首謀者だ。捕縛してサラーフ国王に引き渡す。他の兵たちは一先ず無力化し、一箇所に集めよ。縛る必要はないだろう」
「ではそのように」
淡々と会話がなされ、ヴフトの命を受けたハルが将軍に縄をかける。そのラムジは何がどうなったのか、上半身のほとんどが地面に埋まっていた。そこから引きずり出され縛られた後も、意識がないのか微動だにしない。背中の鋏までがっくりと項垂れ、そのまま地面に転がされた。
カールはピペトの言葉が飲み込めた。
助かったのだ。
辺りを見回してみると、方々で呻いているのはサハラウの兵士たちだった。宮殿から逃げ延びてきた人々は皆無事だ。地面のあちこちが凹んだり、抉れたりしていたが、ハルたちの救援が間一髪で間に合ったのだ。
カールはそうだと分かり、はあっと大きく息をついた。
「ピペトさん、良かったですねえ!」
「…本当に。タラル様も向こうでご無事なようですよ」
「ああ、本当だっ! 良かった! 良かった!」
喜びと安心で胸が一杯になり、涙声でピペトに抱きつく。彼は迷惑そうにそれを押し返しつつも、珍しく笑みを浮かべていた。
良かった、助かったと喜ぶ二人の上に、ぬっと大きな影が被さる。
ピペトがそれに気付いた瞬間、彼は開いた口ごと力一杯抱きしめられた。
「あッ! んぐっ」
「良かったッ! ほんま無事で良かった!」
がばり、と頭からかぶり付く勢いで抱き締めてきたのは、産業の卿パコだった。
まさか軍所属ではない上司まで来るとは思わず、ピペトはぎゅうぎゅうに無事を確認されながら驚いた。バシバシと遠慮無く叩かれる背中が痛い。けれどもパコが繰り返し喜んでいる様子を見て、ピペトは心から嬉しくなった。
ずっと張りつめていた緊張の糸がぷっつりと切れ、思わず涙が浮かぶ。
パコは大きな部下を抱きしめたまま、空いた手でカールの頭も撫でてくれた。
良かった。これできっと、すべて良い方向へ進む。
カールはそう確信し満面の笑みを返した。
主謀者が捕まり、人々は本当の落ち着きを取り戻した。
タラルが王妃と共にヴフトの前へ行き、篤く礼を述べた。彼は礼拝堂に向かった際、国王に化けて待ち構えていたラムジに捕まったと言う。それから国王を盾に情報を吐くよう脅され、ここに至った。タラルは二度にわたる失態を詫びながら、ハルたちの救援に何度も感謝した。
またタラルは降参した兵士たちの処罰を不問とし、代わりに事態収束への協力を求めた。彼らは水を望むも、王の交代までは考えていなかったし、先導者であった大将軍が倒され、王子の意に背く必要もなくなった。
それに一部は今し方の戦闘でこっぴどくやられ、もうドゥンケルタールの兵士とはやりあいたくない、という風でもあった。
「護衛隊長殿には本当に感謝いたします。平時は温厚で、有事には勇猛。護衛として傍へ置くに、これ以上の人物はそうおりません! ああ、貴方がヴフト陛下の民でなければ、我が王子の近くへ推挙したものを。何と惜しい方でしょう」
「母上、護衛隊長殿を困らせないでください…。彼はヴフト様の下で、お勤めに励んでいらっしゃるのですから」
「分かっております。しかし、嗚呼、御覧なさい。あのヤシの木の見事に折れたものよ。実に素晴らしい戦いぶりでした」
「ははは…、お褒めに預かり光栄です。王妃様」
救出した人々の手当にハルの部下とシュピッツが回っていた。
その途中でシュピッツは王妃に捕まり、長々と賞賛を聞かされた。先の一戦で偶々(たまたま)、彼が王妃と王子を助けたからだ。王妃はシュピッツの強さをいたく気に入り、タラルの制しに頷きつつも、何度も何度も褒め千切った。
ヴフトの前に、残留していた者たちと、迎えにきた者たちが、全員顔を揃えた。順序は前後したが、これでやっと帰路につける。宮殿に戻り次第、長距離用の通信魔道具を借りて本国へ知らせをやる事にした。これで遅くとも明日には帰れるだろう。
大きな怪我もなく事が済み、ヴフトは一人一人を労った。
側近のフリーレン、迎えに来てくれたハル、シュピッツ、国防隊の二人。それに本国へ知らせてくれたパコ、王子を助けたピペト。それぞれの働きを褒め、ヴフトは最後にカールの手を握った。カールは危機が去ったことを喜び、にこにことそれに応えた。
しかしヴフトはその呑気な顔を見て、はてと小首を傾げる。
柳眉の間に皺が寄った。
「………待て。そう言えば、なぜお前がここにいる? ピペトも予定外だが、どうしてお前がまだ此処にっ? あの日、他の者と一緒に帰国していなかったのかッ?」
「え! あ、ああ……えっと、それは、その、成り行きで…」
「成り行きっ? どういう流れでそうなるのだ! 今の今までどこにいたっ?」
「ええと…、その、ピペトさんと一緒に、アーデルさんの……」
「アーデル? 誰だそれは! はっ、魔力の補充はッ?」
「あああ、ヴフトさん手が、手が痛いですッ!」
労りだったはずの握手はキツイ折檻に変わっていた。
カールが喋るたびにヴフトの表情が険しくなり、握られた手が軋む。カールがそれを解こうと必死になるも、整った指先は少しも外れなかった。
泣きっ面になった洗濯係と、青ざめる王の間に補佐官が割って入る。
「陛下! 彼は訳あって王子と共におりまして。私もそのために残った次第です。彼の身柄は直ぐに確保いたしましたので、魔力も問題ありません。王子の提案で、信用できる者の家に匿っていただいておりました」
「ピペト……! そうか、ありがとう! それは良かった!」
ヴフトはまだ問題が残っていたかと慌てたが、ピペトの話を聞いてほっとした。
固く締まっていた五指が、何事もなかったかのように解かれる。
カールは痛みが残る手をさっと引っ込め、ピペトの後ろに身を隠した。
***
太陽が真上から照るようになった。
タラルは国王の居場所を突き止めるため、兵士から状況を聴取していた。他はそれが終わり次第、王子らと共に宮殿へ戻る予定だった。だが途中からその声が慌ただしくなり、タラルの命令で兵士の一人が宮殿へ走っていた。
それからタラルはケペリアのハビブ王の所へ行き、少し喋った後に、揃ってヴフトの前へやって来た。
焦る様子の二人を見てヴフトは先に声をかけた。
「どうかされましたか?」
「それが、ラムジがまだ手を打っていたようで。虚偽の情報でケペリア軍を呼びつけ、これを討つためにサハラウ軍が昨晩、出発していたそうです」
「まさか! では、既に戦闘が始まっていると?」
「分かりません……。しかし、止めに行かなければ必然的にそうなるでしょう。私とハビブ様は今から馬で向かいます。ヴフト国王陛下、どうか今一度、サハラウにそのお力をお貸しいただけないでしょうかっ?」
すっかり落ち着いていたところへ再び緊張が走る。
ヴフトはハルに目配せをし、王子の手を強く握った。
「行きましょう。その様な話を聞いては、我々も安心して帰国できません」
「ああ…、ありがとうございます!」
二人の王が在り方を示すように王子を導く。
タラルは滲む視界をぐっと堪え、再び己の責務に立ち向かった。